「大正十年三月七日……芝居じゃない……」
「ウン。そうだ。それから泣いている娘……だか何だかわからんが、世間からは娘と同様に見られとるからそのつもりで話するが……その娘の甘木(あまき)三枝こと天川呉羽嬢を呼出して、その脅迫状を見せるとコンナ字体についてはチットモ記憶がない。文句の意味も何の事やらカイモクわからぬ。前にコンナ手紙が来たような事実も記憶しておらんと云う」
「成る程。……そこでサッキの呉羽嬢のお祈りの文句に触れてみたかったですな。何か参考になる事を喋舌(しゃべ)らして……」
「ウン司法主任がチョット触れていたよ。ちょうどその時に、女中を訊問していた刑事の梅原君が、その事に就いて取あえず報告したもんだからね……すると果せる哉(かな)だ。……あれは妾(わたし)があの時口惜(くや)し紛れにそう申しましただけの事で、女の妾に何がわかりましょう。犯人が出て行った方向を拝みましたのは、そうすると遠くに居る犯人が何となくドキンドキンとして思わぬ失策を仕出かすという迷信が、外国の芝居に使ってありましたのでツイ、あんな事を致しまして……と真赤になって弁解しておった。だから、つまり目的は宣伝に在ったのだね。これは彼等の本能なんだから、深く咎めるには当らないよ。司法主任も検事も苦笑しておったよ」
「ソレッキリですか」
「イヤ……それから呉羽嬢はコンナ事を云い出しおった。……ハッキリとは申上られませんが、轟はこの四五日前から何だかソワソワしていたように思います。今までドンナ悲況に陥っておりましても、私を見ると直ぐにニコニコして何か話かけたりしておりましたものが、この頃はソンナ気振(けぶり)も見せませぬ。ただ緊張した憂鬱な、神経質な顔をして、私が何か云おうとしましてもチラチラと瞬(またた)きした切り自分の部屋へ逃込んで行きます。もちろん、その原因は私にはわかりかねますが、轟の劇場関係と、財産[#底本では「財閥」と誤記]関係の仕事は皆、呉服橋劇場の支配人の笠圭之介(りゅうけいのすけ)さんが一人で仕切って受持っておられます。大正十年の三月七日といえば、私が三つの年の事ですから、何事も記憶に残っておりませぬ。私はその三つの年に何かの事情で、年老(としお)いた両親の手から引取られて轟の世話になって来ておりますので、それから今年までの二十年間、轟は独身のまま私を育てるために色々と苦労をしておりますが、詳しい話は存じませんと巧妙に逃げおった」
「何か隠している事があるんじゃないですか」
「それがないらしいのだ。劇場主なんちういうものは一般の例によると相当複雑な生活をしているもんじゃが、今の呉羽嬢や、女中達や、支配人の笠圭之介の話なんかを綜合すると、この被害者ばかりは特異例なんだ。轟九蔵氏に限って非常に簡単明瞭な日常生活である。劇場付の女優に手を出したり、花柳の巷(ちまた)を泳ぎまわったりするような不規則は絶対にした事がない……という証言だ。全くの独身生活者で、ただ娘分の三枝を、世界一の探偵劇スターとして売出す事以外に楽しみはなかったらしいのだ」
「ヘエ。面白いですね。そうした変態的な男と女と二人切りの生活が、全くの裏表なしに継続出来るものでしょうか」
「アハハ。ナカナカ君は疑い深いなあ。まあこっちへ来たまえ。ユックリ話そう」
二人は又、応接間へ引返して申合わせたように又もMCCを抓(つま)んだ。
「美味(うま)い煙草だなあ。一本イクラ位するもんかなあ。二十銭ぐらいしはせんか」
「イヤ。そんなにはしないでしょう。二十銭出せば葉巻が二本来ますからね」
二人は互いちがいにコバルト色の煙を吹上げ初めた。
「君は天川呉羽と轟九蔵の性関係を疑っとるのじゃろう」
文月巡査が忽ち赤くなったが、そのまま微笑してうなずいた。
「ハハハ。ナカナカ隅に置けんのう君も……」
「やはり……その……何かあるんですか」
「ところが今のところ、何も疑わしいところがないんだよ」
「十分……十二分に疑ってみる必要があると思いますなあ。事によると今度の事件の核心はそこいらに在るかも知れませんからねえ」
