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女坑主(おんなこうしゅ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-9 8:40:31 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「しかし……しかしそれは一時のことでしょうよ。明日になったら僕はまたキット死にたくなるんですよ。今までに何度も何度も体験しているんですからね。ハハハハ」
「ホホホホ。それは相手によりけりだわ。妾がお眼にかける夢は、そんな浅墓あさはかなもんじゃないわ。アトで怨んだって追つかない事よ」
「ワア。大変な自信ですね。しかしイクラ何でも僕に限って駄目ですよ。世界中のありとあらゆる夢よりも、僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強いんですからね……明日になったらキット醒めちゃうんですから……」
「理屈を言ったって駄目よ。明日になって見なくちゃわからないじゃないの。醒めようたって醒め切れない強い印象を貴方の脳髄の歯車の間に残して上げるわ……あたしの力で英、伊戦争を喰い止めてお眼にかけるわ」
「アハハハ。これは愉快だ。一つ乾杯しましょう」
 乾杯がすむと眉香子は立ち上って、正面中央のマントルピースの下のスイッチをひねって五つのシャンデリアの光を一時に消してしまった。それから部屋の隅の紐を引くと、部屋の三方の眼界を遮っていたゴブラン織の窓掛がスルスルといた。二人の腰かけている長椅子の真正面の左手の窓硝子越しに遙かに見える新張炭坑の選炭場の弧光灯がタッタ一つと、その下でメラメラと燃えくすぶっている紅黒いガラ焼の焔が、ロシヤ絨氈のように重なり合って見える。アトは一面に星一つない寂莫たる暗黒の山々らしい。
 部屋の中がシインとなってしまった。時々軽い衣擦きぬずれの音が聞こえるほかは何の物音もない。窓の外の暗黒と一続きのままシンシンと夜半に近づいて行った。
 ……突然……部屋の隅の思いがけない方向で……コロロン、コロロン、コロリン……トロロロンンン……という優雅なオルゴールのような音がした。それは十時半を報ずる黄金製の置時計の音であった。
 すると、ちょうどそれを合図のように、部屋の中へ、眼もくらむほど明るい光線がパッとさし込んで来たように思われたので、今まであるかないかに呼吸いきを凝らしていた二人は、思わず小さな叫び声をあげてパッと左右に飛び退いた。二人とも申し合わせたように頭の上のシャンデリアを仰いだが、シャンデリアは依然として消えたままで、ただ数限りもない硝子の切子玉が、遠い遠い窓の外をキラキラと反射しているキリであった。
 二人はまたもヒッシと抱きあったまま、きっとなって窓の外を見た。
 見よ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 窓の外のポプラ並木の間から、遙か向うの暗黒の中に重なり合っていた選炭場、積込場、廃物の大クレーン、機械場、ポンプ場、捲上場まきど、トロ置場、ボタ捨場、燃滓かす捨場に至るまで、新張炭坑構内に何千何百となく並んでいた電灯と弧光灯が、一時にイルミネーションのように輝き出して、広い涯てしもない構内を、羽虫の羽影までも見逃がさぬように、隅から隅まで煌々と照し出しているではないか。その光の群れがサーチライトのように一団の大光明となって二人の真正面の窓から流れ込んで来て、金ピカずくめの応接間の内部を白昼のようにアリアリと照し出しているではないか。
 青年は今一度眼をこすった。顔面をこわばらせたままその光の大集団を凝視した。
 それは一本の木も草もない、荒涼たる硬炭焼滓ボタかすだらけの起伏と、煙墨ススだらけの煉瓦や、石塊や、廃材等々々が作る、陰惨な投影の大集団であった。人間の影一つ、犬コロ一匹通っていない真の寂莫無人の厳粛な地獄絵図としか見えなかった。その片隅に、もう消えかかったガラ焼の焔と煙が、ヌラヌラメラメラと古綿のように、または腐った花びらのようによじれ合っているのであった。
 青年は眉香子の中でガタガタと震え出した。恐怖の眼をマン丸く、真白くなるほど見開いて、窓の外の光明を凝視したまま、顎をガタガタと鳴らし始めた。わななく指先で眉香子の腕を押し除けて、棒のようにスッポリと立ち上った。
 それはさながらに地獄に堕ちた死人の形相であった。髪が乱れ、ズボン釣がはずれ、ネクタイがブラ下ったまま、白い唇をガックリと開き、舌をダラリと垂らし、膝頭をワナワナとおののかせながら、夢遊病者のように両手を伸ばしてヒョロヒョロと部屋を出て行こうとした。唇を噛んだまま見送っていた眉香子が、長襦袢の裾を掻き合わせながら呼び止めた。
「アラ。あんた、ダシヌケにどうしたの……」
「…………」
「恐いの……」
「…………」
