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粟生弘氏は翁の門下でも古株で相当年輩の老人であったが、或る時新米の古賀得四郎氏が稽古に行くと、大先輩の粟生氏が「箙」の切の謡を習っている。それが老巧の粟生氏の技倆を以ってしてもナカナカ翁の指南通りに出来ないので、何度も何度も遣り直しを喰っている。新米の古賀氏は何の「箙」ぐらいと思っていたのに案に相違して震え上った。「箙」なぞを滅多に習うものじゃないと思った。 そのうちに粟生氏が「箙」の切の或る一個所をかれこれ二三十遍も遣直させられたと思うと、老顔に浴びるように汗の滝を流しながら、精も気根も尽き果てた体で謡本の前に両手を突いて、 「今日はこれ位で、どうぞ御勘弁を……」 と白旗を揚げた。古賀氏は今更に只圓翁の稽古腰の強いのに驚いていると翁は平然たる顔で、粟生氏を一睨して、 「そげな事じゃ不可ん。良く稽古しておきなさい」 と誡しめてからクルリと古賀氏の方に向き直ってニコニコした。 「アンタにはあのように云わんばい」(古賀得四郎氏談)
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芸の方も去る事ながら、癇癖と稽古の厳重さで正しく只圓翁の後を嗣いでいたのは斎田惟成氏であった。 翁の歿後、師を喪った初心者で斎田氏の門下に馳せ参じた者も些少ではなかったが、斎田氏の八釜しさが出藍の誉があったものと見えて、しまいには佐藤文次郎氏一人だけ居残るという惨況であった。 それでも余りに斎田氏の稽古振りが酷烈なので、夫人が襖の蔭からハラハラしながら出て来て、 「そんなにお叱りになっては……」 と諫めにかかると斎田氏の癇癪が一層高潮した。 「女風情が稽古場に出入りするかッ」 といった見幕で一気に撃退してしまった。 「叱られて習うたお謡じゃけに、叱って教えねば勘定が合わぬ」 などと門弟に云い訳をする事もあった。 その後斎田氏は勤務先の福岡裁判所から久留米に転勤すると、タッタ一人残っている門弟佐藤文次郎氏のためにワザワザ久留米から汽車で福岡まで出て来て稽古をしてやった。弟子よりも先生の方がよっぽど熱心であった。 その稽古腰の強いこともたしかに翁の衣鉢を嗣いでいた。(佐藤文次郎氏談)
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翁の門下には名物と云われていた人が三人在った。一人は間辺某という人で、梅津朔造氏、山本毎氏等の先輩に当り、筆者なぞは全然顔も知らない。謡が実に立派で、蔭で聞いていると只圓翁と間違う位であった。いつも翁の能の地頭を拝命していた高足であったが、同じ翁門下の地頭格山本毎氏と争い、非常に憤激して自宅に帰り謡曲の本を全部焼棄して二度と翁に見えなかった。(宇佐元緒氏談) 詳しい事情は判明しないが、間辺氏の斯様な態度は栗山大膳以来の片意地な黒田武士の本色であったと同時に、只圓翁門下の頑固な気風を端的に露出したものであったという。(林直規氏談)
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今一人は現教授佐藤文次郎氏の姻戚に当る吉本董三氏で、美髭を生やした眉の太く長い、眼と口の大きい、いかにも豪傑らしい風貌の巨漢であった。 氏は金貸を業としていたにも似合わず、翁のために献身的に働く純情家であった。何か費用の要る事があるとお能の際に、楽屋から観衆席を巡回して目星い人間を片端から引捕えて、自身の山高帽を突付けながら喚めき立てた。 「貴公は金持じゃけに五円出しなさい」 「あんたも三円ぐらい奮発しなさい」 「お前は一円に負けるけに出せ。ナニ無い。横着な事を云う。蟇口をば開けて見い」 といった調子で有無を言わさず捻じ上げて行くので能率の上る事非常であったという。 しかし能の方は滅法好きな癖に天下無敵の下手であった。