しかし筥崎駅で汽車が停ると、私は妙に降りて見たくなった。それでも暫く躊躇して考えていたが、発車間際に思い切って飛び降りて見ると、今度は是が非でも今一度、あの墓原へ行かなければならないような気持になった。それは一種の新聞記者本能で、あの墓原の鯉幟が、何かしら面白い記事になりそうに直感されたからでもあったろう……が……一方から考えるとこの時既に、アノ鯉のぼりが象徴している不可思議な、悪魔的な魅力が、グングンと私の心を引き寄せていたのかも知れない。とうとう社へ出るのを後まわしにして、鉄道線路を十五六町程引返すと、最前の墓原へやって来た。 幟棹は墓地の最南端の、麦畑や村落を見晴らした処に樹てられていた。二間ばかりの細い杉丸太の根元を、砂の中に埋めたもので、大小三匹の紙製の鯉は、いずれも数日前からブラ下っていたものらしく、上の方の一番大きな緋鯉も、その次の青も、その下の小さな黒鯉も、雨や夜露に打たれて色が剥げ落ちたまま、互いにピシャンコになってヘバリ附き合っている。その中でも一番下の黒鯉は、半分以上白鯉になっているのに、上の二匹から滴り落ちた赤と青のインキをダラダラと浴びて、さながら血まみれになっているようで、白い砂の上に引きずった尾の周囲は勿論のこと、幟棹の根元から、白木の墓標の横腹へかけていろんな毒々しい、気味わるい色の飛沫を一パイに撒き散らしたまま、ダラリと静まり返っている。ただ、棹の上に取り付けてある矢の羽型の風車が、これも彩色を無くしたまま、時折り、あるか無いかの風を受けて廻転しかけては、ク――ック――ッと陰気な音を立てているばかり……空は一面の灰色に曇って、今にも降り出しそうである。 私は白砂の染まった処を踏まないように、グルリと遠まわりをして、小さな松の角材で建てられた、墓標の表面を覗いて見たが、又も奇怪な事実を発見したので、思わず唾を嚥み込んだ……真黒々になるほど浸み流れた墨汁の中に「花房ツヤ子之墓」と書いた拙い楷書が威張っている。裏の文字を見ると「……四月三十一日卒……行年二十三歳……」とある……ツイ十日ばかり前に出来た仏様である。 ……若い女の墓と……鯉幟と……心の中で繰り返しつつ、私は暫くの間石のように立ち竦んでいたが、やがて思い出したように横を向いて唾を吐いた。
それから二十分程経つと、私は筥崎の町役場へ行って死亡届を調べていた。そうして、それから又、十分ばかりの後には、筥崎八幡宮の裏手の森蔭に「花房敬吾」と標札を打った、長屋風の格子戸の前に突立っていた。 「……御免下さい……お頼み申します……御免下さい……」 と二三度繰り返すと、何の返事も無いままに、格子の中の玄関の破れ障子がガタガタと開いた。 「……敬吾かえ……」 と云うシャガレた声が聞えると間もなく、一人の老婆が、障子に縋り付くようにして這い出して来た。 私は又もやドキンとさせられた。古い格子越しに見ると、その老婆は、黄色い胡麻塩頭が蓬々と乱れて、全身が死人のように生白く、ドンヨリと霞んだ青い瞳を二ツ見開いて、一本も歯の無い白茶気た口を、サモ嬉しそうにダラリと開いている。身体には垢だらけの手拭浴衣を着て、赤い細帯を捲きつけていたが、帽子を取った私の顔を見上げると、みるみる暗い、萎び込んだ表情にかわってしまった。 「ドナタサマデ……アナタ……」 と頭を下げつつゴックリと唾を呑んだ。 私は返事するのを躊躇した。この新聞材料にぶつかった最初から受け続けている、何とも云えないイヤナ感じを、ここでもっと突込んでみようか……それともこの辺で思い切ってしまって、もっと明るいキビキビした、ほかの材料に乗り換えようかと、一瞬間思い迷った。けれどもその時に私は、今までの惰力とでもいうべき一種の気持ちに押されて、ツイ間に合わせの返事をしてしまった。 「……エエ……敬吾君と以前御交際を願っておりました……和田というものですが……」 「オオオオ、それはそれは。