もっともそういうこっちもお上に鑑札を願っている専門医じゃないのだから、診察料や薬礼は一切取らない。その代りに万一助からなくたって責任は無い。殺すつもりで生かしたり、生かすつもりで殺したりする事も珍らしくないんだが、毛頭怨まれる筋はないんだから呑気な商売だ。ともかくも会ってやって、ともかくも病状を聞いてやる。金が有れば払ってやる。面識がある奴には紹介してやる。信用があれば小切手でも何でも書いてやる。それでも方法の附かない難物は、考えておいてやるから明日来いと云って一先ず追っ払っておく。むろん明日来たって明後日来たって成算の立ちっこない難物ばかりだが、アトは野となれ山となれだ。その日一日を送りさえすればいいのだから、他人の迷惑になろうが、後になって大事件になることが、わかり切っていようが構わない。盲目滅法に押しまくってその日一日を暮らす。それから妻子や書生の御機嫌取りだが、これも生きている利子と思えば何でもない。好きな小説本か何か読んで何も考えずに寝てしまう。 サテ翌る朝になったと見えて雀の声がする。パッチリと眼を開くとサア今日こそは大変な日だぞ。昨日の尻は勿論の事、一昨日、再昨日……昨年、一昨年の尻が一時に固まって来る日だぞと覚悟して待っているとサア来るわ来るわ。あらん限りのヨタや出鱈目を並べたり、恩人を裏切ったり、正直者を欺したりした方法でもって押し送って来た過去の罪業が、一時に鬨の声をあげて押しかけて来る。貴様が教えた通りに喋ったら議会の空気が悪化して解散になりそうになった。万一解散になったら俺は一文も運動費が無いとあれほど云っておいたではないか、という代議士や、貴方のお世話で娘を嫁に遣ったら相手は梅毒の第三期だったと大声をあげて泣く母親や、先生から貰った小切手は銀行で支払いませんというのや、貴方の紹介状に限って大臣は会わないと云います。其日庵の紹介には懲り懲りだという話です。お蔭で会社が潰れて二百名の職工が路頭に迷いますというのや、貴方の乾分の弁護士の御蔭で三年の懲役が五年になりました。そのお礼を申上げに来ましたという紋々倶利迦羅なんどが、眼の色を変えて三等急行の改札口みたいに押かけて来る。地獄に俺みたいな仏様が居るか居ないか知らないが、居るとしたら読むお経は一行も無いね。空気が在るから仕方なしに生きている。生きているから腹が減るのは止むを得ないという連中ばかりが、元来持って行き処のない尻を俺の処へ持って来るんだ。まあまあ待ったり、君等は自分の用事さえ済めば、アトは俺が死んでも構わない了簡だろう。自分の尻を他人に拭いてもらう奴を小児といい、自分の垂れ物を自分で片付ける奴を大人という。君は元来大人なのか小供なのか。前をまくって見せろ……とか何とか云って追っ払ってしまうが、その手の利かない奴は、仕方がないから前に倍した手酷い手段で押し片付けて行く。明日の事は考えない。きょうさえ片付けばいいという方針だから、何を持って来たって驚かないんだ。 尤もこの頃は年を老ったせいか、人に会うのと、字を書くのが大儀になった。心臓にコタエて息が切れたり脈が結滞したりするから、面会と字書きを御免蒙っている。一方から云うと、そんな自分の尻を持て余しているような連中の尻をイクラ拭いてやったって相手は当り前だと心得ている。俺に尻を拭いてもらうのを楽しみにイクラでも不始末を仕出かす事になる。結局、そんな世話を続行するのは日本亡国の原因を作るようなものだとつくづくこの頃思い当ったせいでもあるんだがね」
こうして縷述して来ると彼の法螺の底力は殆んど底止するところを知らない。 「自ら王将を以て任ずる奴は天下に掃き棄てる程居る。金将たり、銀将たり、飛車角、桂香を以て自ら任じつつ飯喰い種にして行く者が滔々として皆然りであるが、その飯喰い種を皆棄てて、将棋盤の外にいて将棋を指している奴は、なかなか居るものでない。だから世間の事が行き詰まるんだ。あぶなくて見ていられなくなるんだ」 という、頭山満以上の超凡超聖的彼自身の自負的心境を、そっくりそのまま認めてやらなければならなくなって来るのであるが、彼とても人間である。時と場合によっては平凡人以下の血もあり涙もあるばかりでない。彼の手に合わない人物も多少は出現して来るのだから面白い。 頭山満曰く、 「杉山みたような頭の人間が又と二人居るものでない。彼奴は玄洋社と別行動を執って来た人間じゃが、この間久し振りに合うた時には俺の事を頭山先生と云いおった。ところがその次に会うた時は『頭山さん』とさん付けにして一段格を落しおったから、感心して見ていると、三度目に会うた時は頭山君と云うて又一段調子を下げおった。今に俺を呼び棄ての小僧扱いにしおるじゃろうと思うて楽しみにして待っとる」 これは杉山法螺丸の一番痛いところに軽く触れた言葉で、実に評し得て妙と云うよりほかはない。 又或る時、杉山法螺丸が何かのお礼の意味か何かで、頭山満に千円以上もする銘刀を一口贈った事がある。無論、飛切り上等の拵附きで、刀剣道楽の大立物其日庵主が大自慢のシロモノであったが、その後、法螺丸が頭山満を訪問して、 「どうだ。あの刀は気に入ったか」 と云うと頭山満ニッコリして曰く、 「うむ。あれはええ刀じゃった。質屋に持って行ったら三十円貸したぞ。又あったら持って来てくれい」 其日庵主もこれには少々驚いたらしい。帰って来て曰く、 「モウ頭山に物は遣らぬ。あいつの伜に遣った方がええ」
法螺丸には男の児が一人しか居ない。これが親仁とは大違いの不肖の子で、 「俺みたいな人間になる事はならぬぞ」 という訓戒を文字通りに固く守って、托鉢坊主になったり、謡曲の師匠になったり又は三文文士になったりして文字通りに路頭に迷いそうなので、親仁も呆れて、感心な奴だと賞めながら月給を支給している。 「俺の伜は実に呆れた奴だ。小説を出版してくれと云うから読んでやると、最初の一二行読むうちに、何の事やらわからなくなる。屁のような事ばかりを一生懸命に書き立てているのでウンザリしてしまう。たまたま俺にわかりそうな処を読んでみるとツイこの間、ヒドク叱り付けてやった俺の云い草をチャント記憶ていやがって、そっくりその通りを小説の中味に採用していやがるのには呆れ返った。娘を売って喰う親は居るが、親を売って喰う伜が居るもんじゃない。一生涯あの伜だけは叱らない事にきめた」 因に、その伜の筆名は夢野久作という。親父の法螺丸が山のように借銭を残して死んでやろうと思っているとは夢にも知らずに、九州の香椎の山奥で、妻子五人を抱えて天然を楽しんでいる。焼野の雉子、夜の鶴。この愚息なぞも法螺丸にとっては、頭山満と肩を並べる程度の苦手かも知れない。 [#改ページ]
奈良原到
(上)