翁がイクラ教えてもその通りには決して出来なかったし、自分でも諦めていたと見えて思い切った蛮声を張上げて思う存分、勝手気儘な舞い方をした。長刀を持たせると大喜びでノサバリまわって危険この上もないので地謡が皆中腰で謡ったという。流石の只圓翁もこの人物には兜を脱いでいたらしく稽古の時にも決して叱らなかった。 のみならず同氏が地謡に座って謡いながら翁の前で行燈袴をまくって、毛ムクジャラな尻から太股まで丸出しにして痒い処をバリバリと掻きまわるような事があっても翁は見ないふりをしていた。 こんな人物は多分翁の苦手であったろう。いつも翁の事を「爺が爺が」と呼棄てにしていたので、皆「吉本のキチガイ」と云っていた。実に愛すべき豪傑であった。(柴藤、宇佐両氏談)
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モウ一人只圓翁の苦手が居た。これは本人が現存しているから特に姓名を遠慮するが、この人もかなりの無器用で、同時に相当の天狗様であったらしい。或る時はじめて翁に謡のお稽古を願ったら、翁は一応稽古を附けて後でブッスリと云った。 「モウお前は稽古に来るには及ばぬ。私はお前の先生にはアンマリ上等過ぎる」 これは二三人から聞いた話だから事実としてここに書いておく。腹が立つと、それ位の事は云いかねない翁であったから。 ところが感心な事に、その劣等生氏は、それでも断然屁古垂れなかった。それ以来降っても照っても頑強に押しかけて来たので、翁もその熱心に愛でたものであろう、叱り叱り稽古を付けてやったが、翁が歿前かなりの重態に陥って、稽古を休んでいる時までも毎日毎日執拗に押かけて来て、枕元で遠慮なく本を開いて謡い出したので、とうとう翁が腹を立てた。 「そう毎日来ては堪らん。大概にしなさい」 稽古腰のあれ程強い翁に白旗を上げさせたのは古往今来この人一人であろう。同氏は現在梅津正利師範の手で有伝者に取立てられて、大勢の弟子を持っていてなかなか忙しいという。
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翁は痩せた背丈の高い人であった。五尺七八寸位あったように思う。日に焼けた頑健な肉附と、どこから見ても達人らしい風格を備えたシャンとした姿勢であった。肩が張って、肋骨が出て、皺だらけの長大な両足の甲に真白い大きな坐胝がカジリ附いていた。 冬は地味な、粗末な綿入の上に渋茶色のチャンチャンコ、茶色の小倉帯、紺飛白の手縫足袋。客が来るとその上からコオリ山(灰白色の紬の一種)の羽織を羽織った。 麻製渋色の胸当て(金太郎式の)は夏冬共に離さなかった。
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後頭部に心持ち黄色い白毛が半月型に残っているのを綺麗に櫛目を入れていた。顔は長大で、鼻が西洋人みたように鷲型で、白い眉が房々として、高い小鼻の左右に眼窩が深く落凹んで、心持ち内斜視の老眼が鋭く光っていた。口は大きく一文字に閉じて、凹んだ両眼と、巨大な顎と共に一歩も退かぬ一徹の気象をあらわしていた。 横頬から特に前頭部へかけて黒い斑の長生が群着していた。又首筋へ労働者でなければ見受けられない深い皺が重なり合っていたが、これは翁自身の過激な肉体的習練の結果か、又は好物の畠イジリと網打ちの結果ではなかったろうかと思われる。 要するに健康そのもののようにガッチリと逞しい、声の太い、大きな爺さんであった。
