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空を飛ぶパラソル(くうをとぶパラソル)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-9 9:01:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 しかし筥崎駅で汽車が停ると、私は妙に降りて見たくなった。それでも暫く躊躇して考えていたが、発車間際に思い切って飛び降りて見ると、今度は是が非でも今一度、あの墓原へ行かなければならないような気持になった。それは一種の新聞記者本能で、あの墓原の鯉幟が、何かしら面白い記事になりそうに直感されたからでもあったろう……が……一方から考えるとこの時既に、アノ鯉のぼりが象徴している不可思議な、悪魔的な魅力が、グングンと私の心を引き寄せていたのかも知れない。とうとう社へ出るのを後まわしにして、鉄道線路を十五六町程引返すと、最前の墓原へやって来た。
 幟棹は墓地の最南端の、麦畑や村落を見晴らした処にてられていた。二間ばかりの細い杉丸太の根元を、砂の中に埋めたもので、大小三匹の紙製の鯉は、いずれも数日前からブラ下っていたものらしく、上の方の一番大きな緋鯉ひごいも、その次の青も、その下の小さな黒鯉も、雨や夜露に打たれて色がげ落ちたまま、互いにピシャンコになってヘバリ附き合っている。その中でも一番下の黒鯉は、半分以上白鯉になっているのに、上の二匹から滴り落ちた赤と青のインキをダラダラと浴びて、さながら血まみれになっているようで、白い砂の上に引きずった尾の周囲まわりは勿論のこと、幟棹の根元から、白木の墓標の横腹へかけていろんな毒々しい、気味わるい色の飛沫したたりを一パイにき散らしたまま、ダラリと静まり返っている。ただ、棹の上に取り付けてある羽型はがたの風車が、これも彩色を無くしたまま、時折り、あるか無いかの風を受けて廻転しかけては、ク――ック――ッと陰気な音を立てているばかり……空は一面の灰色に曇って、今にも降り出しそうである。
 私は白砂の染まった処を踏まないように、グルリと遠まわりをして、小さな松の角材で建てられた、墓標の表面を覗いて見たが、又も奇怪な事実を発見したので、思わずつばを嚥み込んだ……真黒々まっくろぐろになるほどみ流れた墨汁の中に「花房ツヤ子之墓」と書いたまずい楷書が威張っている。裏の文字を見ると「……四月三十一日卒……行年二十三歳……」とある……ツイ十日ばかり前に出来た仏様である。
 ……若い女の墓と……鯉幟と……心の中で繰り返しつつ、私は暫くの間石のように立ちすくんでいたが、やがて思い出したように横を向いて唾を吐いた。