前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、両氏の親友で両氏以上の快人であった故奈良原到翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖も、同翁の生涯を誹謗し、侮蔑する人々が尠くないのは、更に更に情ない事実である。 奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死した志士である。つまり戦国時代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態に書かれる。劣敗者の死屍は土足にかけられ、唾せられても致方がないように考えられているようであるが、しかし斯様な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。 これは筆者が故奈良原翁と特別に懇意であったから云うのではない。又は筆者の偏屈から云うのでもない。 志士としては成功、不成功なぞは徹頭徹尾問題にしていなかった翁の、徹底的に清廉、明快であった生涯に対して、今すこし幅広い寛容と、今すこし人間味の深い同情心とを以て、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。 その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、磅している凄愴の気魄はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧の仮面に似た黄褐色の怒髭、乱髯。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮みに縮み上ったであろう。況んやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍そのもののような巨躯に、一刀を提げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたッ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。 事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵でも正義に背く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼で打たれてしまうのであった。 この奈良原翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。 実際……筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾て一度もないのである。 そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。翁にしてもし、元亀天正の昔に生を稟けていたならば、たしかに天下を聳動していたであろう。如何なる権威にも屈せず、如何なる勢力をも眼中に措かない英傑児の名を、青史に垂れていたであろう。 こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。
明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑という処に、高場乱子女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。彼の忍辱慈悲の法衣の袖に高杉晋作や、西郷隆盛の頭を撫で慈しんだ野村望東尼とは事変り、この婆さん、女の癖に元陽と名乗り、男髪の総髪に結び、馬乗袴に人斬庖刀を横たえて馬に乗り、生命知らずの門下を従えて福岡市内を横行したというのだから、デートリッヒやターキーが辷ったの、女学生のキミ・ボクが転んだの候といったって断然ダンチの時代遅れである。時は血腥い維新時代である。おまけに皺苦茶の婆さんだからたまらない。 わが奈良原到少年はその腕白盛りをこの尖端婆さんの鞭撻下にヒレ伏して暮した。そのほか当時の福岡でも持て余され気味の豪傑青少年は皆この人参畑に預けられて、このシュル・モダン婆さんの時世に対する炬の如き観察眼と、その達人的な威光の前にタタキ伏せられたものだという。 その当時の記憶を奈良原到翁に語らしめよ。 「人参畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは皆、順繰りに掃除や、飯爨や、買物のお使いに遣られた。しかし自分はまだ子供で飯が爨けんじゃったけにイツモ走り使いに逐いまわされたものじゃったが、その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。 自分の同門に松浦愚という少年が居った。こいつは学問は一向出来ん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。この松浦愚と自分は大の仲好しで、二人で醤油買いに行くのに、わざと二本の太い荒縄で樽を釣下げて、その二本の縄の端を左右に長々と二人で引っぱって樽をブランブランさせながら往来一パイになって行くと往来の町人でも肥料車でも皆、恐ろしがって片わきに小さくなって行く。なかなか面白いので二人とも醤油買いを一つの楽しみにしていた。 或る時、その醤油買いの帰りに博多の櫛田神社の前を通ると、社内に一パイ人だかりがしている。何事かと思って覗いてみると勿体らしい衣冠束帯をした櫛田神社の宮司が、拝殿の上に立って長い髯を撫でながら演説をしている。その頃は演説というと、芝居や見世物よりも珍しがって、演説の出来る人間を非常に尊敬しておった時代じゃけに、早速二人とも見物を押しかけて一番前に出て傾聴した。ところがその髯神主の演説に曰く、 『……諸君……王政維新以来、敬神の思想が地を払って来たことは実にこの通りである。真に慨嘆に堪えない現状と云わなければならぬ。……諸君……牢記して忘るる勿れ。神様というものは常に吾が○○以上に尊敬せねばならぬものである。その実例は日本外史を繙いてみれば直ぐにわかる事である。遠く元弘三年の昔、九州随一の勤王家菊池武時は、逆臣北条探題、少弐大友等三千の大軍を一戦に蹴散らかさんと、手勢百五十騎を提げて、この櫛田神社の社前を横切った。ところがこの戦いは菊池軍に不利であることを示し給う神慮のために、武時の乗馬が鳥居の前で俄かに四足を突張って後退し始めた。すると焦燥りに焦燥っている菊池武時は憤然として馬上のまま弓に鏑矢を番えた。 「この神様は牛か馬か。皇室のために決戦に行く俺の心がわからんのか。
武士のうわ矢のかぶら一すぢに 思ひ切るとは神は知らずや」
