「ホホホ。つまりエチオピアへお出でになりたいからダイナマイトをくれって仰言るんですね。お易い御用ですわ。ホホホ」 新張炭坑の女坑主、新張眉香子は、軽く朗らかに笑った。 初期の銀幕スターから一躍、筑豊の炭坑王と呼ばれた新張琢磨の第二号に出世し、間もなく一号を見倒して本妻に直ると、今度は主人琢磨の急死に遭い、そのまま前科者二千余人の元締ともいうべき炭坑王の荒稼ぎを引き継いで、ガッタリとも言わせずにいるというしたたか者の新張眉香子は、さすがに顔色一つかえないまま、こうした無鉄砲な要求を即座に引き受けたのであった。 四十とはトテモ見えない襟化粧、引眉、口紅、パッチリと女だてらのお召の丹前に櫛巻頭。白い素足と真紅のスリッパにゴチック式の豪華を極めた応接間をモノともせぬ勝気さを見せて、これも炭坑王の奢りを見せた真綿入緞子の肘掛椅子に、白い豊満な肉体を深々と埋めている。その睫の長い二重瞼の蔭から、黒い大きな瞳をジイッと据えて微笑された相手の青年は、その素晴らしい度胸と妖気に呑まれて恍惚となってしまったらしい。 みすぼらしい茶の背広に、間に合わせらしい不調和な赤ネクタイを締めていながらも、それこそ新劇の二枚目かと思われる、生白い貴公子然たる眼鼻立の青年であったが、それが今更のようにビックリして純真らしい、茶色の瞳を大きく見開き、薄い、小さな唇をポカンと開いた姿は、一層ういういしい子供らしい恰好に見えた。 「御承知して下さる」 と半ば言いさして、青年は唇を戦かした。 「まあ……エチオピアへでも行こうと仰言るのに度胸が御座んせんねえ。失礼ですけど……ホホホホ」 青年は忽ち颯と赤くなった。そうしてまた急に青白くなって、房々した頭髪の下に隠れている白い額にニジンダ生汗を、平手でジックリと拭い上げた。 「ホントニ……下さる……」 「ええ、ええ。差し上げると申しましたら、必ず差し上げますわ。わたくしも新張眉香子です……ですけど、貴方ホントにエチオピアへいらっしゃるおつもり?」 「エッ……何故ですか」 「何故ってホントにいらっしゃるおつもりなら差し上げますわ。何でもない事ですから……イクラでも……わたくしモトからエチオピア贔屓ですから。私が男子なら自分で行きたいくらいに思っているんですからね」 「……ホ……ホントに……行くのです」 青年の瞳が熱意に輝いた。 眉香子の眼も同じ程度の熱意を輝き返した。青んじた襟足でしなやかに一つうなずいて見せながら、椅子の中から乗り出した。 「お尋ねさして下さいましね。どうしてソンナ事をお思い立ちになったんですの? 貴方お一人?……お仲間は?……」 青年はギクンとしたらしいが、やがてまた、冷やかに笑ってみせた。やっと度胸がきまったらしく、ソッと溜息をした。 「むろん僕一人じゃありません。十二人ばかりの同志があります」 「まあ十二人……大変ですわねえ。そんなに大勢でエチオピアまでお出でが出来ますかしら。第一危険な爆薬なんかお持ちになって、内地を脱け出すようなことがお出来になりまして?……万一のことがありますと、わたくしの方でも困りますがねえ。何処から出た爆薬だってことは直ぐに番号でわかるんですからねえ」 青年は深々と念入りにうなずいた。それくらいの事は百々心得ているという風に……それから眼の前の冷たくなった紅茶に、角砂糖を二つとも沈めた。 「その点は決して御心配に及びません。こうなれば隠す必要がありませんから白状致しますが、実を申しますと吾々同志の中でも五人だけは政府の役人が混っているんです」 「まあ政府のお役人が……どうして……」 「こうなんです。お聞き下さい。吾々十二人は皆、東京の政治結社、東亜会から学費を貰って学校を卒業させて貰った者ばかりですが、その中で五人は皆、政府嘱託の軍事探偵になって、主としてアフガニスタン、ベルジスタン、ペルシア、アラビア方面からスエズ、東アフリカ方面の状態を探っていたものです。もっとも私はこの二、三年、ポートサイドの雑貨店で働きまして連絡係をやっていたものですが」 「まあ。そんな処まで日本政府の手が行き届いておりますかねえ」 「ええ。そりゃあもう……そんな風に先へ先へと手を廻して計画をたてて行かなくちゃ、帝国主義の政府はやって行けません。 ……ですからこの五人のほかの七人の同志は皆、トルコ人や、アラビア人……思い切った奴は黒ん坊に化けて、かの方面の有利な天産と、その天産物に涎を流して働きかけている白人連中の勢力を探っていたんです。