「失敬な……憚りながら君等みたいな見込捜索はやらないよ。体格検査簿にチャンと書いてあるんだ。身長五尺二寸、体量十四貫七百というのが昨年の秋の事だ。ちょうど屍体と見合っているじゃないか。姙娠七箇月は無論当てズッポウだが、胎児の動き工合から考えても多分三月か四月目から休んだ事になるだろうよ……」 「……フーン……よく知っとるんだナア、何でも……」 「大学の外交記者を半年やれあ、大抵の医者は烟に捲けるぜ。……しかし念のために、吾輩を崇拝している二三の看護婦に当って見ると、内科の早川さんと正月頃からコレコレと云うんだ。早川が寺山博士のお気に入りで、みんな反感を持っている事までわかった。どうだい。……恐れ入ったろう……」 「フーム、それじゃ写真はどうして手に入れた」 「……訊問するんなら署でやってくれ給え、絶対に白状しないから」 「アハハハハ。イヤ、実は非常に参考になるからヨ。……腹を立ててくれては困るが……正直のところを云うとこの記事はソノ……素人が見たらこれでええかも知れんがネ。僕等の立場から見ると不思議な事だらけなんだ」 「ウン。そんなら云おう。その写真はやっぱり看護婦仲間の噂から手繰り出したのさ。アノ恵比須通りの写真屋には、大学の看護婦がよく行くからね。二人で秘密で撮ったのを見るかドウかしたんだろう。そんな写真があるという事をチラリと聞いたから、試しに当って見ると図星だったのだ。受取人は柳川ヨシエという偽名でネ。チャンと種板まで取ってあった……そん時の嬉しさったらなかったよ」 「いかにもナア。……それじゃアノ姉歯という産婆学校長の医学士が、一生懸命で二人の世話を焼いとる事実は、どうして探り出したんか」 「内科の医局での話さ。姉歯という産婆学校長が、この頃よく内科の医局へ遊びに来て、早川とヒソヒソ話をする。何でもヨシ子がこの頃急に佐賀へ帰ると云って駄々をこね出したので、二人が困っているという噂があるんだ。……ドウダイ……事実とピッタリ一致するじゃないか」 「相変らず素早いんだね君は……」 「これ位はお茶の子さ。それよりも今度はアベコベに訊問するが、アノ姉歯という男が、産婆学校長の医学士だという事を君はどうして知っている。新聞にはわざと伏せておいたのに……」 「ソ……そいつは勘弁してくれ」 と大塚警部は眼を丸くしながら、慌てて手を振って飛び退いた。苦笑しいしいハンカチで顔をコスリ廻わした。私は儼然として坐り直した。 「ウム……君がその了簡ならこっちにも考えがある」 「……マ……マ……待ってくれ。考えるから……」 「考えるまでもないだろう。僕は今日まで一度も君等の仕事の邪魔をしたおぼえはない。秘密は秘密でチャンと守っているし、握ったタネでも君等の方へ先に知らせた事さえある。現に今だって……」 「イヤ。それは重々……」 「まあ聞き給え……現に今だって、自分の書いた記事を肯定しているじゃないか。本当を云うと編輯長以外の人間には、自分の書いた記事の内容を絶対に知らせないのが、新聞記者仲間の不文律なんだぜ、況んやその記事を取った筋道まで割って……」 「イヤ。それはわかっとる。重々感謝しとる……」 「感謝してもらわなくともいいから信用してもらいたいね。姉歯という医学士が、善玉か悪玉かぐらい話してくれたって……」 「ウン、話そう」 大塚警部は又汗を拭いた。帽子を冠り直して一層身体をスリ寄せた。小さな眼をキラキラ光らして声を落した。 「……エエカ。こいつが曝露たら署員が承知せん話じゃがな……姉歯という奴は早川よりも上手の悪玉なんだ。エエカ……早川をそそのかして、女を膨らましては自分で引き受けて、相手の親から金を絞るのを、片手間の商売にしとるんだ。つまり手切金と、堕胎料と、二重に取って、早川にはイクラも廻わさないらしいのだ。僕の管轄でもかなりの被害者があると見えて、時々猛烈な事を書いた投書が来る」 「ありがとう、それで何もかもわかった。