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稽古は二五八、三六九の日に分けて、四の日七の日十の日が翁の休日であったらしい。何かの都合で、その休みの日に行くと翁はセッセと野菜畑で働いていたりしたが、直ぐに足を洗って来て稽古をしてくれた。休み日だからといって決して悪い顔をしたり稽古を断ったりしなかった。 初めて小謡を習いに行くと、翁は半紙を一帖出して自分で紙縒をひねって綴じる。それから墨を磨って表紙に「小謡」と書いて、その右下に弟子の姓名を書く。その一枚をめくって、 「サア、何がよかろうのう」 なぞとニコニコ独言を云いながら、二句ぐらいの簡単な和吟に胡麻節を附けたのを書いて投与える。それを畳の上に置いて待っていると、翁が机の横から這い出して来て真正面に座る。 「そうそう。チャンと両手を膝に置いて」 とお行儀を教えながら二度程繰り返して附けてくれる。それでも出来ないと、蠅打の柄や、張扇で頭をピシャリとたたく事もあった。 その次に来ると今一度謡わせられて、恙なく記憶えていると又一つ新しいのを書いてもらえる。すこし上達して来ると、 「節の附かんとも時々は良かろう」 と云って文句ばかりを書いてくれることもあった。最初は面喰ったが後には慣れて来た。 翁が書いてくれた小謡本には略字や変体仮名が多いので、習って帰ると直ぐに朱で仮名を附けたものであったが、翁は別に咎めなかった。
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毎年一月の四日にはお鏡開きといって、お稽古に来る子供ばかりを座敷に集めて、翁が小豆雑煮(ぜんざいのようなもの)を振舞った。それがトテモ美味しくて熱いので、喰っている子供連は一人残らず鼻汁を垂らしたのをススリ上げススリ上げしていた。 翁はニコニコと眺めていた。(佐藤文次郎氏談)
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だんだん上達して来ると本番(全曲)を習う。 筆者は三歳ぐらいから祖父に仕込まれていて、翁の処へ入門した時は数番の謡を丸暗記していたのでイキナリ本番を習ったものであったが、むろんこちらから曲目を撰む事は出来なかった。翁が本人の器量に応じて次の月並能の番組を斟酌しながら撰んでくれるのであった。 翁の処へ稽古に行くと、玄関の上り框の処(机に向っている翁の背後)に在る本箱から一冊引出して開いてくれる。時には、 「その本箱を開けてみなさい。その何冊目の本の何という標題の処を開けてみなさい」 と指図する事もあった。 それを最初から一枚ぐらい宛、念を入れて直されながら附けてもらうので、やはり二度ほど繰り返しても記憶え切れないと叱られるのであった。 その本はたしか安政二年版行の青い表紙で、「ウキ」「ヲサヘ」や「ヤヲ」「ヤヲハ」又は廻し節、呑み節を叮嚀に直した墨の痕跡と胡粉の痕跡が処々残っている極めて読みづらい本であった。 この翁の遺愛の本は現在神奈川県茅ヶ崎の野中家に保存して在る筈である。
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翁は一番の謡を教えると必ずその能を舞わせる方針らしかった。 筆者は九歳の時に「鍾馗」の一番を上げると直ぐにワキに出された。シテはたしか故大野徳太郎君であったと思うが、お互に受持の言葉を暗記するかしないかに二人向き合って申合わせをさせられたので、間違うたんびに笑っては叱られた。 そんな風であったから筆者は小謡とか仕舞とか囃子とかいうものが存在している事をかなり後まで知らずに過ごした。
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こうして習っては舞い習っては舞いした稽古順は大略左の通りである。これ以て誠に名聞がましいが、何かの参考になるかも知れないと思って記憶している通りを書き止めておく次第である。
(一)鍾馗ワキ(二)同シテ(三)鞍馬天狗ツレ(四)経政(五)嵐山半能(六)俊成忠度(七)花月(八)敦盛(九)土蜘ツレ(十)巻絹ツレ(十一)小袖曾我(十二)夜討曾我――これ以後の順序明瞭に記憶せず、(十三)猩々(十四)小鍛冶(十五)岩船半能(十六)烏帽子折子方(十七)田村(十八)殺生石直面(十九)羽衣ワキ(二十)是界(二十一)蘆苅(二十二)箙(二十三)湯谷ツレ(二十四)景清ツレ――但これは稽古だけで能は中止(二十五)船弁慶ツレ、及、海人子方同時(二十六)田村(二十七)土蜘――但し稽古だけにて能は舞わず(以上)