「御高説もっともじゃが……まあ聞き給え。こうなんだよ。二人の日常生活を説明すると……これは二人の女中の陳述を綜合したものじゃが……先ず毎朝九時に娘の呉羽が先に起きて湯に這入る。女優としてはかなり早起の組だね。それから一時間ばかりかかって化粧をして、着物を着かえて出て来る」
「女中も何も手伝わないのですか」
「ウン。手伝わせるどころか、湯殿の入口をガッチリと鍵かけて、誰が来ても這入らせないそうだが、これは何か呉羽嬢が、天川一流ともいうべき秘密の化粧法を知っておって、それを他人に盗まれない用心じゃという話じゃが……」
「それは女中の話でしょう」
「そうじゃ。……一方に天川呉羽嬢に云わせると私は自分の肌を他人に見られるのが死ぬより嫌いです。無理にでも見ようとする人があったら、私は今でも自殺します……といううちにモウ、ヒステリーみたいに顔を歪(ゆが)めて眉をピリピリさせおったわい。ハハハ」
「すこし云う事が極端ですね。何か身体(からだ)に刺青(ほりもの)でもしているのじゃないでしょうか」
「そんな事かも知れんね……ところでそうやって浴室から出て来た呉羽嬢の姿を見ると、何度出合うてもビックリするくらい美しい。青々とした濃い眉が生え際に隠れるくらいボーッと長い。睫(まつげ)が又西洋人のように房々と濃い。眼が仏蘭西(フランス)人形のように大きくて、眦(まなじり)がグッと切れ上っている上に、瞳がスゴイ程真黒くて、白眼が、又、気味の悪いくらい青澄(あおず)んで冴え渡っている。その周囲を、死人(しびと)色の青黒い、紫がかったお化粧でホノボノと隈取って、ダイヤのエース型の唇を純粋の日本紅で玉虫色に塗り籠めている……」
「ハハハ。どうも細かいですなあ」
「女中がソウ云いおったのじゃからなあ……オット忘れておった。鼻がステキだと云うのだ。芝居のお殿様の鼻にでもアンナ立派な鼻はない。女の鼻には勿体ないと女中が云いおったがね。ハハハ……女じゃからそこまで観察が出来たもんじゃ。そいつが四尺近くもあろうかと思われる長い髪を色々な日本髪に結うのじゃそうなが、髪結いの手にかけると髪毛(かみのけ)が余って手古摺(てこず)るのでヤハリ自分で結うらしい」
「してみると入浴の一時間は長くないですな。寧(むし)ろ短か過ぎる位ですな」
「何でも呉羽は早変りの名人だけに、余程手早く遣るらしい。それからこの頃だと紅色の燃え立つような長襦袢(じゅばん)に、黒っぽい薄物の振袖を重ねて、銀色の帯をコックリと締め上げて、雪のようなフェルト草履(ぞうり)を音もなく運んで浴室から出て来ると、とてもグロテスクで、物すごくて、その美くしさというものは、ちょうどお墓の蔭から抜け出た蛇の精か何ぞのような感じがする。恐怖劇の女優というが、真昼さなかに出合うてもゾーッとするのう……ハハハ……これは勿論、吾輩の感想じゃが……」
「見たいですねえ。ちょっと……そんなタイプの女は想像以外に見た事がありません」
「ハハハ。そのうち帰って来るからユックリと見るがええ。しかし惚れちゃイカンゾ」
「……相すみません……洋装はしないのですか」
「ウム。時々洋装もするらしいが、その洋装はやはり旧式で、帽子の大きい袖の長い、肌の見えぬ奴じゃそうなが、よく似合うという話じゃよ」
「ヘエ。それから今チョット不思議に思ったのですが、その呉羽嬢は湯殿の中からイキナリ盛装して出て来るのですか」
「そうらしいのう」
「妙ですね。そうすると平生着(ふだんぎ)というものを持たない事になりますね。……つまり外に出てから着かえはしないのですか……普通の女のように……」
「ハハハハ。ナカナカ君も細かいのう。探偵小説の愛読者だけに妙なところへ気が付くのう。そこまでは未だ調べが届いておらん」
「残念ですなあ。そこが一番カンジン、カナメのところかも知れないのに……」
「まあ話の先を聞き給え。それから十時頃に、その呉羽嬢が浴室を出ると、女中が主人の轟九蔵を起しに行くが、コイツが又一通りならぬ朝寝坊でナカナカ起きない。それをヤット起して湯に入れると間もなく朝飯(あさはん)になる。それから十二時か一時頃になって支配人の笠圭之介が遣って来て三人寄って紅茶か、ホット・レモンを飲みながら業務上の打合わせをする。時には三人で大議論をオッ初める事もあるが大抵のことは呉羽嬢の主張が通るらしい」
