七八つの子供から六十歳以上の老人に到るまで苟も翁の門を潜るものは一日も休む事なく心血を傾けて指導した。その教授法の厳格にして周到な事、格を守って寸毫も忽にしなかった事、今思っても襟を正さざるを得ないものがある。(後出逸話参照)
さもしい話ではあるが、そうした熱心な教育を受けた弟子が、謝礼として翁に捧ぐるものは盆と節季に砂糖一斤、干鰒一把程度の品物であったが、それでも翁は一々額に高く押戴いて、「はああ……これはこれは……御念の入りまして……」 と眼をしばたたきつつ頭を下げたものであった。無慾篤実の人でなければ出来る事でない。 そればかりでない。 翁は市内櫛田神社(素戔男尊、奇稲田姫を祭る)、光雲神社(藩祖両公を祀る)、その他の神事能を、衷心から吾事として主宰し、囃子方、狂言方、その他の稽古に到るまで一切を指導準備し、病を押し、老衰を意とせず斎戒沐浴し、衣服を改めて、真に武士の戦場に出づる意気組を以て当日に臨んだ。これは普通人ならば正に酔狂の沙汰と見られるところであったろうが、これを本分と覚悟している翁の態度は誰一人として怪しむ者もなく、当然の事として見慣れていたくらい真剣に恪勤したものであった。 これも逸話に属する話かも知れぬが、当時の出演者はシテ方、ワキ方は勿論、囃子方といわず狂言方といわず、見物人の批評を恐るる者は一人も居なかった。ただ楽屋に控えている翁の耳と眼ばかりを恐れて戦々兢々として一番一曲をつとめ終り、翁の前に礼拝してタッタ一言「おお御苦労……」の挨拶を聞くまでは、殆んど生きた心地もなかったと云っても甚だしい誇張ではなかった。その当時十二三か四五程度の子供であった筆者でさえも大人の真似をして翁の顔色ばかり心配していたものであった。
かようにして毅然たる翁の精進によってこの九州の一角福岡地方だけは昔に変らぬ厳正な能楽神祭が継続された。囃子方、狂言方は勿論の事、他流……主として観世流の人々までも翁の風格に感化されて、真剣の努力を以て能楽にいそしんだ形跡がある。甚だしきに到っては元来上懸の発声と仮名扱いを以て謡うべき観世流の人々までが、滔々として翁一流の下懸式呂張を根柢とした豪壮一本調子な喜多流擬いの節調を学び初め、観世流の美点を没却した憾があった。 かような翁の無敵の感化力が如何に徹底したものであったかは、後年観世流を学んでいた吉村稱氏が翁の歿後一度上京して帰来するや、 「福岡の観世流は間違っている。皆只圓先生の真似をして喜多流の節を謡っている。観世流は上懸で声の出所が違うのだから節も違わなければならぬ」 と大声疾呼して大いに上懸式の謡い方を鼓吹した一事を以てしても十分に察せられるであろう。 日本の辺鄙福岡地方の能楽を率いて洋風滔々の激流に対抗し、毅然としてこの国粋芸術を恪守し、敬神敦厚の美風を支持したのは翁一人の功績であった。翁は福岡の誇りとするに足る隠れたる偉人高士であったと断言しても、決して過当でない事が、茲に於て首肯されるであろう。 同時にその間に於て翁が如何に酬いられぬ努力を竭し、人知れぬ精魂を空費して来たか。国粋中の国粋たる能楽の神髄を体得してこれを人格化し凜々たる余徳を今日に伝えて来たか。その渾然たる高風の如何に凡を超え聖を越えていたかを察する事が出来るであろう。 明治二十五年(翁七十六歳)九月、先師喜多能静氏の年回(二十五回忌)として追善能が東都に於て催さるる事となった。 当時東京では喜多流皆伝の藤堂伯その他の斡旋により、現十四世喜多流家元六平太氏、当時幼名千代造氏が能静氏の血縁に当る故を以て弱冠ながら家元の地位に据わり、異常の天分を抽んで、藤堂伯その他の故老に就てお稽古に励んでいた。しかも前記の通り家元として伝えられた能楽の用具は僅かに張扇一対という、全然、空無廃絶に等しい状態から喜多流今日の基礎を築くべく精進し初めている時代であった。 ところで、その能静氏の追善能に就いては只圓翁にも上京してくれるように喜多宗家から度々掛合って来たので、翁は無上の名誉として上京したが、早速藩公長知公の御機嫌を伺い、喜多家へも伺ったところ、その後、千代造氏(六平太氏幼名)と、翁と同行にて霞が関へ出頭せよという藩公からの御沙汰があった。 