と吟ずるや否や神殿の扉に発矢とばかり二本の矢を射かけた。トタンに馬が馳け出したのでそのまま戦場に向ったが、もしこの時に武時が馬から降りて、神前に幸運を祈ったならば、彼は戦いに勝ったであろうものを、斯様な無礼を働らいて神慮を無視したために勤王の義兵でありながら一敗地に塗れた……』 衣冠束帯の神主が得意然とここまで喋舌って来た時に、自分と松浦愚の二人はドッチが先か忘れたが神殿に躍り上っていた。アッと云う間もなく二人で髭神主を殴り倒おし蹴倒おす。松浦が片手に提げていた醤油樽で、神主の脳天を食らわせたので、可愛そうに髭神主が醤油の海の中にウームと伸びてしまった。……この賽銭乞食の奴、神様の広告のために途方もない事を吐かす。皇室あっての神様ではないか。そういう貴様が神威を涜し、国体を誤る国賊ではないか……というたような気持であったと思うが、二人ともまだ十四か五ぐらいの腕白盛りで、そのような気の利いた事を云い切らんじゃった。ただ、 『この畜生。罰を当てるなら当ててみよ』 と破れた醤油樽を御神殿に投込んで人参畑へ帰って来たが、帰ってからこの話をすると、それは賞められたものじゃったぞ。大将の婆さんが涙を流して『ようしなさった。感心感心』と二人の手を押戴いて見せるので、塾の連中が皆、金鵄勲章でも貰うたように俺達の手柄を羨ましがったものじゃったぞ。ハハハハハ」
人参畑の婆さんがいつまで存命して御座ったか一寸調査しかねているが、とにもかくにも、こうした人参畑の豪傑青少年連は、その後健児社という結社を組織して、天下の形勢を睥睨する事になった。これが後の玄洋社の前身であったが、天下の形勢を憂慮する余り、近所界隈の畑や鶏舎を荒し、犬猫の影を絶ち、営所の堀の蟇を捕って来て、臓腑を往来に撒布するなぞ、乱暴狼藉到らざるなく、健児社の連中といえば、大人でも首を縮める程の無敵な勢力を持っていたものであった。 その中でも乱暴者の急先鋒は我が奈良原少年で、仲間から黒旋風李逵の綽名を頂戴していた。奈良原到が飯爨当番に当ると、塾の連中が長幼を問わず揃って早起をした……というのは、飯の準備が出来上るまで寝床に潜っていると、到少年がブスブス燃えている薪を掴んで来て、寝ている奴の懐中に突込むからであった。しかもその燃えさしを懐中に突込まれたまま、燃えてしまうまで黙って奈良原少年の顔をマジリマジリと見ていたのが塾の中にタッタ一人頭山満少年であった。そうして奈良原少年が消えた薪を引くと同時に起上って奈良原少年を取って伏せて謝罪らせたので、それ以来二人は無二の親友になったものだという。 ちょうどその頃が西南戦争の直前であった。維新後に於ける物情の最も騒然たる時代であった。
既掲、頭山、杉山の項にも述べた通り、筑前藩の志士は維新の鴻業後、筑前閥を作る事が出来なかった。従って不平士族の数は他地方に優るとも劣らなかった筈である。 そんな連中は有為果敢の材を抱きながら官途に就く事が出来ず鬱勃たる壮志を抱いたまま明治政府を掌握している薩長土肥の横暴振り、名利の争奪振りを横目に睨んでいた。尊王攘夷を標榜して徳川を倒しておきながら、サテ政権を握ると同時に攘夷どころか、国体どころか、一も西洋二も西洋と夷敵紅毛人の前にペコペコして洋服を着、洋食を喰って、アラン限りブルジョア根性を発揮し、屈辱的条約をドシドシ結びながら、恬然として徳川十五代将軍と肩を並べている大官連の厚顔無恥振りに眥を決していた。そのうちに福岡にも鎮台が設けられて、町人百姓に洋服を着せた兵隊が雲集し、チャルメラじみた喇叭を鳴らして干鰯の行列じみた調練が始まった。 その頃、士族の下ッ端連の成れの果は皆、警官(邏卒、部長、警部等)に採用されていたものであったが、この羅卒(今の巡査)連中が皆鎮台兵と反りが合わなかった。……俺達のような腹からの士族と同じように、町人百姓が戦争の役に立つものか……といったような一種の階級意識から、犬と猿のように仲が悪く、毎日毎日福岡市内の到る処で、鎮台兵と衝突していたものであるが、しかも、そうした不平士族の連中の中には西郷隆盛の征韓論の成立を一日千秋の思いで仰望していたものが少くなかった。祖先伝来の一党を提げて西郷さんのお伴をして、この不愉快な日本を離れて士族の王国を作りに行かねばならぬ。武士の生涯は武を以て一貫せねばならぬ。町人や百姓と伍して食物を漁り合わねばならぬ、犬猫同然の国民平等の世界に、一日でも我慢が出来るか……とか何とか云って鼻の頭をコスリ上げている。 そこへ征韓論が破れて、西郷さんが帰国したというのだから一大事である。
その頃、筑前志士の先輩に、越智彦四郎、武部小四郎、今村百八郎、宮崎車之助、武井忍助なぞいう血気盛んな諸豪傑が居た。そんな連中と健児社の箱田六輔氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下十四五を頭くらいの少年連が十六名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぽいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原到少年が、突如として動議を提出した。 「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタタキ潰せば良えのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時に武器を執って集まって来ましょう」 席上諸先輩の注視が期せずして奈良原少年に集まった。少年は臆面もなく云った。 「私どもはイツモお城の石垣を登って御本丸の椋の実を喰いに行きますので、あの中の案内なら、親の家よりも良う知っております。私どもにランプの石油を一カンと火薬を下さい。私ども十六人が、皆、頭から石油を浴びて、左右の袂に火薬を入れたまま石垣を登って番兵の眼を掠め、兵営や火薬庫に忍込みます。そうして蘭法附木で袂に火を放って走りまわりましたならば、そこここから火事になりましょう。火薬庫も破裂しましょう。その時に上の橋と下の橋から斬り込んでおいでになったならば、土百姓や町人の兵隊共は一たまりもありますまい」 これを聞いた少年連は皆、手を拍って奈良原の意見に賛成した。口々に、 「遣って下さい遣って下さい」 と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諫止した。 「その志は忝ないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公達が、吾々の後跟を継いでこの皇国廓清の任に当らねばならぬ。また万一吾々が成功して天下を執る段になっても、吾々が今の薩長土肥のような醜い政権利権の奴隷になるかならぬかという事は、ほかならぬ貴公達に監視してもらわねばならぬ。間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」 今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいのが本望であったらしいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から逐退けられて終った。