「その支配人の笠という男はドンナ人間ですか」
「僕に負けんくらい巨大(おおき)な赭顔(あからがお)の、脂(あぶら)の乗り切った精力的な男だ。コイツも独身という話じゃが」
「何だかヤヤコシイようですね。呉服橋劇場の首脳部の三人が揃いも揃って独身となると……」
「ところがこの笠という男は有名な遊び屋でね。それも頗(すこぶ)る低級に属しとる。つまらない女ばかり引っかけまわって、この大森の砂風呂なんかによく来るので、自然吾々の仲間にも顔が通っている。臨検してみると「ヤア君か」といったアンバイでね。ハハハ。話すと面白い男だよ。誰でも初めて劇場で合うとこの男を劇場主の轟と間違える位、立派な風采じゃがね。そいつが来てその日の事務の打合わせが済むと、一時か二時頃から三人同伴で劇場や、新聞社に行く事もあれば、別々に行く事もある。帰って来るのは大抵夜中の十二時前後で、その時も三人別々だったり一緒じゃったりするが、早い奴から湯に這入って軽い夕食を摂る。笠支配人はいつも麦酒(ビール)を飲んで少々ポッとしたところで自動車を呼んで丸の内のアパートへ帰る……かドウか、わからないがね。残った二人の中(うち)で主人の轟は事務室の片隅の寝台へ寝る。呉羽嬢は二階の別室に寝るのじゃが、その時に呉羽嬢は寝室の鍵をやはりガッチリと掛けて、その上から今一つ差込の閂(かんぬき)まで卸すとモウ誰が来ても開けない。もっとも寝がけに睡眠剤を服(の)むらしいがね」
「轟氏の方は……」
「呉羽嬢が「おやすみ」を云うたアトで三十分か一時間ぐらい手紙を書いたり何か仕事をするのが習慣になっとるらしいが、その時には必ず浴衣(ゆかた)に着換えている。そうしてこれも何か知らん薬を服(の)んでから寝るらしいがね」
「当日も変った事はなかったんですね」
「イヤ。あったんだ。しかもタッタ一つ奇妙な事があったんだ。少々神秘的なことが……」
「ヘエ。神秘的と云いますと……」
「それが面白いのだ。この家の女中はズット以前……この家が建った当時から二人きりに定(き)まっている。こう見えてもこの家は案外広くないのだ。部屋らしい部屋はタッタ四室(ま)しかない上に、万事がステキに便利に出来ているからね……ところで一番古く、建った当時から居るのが今云うた松井ヨネ子という二十六になる逞ましい肉体美の醜女(オッペシャン)だ。コイツが田舎出の働き者で、家の内外の掃除から、花畠の世話まで少々荒っぽいが一人で片付ける。しかも轟九蔵と天川呉羽の性生活について非常な興味を持っているらしく、そいつがわかるまでは断然お暇を貰わないつもりですとか何とか、吾々の前で公々然と陳述する位、痛快な女なんだ。何でもどこか極めて風俗の悪い村から来ているらしく、万事心得た面構えをしているが、しかし遺憾ながら、まだ二人の関係については突詰めた事を一つも掴んでいないので、ああした年頃の未婚の女にあり勝ちな悩みをこの問題一つに集中しているらしいんだね。この問題に限ってチョット突(つっ)つくと直ぐに止め度もなくペラペラと喋舌(しゃべ)り出しやがるんだ。どう見ても普通の親娘(おやこ)じゃありません……と熱烈に主張するんだ」
「なるほど面白いですね」
「ところが今一人居る市田イチ子というのは、やはり田舎からのポット出だが、今年十八になったばっかり。つまりそうした好奇心の一番強い真盛りの娘ッ子で、やっと一昨日(おとつい)来たばっかりのところへ、先輩のヨネ子からこの話を散々聞かされた訳だね。それから呉羽嬢の初のお目見得をしてみると、あんまり美しいのでビックリした拍子に呉羽嬢の姿がブロマイドみたいに眼の底に沁(し)[#底本では「泌」と誤記]み付いてしまって、日が暮れたら怖くて外へ出られなくなった。夜具を引っ冠ると眼の前にチラ付いてスッカリ冴えてしまった……」
「アハハハ。形容が巧いですね」