ところが出仕してみると華族池田茂政、前田利鬯、皇太后宮亮林直康氏等が来て居られて、色々とお話の末、池田、前田両氏が親しく翁を召されて、「新家元、千代造の輔導の大役を引受けてくれぬか」という懇な御言葉であった。 その当時の前後の状況は筆者は詳しく知らないが、いずれにしてもこの依頼が翁にとって非常な重責であったことは云う迄もない。 しかしこの時の翁の立場から見ると、徒らな俗情的な挨拶や謙遜を以て己を飾るべき場合でなかったようである。翁も亦、能静氏の恩命を思い、流儀の大事を思い、翁の本分を省み、且つ、依頼者の知遇を思えば、引くに引かれぬ場合と思ったのであろう。 「重々難有御言葉。何分老年と申し覚束なき事に存候。しかし御方様よりの仰せに付、畏まり奉る。まことに身に余る面目。老体を顧ず滞京、千代造稽古の儀御請申上候」 と翁の手記に在る。 同年一月十九日、芝能楽堂で亡能静師の追善能があった。翁も能一番(当麻?)をつとめた筈であるが、その当時の記録は今、喜多宗家に伝わっている事と思う。 その後、毎日もしくは隔日に翁は飯田町家元稽古場に出て千代造氏に師伝を伝え、又所々の能、囃子に出席する事一年余、明治二十六年十一月に帰県したが、何をいうにも、流儀の一大事、翁の一生の名誉あるお稽古とてこの間の丹精は非常なものがあったらしい。もっとも現六平太氏が、千代造時代に師事した人々は只圓翁一人ではなかった。又熊本の友枝三郎翁も、千代造氏輔導役の相談を受けたのを、平に謝絶して只圓翁に譲ったという佳話も残っている。又只圓翁以外の千代造氏の輔導役は幼少の千代造氏を遇する事普通の弟子の如く、嵩にかかった手厳しい薫育を加えたものであるが、これに反して只圓翁は極めて叮嚀懇切なものがあった。何事を相伝するにも平たく、物静かに包み惜しむところがなかったので、却って得るところが些ないのを怨んだという佳話が残っているそうであるが、その辺にも礼節格式を重んずる翁一流の謙虚な用意が窺われて云い知れぬ床しさが偲ばれるようである。因にこの時の只圓翁の上京問題に就ては当時在京の内田寛氏(信也氏父君)、米田與七郎氏(米田主猟頭令兄)が蔭ながら非常な尽力をされたそうである。 尚この時に翁は能楽装束附の大家斎藤五郎蔵氏に就いて装束附方を伝習した。尤も斎藤氏は初め翁を田舎の貧弱な老骨能楽師と思ったらしく中々伝習を承知しなかったそうであるが、現家元その他の熱心な尽力によってやっと承知した。現家元厳君、故宇都鶴五郎氏(能静氏愛婿)は屡々只圓翁の装束附お稽古のために呼出されてお人形に使われたという。 その時代の事に就いて六平太氏は筆者にもこんな追懐談をした。前記の只圓翁の心用意を裏書きするに足るであろう。 「只圓は私を教えてくれた他の故老たちと違って、傲った意地の悪いところが些しもなく、極めて叮嚀懇切に稽古をしてくれましたよ。不審な点なぞも勿体ぶらずにスラスラと滞りなく説明してくれました」 なお六平太氏は只圓翁について語る。 「色々思い出す事も多いですが、只圓は字が上手でしたからね。私から頼んで家元に在る装束の畳紙に装束の名前を書いてもらいました。只圓は装束の僅少な田舎にいたものですから大した骨折ではないとタカを括って引受けたらしいのです。ところが、口広いお話ですが家元の装束と申しましても中々大層なものでね。先ず唐織から書き初めてもらいましたのを、只圓は何の五六枚と思って墨を磨っていたのがアトからアトから際限もなく出て来る。何十枚となく抱え出されるので余程驚いたらしいですね。閉口しながらウンウン云って書いておりましたっけ」 「酒は好きだったらしいですね。私は七五三に飲みますと云っておりました。多分朝が三杯で昼が五杯で晩が七杯だったのでしょう。小さな猪口でチビチビやるのですからタカは知れておりますが、それでも飲まないと工合が悪かったのでしょう。『今日は朝が早う御座いましたので三杯をやらずに家を出まして、途中で一杯引っかけて参りました。