かくして武部小四郎の乱、宮崎車之助の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗れた原因は、皆奈良原少年の失策に起因していた。奈良原少年一流の急進的な激語が破鐘のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良原の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎に奈良原少年を敬遠したというのだから痛快である。しかも前記の乱の鎮定後明治政府に対して功績を挙ぐるに汲々たる県当局では、残酷にも健児社に居残っている少年連を悉く引捉えて投獄した。一味徒党の名前を云えというので、年端も行かぬ連中に、夜となく昼となく極烈な拷問をかけたというのだから、呆れた位では追付かない話である。 その当時の事を後年の奈良原翁は筆者に追懐して聞かせた。 「現在(大正三年頃)玄洋社長をやっとる進藤喜平太は、その当時まあだ紅顔の美少年で、女のように静かな、温柔しい男じゃったが、イザとなるとコレ位、底強い、頼もしい男はなかった。熊本県の壮士と玄洋社の壮士とが博多東中洲の青柳の二階で懇親会を開いた時に、熊本の壮士の首領で某という名高い強い男が、頭山の前に腰を卸して無理酒を強いようとした。頭山は一滴もイカンので黙って頭を左右に振るばかりであったが、そこを附け込んだ首領の某がなおも、無理に杯を押付ける。双方の壮士が互い違いに坐っているので互いに肩臂を張って睨み合ったまま、誰も腰を上げ得ずにいる時に、進藤がツカツカと立上って、その首領某の襟首を背後から引掴むと、杯盤の並んだ上を一気に梯子段の処まで引摺って来て、向う向きに突き落した。そのあとを見返りもせずにニコニコと笑いながら引返して来て『サア皆。飲み直そう』と云うた時には大分青くなっておった奴が居たようであったが、その進藤と、頭山満と自分と三人は並んで県庁の裏の獄舎で木馬責めにかけられた。背中の三角になった木馬に跨らせられて腰に荒縄を結び、その荒縄に一つ宛、漬物石を結び付けてダンダン数を殖やすのであったが、頭山も進藤も実に強かった。石の数を一つでも余計にブラ下げるのが競争のようになって、あらん限り強情を張ったものであった。三人とも腰から下は血のズボンを穿いたようになっているのを頭山は珍らしそうにキョロキョロ見まわしている。進藤も石が一つ殖える度毎に嬉しそうに眼を細くしてニコニコして見せるので、意地にも顔を歪める訳に行かん。どうかした拍子に進藤に向って『コラッ。貴様の面が歪んどるぞ』と冷やかしてやると進藤の奴、天井を仰いで『アハアハアハアハ』と高笑いしおったが、後から考えるとソウいう自分の方が弱かったのかも知れんて、ハハハ。とにかく頭山は勿論、進藤という奴もドレ位強い奴かわからんと思うた。役人どもも呆れておったらしい。 それから今一つ感心な事がある。 獄舎にいる間には副食物に時々魚類が付く。……というても飯の上に鰯の煮たのが並んでいる位の事じゃったが、そのたんびに頭山は箸の先で上の方の飯を、その鰯と一所に払い除けて、鼻に押当てて嗅いでみる。そうしてイヨイヨ腥くないとこまで来てから喰う。尋常に喰うても足らぬ処へ、平生大飯喰いの頭山が妙な事をすると思うて理由を聞いてみると、きょうは死んだ母親何とかの日に当るけに精進をしよるというのじゃ。それを聞いてから自分はイツモ飯となると頭山の横に座ったものじゃがのう。ハハハ」 進藤喜平太翁も、その時分の事を筆者に述懐した事がある。 「拷問ちうたて、痛いだけの事で何でもなかったが、酒が飲めんのには降参した。飲みとうて飲みとうてならぬところへ、ちょうど虎烈剌が流行ってなあ。獄卒がこれを消毒のために雪隠に撒れと云うて酢を呉れたけに、それを我慢して飲んだものじゃ。むろん米の酢じゃけに飲むとどことなくポーッと酔うたような気持になるのでなあ……まことに面目ない、浅ましい話じゃったが、奈良原が、あの面付きでシカメて酢を飲みよるところはナカナカ奇観じゃったよ。奈良原は酒を飲むといつも酔狂をしおったが、酢では酔興が出来んので残念じゃと云うておった」 同じ健児社の同志で運よく年少のために捕えられなかった宮川太一郎(今の政友代議士、宮川一貫氏の父君)氏が、同志に与うべく牛肉の煮たのを獄舎に持って行き、門衛の看守に拒まれたので鉄門の間に足を突込んで、死を決して駄々を捏ね始め、終日看守を手古摺らせた揚句、やっと目的を達すると、その翌日からドシドシ肉を運び始めて大いに当局を弱らせたのもこの時の事であったという。 そのうちに西南の戦雲が、愈濃厚になって来たので、県当局でも万一を慮ったのであろう、頭山、奈良原を初め、健児社の一味を尽く兵営の中の営倉に送り込むべく獄舎から鎖に繋いで引出した。その時は健児社の健児一同、当然斬られるものと覚悟したらしく、互いに顔を見合わせてニッコリ笑ったという事であるが、同じ時に奈良原少年と同じ鎖に繋がれる仲よしの松浦愚少年が、護送の途中でこんな事を云い出した。 「オイ。奈良原。今度こそ斬られるぞ」 「ウン。斬るつもりらしいのう」 「武士というものは死ぬる時に辞世チュウものを詠みはせんか」 「ウン。詠んだ方が立派じゃろう。のみならず同志の励みになるものじゃそうな」 「貴公は皆の中で一番学問が出来とるけに、嘸いくつも詠む事じゃろうのう」 「ウム。今その辞世を作りよるところじゃが」 「俺にも一つ作ってくれんか。親友の好誼に一つ頒けてくれい。何も詠まんで死ぬと体裁が悪いけになあ。貴公が作ってくれた辞世なら意味はわからんでも信用出来るけになあ。一つ上等のヤツを頒けてくれい。是非頼むぞ」 流石の豪傑、奈良原少年も、この時には松浦少年の無学さが可哀そうなような可笑しいようで、胸が一パイになって、暫くの間返事が出来なかったという。
一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網を潜って逃れた。香椎なぞでは泊っている宿へイキナリ踏込まれたので、すぐに脇差を取って懐中に突込み、裏口に在った笊を拾って海岸に出て、汐干狩の連中に紛れ込むなぞという際どい落付を見せて、とうとう大分まで逃げ延びた。ここまで来れば大丈夫。モウ一足で目指す薩摩の国境という処まで来ていたが、そこで思いもかけぬ福岡の健児社の少年連が無法にも投獄拷問されているという事実を風聞すると天を仰いで浩嘆した。万事休すというので直に踵を返した。幾重にも張廻わしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて震駭したという。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一人も謀議に参与していない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。 健児社の連中は、広い営庭の遥か向うの獄舎に武部先生が繋がれている事をどこからともなく聞き知った。