「イヤ。笑いごとじゃない。その娘が自身に白状したんだ。ところへ昨夜の事、女中部屋の扉(ドア)の真向いに当る廊下の突当りで、主人の居間の扉(ドア)がガチャリと開(あ)いた音がしたので、ハッと眼を醒まして無意識の裡(うち)に起き上り、鍵穴からソッと覗いてみると、いつも寝間着姿で仕事をしていると聞いていた主人が、チャント洋服を着ている。今しがた帰って来て、イチ子自身がホコリを払ってやった時の通りの黒いモーニングと白チョッキと荒い縞のズボンを穿いている……つまり今朝(けさ)の屍体が着ていたのと同じものだね。のみならず主人の背後の扉(ドア)の蔭からチラリと動いた赤いものが見えた。大きな蛇が赤い舌を出した恰好に見えたのでギョッとして、頭から布団を冠ってしまったが、あとから考えると、それはお嬢様の振袖と、絽(ろ)の襦袢(じゅばん)の袖だったに違いないと云うんだ。……何でもその時に女中部屋の時計がコチーンコチーンと二時を打つのを夜着(よぎ)の中で聞いたというがね」
「ははあ……重大な暗示(ヒント)ですなあ。それは……」
「暗示(ヒント)? 何の暗示だというのだね」
「イヤ。別に暗示(ヒント)という訳では[#底本では「は」が脱落]ありませんが、しかし、それはソンナに遅くまで、轟九蔵氏と天川呉羽嬢があの事務室に居た証拠として考えてはいけないでしょうか」
「そうすると君は天川呉羽が轟九蔵を殺したというのかね。それだけの事実で……」
「イヤ。そんな怪談じみた想像説は、この場合成立しませんが、ツイ今しがた参りました奇妙なゴムチューブの足跡が、呉羽嬢と九蔵氏が一所(いっしょ)に居った時に這入って来たものか、それとも相前後して出入りしたものとすれば、ドチラが後か先かという事が、この事件を解決する重大な鍵となって来ましょう」
「ウーム。自然そういう事になるね」
「ところがその足跡の主が這入って来て、出て行ったのが、お話の通り二時以前としますかね。雨が降り出してから帰った形跡はないのでしょう」
「ウム。ない」
「それから呉羽嬢が居たのが二時頃としますとドチラにしても二時以後は呉羽嬢がタッタ一人、轟氏の傍に居た事になります。そうすると二時頃までピンピンしていた轟氏を殺したものは絶対に呉羽嬢以外には……」
「アハハハハ。イヤ。名探偵名探偵。その通りその通り。寸分間違いない話だが……そこが探偵小説と実際と違うところなんだよ。つまり君がアンマリ名探偵過ぎるんだ」
「……名探偵過ぎるって……」
「つまり君はアンマリ考え過ぎているんだよ。犯人の目星はモウ付いているんだからね。寝呆(ねぼ)けた小娘の眼で見た事なんか相手にせんでモット常識的に考えんとイカン」
「常識的と云いますと……」
「まあ聞き給え。こうなんだ。呉羽嬢は無論そんな真夜中に起きて、そんなに盛装なんかして九蔵氏の部屋に這入った覚えなぞ、今までに一度もないと云い張るんだ」
「それあそうでしょう」
「女中の市田イチ子の奴も、今になって考えてみますと何だか、自分の眼が信じられないような気がします。あれは私がトロトロした間(ま)に見た夢なのかも知れません……なんかとアイマイな事を云い出しやがるし……」
「云うかも知れませんね。そんな事をウッカリ証言したら、アトで呉羽嬢に何をされるか解りませんからね」
「君。想像は禁物だよ。チャンとした拠点(よりどころ)のある証言を基礎として考えなくちゃ……」
「モウ、それだけですか。変った事は……」
「……アッ……それから今一つチョット変った事がある。何でもない事だが、君一流の想像を複雑に[#底本では「に」が脱落]させる材料には持って来いだろう。ほかでもない……今朝(けさ)、呉羽嬢の起きるのが約一時間ばかり遅れたんだそうだ。これも市田イチ子の証言だがね」
「ヘエ。いよいよ以て聞捨てになりませんね」
「ウン。平生(いつも)は女中に起されなくとも、キッチリ九時には起きて来た呉羽嬢が、今朝(けさ)に限って九時半頃まで起きないので、ヨネとイチの二人の女中が顔を見合わせたそうだ。どうかしたんじゃないかというので二人がかりで起しに行ってみたらグーグー寝ている気はいがする。それを猛烈に戸をたたいたり、叫んだりしてヤット起したりしたら、不承不承に起きて来た。真白い羽二重(はぶたえ)のパジャマを引っかけながら、どうも昨夜、催眠剤(おくすり)を服(の)み過ぎたらしいと云い云い湯に這入ったというんだ」