その他「清経」シテ、「三井寺」ツレ等が四五番あったと思うが、ハッキリ記憶しない。 そのうちに十六七歳になったので、翁は舞台に立った筆者を見上げ見下してニコニコした。 「ほう。これは大きゅうなった。もう面をかけんとおかしいのう。面をかけると序の舞やら楽やら舞うけに面白いがのう。ハテ。何にしようか。今度一度だけ『小督』にしようか。うむ、『小督』にしよう『小督』にしよう。『土蜘』もええが糸の投げようがチット六かしかろう」 筆者は「土蜘」が舞いたくて舞いたくてたまらなかった。ずっと以前に河原田翁の追善能で見た金剛某氏の仏倒れや一の松への宙返りをやって見たくて仕様がなかったが、翁が勝手に「小督」にきめてしまったので頗る悲観した。 その中に中学を落第しそうになって稽古を休んだのをキッカケにとうとう翁の処へ行かなくなった。唯「湯谷」のツレと「景清」のツレで面をかけて稽古した切り、シテとしては面を掛けずに終った。 その永い間翁が筆者に傾注してくれた精魂がドレ位であったろうか。その広大な師恩をアトカタもなく返上してしまった不孝の程は悔いても及ばない今日である。
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いよいよ謡の稽古が済むと、まだ文句のつながらないうちにサッサと舞台にかかる。 翁は筆者が謡い終って本を閉じると(誰に対しても同様であった)張扇を二本右手に持って、 「サア」 と筆者を一睨しながら立上る。心持ち不叶いな左足を引ずり引ずり舞台に出る。この頃から既に、お能の神様、兼、カンシャクの神様が翁に乗り移っていたように思う。
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舞台は京間ではなかったように思う。普通の六尺三間、橋がかり三間で、平生は橋掛り共に雨戸がピッタリと閉まって真暗い。 鏡板の松は墨絵で、シテ座後方の鴨居に「安和堂」と達筆に墨書した木額が上げて在った。たしか侯爵黒田長成公の筆であったと聞いている。 その雨戸を翁に手伝って北と東と橋がかりを各一枚宛開いて、あとを平均五六寸宛隙かす。それから翁はワキ座と地謡座のちょうど中間の位置に在る張盤の前に敷いた薄い茶木綿の古座布団上に座る。 初めのうちは誰でもワキの詞を云う翁に向ってアシラッたのでよく叱られた。翁の詞がいつでも真剣だったので、ツイその方向に釣り込まれる傾向もあった。
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ところでこちらは幕の前に引返して立っていると翁はこっちをジロリと見て、今一度「サア」と云う。同時に一声とか次第とかをアシライ初める。 「イヨオオ――。ハオオーハオオー」 と云ううちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面に漲り渡る。そのうちに大小の頭が来ると翁がソッと横目でこっちを見る。見ない事もあるが、大抵見る場合が多いのだからその時に要領よく受けて出るので、後れたり早過ぎたりすると翁がパチパチと張扇を叩いて今一度、一声なり次第なりを繰返しながら遣直させる。しかもそのタタキ加減がその日の低気圧のバロメーターになるので、これは老幼を問わず同様の感想であったらしい。 翁はアシライが中々達者で、役者が橋がかりへ這入る時に打つ次第のヨセ工合がなかなかよかったので囃子方が皆感心して耳を傾けたという。
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翁は普通の稽古を附ける場合には袴を穿かなかった。これは謹厳な翁に似合わぬ事であったが事実であった。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛が露出した。