申訳ありませぬ』と真赤な顔をしてあやまりあやまり稽古をしてくれる事もありました」 「面白いのは梅干の種子を大切にする事で(註曰。翁は菅公崇拝者)、一々紙に包んで袂に入れておりました。或る時私が只圓の着物を畳んでいる時に偶然にそれが出て来ましたのでね。開いてみると梅干の種子なので何気なく庭先へポイと棄てたら只圓が恐ろしく立腹しましたよ。『勿体ない事をする』というのでね。恐ろしい顔をして見せました。後にも先にも私が只圓から叱られたのはこの時だけでしたよ」 云々……と。師弟の順逆。老幼の間の情愛礼譲の美しさ。聞くだに涙ぐましいものがある。 かくて新家元へ相伝の大任を終った翁が、藩公長知侯にお暇乞いに伺ったところ、御垢付の御召物を頂戴したという。 因に翁のこの時の帰郷の際には、藤堂伯、前田子、林皇后太夫、その他数氏の懇篤なる引留め運動があったらしいが、翁は国許の門弟を見棄てるに忍びないからという理由で聊か無理をして帰ったらしい。しかもその以前から内々で引続いていた野中、荒巻両家からの只圓翁に対する扶助はこの以後も継続されたので、国許の門弟諸氏はその意味に於て荒巻、野中両家に対し感謝すべき理由がある事をここに書添えておく。
明治三十三年の春頃であったか、福岡名産、平助筆の本舗として有名な富豪、故河原田平助翁の還暦の祝賀能が二日間博多の氏神櫛田神社で催された。番組は記憶しないが、京都から金剛謹之介氏が下って来て、その門下の「土蜘」、謹之介氏の「松風」「望月」なぞが出た。筆者はその時十二歳で「土蜘」のツレ胡蝶をつとめた。 その謹之介氏の「松風」の時、翁は自身に地頭をつとめたが中の舞後の大ノリ地で「須磨の浦半の松のゆき平」の「松」の一句を翁は小乗に謡った。これは申合わせの時にもなかったので皆驚いたらしかったが、何事もなく済んでから、シテの謹之介氏は床几を下って、「松の行平はまことに有難う御座いました」と翁に会釈したという。
明治三十七年十月八日九日両日、門弟中からの発起で翁の八十八歳の祝賀があった。能は両日催されたが、翁の真筆の賀祝の短冊、土器、斗掻、餅を合せて二百組ほど諸方に送った。 二日の能が済んだ後、稽古所で祝宴があった。能の祝宴も皆弟子中の持寄りで、極めて質素な平民的なものであった。
明治二十五年四月一日二日の両日、太宰府天満宮で菅公一千年遠忌大祭の神事能が催された。 この大祭は催能前の二箇月間に亘って執行されたもので、祭能当時は日本全国、朝野の貴顕紳士が参向したほかに、古市公威、前田利鬯子爵等が下県して能を舞われた。 同社に保管されている番組を見ると、その能組の豪華盛大さと、これを主宰した翁の苦心が首肯されるばかりでなく、その当時の翁の門下、当地方の能楽界一流どころの名前が歴然として残っている。現在生存して居られる知人故旧の人々の、思い出の種として、略するに忍びないから左に掲げておく。 御能組(第一日)
◇翁 (シテ)梅津利彦 (三番叟)高原神留 (千歳)生熊生 (大鼓)高畠元永 (小鼓頭取)栗原伊平 (脇鼓)本松卯七郎、石橋英七 (笛)中上正栄
◇老松 (シテ)梅津朔造 (シテツレ)大賀小次郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)梅津昌吉 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)岩倉仁郎
◇粟田口 (狂言)野田一造、野村祐利、高原神留
◇八島 (シテ)山崎友樹 (シテツレ)戸畑宗吉 (ワキ)高木儀七 (大鼓)竹尾吉三郎 (小鼓)石橋英七 (笛)辻儀七 (間、那須語)高原神留
◇抜売 (狂言)岸本作太、在郷三五郎
◇羽衣 和合舞(シテ)古市公威 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄
◇花盗人 (狂言)岩倉仁郎、高原神留、野田一造、城戸甚次郎、秋吉見次、野村久、生熊生