「ヘエ……わからないなあ」
と云ううちに文月巡査は、眼前(めのまえ)の机(テーブル)の上に身体(からだ)を投げかけて両肱を突いた。シッカリと頭を抱え込むと、溜息と一所に云った。
「スッカリわからなくなっちゃった」
「何がわからんチューのか……ええ?」
「……もし、それが事実なら、やっぱり呉羽嬢が九蔵氏を殺したのじゃない。不思議な足跡の主……つまり九蔵氏を脅迫した奴が殺したんだ」
「ホオ。なかなか明察だね。どうしてわかる」
若い文月巡査の蒼白い額はジットリと汗ばんでいた。眼の前の空間を睨んで、魘(うな)されているような空虚な声を出した。
「呉羽嬢と、その犯人とは連絡がある……九蔵氏を殺した犯人が無事に逃げられるように、わざと朝寝をして、事件の発覚を遅らした……」
「ワッハッハッハッハ。イカンイカン。イクラ名探偵でも、そう神経過敏になっちゃイカン。世の中には偶然の一致という事もあれば、疑心暗鬼という奴もあるんだよ。シッカリし給え。アハアハアハ……」
文月巡査は夢を吹き飛ばされたように眼をパチクリさして猪村巡査の顔を見た。吾(われ)に帰って頭の毛を叮嚀に撫で付け初めた。
「しかし……それは事実でしょう……」
「おおさ。無論事実だよ。しかもよく在勝(ありが)ちの事実さ。しかも、それよりもモット重大な事実があるんだから呉羽嬢の寝過し問題なんかテンデ問題にならん」
「ドンナ事実です」
「今話した支配人の笠圭之介ね。その笠支配人が台所女中のヨネからの電話で、丸の内のアパートから自動車で飛んで来たのが、今日の十二時チョット前だった。それから主人の死体や何かを吾々立会の上で調べている中(うち)に、机の上に小切手帳が投出してあるのに気が附いた。調べてみると、昨日(きのう)の日附で堀端(ほりばた)銀行の二千円の小切手を誰かに与えている事がわかった。そこで万が一にもと気が付いて、堀端銀行に問合わせてみると、今朝(けさ)の事だ。堀端銀行が開くと同時に二千円を引出して行った者が居るという。それは絽(ろ)の羽織袴に、舶来パナマ帽の立派な紳士であった。色の黒い、背の高い、骨格の逞しい肥った男で、眉の間と鼻の頭に五分角ぐらいの万創膏(ばんそうこう)を二つ貼っていたので、店員は最初何がなしに柔道の先生と思っていた。それだけに至極沈着(おちつ)いているようであったが、しかし這入ってから出るまで一言も口を利かず、何気もない挙動の中に緊張味がみちみちて、油断のない態度であった。尚、新しいフェルトの草履を穿いて、同じく上等の新しい籐(とう)のステッキを握っていたという」
「それが犯人だと云うんですか」
「むろんそうだよ。その報告を聞いた笠支配人は、その小切手を誰も触らないように、紙に包んで保存しておいてくれと頼んで、直ぐにその旨を吾々に報告したがね」
「ナカナカ心得た男ですなあ」
「ウン。近頃の素人は油断がならんよ。つまりその犯人は轟九蔵氏に脅迫状をタタキ附けた後(のち)に、九蔵氏が約束通り事務室で待っているところへ、窓を開けさして這入って来た。それから二千円の小切手を書かせ、後難を恐れて不意打に刺殺(さしころ)し、発覚しない中(うち)に金を受取って行衛(ゆくえ)を晦(くら)ましたという事になるんだね。つまり九蔵氏が……もしくは轟家の連中が、普通よりも寝坊である事を熟知している犯人は、朝早くならば大丈夫と思って、堂々と金を受取りに行ったと思われるんだ。何でもない事のようじゃが今の眉の間と、鼻の頭に貼った五分角ぐらいの万創膏が、アトで研究してみると実に手軽い、しかも恐ろしい効果のある変相術じゃったよ。余程、甲羅(こうら)を経た奴でないとコンナ工夫は出来ん。君もアトで実験してみたまえ、万創膏の貼り方と位置の工合で、同一人でも丸で見違える位、印象が違うて来るからなあ。おまけに運動家らしく肩でも振って行けば、誰でも柔道の先生ぐらいに思うて疑う者は居らんからなあ」