今に日本の勢力が新疆から四川、雲南、西蔵方面の英、仏、ロシアの勢力を駆逐して中央アジアからアフリカへ手を伸ばす時の準備を今から遣っているんですが……」 「まあ。お勇ましい。ゾクゾクしますわ。そんなお話……」 「そこへ今度のエチオピアの戦争なんです。今度のイタリーとエチオピアの戦争ってものは、元来イギリスの資本家筋が欧州の勢力の平衡を破り、エチオピアの利権を掴みたいばっかりに巧みに双方を煽動して始めさせたものですが、そいつがマンマと首尾よくイギリスの都合の宜い解決しちゃたまりません。是非とも英、伊戦争にまで展開させて、欧州を今一度大混乱に陥れ、ロシアの極東政策をお留守にさせちゃって、その間に支那奥地の英、仏の勢力と、共産軍の根拠をタタキ潰さなくちゃならんというのが、日本の当局者の意向なんです」 「そう都合よくまいりましょうか」 「行きますとも。何よりも先にイギリスとイタリーとが戦端を開きさえすればいいのですから……」 「そんなに訳なく戦争を始めさせることが出来ますかしら」 「なんでもないことです。イタリーの空軍はズッと以前からイギリスを目標にして作戦を練って、イギリスをタタキつけさえすれば、イタリーはヨーロッパ一の強国になれると思っておりますし、イギリスの海軍はまた、背後の武器製造会社の大資本と一緒に張切って、国際連盟のイタリー制裁問題を中に挾んで睨み合っている最中ですから、トテモ都合がいいのです。この際スエズにいるイギリスの軍艦のドレでもいいから一艘、爆破さえすれば、直ぐにイタリーのせいだと思って戦争を始めます。西洋人は非常に激昂し易くて狼狽し易いんですからね。米西戦争だってそうでしょう。アメリカの豚の罐詰会社が、戦争で一儲けしたさに、キューバにいるイスパニアの軍艦を爆破させたのがキッカケなんですからね」 「それじゃ貴方がたはスエズにいらっしゃるんですね」 「ええ……実はそうなんです。便宜上エチオピアと申しましたが、実はスエズなんです。私たち十二人は皆、ドイツへ行く留学生に化けてスエズで降りまして、ポートサイドを見物するふりをして港内の様子を探ります。一方に手を分けた五、六人の者が途中で浮標を付けて海に投げ込んで置いた自分自分の荷物を拾い集めて来て、それぞれに材料を出し合って一つの触発水雷を作ります。……がしかし……仕事のむずかしいのはここまでで、アトは何でもありません」 「そんなものですかねえ」 「その水雷の外側をランチのバスケットか何かに見えるように籠で包んで、籤取りできめた五、六人がボートに乗って、舟遊びみたいな恰好でズット沖に出てしまいます。そうして日が暮れてから漕ぎ戻るふりをしてイギリスの軍艦にぶっつけて、その五、六人が軍艦と一緒に粉微塵になってしまおうという計画なんです」 「まあなんて恐ろしい……」 「もちろん東京を発つ前までの計画では、時計仕掛の水雷を作って、そいつをイギリスの軍艦の横にソッと沈めて来る手筈だったのです。そうしないと当局の方が許してくれませんので……」 「まったくですわ。そうなさいませよ……」 「ところが万が一つでも間違わないようにするためには、時計仕掛ではあぶない。途中で怪しまれてイギリスの軍艦に引き上げられでもしたら日本製の火薬だということがジキにわかってしまう……とても危ない……何にもならないというので吾々が勝手に計画を立て換えたのです」 「わたくしみたいな女風情が、横から何と申しても仕様のない事かも知れませんけど、それではアンマリ……生命をお粗末に……」 「まあお聞き下さい。そんな訳ですから日本を出る時には外務省の保証を持っているんですから、何を持って行ったって鞄を検査される心配はないんですが、ただスエズに着いてからアトに生き残る五、六人の奴が、それだけじゃ詰まらないと、東京に出る間際になっていい出したんです。序のことにスエズ運河の堰堤を毀ってしまおうじゃないか。そうしたら何ぼ英国だって堪忍袋の緒を切るに違いないだろうということになったんですが、生憎、その爆薬だけが足りないので、こうして汽車で先まわりをして御無理をお願いに伺ったんです」 青年はいつの間にか雄弁になっていた。その言葉つきは青年らしい意気込に満たされ、その眼は少年のように輝き、その頬は少女のように赤らみ膨らんでいた。 