◇鞍馬天狗 白頭(シテ)前田利鬯 (シテツレ)石蔵利吉、石蔵利三郎、加野宗三郎 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)栗原伊平 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)野村祐利、在郷三五郎、生熊生 御能組(第二日)
◇巻絹 (シテ)梅津利彦 (シテツレ)梅津昌吉 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)藤田正慶 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎
◇棒縛 (狂言)在郷三五郎、岩倉仁郎、高原神留
◇夜討曾我 (シテ)大野徳太郎 (シテツレ)梅津利彦、小田部正次郎、藤田平三郎、楢崎徳助、梅津昌吉、井上善作、諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)栗原伊平 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎、生熊生
◇禰宜山伏 (狂言)野村祐利、岸本作太、野田一造、秋吉見次
◇花筐 (シテ)前田利鬯 (シテツレ)山崎友樹、安永要助 (ワキ)西島一平 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (笛)中上正栄
◇鷺 (仕舞)梅津只圓
◇山姥 (囃子)(シテ)南郷茂光 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄
◇鉢木 (シテ)古市公威 (シテツレ)山田清太郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)吉浦彌平 (大鼓)高畠元永 (小鼓)斉村霞栖 (笛)中上正栄 (間)生熊生
◇鬮罪人 (狂言)高原神留、岩倉仁郎、生熊生、野村久、城戸甚次郎、秋吉見次
◇烏帽子折 (シテ)梅津朔造 (シテツレ)白木半蔵、上村又次郎、梅津昌吉、吉浦彌平、大野徳太郎、小田部正次郎、藤田平三郎、井上善作 (ワキ)小出久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)上田勇太郎 (太鼓)国吉静衛 (笛)辻儀七 (間)野村久、城戸甚次郎、野村祐利、岸本作太、高原神留
◇附祝言
この能の両日、楽屋を指導監督していた翁の姿を見られた古市公威氏が帰途、車中で嘆息しながら独語賛嘆された。 「梅津只圓という者は聞きしに勝る立派な人物である。あのような品位ある能楽師を余はまだ嘗て見た事がない」 という話柄が今日に伝わっている。 明治四十一年頃から翁の身体の不自由が甚だしくなって、座っていられない位であったが、それでも稽古は休まなかった。 その明治四十一年か二年かの春であったと思う。梅津朔造氏が「隅田川」の能のお稽古を受けた。それは翁の最後のお能のお稽古であったが、翁は地謡座の前の椅子に腰をかけ、前に小机を置いてその上に置いた張盤を打って朔造氏の型を見ていた。地頭は例によって山本毎氏であったが、身体は弱っても翁の気象は衰えぬらしく、平生と変らぬ烈しい稽古ぶりであった。 ところがその途中で翁が突然にウームと云って椅子の上に反り返ったので、近まわりの人々が馳け寄って抱き止めた。それから大騒ぎになって、附近の今泉に住んでいる権藤国手を呼んで来る。親類に急報する。注射よ。薬よという混雑を呈したが、間もなく翁が寝床の上で正気付き、気息が常態に復して皆に挨拶し、権藤国手も安心して帰ったので皆ホッと愁眉を開いた。 ところが梅津朔造氏がその枕頭に手を突いて、 「それでは、これでお暇を……」 と御挨拶をすると翁がムックリ頭を擡げて左右に振った。 「おお。朔造か、いかんいかん。まだ帰ることはならん。今一度舞台へ来なさい。あげなザマではいかん」 と云い出して頑として諾かない。 皆舌を捲いて驚き且つ惑うた。この非凡な翁の介抱に顔を見合わせて困り合ったが、結局、翁の頑張りに負けて今一度、稽古を続ける事になった。 