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翁は張盤の前に正座した時、必ず足の拇指を重ね合わせていた。その重なり合った拇指がいつ動くかと思って、大野君と二人で翁の背後の脇桟敷から長い事凝視していた事があったが、決して動かないので根負けした事があった。 張扇は大抵眼の高さの処まで上げた。肱は両脇から柔かく離し、向うへ伸ばして軽くバタバタとたたいた。肱から手首と張扇の尖端が柔かい一直線を描いて、上っても下っても狂わなかった。 張扇が張盤を離れるのと掛声が起るのが同時だったので、どうかすると張扇が声を出しているような錯覚を感じた。遠くから見ていると一層そんな感じがした。 張扇は必ず自分で貼った。筆者も一度貼り方を習ったが忘れてしまった。 「この角の処をこうして……」 と云う翁の声だけが耳に残っている。 掛声をかけたり、地謡を謡ったりしているうちに、翁の上顎の義歯が外れ落ちてガチャリと下歯にぶつかる事が度々であった。 「衣笠山……ガチャリ。モグモグ……ムニャムニャ……面白の夜遊や……ガチャリ……モグモグ……ヨオチポポオポッポヨオイチョン……ホラホラしおりしおり……ガチャリ……モグモグ……ホオホオ」 といった調子であった。吾々子供連は、よくその真似をしていたものであるが、その中でも一番上手なのは故大野徳太郎君であった。
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毎朝翁は、暗いうちに起きて自分の稽古をする。それから利彦氏を起して稽古をつける。冬でも朝食前に一汗かかぬと気持ちが悪かったらしい。これは翁の長寿に余程影響した事と思う。
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食事は三度三度粥食であった。 「年を老ると身体を枯らさぬといかん」 とよく門弟の老人たちに云い聞かせたそうである。
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筆者が十四五歳の頃であったか。 ある春の麗らかな日曜日の朝お稽古に行ったら、稽古が済んでから翁は筆者を机の前に招き寄せて云った。 「まことに御苦労じゃが、あんた筥崎までお使いに行ってやんなさらんか」 門下生は翁の御用をつとめるのを無上の名誉と心得ていたので、筆者は何の用事やらわからないままに喜んで、 「行って来まっしょう」 と請合った。むろん翁も喜んだらしい。ニコニコしてもっとこっちに寄れと云う。その通りにすると今度は両手を突いて頭を下げよと云うので、又その通りにすると翁は自筆の短冊を二枚美濃紙に包んで紙縒で縛ったものを筆者の襟元から襦袢と着物の間へ押し込んだ。 「それを持って筥崎宮の二番目の中の鳥居の傍に在る何某(失名)という茶屋に行って、そこに居る禿頭の瘠せこけた婆さんへ、その短冊を渡してオオダイを下さいと云いなさい。オオダイ……わかるかの」 「オオダイ」 「そうそう。オオダイ。それを貰うたなら落さんように持って帰って来なさい」 「オーダイ」 「そうそう。オオダイじゃ。雷除けになるものじゃ。わかったかの」 筆者は何となくアラビアン・ナイトの中の人間になったような気持で田圃通りに筥崎へ向った。オオダイとは、どんな品物だろうと色々に想像しながら……。 中庄から筥崎までタップリ一里ぐらいはあったろう。途中の田圃には菜種の花が一面に咲いていた。涯てしもなく見晴らされる平野の家々に桃や桜がチラホラして、雲雀があとからあとから上った。 瓦町の入口で七輪を造る土捏ねを長い事見ていた。櫛田神社の境内では大道手品に人だかりがしていた。 筥崎松原にはまだ大学校が無かった。