「マア、何がソンナに怖いの……まあ落ちついてここにいらっしゃいよ。何も怖がることないじゃないの……」
「…………」
「アレはね……あの電灯あかりはね。何か事故が起った時に事務所の宿直がアンナことするのよ。大したことじゃないのよ、チットモ……」
「…………」
 青年は一言も返事をしなかった。青鬼に呼び止められた亡者のような悲し気な顔でチラリと、恐ろしそうに眉香子の顔を振り返っただけで……それでもイクラか落ちついたらしく、長椅子の上に引っかけた上衣を横筋違いに引被りながら、ヨロヨロと応接間を出て行った。眉香子も声ばかりで追っかけて、椅子から立ち上ろうともしなかった。
「まあ、変な人ねえ、アンタは……何をソンナに怖がるの……何処へ行くのイッタイ……おかアしな人ねえ……ホホホホホホホホ……」
 しかし部屋を出て行った青年が、応接間の重たい扉を、向側からバタンと大きな音を立てて閉めると、眉香子の笑い顔が、急にスイッチを切り換えたように冷笑に変化した。
「オホホホホホホ、ハハハハハハハ。お馬鹿さんねえ、アンタは……出て行ったってモウ駄目よ。今夜のうちにお陀仏よ。ホホホ。でも……お蔭で今夜は面白かったわ……」

 しかし新張家の内玄関を一歩出ると、青年の態度が急に、別人のように緊張した。
 いかめしい鉄門の鉄柵越しに門前の様子を見定めると、電光の様に小潜りを出た。いたちのように一直線に門前の茅原のやみに消え込んだ。それから新張家の外郭を包む煉瓦塀にヘバリついてグルリと半まわりすると、裏手の小山のコンモリした杉木立の中にすべり込んだ。
 青年はこの辺の案内をよほど詳しく調べていたらしい。それから二十分ほどしてから選炭場裏の六十度を描く赤土の絶壁の上に来ると、その絶壁のひだの間のくらがりを、猿のように身軽に辷り降りた。それから炭坑のトロ道が作る黒い投影の中を一散に走って、直方駅構内の貨物車の間を影のようにスリ抜けて、ほど近い日吉町の日吉旅館の裏手に来た青年は、素早く前後を見まわして、警戒のないのを見定めてから蔦蔓つたかずらの一パイに茂り絡んだ煉瓦塀をヒラリと飛越えた。やはり案内を知っているらしい裏庭伝いに、湯殿の出入口からコッソリと忍び込むと、直ぐに上衣を脱いで、まだ落してないあか臭い湯の中に頭と顔を突っ込んでジャブジャブと洗い上げ、水槽の水面に口を近づけてさも美味そうにしてゴクゴクと飲み終ると、鏡台の前のポマードを手探りにコテコテ頭を塗りつけて在り合うくしで念入りに二つに分けた。それから大急ぎで洋服を脱いで、衣桁いこうに引っかけてあった浴衣ゆかたに手早く袖を通し、泥だらけの洋服とワイシャツとズボンを丸めて、番号札のついた脱衣戸棚と天井裏との間に出来ている暗がりに突込んだ。それから湯殿のタイルの上に落ちていた赤い古タオルを拾い上げてシッカリと絞り切ったのを片手に提げて、普通のお客のように落ちつきはらいながら廊下に出ると、ちょうど向うから来かかった新米らしい若い女中にニッコリして見せた。
「君……僕の部屋はドコだったけね」
 女は両腕に抱えた十余枚の洗い立ての浴衣の向うから愛想よく一礼した。
「ホホ。何番さんでいらっしゃいますか」
「それが何番だったか……あんまり家が広いもんだから降りて来た階段を忘れちゃったんだ。八時五十四分の汽車で着いた四人連れの部屋だがね」
「ホホ。あの東京のお客様でしょ。ツイ今さっき……十時頃お出でになった。お一人はヘルメットを召した……」
「ウン。それだそれだ……」
「あ……それなら向うの突当りの梯子段はしごだんをお上りになると、直ぐ左側のお部屋で御座います。十二番と十三番のお二間になっております」
「……ありがとう……」
 教えられた通りに青年は二階へ上った。部屋の番号をチョット見上げながら静かに障子を開いた。
「アレ。寝てやがる。暢気のんきな奴等だ」
 電灯を消した八畳と十畳の二間をブッ通して寝床が五つ、一列に取ってある。その中央の一つだけがまだ寝具をたたんだままで、アトは四人の人間が皆、頭から布団を引冠ってスースーと眠っている様子である。廊下から映して来る薄明りに、向うの枕元の火鉢から立ち昇る吸殻すいがらけむりが見える。
 八畳の間の違棚の下にならんでいる四人分の洋服と、違棚の上に二つ三つ並んだ鞄と、その右手の壁に架け並べてある四ツの帽子を見まわした青年は、ヤッと安心したらしくホットタメ息をした。何の気もなく中央の自分の寝床の上に近づいて枕の前にドカリと音を立てて坐った。一時に疲れが出たらしく、両手をベッタリとシーツの上に突くと、声をひそめて力強く呼んだ。
「オイ。皆起きろ。ズキがまわったぞ……」
 左右の寝床の中の寝息がピタリと止まったようであった。同時にクスクスと笑うような声が何処からか聞こえてきた。
 その声を聞くと同時に青年はハッと膝を立てて身構えた。稲妻のように飛び上って頭の上の電灯のスイッチをひねった。今一度左右の寝姿を見まわした。