まあお這入り下さいまし。お上り下さいまし。……アナタ……」 と云ううちに老婆は、古ぼけた畳の上を、赤ん坊のようにベタベタと這いながら引込んで行った。そのあとを見送って考えていた私は、やがて又、思い切って格子戸を開いた。 家は二畳の玄関と、一坪ほどの台所と便所と、八畳の座敷に押入れと床の間という、古ぼけた長屋みたような瓦落多普請であるが、家具らしいものはあまり見えない。座敷は両側とも雨戸を閉めて、蚊帳が一パイに釣ってあるので、化物屋敷のように暗い上に、黴臭いような、小便臭いような臭気が、足を踏み込むと同時にムッとした。しかし老婆は暗闇に慣れていると見えて、平気で蚊帳の裾を這いながら、縁側から台所の方へまわって行った。私もそのあとから蚊帳を押し除け押し除けして、雨戸の内側の縁側の板張りへ出たが、そのついでに蚊帳の中を覗いてみると、寝床が三ツ敷いてあって、床の間の前に括り枕が一つと、台所側に高枕が二つ並べてある。その高枕と括り枕との間に、新らしいメリンスの小さな布団と、赤い枕がキチンと置いてあるのは赤ん坊の寝床であろう。夫婦と老婆が寝ていたものとも思われるが、妻女は死んでいる筈だから、寝床が三つあるのはヘンテコである。しかも役場の戸籍面には妻女の死亡が届け出てあるだけで、赤ん坊の事は何とも書いてないのに……アノ鯉幟……この小さな新しい布団……おまけに今は真ッ昼間ではないか……。 私は進退谷まったような気持ちで、帽子を持ったまま縁側に跼んだ。白昼でありながらソンナ気がチットモしない。雨戸を洩れる光線が、月の光りのように白く見えて、ヒッソリとした静けさが身に迫って来る。今にも突然に老婆がワアと云って振り返ったら……なぞとあられもない事を考えているうちに、台所に首を突込んでゴソゴソやっていた老婆は、片手に茶碗を持ちながらヨタヨタと這いもどって来た。 「ヘイ……つめたいお茶を一ツ……おあてものも御座いませんで……アナタ……」 「……ヤッ……どうもありがとう……どうぞお構いなく……」 と大きな声で云いながら、私は余儀なく板張りに坐り込んだ。老婆も私とさし向いに坐ったが、瘠せ枯れた白い手で襟元を直して、蓬々と逆立った髪毛を撫で上げた。戸籍面によるとこの老婆はオシノといって、敬吾の祖母に当る嘉永生れの高齢者であるが、耳も眼もシッカリしているようで、気持ちも存外確からしい。 私は心安いような態度で茶碗を口に近づけて、一ト口飲む真似をした。そうしてブッキラボーに口を利いた。 「敬吾君はいつ頃お帰りで……」 老婆は眼をショボショボとしばたたいた。右の眼の下の皺を、口と一緒に歪まして、ペロリと一つ舌なめずりをしたが、やがて又、淋しい、たよりないシャガレ声を出して、 「……ハ――イ。もう帰る頃と思いますが……アナタ……」 と云いつつ私を見詰めると、モクモクと口を動かした。その疑うような白い眼付きを見ると、私はたまらない程奇妙な気持ちになったので、新聞の事も何も忘れてしまって、取って附けたようにお辞儀をした。 「それじゃ……いずれ又……」 「……ア……さようで……アナタ……」 そう云いながら老婆は、何かもっと云いたいような顔付きをしたが、又モクモクと口を動かすと、黙り込んでしまった。 「ドウゾお構いなく、いずれ又そのうちに……どうぞ宜しく……」 と切れ切れに云い云い玄関に出て、靴に足を突込むや否や表に飛び出して、格子戸をピシャリと閉めた。オシノ婆さんが這いずりながら、追っかけて来るような気がしたので……。