 それから二十分程経つと、私は筥崎の町役場へ行って死亡届を調べていた。そうして、それから又、十分ばかりの後には、筥崎八幡宮の裏手の森蔭に「花房敬吾」と標札を打った、長屋風の格子戸の前に突立っていた。
「……御免下さい……お頼み申します……御免下さい……」
 と二三度繰り返すと、何の返事も無いままに、格子の中の玄関の破れ障子しょうじがガタガタといた。
「……敬吾かえ……」
 と云うシャガレた声が聞えると間もなく、一人の老婆が、障子にすがり付くようにして這い出して来た。
 私は又もやドキンとさせられた。古い格子越しに見ると、その老婆は、黄色い胡麻塩ごましお頭が蓬々ほうほうと乱れて、全身が死人のように生白く、ドンヨリと霞んだ青い瞳を二ツ見開いて、一本も歯の無い白茶気た口を、サモ嬉しそうにダラリといている。身体からだには垢だらけの手拭浴衣ゆかたを着て、赤い細帯を捲きつけていたが、帽子を取った私の顔を見上げると、みるみる暗い、しなび込んだ表情にかわってしまった。
「ドナタサマデ……アナタ……」
 と頭を下げつつゴックリと唾を呑んだ。
 私は返事するのを躊躇した。この新聞材料たねにぶつかった最初から受け続けている、何とも云えないイヤナ感じを、ここでもっと突込んでみようか……それともこの辺で思い切ってしまって、もっと明るいキビキビした、ほかの材料たねに乗り換えようかと、一瞬間思い迷った。けれどもその時に私は、今までの惰力とでもいうべき一種の気持ちに押されて、ツイ間に合わせの返事をしてしまった。
「……エエ……敬吾君と以前御交際を願っておりました……和田というものですが……」
「オオオオ、それはそれは。まあお這入り下さいまし。お上り下さいまし。……アナタ……」
 と云ううちに老婆は、古ぼけた畳の上を、赤ん坊のようにベタベタと這いながら引込んで行った。そのあとを見送って考えていた私は、やがて又、思い切って格子戸を開いた。
 家は二畳の玄関と、一坪ほどの台所と便所と、八畳の座敷に押入れと床の間という、古ぼけた長屋みたような瓦落多普請がらくたぶしんであるが、家具らしいものはあまり見えない。座敷は両側とも雨戸を閉めて、蚊帳かやが一パイに釣ってあるので、化物屋敷のように暗い上に、黴臭かびくさいような、小便臭いような臭気においが、足を踏み込むと同時にムッとした。しかし老婆は暗闇に慣れていると見えて、平気で蚊帳の裾を這いながら、縁側から台所の方へまわって行った。私もそのあとから蚊帳をけ押し除けして、雨戸の内側の縁側の板張りへ出たが、そのついでに蚊帳の中を覗いてみると、寝床が三ツ敷いてあって、床の間の前にくくり枕が一つと、台所側に高枕が二つ並べてある。その高枕と括り枕との間に、新らしいメリンスの小さな布団と、赤い枕がキチンと置いてあるのは赤ん坊の寝床であろう。夫婦と老婆が寝ていたものとも思われるが、妻女は死んでいる筈だから、寝床が三つあるのはヘンテコである。しかも役場の戸籍面には妻女の死亡が届け出てあるだけで、赤ん坊の事は何とも書いてないのに……アノ鯉幟……この小さな新しい布団……おまけに今は真ッ昼間ではないか……。
 私は進退きわまったような気持ちで、帽子を持ったまま縁側にしゃがんだ。白昼ひるまでありながらソンナ気がチットモしない。雨戸を洩れる光線が、月の光りのように白く見えて、ヒッソリとした静けさが身に迫って来る。今にも突然に老婆がワアと云って振り返ったら……なぞとあられもない事を考えているうちに、台所に首を突込んでゴソゴソやっていた老婆は、片手に茶碗を持ちながらヨタヨタと這いもどって来た。
「ヘイ……つめたいお茶を一ツ……おあてものも御座いませんで……アナタ……」
「……ヤッ……どうもありがとう……どうぞお構いなく……」
 と大きな声で云いながら、私は余儀なく板張りに坐り込んだ。老婆も私とさし向いに坐ったが、瘠せ枯れた白い手で襟元を直して、蓬々ほうほう逆立さかだった髪毛かみを撫で上げた。戸籍面によるとこの老婆はオシノといって、敬吾の祖母に当る嘉永生れの高齢者であるが、耳も眼もシッカリしているようで、気持ちも存外確からしい。
 私は心安いような態度で茶碗を口に近づけて、ト口飲む真似をした。そうしてブッキラボーに口を利いた。
「敬吾君はいつ頃お帰りで……」
 老婆は眼をショボショボとしばたたいた。右の眼の下のしわを、口と一緒にゆがまして、ペロリと一つ舌なめずりをしたが、やがて又、淋しい、たよりないシャガレ声を出して、
「……ハ――イ。もう帰る頃と思いますが……アナタ……」
 と云いつつ私を見詰めると、モクモクと口を動かした。その疑うような白い眼付きを見ると、私はたまらない程奇妙な気持ちになったので、新聞の事も何も忘れてしまって、取って附けたようにお辞儀をした。
「それじゃ……いずれ又……」
「……ア……さようで……アナタ……」
 そう云いながら老婆は、何かもっと云いたいような顔付きをしたが、又モクモクと口を動かすと、黙り込んでしまった。
「ドウゾお構いなく、いずれ又そのうちに……どうぞよろしく……」
 と切れ切れに云い云い玄関に出て、靴に足を突込むや否や表に飛び出して、格子戸をピシャリと閉めた。オシノ婆さんが這いずりながら、追っかけて来るような気がしたので……。