小鳥が松の梢一パイに群れていたり、鼬が道を横切ったりした。少々淋しくて気味が悪かった。 こうしてずいぶん道草を喰いながら筥崎に着くと、中の鳥居の横の茶屋は一軒しかなかったので直ぐにわかった。 中に這入ると三十四五の女房と、蟇みたような顔をした歯の無い婆さんが出て来た。いやに眼のギョロリした婆さんであったが、先に出て来て筆者を見上げ見下すと、 「あんたは何しに来なさったな」 と詰問した。なるほど頭がテカテカに禿ている。着物のお蔭でやっと爺さんに見えないような婆さんである。 筆者は長い道中の間に用向きをハタと忘れているのに気が付いた。背中に短冊が這入っている事なんか恐らく翁の門を出た時から忘れていたろう。どうして何のために来たかイクラ考えてもわからないので泣出したくなった。 頭の禿げた婆さんは口をモグモグさせながら、怖い眼付で筆者を今一度見上げ見下した。 「どこから来なさったな」 「梅津の先生のお使いで来ました。あの……あの……」 今度は貰いに来た品物の名前を忘れている事に気が付いた。 婆さんは歯の無い口を一パイに開いて笑った。 「アッハッハッハッ。オオダイじゃろう」 「はい。オオダイ」 「ふうん。そんならそこへ手を突いてみなさい」 筆者は上り框へ両手を支いた。 「頭を下げなさい。そうそう」 婆さんは痩せ枯れた冷たい手で筆者の背中を探りまわして短冊を引っぱり出した。押頂いて、眼鏡もかけずにスラスラと読んでから又押頂いた。 それから奥へ這入って神棚の上から一本の薪の半分ばかりの燃えさしを大切そうに持って来て、勿体らしく白紙で包んで、紙縒で結わえながら筆者の懐中に押込んでくれた。 「よう来なさった。これを上げます」 と云って女房の持って来た駄菓子の紙包みを筆者の手に持たした。筆者は懐中から薪の燃えさしを今一度引っぱり出して見まわした。恐らく妙な顔をしていた事と思う。 「これがオオダイだすな」 婆さんがうなずいた。 「うんうん。それはなあ。この筥崎様で毎年旧の節分の晩になあ。大松明を燃やさっしゃる。その燃え残りを頂くとたい。……これから夏になると雷神が鳴ります。その時にこれを火鉢に燻べると雷神様が落ちさっしゃれんちうてなあ……梅津の爺さんは身体ばっかり大きいヘコヒキ(褌引き……臆病者の意)じゃけに雷神様が嫌いでなあ。毎年頼まれて短冊とカエキ(交易)しますとたい」 やっと理窟がわかった筆者はホッとしながら、小学校の帽子を脱いでお辞儀しいしい帰途に就いた。何だか梅津の先生が非常に損な交易をして御座るような気がして、この婆さんが横着な怪しからぬ婆に見えて仕様がなかった。後から聞くとこの婆さんは只圓翁よりも高齢であったという。上には上が在ると思ったが、しかし、どうした因縁で翁と識合いになったかは今以てわからない。 その時の事を思い出すと百年も昔のような気がする。
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翁は滅多に外へ出かけない癖に天気の事を始終気にする人であった。それは能を催したり、網打ちに行ったり、歌を詠んだりするために自然と、そんな習慣が出来たのかも知れないが、そればかりでもなかったように思う。 舞台上の翁を見た人は翁を全面的に、傲岸不屈な一本槍の頑固親爺と思ったかも知れぬが、それは大変な誤解であった。勿論能楽の事に関しては一流の定見を持っていて一切を断定的にドシドシ事を運んだが、しかし日常の事に関しては非常に気が弱くて、夫人は勿論、門人や女中にでも遣り込められると、 「成る程のう。よしよし……」 と眼をつむって云う事を聞いていた。