 トタンに……それをキッカケにしたように四つの夜具が一斉に跳ね返された。……アッ……という間もなく立ち上りかけた青年の上に八ツのたくましい手が折重なって、グルグル巻に縛り上げられた……と思う間もなく夜具の上にコロコロと蹴返された。
「ウーム」
 縛られたまま敷布団の上に起き直った青年は、ポマードだらけの毛髪を振り乱したまま真青になって自分の周囲を見まわした。自分を見下している四ツの顔が皆、白い歯を現わして冷笑しているのを見ると、たちまち眼を釣り上げ、歯を喰い締めて今一度、心の底から唸った。
「ウウムムム。しまったッ……」
「ハハハ。△産党の九州執行委員長、維倉いくら門太郎。やっと気づいたか。馬鹿野郎……アッ、新張の奥さん……どうもありがとう御座いました」
 そういってペコペコ頭を下げながら前に進み出たのは、四人の中でも一番年層としかさらしい、色の黒い、たくましい鬚男であった。
「キット貴女あなたの処に行くだろうと思ったのが図に当りましたね」
「ホホホ。お蔭様で助かりましたわ」
 媚めかしい声でそういいながら眉香子未亡人が静々とはいって来た。僅かの間に櫛巻髪を束髪に直して、素晴らしい金紗の訪問着の孔雀くじゃくの裾模様を引ずりながら、丸々と縛られた維倉青年の前に突っ立った。眩しい刺繍の丸帯の前に束ねた、肉づきのいい両手の間から、巨大なダイヤの指環がギラギラと虹を吐いた。
「野郎……貴様らが上海シャンハイの本部へ逃げ込むついでに門司から此地方こちらへ道草を喰いに入り込んだのを聞くと、直ぐに手配していたんだぞ。貴様らの同志四人はモウ先刻さっき、停車場で挙げられている。だからジタバタしたって駄目だぞ。貴様が門司から直方へ乗りつけたタクシーの番号までわかっているとは知らなかったろう」
「どうもありがとう御座いましたわねえ。ホホ。ちょうど御通知の番号の車で、この青年しとが見えましたから気をつけてお話を聞いておりますと、ポートサイドあたりへいらっした方にしては、すこし色が白過ぎるんですものねえ。ホホ。さもなければ、妾は見事に一パイ引っかかっていたかも知れませんわ。トテモそんな方とは見えなかったんですからねえ」
「ハイ。恐れ入ります。それから間もなく倉庫主任宛のお電話が警察こちらにかかって参りましたのでスッカリ安心して手配してしまったのです。手配がすんだ証拠に、お山全体の電灯にスイッチを入れると申し上げて置きましたが、おわかりになりましたか」
「ええ。今消させて直ぐ自動車でコチラへ参りましたのよ。ちょっとこの青年かたへいって置きたいことが御座いましたもんですから……」
「……あ……そうですか。それじゃ。……只今なら構いませんから……何なりと……」
 四人の刑事は眼くばせをし合ってゾロゾロと廊下の方へ出て行った。あとを見送った眉香子未亡人は、今一度、維倉青年を見下してニッコリと笑った。
「ホホ。お気の毒でしたわね」
「…………」
 維倉青年はギリギリと歯を噛んで、眼の前の訪問着を見上げた。しかし何もいわなかった。否、いい得なかったのであろう。
「モウ。何も仰言らないで頂戴ね。仰言ったって警察では何一つホントにしませんからね。貴方が妾をお呪咀のろいになるためにドンナ作りごとを仰言っても取り上げる人はおりませんからね。よござんすか……」
「…………」
「ねえ。女だと思ってタカをくくっておいでになったのがイケなかったんですわ。ねえ」
「…………」
「ホホ。死にたくても死ねないようにして差し上げるって申しましたこと……おわかりになりまして?……」
「……ド……毒婦ッ……」
 青年はいつの間にか上唇を噛み破っていた。その滴る血を吹きつけるように叫んだ。
「ホホホ。そうよ。アナタはプロの闘士よ。あたしはブルジョアの闘士……人間を棄ててしまった女優上りですからね。嘘言うそも不人情もお互い様よ。それでいいじゃないの」
「チ……畜生……覚えておれッ」
「忘れませんわ……今夜のこと……ホホ。貴方も一生涯、忘れないで頂戴ね。楽しみが出来ていいわ」
「……殺してくれる……」
「どうぞ……貴方みたいな可愛いお人形さんに殺されるのは本望よ。妾はサンザしたい放題のことをして来た虚無主義のブルジョア……惜しい浮世じゃ御座んせんからね。チャントお待ちしておりますわ、ホホホホホ……では左様なら……ホホホホホホ……」
 誇らかに笑いながら彼女は、見返りもせずに静々と廊下に出て行った。向うの隅に固まって煙草を吸っている刑事連に嫣然えんぜんと一礼した。
「ありがとう御座いました。お手数かけました。アノ……どうぞお連れなすって……ホホホホホホ」





底本:「少女地獄」角川文庫、角川書店
   1976(昭和51)年11月30日初版発行
   2000(平成12)年12月30日41版発行
入力:うてな
校正:土屋隆
2005年5月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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