緞子の椅子の肱に白い、ふくよかな両腕を投げかけて、そういう青年の顔を真正面から見上げていた眉香子は、非常に感動したらしく真青になっていた。何度も何度もうなずきながら、大きく眼をしばたたいているうちに、大粒の涙を惜気もなくホロリホロリと両頬に落しかけていたが、説明を終った青年がヒョッコリと頭を下げると一緒に、深く頭を下げて両手を顔に当てた。咽ぶようにいった。 「わたしの僅かばかりの爆薬が、それほどのお役に立ちますとは……何という……」 といううちに応接台の片隅に載っていた旧式の電話器へ手を伸ばして、ベルを廻転させ始めた。涙に濡れた左右の頬に、なおも新しい感激の涙を流しかけながら……。 ……リンリン、リリリン……リンリン、リリリン……リンリン、リリリリリリリリ…… そんな風に繰り返して断続するベルの音を、青年は何となく緊張した態度で見守っていた。そのベルの継続のし方が、ちょうど鉄道か警察の呼出信号に似ていたからであったろう。 間もなく返事が来た。 ……リンリン、リンリンリンリンリンリンリン…… 眉香子はその音の切れるのを待ちかねて受話機を取り上げた。 「ええ、ええ。そうよ。あたし眉香です。アンタ倉庫の紙塚さん……そう。アノネ。御苦労さんですがね。明日の朝までに着くように原田さんの処へ……ええ。門司の原田さんの処へ爆薬を二箱お送りするようにお約束したんですがね。ええ。ごく内々で……ですからね。今夜の直方発の終列車の上りの客車便に……そう……十時五十分に間に合うように大急ぎで荷造りしてちょうだい。まだ四時間ぐらいあるでしょ。……そうね。どちらも茣蓙で包んで上箱に入れて、貴重品扱いにして門司の山九運送店宛に出して下さいな。そう。中味は仏像とか、骨董品とか、何とかしといて頂戴。そうしてチェッキが出来たらアンタ自身にソレを持って駅で待っていて頂戴ね。用心しなくちゃ駄目ですよ。十分に荷造りしてね。このごろ、こっちへ共産主義が入り込んだってね。とても取り締りが八釜しいんですからね……ええ。そうそう。あたしの名前にしときゃあ大丈夫よ。……あの。それからね。荷造りする時には倉庫の明りが外に洩れないようにしとかなくちゃ駄目よ。ええ、ええ。どうかそうして頂戴。それがいいわ。ええ。全部そうして頂戴。一つ二つぐらいだと却って疑われるから。ええ。どうぞ願います。こっちは大丈夫よ。ホホホ」 眉香子は平然として受話機を掛けながら青年をかえりみた。 「二箱でいいんですね」 青年は返事の代りにピョコンと勢いよく立ち上った。卓子を一廻りして眉香子の真正面から接近くと、眉香子の両手を自分の両手でシッカリ握り締めた。感激の涙をハラハラと流した。 「……ありがとう……御座います。感謝に……堪えません」 「まあ。あんなこと……わたくしこそ感謝に堪えませんわ。わたくしみたいな女を見込んで下すって……」 といううちに立ち上って青年の両手をシッカリと握り返した。青年は肩をすぼめて身震いした。眉香子の魅力に包まれたように……けれども間もなく静かに、その手を振りほどいた。二、三歩後に下って恭しく一礼した。 「それでは……これで……お暇を……この御恩は死んでも……」 「アラマア……」 眉香子は追いかけるように二、三歩進み出た。強いて青年の手を取って、今まで自分が坐っていた椅子に、青年の身体を深々と押し込んだ。 「まだ、荷物とチェッキが出来ないじゃ御座いませんか。それまで、どうぞ御ゆっくりなすって下さいませよ」 「……でも……それはアンマリ……それに私は今夜のうちに門司に出て、明朝早く荷物を受け取って、明後日、神戸の……」 「それでも荷物と一緒の汽車なら宜しいじゃ御座んせん」 「……そ……それは……そうですが……実は……」 「何か御差支えが御座いまして……」 「実はその……友人が四名ほど……福岡の東亜会員が四名ほど、私を門司まで見送ると申しまして、私と同じ汽車で発つ予定で、直方の日吉旅館に来ておりますので……是非とも……」 「もうお会いになりまして……」 「九時ごろの汽車で来ると申しておりましたが……」 「それでもまだ二時間近く御座いますわ。そんなお友達の御親切も何で御座いましょうけれども、今夜、御一緒の汽車で門司にお着きになってからでも御ゆっくりとお話が出来ましょう」 「そ……それは……そうですが……」 「わたくしもホンノ仮染の御識り合いでは御座いましょうが、心ばかりの御名残惜しみが致したいので御座いますからね。