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恩に感ずる事なぞも非常に強く深かった。愛婿野中到氏の言葉なぞは無条件で受容れていたらしい話が残っている。所謂虫も殺さぬという風で、何か不本意な場合に立ったり、他人の不幸を聞いたりしてオロオロ声になって落涙している事も二三度見受けた位である。 これは翁の家人以外の人々には意外と思われる話かも知れぬ。しかし、こうした性格があの舞台上の獅子王の如き翁の半面に在る事を思う時、筆者は翁の人格がいよいよ高く、いよいよ深く仰げども及ばぬ心地がして来るのである。 翁はそうした気の優しさを、いつも単純率直にあらわしていた。老人や子供には非常に細かく気を遣った。天気が悪いと弟子の行き帰りに、 「おお。シロ(辛労)しかろうなあ」 と眼をしばたたいた。その云い方は普通人の所謂挨拶らしい感じが爪の垢ほどもなかった。心持ちカスレた真情の籠もった声であった。
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老夫人と差向いの時に「お日和がこう続いては麦の肥料が利くまいのう」とか、「悪い時に風が出たなあ。非道うならにゃ宜えが」 とか云って田の事を心配している事もあった。 翁は自身で畠イジリをするせいか百姓の労苦をよく知っていた。その点は筆者の祖父灌園なぞも屡々他人に賞めていた。 「老先生の話を聞くと太平楽は云われんのう」 「ほんなこと。お能ども舞いよると罰が当るのう。ハハハハ」 なぞと親友の桐山氏と話合っていた。 只圓翁が暴風模様の庭に出て、うしろ手を組んで雲の往来を眺めている。その云い知れぬ淋しい、悲しげな表情を見た人は皆、そうした優しい、平和を愛する翁の真情を端的に首肯したであろう。
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翁の逸話はまだまだ後に出て来るのであるが、それ等の逸話を、ただ漫然と読むよりも、その逸話を一貫する翁の真面目を、この辺で一応考察しておいた方が、有意義ではないかと思う。すなわち、こうした翁の強気と弱気の裏表のどちらが翁の真骨頂か。どちらが先天的で、どちらが後天的のものか、ちょっと看別出来ないようである。 しかし只圓翁の性格の表裏が徹底的に矛盾しているところに、世を棄てて世を捨て得ない翁の真情が一貫して流露していた事が今にして思い当られて、自ら頭が下るのである。聖人でもなければ俗人でもない。「恭倹持己、博愛及衆」の聖訓、「上求菩提。下化衆生」の仏願が、渾然たる自然人、ありのままの梅津只圓翁の風格となって、いつまでもいつまでも尊く、ありがたく、涙ぐましく仰がれるように思う。 現代の能楽師の如く流祖代々の鴻恩を忘れて、浅墓な自分の芸に慢心し、日常の修養を放漫にする。又は功利、卑屈な世間の風潮にカブレ、良い加減な幇間的な稽古と取持で弟子の機嫌を取って謝礼を貪る。生活が楽になると本業の研究向上は忘れてセイラパンツを穿いてダンスホールに行く。茶屋小屋を飲みまわる。女性を引っかけまわるといったような下司っぽい増長者は、こうした翁の謙徳と精進に対して愧死しても足りないであろう。 真の能楽師は僅少の例外を除き翁の後に絶えたと云ってもいい。憤慨する人があったら幸である。
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翁の芸風を当時の一子方に過ぎない筆者が批評する事は、礼、非礼の問題は例としても不可能事である。 しかし筆者としては及ばずながらこの機会に出来る限り偽わらざる感想を述べておきたい。門外漢の田夫野人の言葉でも古名人の境界を伝えている事が屡々あるのだから。同時に翁の芸風を知り過ぎる位知って居られる現家元喜多六平太氏や、熊本の友枝御兄弟の批評などは容易に得られないと思うから……。