 それから一町ばかりのあいだを、スッカリ失望した気持ちになって、小急ぎに歩いた私は、八幡はちまん前の賑やかな通りへ出る四五軒手前の荒物屋の前まで来ると、フト立ち止ってその店の中へ這入った。
「バットがありますか」
らっしゃいませ」
 とステキに明るい声が奥の方からして、デブデブに肥った四十恰好のおかみさんが、乳呑み児を横すじかいに引っ抱えながら出て来た。その脂切あぶらぎった笑い顔を見ると、私はホッと救われたような気持ちになって、バットを三個みっつばかり受け取ったが、とりあえず一本引き出して吸口をつけながら、こころみに聞いて見た。
「この向うに花房ってうちがありますね」
「ヘエ……」
 と私の顔を見たお神さんは、急に笑い顔をやめて、大きくうなずいた。
「あのうちのお嫁さんは死んだんですか」
「ヘエ……」
 と云いながらお神さんは、一層おびえた表情になって、唾をグッとみ込んだ、私はめたと思いながら帳場に近づいて、火鉢の炭団たどんにバットを押しつけた。
「マッチでおけなさいまっせえ。炭団では火がつきにくう御座いますけん」
 と云ううちにお神さんは、私の横にベッタリと腰をかけて、マッチの箱をさし出した。このお神さんはあのうちの事を喋舌しゃべりたがっているナ……と私は直覚した。
 それから根掘り葉掘りして、私一流の質問を続けてみると、果してお神さんの説明は、一々興味深い新聞種になって行った。但、筋は極めて単純であった。
 花房というのは現在、福岡の電燈会社の工夫をやっている男で、昨年の春にオシノという高齢の祖母と、若い嫁女よめじょのツヤ子を連れて、この町内の現在の家に引越して来た者であるが、夫婦仲は云うまでもなく、オシノ婆さんと嫁女のオツヤとの仲が、親身の間柄でも珍らしいくらい睦まじいので、近所の評判になっていた。敬吾がつとめに出かけた留守中に、嫁女のツヤ子がオシノ婆さんの手を引いて、程近い八幡様の境内を散歩させたり、お湯に連れて行く光景などを、近くの人はよく見かけた。敬吾が一時やめていた晩酌を、オシノ婆さんが嫁女にすすめて、無理に又はじめさせたというような噂までも伝わった。
 ところがそのうちに嫁女が姙娠したことがわかると、オシノ婆さんは八幡様へ参詣さんけいしなくなった。
「お前が転びでもすると私が敬吾に申訳けがない。孩児ややこの着物も私が縫うてやるけに、成るだけ無理をせんようにしなさい。その代りキット男の子を生みなさいよ」
 と寝ても醒めても云っていた。嫁女も素直に笑いながら、
「ハイ……キット男の子を生みます」
 と請け合っている……という話を、亭主の敬吾が煙草を買いに来たついでに、お神さんに話して聞かせた。
 するとそのうちに嫁女がチブスにかかって、今から十日ばかり前の事、五月目の男の子を死産して死ぬると、亭主の敬吾は何と思ったか、通夜の晩から、大酒を飲んでくだを捲きはじめた。
「……かかあは死ぬが死ぬまで譫言うわごとに、鯉幟のことばかり云うとったから、法事が済んだら一つ素晴らしいのをお墓に立ててやろうと思う。それが一番のお供養だナアお祖母さん」
 と大声で何遍も何遍も繰り返すので、通夜に来ていた近所の人々は、ジッとしていられないような気持になった。胎児と母親の野辺送りをした帰りがけにも、敬吾はトロンとした眼で、白木の墓標をふりかえって、
「もうじきに大きな奴を立ててやるぞ。アハハハハハ」
 と高笑いをしたので皆、顔をそむけたという。
 けれども敬吾は、その帰り道にどう気がかわったものか、郵便局に残っていた二百円ばかりの貯金を引き出すと、そのから行方をくらましてしまった。何しろうちには高齢のオシノ婆さんが置き去りにして在るので、近所の者も心配して、二三人手を分けて行方を探しているが、今のところ皆目わからない。柳町の遊廓で見かけたという者もあるが、それも今では当てにはならなくなっている。一方にオシノ婆さんは、少しばかり残っている米でかゆを作って喰べているが、近所の人が同情をして物を呉れても、
「いずれ近いうちに敬吾が帰って来ましょうから、お構い下さいませんように……ヘエ……アナタ……」
 と云って突返すので、
折角せっかくヒトが心配してやっているのに……」
 と面憎つらにくがっている者もある。……ところがこの婆さんは、チョット見たところシッカリしているようであるが、実はもうすっかり耄碌もうろくしているので、雨戸の隙間から覗いてみると、夜も昼も蚊帳を釣り放して、いつもの通りに床を取った上に、自分が縫った「孩児ややさんの赤い布団」まで並べて待っている様子なので、近所の者はトテモ気味悪がっている。ことに依ると夫婦と子供三人で、出かけたあとの留守番をしているつもりかも知れないが、誰もそんな事を尋ねて見るものは無い。何にしても当り前でない婆さんが、タッタ一人で煮焚にたきをするので、まことに不要心だから、警察に届けようか、どうしようかと相談しいしい今日まで来ている。もっとも、もう二三日すると二七日ふたなぬかが来るから、事に依ると敬吾が帰って来るかも知れぬが……というのがお神さんの話の概要であった。
 私は礼を云って荒物屋を出ると又引っかえして、花房の近所をまわって、二三の事実を確かめてから本社へ帰った。
「……死んだ愛妻と胎児の墓に、鯉幟を立てて行方をくらました男……あとに餓死を待つ高齢の祖母……」
 といったような記事が、その墓の鯉幟と、蚊帳の前に坐った老婆の写真と一緒に出たのは、あくる日の朝刊であった。それを台所で読んだ私の妻が、
「マア。誰がこんなイヤな記事を書いたんでしょう」
 と云ったので私は思わず苦笑させられた。