多分獄吏の中の誰かが、健気な少年連の態度に心を動かして同情していたのであろう。武部先生が、わざわざ大分から引返して来て、縛に就かれた前後の事情を聞き伝えると同時に「事敗れて後に天下の成行を監視する責任は、お前達少年の双肩に在るのだぞ」と訓戒された、その精神を実現せしむべく武部先生が、死を決して自分達を救いに御座ったものである事を皆、無言の裡に察知したのであった。 その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年連は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしゃる……俺達はお蔭で助かる……という事実がハッキリとわかると、流石に眠る者が一人もなくなった。毎日毎晩、今か今かとその時機を待っているうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向うの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人声がし始めたので、素破こそと皆蹶起して正座し、その方向に向って両手を支えた。メソメソと泣出した少年も居た。 そのうちに四五人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇まって四方を見まわした。少年連のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。 「行くぞオォ――オオオ――」 健児社の健児十六名。思わず獄舎の床に平伏して顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。 「あれが先生の声の聞き納めじゃったが、今でも骨の髄まで泌み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分の臓腑の腐り止めになっている。貧乏というものは辛労いもので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」 と云ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと滾れ落ちるのを筆者は見た。 奈良原到少年の腸は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。
(下)
月明の霜朝に、自分等に代って断頭場に向った大先輩、武部小四郎先生の壮烈を極めた大音声、 「行くぞオーオ」 を聞いて以来、奈良原到少年の腸は死ぬが死ぬまで腐らなかった。 その後、天下の国士を以て任ずる玄洋社の連中は、普通の人民と同様に衣食のために駈廻らず、同時に五斗米に膝を屈しないために、自給自足の生活をすべく、豪傑知事安場保和から福岡市の対岸に方る向い浜(今の西戸崎附近)の松原の官林を貰って薪を作り、福岡地方に売却し始めた。奈良原到少年もむろん一行に参加して薪採りの事業に参加して粉骨砕身していたが、その後、安場知事の人格を色々考えてみると、どうも玄洋社を尊敬していないようである。却って生活の糧を与えて慰撫しているつもりらしく見えたので、或夜、奈良原到はコッソリと起上って誰にも告げずに山のように積んである薪の束の間に、枯松葉を突込んで火を放ち、悉く焼棄してしまった。つまり天下の政治を云為する結社が区々たる知事風情の恩義を蒙るなぞいう事は面白くないという気持であったらしいが、対岸の福岡市では時ならぬ海上の炬火を望んで相当騒いだらしい。馳付けた同志の連中も、手を拍って快哉を叫んでいる奈良原少年の真赤な顔を見て唖然となった。一人として火を消し得る者が無かったという。 こうした奈良原少年の精神こそ、玄洋社精神の精髄で、黒田武士の所謂、葉隠れ魂のあらわれでなければならぬ。玄洋社の連中は何をするかわからぬという恐怖観念が、明治、大正、昭和の政界、時局を通じて暗々の裡に人心を威圧しているのもこの辺に端を発してるのではなかろうか。
そのうちに四国の土佐で、板垣退助という男が、自由民権という事を叫び出して、なかなか盛んにやりおるらしい。明治政府でもこれを重大視しているらしい……という風評が玄洋社に伝わった。 その当時の玄洋社員は筆者の覚束ない又聞きの記憶によると頭山満が大将株で奈良原到、進藤喜平太、大原義剛、月成勲、宮川太一郎なぞいう多士済々たるものがあったが、この風聞に就いて種々凝議した結果、とにも角にも頭山と奈良原に行って様子を見てもらおうではないかという事になった。 その当時の評議の内容を伝え聞いていた福岡の故老は語る。 「大体、玄洋社というものは、土佐の板垣が議論の合う者同志で作っておった愛国社なんぞと違うて、主義も主張も何もない。今の世の中のように玄洋社精神なぞいうものを仰々しく宣言する必要もない。ただ何となしに気が合うて、死生を共にしようというだけでそこに生命知らずの連中が、黙って集まり合うたというだけで、そこに燃え熾っている火のような精神は文句にも云えず、筆にも書けない。否文句以上、筆以上の壮観で、烈々宇内を焼きつくす概があった。頭山が遣るというなら俺も遣ろう。奈良原が死ぬというなら俺も死のう。要らぬ生命ならイクラでも在る。貴様も来い。お前も来い。……という純粋な精神的の共産主義者の一団とも形容すべきものであった。それじゃけに、愛国社の連中は一度、時を得て議論が違うて来ると、外国の社会主義者連中と同じこと直ぐに離れ離れになる。もっとも今の政党は主義主張が合うても利害が違うと仲間割れするので、今一段下等なワケじゃが、玄洋社となると理窟なしに集まっとるのじゃけに日本の国体と同じことじゃ。利害得失、主義主張なぞがイクラ違うても、お互いに相許しとる気持は一つじゃけに議論しながら決して離れん。玄洋社は潰れても玄洋社精神は今日まで生きておって、国家のために益々壮んに活躍しおるのじゃ。そげなワケじゃけに、その当時の玄洋社で一口に自由民権と聞いても理窟のわかる奴は一人も居らんじゃった。それじゃけに、ともかくもこの二人に板垣の演説を聞いてもろうて、国のためにならぬと思うたならば二人で板垣をタタキ潰してもらおう。もし又、万一、二人が国のためになると思うたならば玄洋社が総出で板垣に加勢してやろう。ナアニ二人が行けば大丈夫。口先ばっかりの土佐ッポオをタタキ潰して帰って来る位、何でもないじゃろう」 といったような極めて荒っぽい決議で、旅費を工面して二人を旅立たせた……というのであるが何が扨、無双の無頓着主義の頭山満と人を殺すことを屁とも思わぬ無敵の乱暴者、奈良原到という、代表的な玄洋社式がつながって旅行するのだから、途中は弥次喜多どころでない。天魔鬼神も倒退三千里に及ぶ奇談を到る処に捲起して行ったらしい。 当時の事を尋ねても頭山満翁も奈良原翁もただ苦笑するのみであまり多くを語らなかったが、それでも辛うじて洩れ聞いた、差支えない部類に属するらしい話だけでも、ナカナカ凡俗の想像を超越しているのが多い。 