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前記明治二十五年喜多能静氏追善能のため只圓翁は上京し、野中到氏宅に滞在していたが、翁は毎夜のように侯爵黒田長知侯のお召を受けて霞ヶ関に伺候した。 その節のこと。或る時翁は藤堂伯(先代)から召されて「蝉丸」の道行の一調謡の御所望を受けたが、相手の小鼓は名にし負う故大倉利三郎氏で、予々翁の技倆を御存じの藤堂伯も非常な興味をもって傾聴された。利三郎氏も内心翁を一介の田舎能楽師と思っていたらしいが、無事に一調が済んでお次の間に退くと利三郎氏は余程驚いたものと見えて、直ぐさま翁の前に両手を支いて、 「実にどうも……」 と云って他は云わず低頭挨拶したという。翁の実力を直接に評価する参考材料としてはこの逸話がたった一つ残っているきりである。但、野中到氏の手簡に、
「右藤堂様より伯父(只圓翁)帰宅後、小生今晩は何の御所望なりしやと問いしに右様の次第を話して、あの謙遜家にも聊か得意の色見え申候」
とあるところを見ると、この逸話は翁の生涯中の秀逸ではないかと思われる。
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筆者は不幸にして装束を着けた翁の舞台姿を一度も見た事がない。 ただ一度翁の八十八賀能の前日の申合わせの夜であったと思う。門弟中の地謡で翁が「海人」の仕舞を舞ったのを見た。そのほか日々の稽古や他人の稽古を直して御座るのを横から見た姿を思い合わせると、翁の舞台姿がどうやら眼前に彷彿されるようである。 甚だ要領を得難い評かも知れないが、翁の型を見た最初に感ずる事は、その動きが太い一直線という感じである。同時に少々穿ち過ぎた感想ではあるが、翁の芸風は元来器用な、柔かい、細かいものであったのを尽く殺しつくして、喜多流の直線で一貫した修養の痕跡が、どこかにふっくりと見えるような含蓄のある太い、逞しい直線であったように思う。曲るにしても太い鋼鉄の棒を何の苦もなく折り曲げるようなドエライ力を、その軽い動きと姿の中に感ずる事が出来た。 後年九段能楽堂で名人に準ぜられている某氏の「野守」の仕舞を見た事があるが、失礼ながらあのような天才的な冴えから来た擬古的な折れ曲りとは違う。もっと大きく深い、燃え上るような迫力を持った……何となく只圓一流と云いたい動きであった。 同じ「野守」でも只圓翁のは時間的には非常に急迫した、急転直下式の感じに圧倒されながら、あとから考えると誠にユッタリした神韻縹渺たる感じが今に残っている。 「海人」の仕舞でも地謡(梅津朔造氏、山本毎氏)が切々と歌っているのに、翁は白い大きな足袋を静かに静かに運んでいた身体附が一種独特の柔か味を持っていた。且つ、その左足が悪いために右手で差す時に限って身体がユラユラと左に傾いた。その姿が著しくよかったので大野徳太郎君、筆者等の子方連は勿論、門弟連中が皆真似た。それを劈頭第一に叱られたのが前記の通り梅津朔造氏であった。
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シオリは今のように高くなかった。シオリの高さは能によって違う……といったような翁の訓戒が記憶に残っているようにも思う。 そんな事が在るかどうか知らぬ。筆者の聞き違いかも知れないが書添ておく。
◇
梅津朔造氏の「安宅」の稽古の時に翁は自分で剛力の棒を取って、「散々にちょうちゃくす」の型の後でグッと落ち着いて、大盤石のように腰を据えながら、「通れとこそ」と太々しくゆったりと云った型が記憶に残っている。梅津朔造氏が後で斎田氏と一緒に筆者の祖父を見舞いに来た時に、祖父の前で同じ型を演って見せたが、 「ここが一番六かしい。私のような身体の弱いものには息が続かぬ。……芝居ではない……と何遍叱られたかわからぬ」 と云ううちに最早汗を掻いていた。 それからずっと後、先年の六平太先生の在職五十年のお祝で「安宅」を拝見した時に、同じ処で行き方は違うが、同じような大きな気品の深い落付きを拝見して、成る程と思い出した事であった。大変失礼な比喩ではあるが、とにかく恐ろしく古風な感じのするコックリとした型であったように思う。
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