『記者様――

私ハ、アナタノ新聞ノ記事ヲ読ンデカラ眼ガ醒メマシタ。私ハ妻子ヲ失ッタ悲シサノタメニ酒色ニ溺レテ、恵ミ深イ大恩アル祖母ノ事ヲ忘レテオリマシタ。柳町、大浜ト飲ミマワッテ、化粧ノ女ト遊ビ狂ウテオリマシタ。ソウシテ、アノ新聞記事ヲ見マシテカラ、ヤット昨晩、家ニ帰ッテ見マシタラ、祖母ハ蚊帳ノ釣手ニ、妻ノ赤イ細帯ヲカケテ、首ヲククッテ死ンデオリマシタ。足ノ下ニ御社おんしゃノ新聞ノ、アノ写真ノトコロガ拡ゲテ置イテアリマシタ。誰カ近所ノ親切ナ人ガ投ゲ込ンデ下サッタノデショウ。
記者様――
アノ鯉幟ノ棹ハ、私ガ酔ッタ勢イデ立テタモノデスガ、ソレガ記者様ノオ眼ニ止マッテ、コンナ不孝ナ恥ヲさらソウトハ夢ニモ思イマセンデシタ。シカシ私ハ、ドナタ様モ怨ミマセン。何モカモ、私ガ修養ガ足リナイタメニ、起ッタ事デス。私ハ皆様ニ対シテ申訳アリマセンカラ自殺シマス。ドウゾコノ大馬鹿者ノ最期ヲ、アナタノ筆デ、デキルダケ大キク世間ニ発表シテ下サイ。御社ノ御繁栄ヲ祈リマス。
  五月十一日
花房敬吾

  福岡時報 記者様』

 編輯長は、洋半紙に鉛筆で書いたこの手紙を、私の前に投げ出しながらフフンと笑った。
「ツイ今しがた来たんだ。その男はその手紙をポストに入れると、かかあの墓に参って、幟の細引を首に捲いて、鯉と一緒にブランコ往生をしていたんだ。二時間ばかり前に、あの松原を通った下り列車の乗客が見つけたんだがね、足下にウイスキーの小瓶がタタキ付けたったそうだよ……ハハハハハ」
 私は茫然として編輯長の顔を凝視した。編輯長はやはり冷笑を浮めながら云った。
「君の筆もだいぶ立つようになったね」
 私は笑いもドウもし得ないまま、何がなしにうなだれてしまった。帽子を片手にスゴスゴと編輯室を出て、一気に階段を駈け降りた。
 東中洲のカフェーに飛び込むと、昔なじみの女給連中が、ときの声をあげて立ち上って来た。
「……まあ……めずらしいじゃないの……まあ……」
「どうしたの……あんたは……この頃……」
「いらっしゃアアい」
 私は薄暗い雪洞ぼんぼりの蔭から、眼を据えて睨み付けた。
八釜やかましい……ウイスキーを持って来るんだ」
 そう怒鳴り付けた私の眼の前に、早くもあの鯉幟の幻影が浮かみあらわれた。黒と、緑と、赤の滴雫したたりを、そこいら中に引きずり散らした……ダラリと垂れ下がった……。





底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
入力:柴田卓治
校正:しず
2000年9月26日公開
2006年3月13日修正
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