二人とも或る意味での無学文盲で、日本の地理なぞ無論、知らない。四国がドッチの方角に在るかハッキリ知らないまんまに、それでも人に頭を下げて尋ねる事が二人とも嫌いなまんまに不思議と四国に渡って来たような事だったので、途中で無茶苦茶に道に迷ったのは当然の結果であった。 「オイオイ百姓。高知という処はドッチの方角に当るのか」 「コッチの方角やなモシ」 「ウン。そうか」 と云うなりグングンその方角に行く。野でも山でも構わない式だからたまらない。玄洋社代表は迷わなくても道の方が迷ってしまう。その中に或る深山の谷間を通ったら福岡地方で珍重する忍草が、左右の崖に夥しく密生しているのを発見したので、奈良原到が先ず足を止めた。 「オイ。頭山。忍草が在るぞ。採って行こう」 「ウム。オヤジが喜ぶじゃろう」 というので道を迷っているのも忘れて盛んにり始めたが、その中に日が暮れて来たので気が付いてみると、荷車が一台や二台では運び切れぬ位、採り溜めていた。 「オイ。頭山。これはトテモ持って行けんぞ」 「ウム。チッと多過ぎるのう、帰りに持って行こう」 それから又行くと今度は山道七里ばかりの間人家が一軒も無い処へ来たので、流石の玄洋社代表も腹が減って大いに弱った。ところへ思いがけなく向うから笊を前後に荷いだ卵売りに出会ったので呼止めて、二人で卵を買って啜り始めたが、卵というものはイクラ空腹でも左程沢山に啜れるものでない。十個ばかり啜る中に、二人とも硫黄臭いゲップを出すようになると、卵売りは大いに儲けるつもりで、道傍の枯松葉を集めて焼卵を作り、二人にすすめたので又食慾を新にした二人は、したたかに喰べた。 ところでそこまでは先ず好都合であったがアトが散々であった。そこからまだ半道も行かぬ中に二人は忽ち鶏卵中毒を起し、猛烈な腹痛と共に代る代る道傍に跼み始めたので、道が一向に捗らない。併し強情我慢の名を惜しむ二人はここでヘタバッてなるものかと歯を噛みしめて、互いに先陣を争って行くうちに、やっと人家近い処へ来たので二人とも通りかかった小川で尻を洗い、宿屋に着くには着いたが、あまりの息苦しさに、ボーオとなって腰をかけながら肩で呼吸をしているところへ宿屋の女中が、 「イラッシャイマセ。どうぞお二階へお上りなされませ」 と云った時には階子段を見上げてホッとタメ息を吐いたという。 それからその翌日の事。二人とも朝ッパラからヘトヘトに疲れていたので、宿屋からすすめられるままに馬に乗ったら、その馬を引いた馬士が、途中の宿場で居酒屋に這入った。するとその馬が一緒に居酒屋へ這入ろうとしたので乗っていた頭山が面喰らったらしい。慌てて居酒屋の軒先に掴まって両足で馬の胴を締め上げて入れまいと争ったが、とうとう馬の方が勝って頭山が軒先にブラ下った。その時の恰好の可笑しかったこと……と奈良原翁が筆者に語って大笑いした事がある。 そのうちに高知市に近付くと眼の前に大きな山が迫って来て高知市はその真向いの山向うに在る。道路はその山の根方をグルリとまわって行くのであるが、その山を越えて一直線に行けば三分の一ぐらいの道程に過ぎない……と聞いた二人の心に又しても曲る事を好まぬ黒田武士の葉隠れ魂……もしくは玄洋社魂みたいなものがムズムズして来た。期せずして二人とも一直線に山を登り始めたが、その山が又、案外嶮岨な絶壁だらけの山で、道なぞは無論無い。殆んど生命がけの冒険続きでヘトヘトになって向うへ降りたが、後から考えると、たとえ四里でも五里でも山の根方をまわった方が早かったように思った……という。やはり奈良原翁の笑い話であった。 そうした玄洋社代表が二人、そうした辛苦艱難を経てヤッと高知市に到着すると、板垣派から非常な歓迎を受けた。現下の時局に処する玄洋社一派の主義主張について色々な質問を受けたり議論を吹っかけられたりしたが、頭山満はもとより一言も口を利かないし、奈良原到も、今度はこっちから理窟を云いに来たのではない、諸君の理窟を聞きに来ただけじゃ……と睨み返して天晴れ玄洋社代表の貫禄を示したのでイヨイヨ尊敬を受けたらしい。 それから二代表は毎日毎日演説会場に出席して黙々として板垣一派の演説を静聴した。そうして何日目であったかの夕方になって二人が宿屋の便所か何かで出会うと、頭山満は静かに奈良原到をかえりみて微笑した。 「……どうや……」 「ウム。よさそうじゃのう。此奴どもの方針は……国体には触らんと思うがのう、今の藩閥政府の方が国体には害があると思うがのう」 「やってみるかのう……」 「ウム。遣るがよかろう」 と云って奈良原到は思わず腕を撫でたという。実は奈良原としてはブチコワシ仕事の方が望ましかった。土佐の板垣一派の仕事を木葉微塵にして帰るべく腕に撚をかけて来たものであったが、それでは持って生れた彼一流の正義観が承知しなかった。 「演説はともかく、板垣という男の至誠には動かされたよ、この男の云う事なら間違うてもよい。加勢してやろうという気になった」 と後年の奈良原到翁は述懐した。 玄洋社が板垣の民権論に加勢するに決した事がわかると当時の藩閥政府はイヨイヨ震駭した。玄洋社と愛国社に向って現今の共産党以上の苛烈な圧迫を加えたものであったが、これに対して愛国社が言論に、玄洋社が腕力に堂々と相並んで如何に眼醒しい反抗を試みたかは天下周知の事実だからここには喋々しない事にする。 「結局。自由民権のあらわれである自治政治と議会政治は、板垣の赤誠を裏切って日本を腐敗堕落させた。日本人は自治権を持つ資格のない程に下等な民族であることを現実の通りに暴露したに過ぎなかったが、これに反して板垣の人格はイヨイヨ光って来るばかりである。昨日、久し振りに板垣と会うて来たが昔の通りに立派な男で、手を握り合うて喜んでくれた。耳が遠くなって困ると云いおったがワシが持って生れた破鐘声で話すと、よくわかるよくわかるとうなずいておった。今のような世の中になったのはつまるところ、自由民権議論もよくわからず、日本人の素質もよく考えないままに、板垣の人物ばっかりを信用しておった頭山とワシの罪じゃないかと思うとる」