ヨシ子が駄々をこねて、単身で佐賀へ行きかけたのは、どうも少々オカシイと思ったが……そこいらの消息を薄々感付いたんだナ」 「ウン。それに違いないのだ。ちょうど姉歯早川組の奸計と、両親の勘当とで、板挟みになって死んだ訳だナ」 「書きてえナア畜生……夕刊に……大受けに受けるんだがナア……」 「イカンイカン。まだ絶対に新聞に書いちゃいかん」 「アハハハハハ書きゃしないよ。……しかし君等はナゼ姉歯をフン縛らない」 大塚警部は苦笑した。二三本白髪の交った赤い鬚を、自烈度そうにひねりまわした。 「手証が上らないからさ。あの姉歯という奴は、大学の婦人科に居った時分から、主任教授に化けて大学前の旅館に乗り込んで、姙婦を診察して金を取った形跡がある。今開いとる産婆学校も、生徒は三四人しか居らんので、内実は堕胎専門に違いないと睨んどるんじゃが、姉歯の奴トテモ敏捷くて、頭が良過ぎて手におえん。噂や投書で縛れるものなら縛って見よという準備を、チャンとしとるに違いないのだ」 「フーム。この辺の医者の摺れっ枯らしにしてはチット出来過ぎているな」 「そうかも知れん。殊に今度の事件などは、相手が佐賀一の金満家と来とるから、姉歯も腕に縒をかけとるという投書があった。むろん十が十まで当てにはならんが、彼奴のやりそうな事だと思うて前から睨んではおったんだ」 「投書の出所はわからないか」 「ハッキリとはわからんが、大学部内の奴の仕事という事はアラカタ見当がついとる。早川の今の下宿を世話した奴が、姉歯だという事もチャンとわかっとる。何にしてもヨシ子が子供さえ生めば、姉歯の奴、本仕事にかかるに違いない。二人をかくまっておいて、時枝のおやじを脅喝ろうという寸法だ。だからその時に佐賀署と連絡を取って、ネタを押えてフン縛ろうと思うておったのを、スッカリ打ち毀されて弱っとるところだ」 「アハハハハ、大切の玉が死んだからナ」 「ソ……そうじゃない。君がこの記事を書いたからサ。実に乱暴だよ君は……」 「別に乱暴な事は一つも書いていないじゃないか。事実か事実でないかは、色んな話をきいているうちに直覚的にわかるからね。第一この写真が一切の事実を裏書きしているじゃないか」 「そうかも知れん……が、しかしこの記事は軽率だよ」 「怪しからん。事実と違うところでもあるのか」 「……大ありだ……」 「エッ……」 「しかも今のところでは全然事実無根だ」 私はドキンとして飛び上りそうになった。……早川に直接当らなかったのが手落ちだったかナ……と思うと、立っても居てもいられないような気持ちになった。大塚警部も困惑した顔になって、サアベルの頭をヤケに押し廻したが、やがて私の顔とスレスレに赤い顔を近付けると、酒臭いにおいをプーンとさした。 「実は僕も弱っとるんだ。……というのは……こいつも絶対に書いては困るがね。この記事を夕刊の佐賀版で見た時枝のおやじが、昨夜のうちに佐賀から自動車を飛ばして来て、今朝暗いうちに僕をタタキ起したんだ。人品のいい、落付いた老人だったので、僕もうっかり信用して、ちょうどええところだから大学の解剖室へ行って、お嬢さんの屍体を見て来て下さい。貴下のお子さんときまれば、解剖をしないでそのまんま、お引き渡しをしてもええからというので、巡査を附けてやった訳だ」 「なるほど……それから……」 「ところがそのおやじが、轢死当時の所持品や何かを詳しく調べた揚句に、娘の屍体を一眼見ると、これはうちの娘では御座らぬと云い出したもんだ」 「……フーン……その理由は……」 「その理由というのはこうだ。……うちの娘は元来勝気な娘で、東京へ行って独身で身を立てる、女権拡張に努力するという置手紙をして出て行った位で、そんな不品行をするような女じゃない。新聞の写真もイクラカ似とるようだが、ヨシ子では絶対にありませぬ。