それから一町ばかりのあいだを、スッカリ失望した気持ちになって、小急ぎに歩いた私は、八幡前の賑やかな通りへ出る四五軒手前の荒物屋の前まで来ると、フト立ち止ってその店の中へ這入った。 「バットがありますか」 「入らっしゃいませ」 とステキに明るい声が奥の方からして、デブデブに肥った四十恰好のお神さんが、乳呑み児を横すじかいに引っ抱えながら出て来た。その脂切った笑い顔を見ると、私はホッと救われたような気持ちになって、バットを三個ばかり受け取ったが、とりあえず一本引き出して吸口をつけながら、こころみに聞いて見た。 「この向うに花房って家がありますね」 「ヘエ……」 と私の顔を見たお神さんは、急に笑い顔をやめて、大きくうなずいた。 「あの家のお嫁さんは死んだんですか」 「ヘエ……」 と云いながらお神さんは、一層魘えた表情になって、唾をグッと嚥み込んだ、私は占めたと思いながら帳場に近づいて、火鉢の炭団にバットを押しつけた。 「マッチでお点けなさいまっせえ。炭団では火がつき悪う御座いますけん」 と云ううちにお神さんは、私の横にベッタリと腰をかけて、マッチの箱をさし出した。このお神さんはあの家の事を喋舌りたがっているナ……と私は直覚した。 それから根掘り葉掘りして、私一流の質問を続けてみると、果してお神さんの説明は、一々興味深い新聞種になって行った。但、筋は極めて単純であった。 花房というのは現在、福岡の電燈会社の工夫をやっている男で、昨年の春にオシノという高齢の祖母と、若い嫁女のツヤ子を連れて、この町内の現在の家に引越して来た者であるが、夫婦仲は云うまでもなく、オシノ婆さんと嫁女のオツヤとの仲が、親身の間柄でも珍らしいくらい睦まじいので、近所の評判になっていた。敬吾がつとめに出かけた留守中に、嫁女のツヤ子がオシノ婆さんの手を引いて、程近い八幡様の境内を散歩させたり、お湯に連れて行く光景などを、近くの人はよく見かけた。敬吾が一時やめていた晩酌を、オシノ婆さんが嫁女にすすめて、無理に又はじめさせたというような噂までも伝わった。 ところがそのうちに嫁女が姙娠したことがわかると、オシノ婆さんは八幡様へ参詣しなくなった。 「お前が転びでもすると私が敬吾に申訳けがない。孩児の着物も私が縫うてやるけに、成るだけ無理をせんようにしなさい。その代りキット男の子を生みなさいよ」 と寝ても醒めても云っていた。嫁女も素直に笑いながら、 「ハイ……キット男の子を生みます」 と請け合っている……という話を、亭主の敬吾が煙草を買いに来たついでに、お神さんに話して聞かせた。 するとそのうちに嫁女がチブスに罹って、今から十日ばかり前の事、五月目の男の子を死産して死ぬると、亭主の敬吾は何と思ったか、通夜の晩から、大酒を飲んで管を捲きはじめた。 「……嬶は死ぬが死ぬまで譫言に、鯉幟のことばかり云うとったから、法事が済んだら一つ素晴らしいのをお墓に立ててやろうと思う。それが一番のお供養だナアお祖母さん」 と大声で何遍も何遍も繰り返すので、通夜に来ていた近所の人々は、ジッとしていられないような気持になった。胎児と母親の野辺送りをした帰りがけにも、敬吾はトロンとした眼で、白木の墓標をふりかえって、 「もうじきに大きな奴を立ててやるぞ。アハハハハハ」 と高笑いをしたので皆、顔をそむけたという。 けれども敬吾は、その帰り道にどう気がかわったものか、郵便局に残っていた二百円ばかりの貯金を引き出すと、その夜から行方を晦ましてしまった。何しろ家には高齢のオシノ婆さんが置き去りにして在るので、近所の者も心配して、二三人手を分けて行方を探しているが、今のところ皆目わからない。柳町の遊廓で見かけたという者もあるが、それも今では当てにはならなくなっている。一方にオシノ婆さんは、少しばかり残っている米で粥を作って喰べているが、近所の人が同情をして物を呉れても、 「いずれ近いうちに敬吾が帰って来ましょうから、お構い下さいませんように……ヘエ……アナタ……」 と云って突返すので、 「折角ヒトが心配してやっているのに……」 と面憎くがっている者もある。