ところでこの辺までは先ず奈良原到の得意の世界であった。 幸いにして議会が開設されるにはされたが、その当初は選挙といっても全然暴力選挙のダイナマイト・ドン時代で、選挙運動者は皆、水盃の生命がけであった。すこしばかりの左翼や右翼のテロが暴露しても満天下の新聞紙が青くなって震え出すような現代とは雲泥の差があったので、従って奈良原到一流のモノスゴイ睨みが到る処に、活躍の価値を発見したものであったが、それからのち、日本政界の腐敗堕落が甚しくなるに連れて、換言すれば天下が泰平になるに連れて、好漢、奈良原到も次第に不遇の地位に墜ちて来た。 しかもその不遇たるや尋常一様の不遇ではなかった。遂には玄洋社一派とさえ相容れなくなった位、極度に徹底した正義観念――もしくは病的に近い潔癖に禍された御蔭で、奈良原到翁は殆んど食うや喰わずの惨澹たる一生を終ったのであった。 それから後の奈良原到翁の経歴は世間の感情から非常に遠ざかっていたし、筆者も詳しくは聞いていないのであるが大略左のような簡単なものであったらしい。 明治二十年頃(?)福岡市須崎お台場に在る須崎監獄の典獄(刑務所長)となり、妻帯後間もなく解職し、爾後、数年閑居、日清戦役後、台湾の巡査となって生蕃討伐に従事した。それから内地へ帰来後、夫人を喪い、数人の子女を親戚故旧に托し、独、福岡市外千代町役場に出仕していたが、その後辞職して自分の娘の婚嫁先である北海道、札幌、橋本某氏の農園の番人となり、閑日月を送る事十三年、大正元年、桂内閣の時、頭山満、杉山茂丸の依嘱を受けて憲政擁護運動のため九州に下り、玄洋社の二階に起居し、後、大正六七年頃、対州の親戚某氏の処で病死した。享年七十……幾歳であったか、実は筆者も詳しく知らない。 その遺児の長男、奈良原牛之介というのが又、親の血を受けていたらしい。天下無敵の快男児で、乱暴者ばかり扱い狃れている内田良平、杉山茂丸も持て余した程の喧嘩の専門家であった。その乱暴者を、極めて温柔しい文学青年の筆者と同列に可愛がったのが筆者の母親で、痛快な、男らしい意味では筆者よりも数十層倍、深刻な印象を、負けん気な母親の頭にタタキ込んでいる筈であるが、この男の伝記は後日の機会まで廻避して、ここには前記、失意後の乱暴オヤジ、奈良原到翁の逸話を二三摘出してこの稿を結ぶ事にする。
奈良原翁は少年時代に高場乱子、武部小四郎等から受けた所謂、黒田武士の葉隠れ魂、悪く云えば馬鹿を通り越しても満足せぬ意地張根性がドン底まで強かった。気に入らない奴は片端からガミつける。処嫌わずタタキつける。評議の席などで酔っ払った奈良原到が、眼を据えて睨みまわすと、いい加減な調子のいい事を云っている有志連中は皆青くなって、座が白けてしまったという。そんな連中が奈良原の貧乏な事をよく知っていて、時世後れの廃物だとか、玄洋社の面よごしとか何とか、在る事無い事デマを飛ばして排斥したので、奈良原到は愈々不遇に陥ったものらしい。 しかし後年の奈良原到翁には、別にそんな連中を怨んだような語気はなかった。多分、新時代の有志とか、代議士とかいうものは一列一体に太平の世に湧いた蛆虫ぐらいにしか思っていなかったのであろう。一依旧様、権門に媚びず、時世に諛らず、喰えなければ喰えないままで、乞食以下の生活に甘んじ、喰う物が無くなっても人に頭を下げない。妻子を引連れて福岡の城外練兵場へ出て、タンポポの根なぞを掘って来て露命を繋いでいたというのだから驚く。御本人に聞いてみると、 「ナニ、タンポポの根というても別に喰い方というてはない。妻が塩で茹で、持って来よったようじゃが最初の中は香気が高くてナカナカ美味いものじゃよ。新牛蒡のようなものじゃ。しかし二三日も喰いよると子供等が飽いて、ほかのものを喰いたがるのには困ったよ。ハッハッハッ」 と笑っているところは恰で飢饉の実話以上……ここいらは首陽山に蕨を採った聖人の兄弟以上に買ってやらなければならぬと思う。別に周の世を悲しむといったような派手なメアテが在った訳ではなかったし、聖人でも何でもない。憐れな妻子が道伴れだったのだから尚更である。 その時代の事であったろうと思うが、筆者の母親の生家に不幸のあった時のこと、仏に旧交のあった奈良原到が、どこから借りて来たものか上下チグハグの紋服に袴を穿いて悔みに来た。 「ほんの心持だけ……」 と皆に挨拶をして香奠と書いた白紙の包みを仏前に供え恭しく礼拝して帰ったので皆顔を見合わせた。一体あの貧乏人がイクラ包んで来たのだろう……というので打寄って開いてみると中には何も這入っていなかった。正真正銘の白紙だけだったので皆抱腹絶倒した。 しかし心ある二三の人は涙を浮べて感心した。 「奈良原到は流石に黒田武士じゃ、普通の奴なら貧乏を恥じて、挨拶にも来ぬところじゃが……」
生存している老看守某の話によると、奈良原到の須崎典獄時代には、囚人の奈良原を恐るる事、想像の外であったという。ドンナに兇猛な囚人でも、奈良原典獄が佩剣を押えて、 「その縄を解け。こっちへ連れて来い」 と云って睨み付けると、今にも斬られそうな殺気に打たれたらしい。眼を白くして縮み上ったという。 或る夜のこと、死刑にする筈の四人の囚人が、破獄したという通知が来たので、奈良原典獄は直ぐに駈付けて手配をさせた。そうして自身は制服のままお台場の突角に立って海上を見渡していると、やや暫くしてから足下の石垣をゾロゾロ匐い登って来る者が居る。よく見ると、それがタッタ今破獄したばかりの四人の囚人たちで、海水にズブ濡れのまま到翁の足下にひれ伏して三拝九拝しているのであった。 後から取調べたところによると、その囚人はトテも兇暴、無残な連中で、看守をタタキ倒して破獄の後、お台場の下に浮かべてある夥しい材木の蔭に潜んで追捕の手を遣り過し、程近い潮場の下の釣船を奪って逃げるつもりであったが、その中に四人の中の一人が、 「……オイ……石垣の上に立って御座るのがドウヤラ典獄さんらしいぞ」 と云うと皆、恐ろしさに手足の力が抜けて浮いていられなくなった。歯の根がガチガチ鳴り出して、眼がポオとなってウッカリすると波に渫われそうになって来たので四人がだんだん近寄って来て……これはイカン。こんな事ではドウにもならんから、破獄を諦らめよう。一思いに奈良原さんの前に出て行って斬られた方がええ……という事に相談がきまると、不思議にも急に腰がシャンとなって、身内が温まって、勇気が出て来た。吾後れじと石垣を匐登って来た……という話であった。これなぞは囚人特有の一種の英雄崇拝主義の極端なあらわれの一つに相違ないので、奈良原到の異常な性格を端的に反映した好逸話でなければならぬ。 「その頃の囚人の気合は今と違うておったように思うなあ」 と嘗て奈良原翁は酒を飲み飲み筆者に述懐した。 「ワシは長巻直しの古刀を一本持っておった。二尺チョッと位と思われる長さのもので、典獄時代から洋剣に仕込んでおったが良う切れたなあ。腕でも太股でも手ごたえが変らん位で、首を切るとチャプリンと奇妙な音がして血がピューと噴水のように吹出しながらたおれる。ああ斬れた……と思う位で水も溜まらぬというが全くその通りであった。その癖刀身は非常に柔らかくて鉛か飴のような感がした。台湾の激戦の最中に生蕃の持っている棒なぞを斬ると帰って来てから鞘に納まらん事があったが、それでも一晩、床の間に釣り下げておくと翌る朝は自然と真直になっておった。生蕃征伐に行った時、大勢の生蕃を珠数つなぎに生捕って山又山を越えて連れて帰る途中で、面倒臭くなると斬ってしまう事が度々であった。あの時ぐらい首を斬った事はなかったが、ワシの刀は一度も研がないまま始終切味が変らんじゃった。 生蕃という奴は学者の話によると、日本人の先祖という事じゃが、ワシもつくづくそう思うたなあ。生蕃が先祖なら恥かしいドコロではない。日本人の先祖にしては勿体ない位、立派な奴どもじゃ。彼奴等は、戦争に負けた時が、死んだ時という覚悟を女子供の端くれまでもチャンと持っているので、生きたまま捕虜にされると何とのう不愉快な、理窟のわからんような面付きをしておった。彼奴等は白旗を揚げて降参するなどいう毛唐流の武士道を全く知らぬらしいので、息の根の止まるまで喰い付いて来よったのには閉口したよ。そいつを抵抗出来ぬように縛り上げて珠数つなぎにして帰ると、日本人は賢い。首にして持って帰るのが重たいためにこうするらしい。俺達は自分の首を運ぶ人夫に使われているのだ……と云うておったそうじゃが、これにはワシも赤面したのう。途中で山道の谷合いに望んだ処に来ると、ここで斬るのじゃないかという面付で、先に立っている奴が白い歯を剥き出して冷笑しいしい、チラリチラリとワシの顔を振り返りおったのには顔負けがしたよ。そんな奴はイクラ助けても帰順する奴じゃないけに、総督府の費用を節約するために、ワシの一存で片端から斬り棄る事にしておった。今の日本人の先祖にしてはチッと立派過ぎはせんかのうハッハッハッハッ」