家出したのは四年前じゃが、チャンとした見覚えがあるから、間違いは御座らぬと云い切って、サッサと帰って行きおった」 「……馬鹿な。そんな事でゴマ化せるものか……」 「……涙一滴こぼさず。顔色一つかえずに、僕の前でそう云うたぞ」 「ウーン。ヒドイ奴だな。それから……」 「ウン。それからこれは昨日の事だが、女の下駄を売った大浜の金佐商店に当らせて見ると、売った奴は店の小僧で、しかも昨日の朝早くだったので、服装や顔立ちがサッパリ要領を得ない。あとから新聞の写真を持って行って見せると、丸髷になっとるもんだからイヨイヨ首をひねるんだ」 「フーン。困るな」 「それから早川の下宿のお神も新聞の写真を見て、早川さんの方は間違いないが、女の方は誰だかわからんようです……とウヤムヤな事を云いおるんだ。念のために佐賀署へ電話をかけて聞いて見ると、時枝の家族も口を揃えて、あの写真は家出したヨシ子さんではないと云うとるゲナ。しかし市中では君の新聞が引張り凧になっとるチウゾ」 「そうだろうとも……フフン……」 「つまり時枝のおやじは、屍体の顔がメチャメチャになっとるのを幸いに、家の名誉を思うて、娘を抹殺しようと思うとるんだね」 「フーン。そんなに名誉ってものは大切なものかな」 「何しろ佐賀県随一の多額納税だからナ」 「なおの事残酷じゃないか」 「もっとヒドイのはこっちの連中だ。第一色魔の早川を昨夜下宿で引っ捕えて見ると、そんな女と関係した事は無い。夕刊に載っている女は、昨夜手切れの金を遣って別れた柳川ヨシエというので、自分と関係する以前に姙娠しとった事が判明したから追い出したものだが、どこの生れだか本当の事はわからん。ホンの一時の関係だと強弁するし、産婆学校長の姉歯医学士も、そんな世話をした覚えは絶対に無いと突き放すのだ」 「ダラシがないんだナ君等の仕事は……」 「証拠が無い以上、ドウにも仕様がないじゃないか。おまけに今朝になってから、早川の下宿のお神の奴が、御叮嚀に筥崎署へ電話をかけて、新聞の写真の時枝ヨシ子さんは、早川さんと一緒に居た柳川ヨシエさんに違いありませんが、時枝という苗字ではありません。その柳川ヨシエさんは、昨日早川さんと別れ話が済んで、どこかへ行かれましたそうです。いずれにしても柳川ヨシエさんを私が、時枝のお嬢さんと云ったおぼえはありませんから、ドウゾそのおつもりで……という白々しい口上だったそうだ。まるで警察が、寄ってたかって冷かしものにされとるようなあんばいだ」 「早川医学士と、時枝のおやじと、轢死女の血を取って胎児の血液と比較すれば、すぐにわかる話じゃないか」 「他殺か何かなら、それ位のことをやって見る張り合いがあるけども、自殺じゃ詰らんからネエ……まだ他に事件が沢山とあるもんだからトテも忙がしくて……」 「早川や姉歯は今どうしている」 「どうもしとらんさ。そのうちに柳川ヨシエの行先がわかったら知らせます……そうしたら轢死女と違うかどうか、おわかりになりましょう……とか何とか吐かしおって……」 「君の方じゃそれ以上突込まないのか」 「突込んでも無駄だと思うんだ。おれの睨んどるところでは、みんな昨日から昨夜のうちに、いくらか宛、時枝のおやじに掴ませられとるらしいんだ。その黒幕はやっぱりアノ姉歯の奴で、君の書いた夕刊を見るなり、佐賀の時枝へ電話か何か掛けおったんだろう」 「そうだ。それに違いないよ」 「君の新聞に書かれる前に、警察の手で引っぱたけば一も二もなかったんだが、すっかり手を廻しくさって……口を揃えて新聞記事を事実無根だと吐すんだ」 「失敬な……」 と云いさして私は唇を噛んだ。気がつくと二人はいつの間にか工科前の終点で電車を降りて、往来のまん中で立話をしているのであったが、そういう私の顔をジッと見ていた大塚警部はチョット四囲を見まわすと、黄色い白眼をキラキラ光らせながら、一層顔を近付けた。 