「その小切手に指紋はないでしょうか」
「ドッサリ附いている筈だよ。今調査中じゃが、小切手を書いたこの家(や)の主人のもの、受取った犯人のもの、銀行員のものと些(すくな)くとも三通りは附いている筈だよ。銀行に来た犯人は手袋を穿めていなかったんだからね。笠支配人は到って腰の低い、ペコペコした人間じゃが、流石(さすが)に鋭いところがあると云って、皆感心しておったよ」
「……ところで……その支配人と女優の呉羽は今どこに居るのですか」
「犯人の星が附いて嫌疑が晴れたので、直ぐに大森署へ来て、署長の手で諒解を得てもらって、二人とも大喜びでそのまま呉服橋劇場へ飛んで行ったのが二時半頃じゃったかなあ。今が劇場の生死の瀬戸際というんでね。何でもこの記事が夕刊に出たら、満都の好奇心を刺戟して劇場が一パイになるかも知れないと云ってね。少々慌て気味で二人とも出て行ったよ」
「少々薄情のようですね。そこいらは……劇場関係の人間はアラユル階級の中でも一番薄情だっていう事ですが……この夕刊を見たら誰でも今夜は休場だと思うかも知れないのに……」
「それは、わからないよ。見物人という奴は劇場関係者(こやもの)よりもモット薄情な、モット好奇心の強い人種だからね。何でも亡き轟氏の魂はあの劇場に残っているに違いないのだから、今日の芝居を中止しないのが、せめてもの孝行の一つですと、眼を真赤にして云っていたがね。呉羽嬢は……」
「今何を演(や)っているのですか」
「何を演(や)っているか知らんが……アッ。そうそう。大森署へ切符を置いて行きおったっけ……新四谷怪談とか云っていたが……」
「ヘエ。そうするとアトはその犯人を捕まえるダケですね」
「そうだよ。相当スゴイ奴に違いないよ」
「そうすると疑問として残るのは……」
「疑問なんか残らんじゃないか」
「イヤ。これは僕が勝手に考えるんですがね。第一は被害者の轟九蔵氏が、その犯人を迎え入れた心理状態……」
「それは犯人を取調べればわかるじゃろ」
「第二が、その屍体に現われた無抵抗、驚愕の状態……」
「無抵抗とは云いはしないよ」
「けれども事実上、無抵抗だった事はわかっているでしょう。そんな場合には無抵抗の表情と驚愕の表情とは同時に表現され得るものですし、同じ意味にも取れない事はないでしょう。のみならず、そうした被害者の犯人に対する気持は机の曳出(ひきだし)に在ったピストルを取出さずに、犯人を迎え入れた事実によって、二重三重に裏書きされていやしませんか。犯人が被害者に対して、殺意を持っていなかった事を、被害者自身も洞察して、信じ切っていたらしい事も想像され得るじゃないですか」
「ううむ。そういえばソウ考えられん事もない。ナカナカ君は頭がええんだな」
「……そ……そんな訳じゃないですが……それから事件当夜の二時頃に主人の部屋に居た呉羽嬢の行動に関する秘密……」
「……あ……そいつはドウモ当てにならんよ。何度も云う通り市田イチ子の陳述がアイマイじゃから……」
「アトからアイマイになったんでしょう。ですから一層的確な意味になりはしませんか」
「中々手厳しいね。僕が訊問されとるようだ」
「ハハハ。いや。そんな訳じゃないですが……アトは轟九蔵氏の絶命時間の推測です。昨夜何時頃という……」
「ハハハ。二時以後だったら断然、呉羽嬢をフン縛るつもりかね……君は……」
「その方が間違いないと思います」
そう云う文月巡査の顔からは血の気がなくなっていた。背筋へ氷を当てられたような笑い顔をしながら三本目のMCCへわななくマッチを近付けた。そうした昂奮を気持よさそうに眺めやった猪村巡査は、毛ムクジャラの両手をノウノウと後頭部に廻した。
「ところがその絶命の時間がモウわかっているんだよ。サッキ本署へ電話をかけてみたら、一時間ばかり前に大学から通知が来たそうだ」
「ナ……何時頃ですか」
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