それくらいのおつき合いは、なすっても宜いじゃ御座んせん。爆薬のお礼に……ホホ……」 「でも……」 「……でもって何です。妾のいうことをお聴きになれなければ、一箱も差し上げませんよ。ホホホ……」 青年は眩ぶしそうに眉香子を見上げた。眉香子の魅力に負けたように深々と緞子の椅子に沈み込んだ。そうした自分自身を淋しくアザミ笑いながらパチパチと眼をしばたたいた。 「……でも、勿体ないことだわねえ。アンタがたみたいな立派な若い人が十何人も、お国のためとはいいながら、今から半年も経たないうちに粉ミジンになってこの地上から消えてしまうなんて……あたしシンから惜しい気がするわ」 新張家の豪華を極めた応接室の中央と四隅のシャンデリアには、数知れない切子球に屈折された、蒼白な電光が煌々と輝き満ちている。その中央の大卓子の上にはトテモ炭坑地方とは思えない立派な洋食の皿と、高価な酒瓶が並んでいる。その傍の緋繻子張りの長椅子の中に凭りかかり合うようにしてグラスを持っている眉香子と青年……。 青年は上衣と胴衣を脱いでワイシャツ一つのネクタイを緩めているし、眉香子も丹前を床の上に脱ぎ棄てて、派手な空色地の長襦袢に、五色ダンダラの博多織の伊達巻を無造作に巻きつけている。どちらももう相当に酔いがまわっているらしく、眼尻が釣り上がって異様に光っている。 「惜しい気がするわ。ねえ。そうじゃない」 今一度シンミリとそういううちに眉香子は、その肉つきのいい白い腕を長々と青年の肩に投げかけた。青年もそれをキッカケに左手を眉香子の膝の上にダラリと置いた。グラグラと頭をシャンデリアの方向に仰向けて、健康そうな、キラキラ光る白い歯を見せた。 「ナアニ。ハハハ。どうせ僕等は、めいめい勝手なゼンマイ仕掛けの人形みたいなもんですからね。そのゼンマイのネジが解けちゃってヨボヨボになって死んじゃうだけの一生なら、まったく詰まらない一生ですからね……ですからまだピンピンしているうちに、そのゼンマイ仕掛けを自分でブチ毀してみなくちゃ、自分で生きてる気持が解らないみたいな気持に、みんななっているんです。僕等はモウ、早く自分の生命を片づけたい片づけたいって、イライラした気持になっているんですよ。まったくこのまんまじゃ詰まらないですからね」 「とてもモノスゴイのね」 「ええ。自分ながらモノスゴクて仕様がないんです。なんでもいいから思い切って自分をぶっつけてガチャガチャになってしまいたいんです」 「アンタみたいな方は恋愛もなにも出来ないのね」 「恋愛……恋愛なんて……ハハハハ」 「マア。恋愛なんて……て仰言るの……あたしこれでもチャント貞操を守っている未亡人なのよ。まだネジが切れちまわないうちに相手をなくしちゃって、イヤでもこんな淋しい後家を守っていなくちゃならなくなった女なのよ」 「恋愛なんて……恋愛なんて……ハハハ。恋愛なんて何でもないじゃないですか。ほんの一時の欲望じゃないですか。永遠の愛なんてものは男と女とが都合によって……お互いに許し合いましょうね……といった口約束みたいなもんじゃないですか。お金のかからない遊蕩じゃないですか」 「まあ。ヒドイことをいうのね」 「当り前ですよ。この世の中はソンナ様な神秘めかした嘘言ばっかりでみちみちているんですよ。だから何もかもブチ壊してみたくなるのです。何もない空っぽの真実の世界に返してみたくなるのです」 「アンタ……それじゃ虚無主義者ね」 「そうですよ。虚無主義者でなくちゃ僕等みたいな思い切った仕事は出来ないんです。ゾラか誰か言ったことがありますね。――科学者の最上の仕事は、強力な爆薬を発明して、この地球と名づくる石ころを粉砕するにあり。真実というものがドンナものかということを人類に知らしむるに在り――とか何とか……」 「まあ大変ね。ゾラはきっとインポテントだったのでしょう」 「ハハハハ。こいつは痛快だ。さすがは昔の銀幕スター、眉香子さんだけある。そういって来ると虚無主義者や共産主義者はみんなインポテントになるじゃないですか」 「そうよ。この世に興味を喪失してしまった人間の粕みたいな人間が、みんな主義者になるのよ」 「そんなことはない……」 「あるわ。論より証拠、貴方に死ぬのをイヤにならせて見せましょうか」 「ええ。どうぞ……」 「きっと……よござんすか」
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