「君の手で確かな手証を挙げてくれんか……エエ?……推定でない具体的な奴を……そいつを新聞に書く前に、僕の手に渡してくれれば、スッカリタタキ上げて君の方の特別記事に提供するがね。君の手から出たタネだという事も、絶対秘密にするのは無論の事、将来キット恩に着るよ。あの記事が虚構となったら君の新聞でも困るじゃろう」 私は唸り出したいほどジリジリするのを押えつけて、無理に微笑した。 「ウン……いずれ編輯長と相談して研究して見よう」 「ウン、是非頼むよ。ドウセイ時枝の娘に間違いはないんだから……話がきまったら電話をかけて呉給え。屍体でも何でも見せるから……ウンウン……」 大塚警部は一人で承知したように、形式だけ片手をあげると、クルリと私に背中を向けて、サッサと筥崎署の方へ歩いて行った。そのうしろ姿を見送りながら私は、昨日のまま上衣のポケットに這入っている、ヨシ子の名刺と質札を、汗ばむ程握り締めた。いつの間にか私自身が、大塚警部の手中に握り込まれていることに気が付いて……。 私は急に身を飜すと、案内知った法文学部の地下室へ駈け込んで、交換嬢に本社の編輯長を呼び出してもらった。 「モシモシ。僕は今法文学部の交換室からかけているんですがね。昨日の夕刊の記事ですね。あれは取消を申込んで来る奴があっても、絶対に受け付けないで下さい」 編輯長の上機嫌の声が受話機に響いた。 「ああ。わかっている。今朝六時頃にネエ。佐賀の時枝のオヤジが僕の処へ駈け込んで、取消しの記事を頼んだよ。それから九大の寺山博士がツイ今しがた本社へやって来て、早川という男は自分の処に居るには居るが、色魔云々の事実は無いようである。それから、これは眼科の潮教授の代理として云うのだが、時枝という看護婦が眼科に居た事もたしかだが、四箇月ばかり前からやめているので、新聞の写真と同一人であるかどうかは不明だ……といったような下らない事をクドクド云っていたが、どっちもいい加減にあしらって追い返しておいたよ」 「感謝します」 「あとの記事は無いかい」 「……あります……時枝のおやじと九大内科部長があなたの処へ揉み消しに来た事実があります」 「アハハハ、一本参ったナ。しかし何かそのほかに時枝の娘に相違ないという確証はないかい」 「あります……ここに持っています。死んだ娘が悲鳴をあげる奴を……」 「そいつは新聞に出せないかい」 「出してもいいですけど屍体を掻きまわして掴んで来たものなんです。検事局へ引っぱられるのはイヤですからネエ」 「いいじゃないか。あとは引受けるよ」 「……でも……あなたと一緒に飲めなくなりますから……」 「アハハハハ。そうかそうか。サヨナラ……」 「……サヨナラ……」
それから三四十日経った或る蒸し暑い晩の事、私は東中洲のカフェーで偶然に私服を着た大塚警部に出会した。警部は誰かを探しているらしかったが、私が声をかけると、すぐに私の卓子に来てビールを呼んだ。その顔を見ているうちにフト思い出して尋ねて見た。 「時にどうしたい……アノ事件は……」 「……アノ事件?……ウンあの事件か。あれあアノマンマサ。医学士は二人とも君のお筆先に驚いたと見えて、その後神妙にしているよ」 「イヤ。女の身許の一件さ」 「ウン。あれもそのまんまさ。今頃は共同墓地で骨になっているだろうよ。可哀相に君のお蔭で親に見棄てられた上に、恋人にまで見離された無名の骨が一つ出来たわけだ」 「……………………」 「何でも女が線路にブッ倒れてから間もなく、色男の医学士らしい、洋服の男が馳けつけて、懐中や帯の間を掻きまわして、証拠になるものを浚って行ったという噂も聞いたが、その時刻にはその色男は、チャント下宿に居ったというからね。どうもおかしいんだ」 「……ウーン……おかしいね……」 「……とにかくあの別嬪は、君が抹殺したようなものだぜ。