……ところがこの婆さんは、チョット見たところシッカリしているようであるが、実はもうすっかり耄碌しているので、雨戸の隙間から覗いてみると、夜も昼も蚊帳を釣り放して、いつもの通りに床を取った上に、自分が縫った「孩児さんの赤い布団」まで並べて待っている様子なので、近所の者はトテモ気味悪がっている。ことに依ると夫婦と子供三人で、出かけたあとの留守番をしているつもりかも知れないが、誰もそんな事を尋ねて見るものは無い。何にしても当り前でない婆さんが、タッタ一人で煮焚きをするので、まことに不要心だから、警察に届けようか、どうしようかと相談しいしい今日まで来ている。尤も、もう二三日すると二七日が来るから、事に依ると敬吾が帰って来るかも知れぬが……というのがお神さんの話の概要であった。 私は礼を云って荒物屋を出ると又引っかえして、花房の近所をまわって、二三の事実を確かめてから本社へ帰った。 「……死んだ愛妻と胎児の墓に、鯉幟を立てて行方を晦ました男……あとに餓死を待つ高齢の祖母……」 といったような記事が、その墓の鯉幟と、蚊帳の前に坐った老婆の写真と一緒に出たのは、あくる日の朝刊であった。それを台所で読んだ私の妻が、 「マア。誰がこんなイヤな記事を書いたんでしょう」 と云ったので私は思わず苦笑させられた。
『記者様――
私ハ、アナタノ新聞ノ記事ヲ読ンデカラ眼ガ醒メマシタ。私ハ妻子ヲ失ッタ悲シサノタメニ酒色ニ溺レテ、恵ミ深イ大恩アル祖母ノ事ヲ忘レテオリマシタ。柳町、大浜ト飲ミマワッテ、化粧ノ女ト遊ビ狂ウテオリマシタ。ソウシテ、アノ新聞記事ヲ見マシテカラ、ヤット昨晩、家ニ帰ッテ見マシタラ、祖母ハ蚊帳ノ釣手ニ、妻ノ赤イ細帯ヲカケテ、首ヲククッテ死ンデオリマシタ。足ノ下ニ御社ノ新聞ノ、アノ写真ノトコロガ拡ゲテ置イテアリマシタ。誰カ近所ノ親切ナ人ガ投ゲ込ンデ下サッタノデショウ。 記者様―― アノ鯉幟ノ棹ハ、私ガ酔ッタ勢イデ立テタモノデスガ、ソレガ記者様ノオ眼ニ止マッテ、コンナ不孝ナ恥ヲ晒ソウトハ夢ニモ思イマセンデシタ。シカシ私ハ、ドナタ様モ怨ミマセン。何モカモ、私ガ修養ガ足リナイタメニ、起ッタ事デス。私ハ皆様ニ対シテ申訳アリマセンカラ自殺シマス。ドウゾコノ大馬鹿者ノ最期ヲ、アナタノ筆デ、デキルダケ大キク世間ニ発表シテ下サイ。御社ノ御繁栄ヲ祈リマス。
五月十一日
花房敬吾 福岡時報 記者様』
編輯長は、洋半紙に鉛筆で書いたこの手紙を、私の前に投げ出しながらフフンと笑った。 「ツイ今しがた来たんだ。その男はその手紙をポストに入れると、嬶の墓に参って、幟の細引を首に捲いて、鯉と一緒にブランコ往生をしていたんだ。二時間ばかり前に、あの松原を通った下り列車の乗客が見つけたんだがね、足下にウイスキーの小瓶がタタキ付けたったそうだよ……ハハハハハ」 私は茫然として編輯長の顔を凝視した。編輯長はやはり冷笑を浮めながら云った。 「君の筆もだいぶ立つようになったね」 私は笑いもドウもし得ないまま、何がなしにうなだれてしまった。帽子を片手にスゴスゴと編輯室を出て、一気に階段を駈け降りた。 東中洲のカフェーに飛び込むと、昔なじみの女給連中が、鬨の声をあげて立ち上って来た。 「……まあ……めずらしいじゃないの……まあ……」 「どうしたの……あんたは……この頃……」 「いらっしゃアアい」 私は薄暗い雪洞の蔭から、眼を据えて睨み付けた。 「八釜しい……ウイスキーを持って来るんだ」 そう怒鳴り付けた私の眼の前に、早くもあの鯉幟の幻影が浮かみあらわれた。黒と、緑と、赤の滴雫を、そこいら中に引きずり散らした……ダラリと垂れ下がった……。
●表記について
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- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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