日本に帰って千代町の役場に奉職している時は毎月五円の月給(巡査の月給二円五十銭、警部が三円時代)を貰っていたが、その殆んど全部が酒代になっていた事は云う迄もない。今は故人になった前の福岡市の名市長、佐藤平太郎氏は神戸署の一巡査の身で、外人の治外法権制度に憤慨し、神戸居留地域を離るる一間ばかりの処で、人力車夫に暴行して逃げて行く外人を斬って棄て、天下を騒がした豪傑であるが、氏は語る。 「巡査を罷めて故郷に帰り、久し振りに昔の面小手友達の奈良原を千代町の寓居に訪うてみると、落ちぶれたにも落ちぶれないにも四畳半といえば、四畳半、三方の壁の破れから先は天下の千畳敷に続いている。その秣を積んだような畳の中央に虱に埋まったまま悠々と一升徳利を傾けている奈良原を発見した時には、流石の僕も胸が詰ったよ。僕も相当、落ちぶれたおぼえはあるが、奈良原の落ちぶれようには負けた。アンマリ穢いので上りかねているのを無理に引っぱり上げた奈良原は大喜びだ。 『久し振りだ。丁度いいところだから一杯飲め。まずその肴を抓め』という。見ると禿げちょろけた椀の蓋に手前が川で掴んで来たらしい一寸ぐらいの小蝦が二匹乗っかっている。『遠慮なく喰え』という志は有難いが、それを肴に奈良原が一升の酒を飲むのかと思うと涙がこぼれた。一匹の小蝦が咽喉を通らないのを無理に冷酒で流し込んで『これが土産だ』と云ってその時の僕の全財産、二十銭を置いて来た」云々。 そうした貧乏のさなかに大変な事が起った。奈良原翁が病気になったのだ。 何だか酒が美味くない。飯が砂を噛むようで、頭がフラフラして死にそうな気がするので、千代町役場からその月の俸給を一円借りて近所の医者の処へ行った。一円出して診察を請うて薬を貰ったが、 「どうです。助かりますか」 と問うてみると若い医者が首をひねった。 「どうも非道い肺炎ですから、絶対に安静にして寝ておいでなさい。御親戚の方か何かに附添っておもらいなさい」 奈良原翁は、こうした言葉を「もう助からない」意味と取って非常に感謝した。 ……俺はイヨイヨ死ぬんだ。奈良原到がコレ以上に他人に迷惑をかけず、コレ以上に世道人心の腐敗堕落を見ないで死ぬるとは何たる幸福ぞ。よしよし。一つ大いに祝賀の意を表して、愉快に死んでやろう……。 奈良原翁は、その足で今一度役場に立寄って町長に面会した。 「オイ。町長。イヨイヨ俺も死ぬ時が来たぞ」 「ヘエッ。何か戦争でも始まりますか」 「アハハ。心配するな。今医者が俺を肺炎で死ぬと診断しおった。そこでこれは相談じゃが、香奠と思うて今月の俸給の残りの四円を貸してくれんか」 「ヘエヘエ。それはモウ……」 というので四円の金を握ると今度は酒屋へ行って、酒を一樽買って引栓を附けて例の四畳半へ届けさした。 その樽と相前後して帰宅した奈良原翁は、軒先の雨垂落の白い砂を掻集めて飯茶碗へ入れ、一本の線香を立て樽と並べて寝床の枕元に置いた。それから大きな汁椀に酒を引いて、夜具の中でガブリガブリやっているうちにステキないい心持になった。ハハア。こんな心持なら死ぬのも悪くないな……なぞと思い思い朝鮮征伐の夢か何かを見ている中に前後不覚になってしまった。 そのうちにチューチューという雀の声が聞えたので奈良原翁はフッと気が付いた。ハハア。極楽に来たな。極楽にも雀が居るかな……なぞと考えて又もウトウトしているうちに、今度は博多湾の方向に当ってボオ――ボオ――という蒸気船の笛が鳴ったので奈良原翁はムックリと起上って眼をこすった。見ると、誰が暴れたのかわからないが昨夜の大きな酒樽が引っくり返って、栓が抜けている横に、汁椀が踏潰されている。通夜の連中に飲ましてやるつもりで、残しておいた酒は一滴も残らず破れ畳が吸い込んで、そこいら一面、真赤になって酔払っている。 その樽と、枕を左右に蹴飛ばした奈良原翁は、蹌々踉々として昨日の医者の玄関に立った。診察中の医者の首筋を、例の剛力でギューと掴んで大喝した。 「この藪医者。貴様のお蔭で俺は死損のうたぞ。地獄か極楽へ行くつもりで、香奠を皆飲んで終うた人間が、この世に生き返ったらドウすればええのじゃ」 度を失った医者はポケットから昨日の皺苦茶の一円札を出して三拝九拝した。 「……ど……どうぞ御勘弁を、息の根が止まります」 「馬鹿奴……その一円は昨日の診察料じゃ。それを取返しに来るような奈良原到と思うか。見損なうにも程があるぞ」 「どうぞどうぞ。お助けお助け」 「助けてやる代りに今日の診察料を負けろ。そうして今一遍、よく診察し直せ。今度見損うたなら斬ってしまうぞ」 因にその診察の結果は全快、間違いなし。健康申分なし。長生き疑いなしというものであった。
大正元年頃であった。桂内閣の憲政擁護運動のために、北海道の山奥から引っぱり出された奈良原到翁は、上京すると直ぐに旧友頭山満翁を当時の寓居の霊南坂に訪れた。 互いに死生を共にし合った往年の英傑児同志が、一方は天下の頭山翁となり、一方は名もなき草叢裡の窮措大翁となり果てたまま悠々久濶を叙する。相共に憐れむ双鬟の霜といったような劇的シインが期待されていたが、実際は大違いであった。両翁が席を同じゅうして顔を見合せてみると、双方ともジロリと顔を見交してアゴを一つシャクリ上げた切り一言も言葉を交さなかった。知らぬ者が見たら、銀座裏でギャング同志がスレ違った程度の手軽い挨拶に過ぎなかったが、しかし、その内容は雲泥の違いで、両翁とも互いに、往年の死生を超越して気魄が、老いて益々壮なるものが在るのを一瞥の裡に看取し合って、意を強うし合っているらしい。その崇高とも、厳粛とも形容の出来ない気分が、席上に磅して来たので皆思わず襟を正したという。 それから入代り立代り来る頭山翁の訪客を、奈良原翁はジロリジロリと見迎え、見送っていたが、やがて床の間に置いてある大きな硯石に注目し、訪客の切れ目に初めて口を開いた。
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