その色男というのは君だったかも知れんがネ……ハッハッハッまあええわ。久し振りに飲もうじゃないか」 二人はそれから盛んにビールを飲んだが、私は妙に大塚警部の云った事が気にかかって、どうしても酔えなかった。しまいには自棄気味になって、警部が出て行くのを待ちかねてウイスキーを二三杯、立て続けに引っかけると、ヤット睡くなって来たが、ウトウトすると間もなく眼の底の空間に、空色のパラソルが一本、美しく光りながら浮き出した。そうしてフワリフワリと舞い上りつつ左手の方へ遠く遠く、小さく小さく消えて行った……と思うと又一つ同じパラソルがもとの処にホッカリと浮かみ出したが、それがだんだんと小さくなって、左手の方へ消えて行くのを見送るたんびに、私は何ともいえない、滅入り込むような恐怖を感じはじめた。 私はハッと眼を見開いて、キョロキョロとそこいらを見まわした。そうしてその恐ろしさを打ち消すために、もう一杯、又一杯とグラスを重ねたが、飲めばのむ程その幻影がハッキリして来るのであった。しまいには美しいパラソルが、あとからあとから浮き出して、数限りなく空間を乱れ飛ぶようになった。 そのめまぐるしい空間を凝視しながら、私はガタガタとふるえ出した。
その二 濡れた鯉のぼり
前のパラソル事件以来、私はピッタリと盃を手にしなくなった。それでも時折りはたまらなく咽喉が鳴るのであったが、飲めば必ず酔う……酔えばキット空色のパラソルの幻影を見る……ガタガタと慄え出す……という不可抗力のつながりに脅かされて、とうとう絶対の禁酒状態に陥ってしまったので、そんな事を知らない連中を、かなり不思議がらせたらしい。何しろ飲み旺っている絶頂だったので、以前の飲み仲間なぞは、一時真剣に心配したり冷かしたりして、手を換え品を換えて詰問したものであるが、私は唯ニヤニヤと笑うばかりで一言も説明らしい説明をしなかった……否、説明したくなかった……というのが本当の説明であったろう。そうしてそのお蔭という訳でもないが、事実はやはりそのおかげに違いなかったであろう、私は間もなく社長の媒妁で妻を迎えたのであった。 私の禁酒を不思議がっていた連中は、そこでやっと訳がわかったような顔をして、盛んに私を冷かしたものであった。けれども私は依然としてニヤニヤのまま押し通した。そうして福岡から二里半ばかり東北の香椎村に、二人切りの新世帯を作って、そこから汽車で福岡へ通勤することにしたが、しかし私は、その新妻から尋ねられた時にも、やはりニヤニヤと笑った切り「酒が飲めなくなったわけ」を説明しないで済ましたのであった……パラソルの女を見殺しにしたお蔭で、お前と結婚した……という結論になるのが、何となくイヤでたまらなかったので……。 ところがそれから一年足らず経過した、翌年の五月十日の或る曇った朝のこと……九州本線の下り列車は、いつもの通り風光明媚な香椎潟を横断して、多々羅川の鉄橋を越えて、前の事件の背景になった、地蔵松原の入口で大曲りをすると、一直線に筥崎駅まで、ステキに気持ちのいいスピードをかけるのであったが、その線路の南側に展開する麦畑や、菜種畑のモザイクを、松原越しに眺めるともなく眺めて行くうちに、フト妙なものが私の眼に止まった。 松原の中に一町四方ばかりの墓原がある。その南の端の、すこし離れた処に在る、小さな白木の墓標の前に、赤と、青と、黒と、大小三匹の鯉を繋いだ、低い幟棹が立っている……と思ううちにその光景は、松の幹の重り合った蔭になってしまった。 ……この頃死んだ男の子の墓だな……と思うと、私は何とも云えないイヤナ気持ちになった。ジッと眼を閉じると間もなく、薄暗く、ダラリと垂れた鯉幟の姿が、又もアリアリと瞼の内側に現われたので、思わず頭を強く振った。
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