門弟連中が又も舞台に招集された。その中で、翁は元の通り椅子に凭れて稽古を続けたが、今度は疲れないように翁の胴体を帯で椅子に縛り付け、弟子の一人が背後からシッカリと抱えて「隅田川」一番の稽古を終った。 翁は、それ以来全く床に就き切りになったが、それでも仰臥したまま、夜具の襟元の処に脚の無い将棋盤のような板を置き張扇でバタバタとたたいて弟子の謡を聞いた。 明治四十三年の四月、桜の真盛りに、福岡市の洲崎お台場の空地(今の女専所在地)で九州沖縄八県聯合の共進会があった。頗る大規模の博覧会同様のものであった上に、日露戦争直後であったため非常な人気で、福岡名物、全市無礼講の松囃子が盛大に催されて賑った。 翁の門下の人々は高齢で臥床中の翁に赤い頭巾と赤い胴衣を着せ、俥で東中洲「菊廼屋」(今の足袋の広告塔下ビール園、支那料理屋附近)という料亭に運び、そこで食事を進めて後、その頃はまだ珍らしかった籐の寝椅子に布団を展べて翁を横たえ、二本の棒を通し、人夫に担架させ、門弟諸氏が周囲を取巻いて、翁に共進会場を見物させた。 これは翁の門下岩佐専太郎氏の思い付であったらしいが、全福岡市の称讃を博し、新聞にも翁の担架姿が写真入りで大きく芽出度く書き立てられた。
翁の病臥後、門下の人々はさながらに基督門下の十二使徒のような勢で流勢の拡張に努力した。梅津朔造氏は南大牟田市を中心として三池地方に勢力を張り、山本毎氏は東田川郡を中心として伊田、後藤寺に根を下し、炭坑地方を開拓した。 その他の門下諸氏も福岡市外に門戸を張って子弟を誘導し、各神社の催能を盛大にしたが、一方に在福の連中の中でも既に三年間翁に師事していた故梅津正保氏等を含む一団の高弟連中は毎月一回宛、村上彦四郎氏邸や、その他の寺院等で謡会を開いた。 その中心となって指導していたのは斎田惟成氏(当時福岡地方裁判所勤務)で、その会を開く前日は必ず翁の枕頭に集まって役割の通りに謡って翁の叱正を受けた。万一翁のお稽古が出来ない場合には会の方を延期するという真剣さであった。 その素謡会の席上で梅津正保君の調子が余りに大きいので、調子の小さい河村武友氏が嫌って前列に逐い遣ったという挿話などがあった。 翁の臨終の前年頃になると、翁の老衰の程度が、時々段落を附けて深くなったものであろう。出張教授をしている梅津朔造氏や山本毎氏等の処へ度々至急電報が飛んだ。 最初のうちは両氏等も倉皇として翁の枕頭に駈け付けたが、その後同じような至急電報が頻々として打たれたので、両氏も自然と狼狽しなくなった。そう急に死ぬ老先生ではないというような一種の信念が出来たものらしかった。 そのうち明治何年であったか、京都で何かの大能が催さるるとかで、翁の状態を知らぬ旧知、金剛謹之介氏から翁に出演の勧誘状が来た。 その手紙を見た翁は直ぐに傍をかえりみて云った。 「折角の案内じゃけに行こう。まだ舞えると思うけに京都迄行って、一生の思い出に直面の『遊行柳』を舞うてみよう」 傍の人々は驚いた。急遽門弟を招集して評議した結果、翁の健康状態が許さぬ理由の下に翁を諫止してしまった。万事に柔順な翁は、この諫止に従ったらしいが嘸かし残念であったろうと思う。こうした出来事には人道問題、常識問題等が加味して来るから一概には是非を云えないが、まことに翁のために、又は能楽のために残り惜しい気がして仕様がない。舞台で倒れるのは翁の本懐であったに違いなかったのだから……。後年、熊本の友枝三郎翁が、「雨月」を舞い終ると同時に楽屋で急逝したことは心ある人々の讃嘆するところであった位だから。
明治四十三年(翁九十四歳)、日韓合併の年の七月二日、風雨の烈しい日であった。 柴藤精蔵氏(当時二十三歳)は朝から翁の所へ行って謡のお稽古を受けていたが、その途中で翁が突然に「オーン」と唸り声を上げた。同時に容態が急変したらしいので、枕頭にいた老夫人と女中も狼狽して柴藤氏をして医師を呼びに遣った。 柴藤氏は狼狽の余り跣足で戸外に飛出したが、風雨の中の非常な泥濘をズブ濡れの大汗で、権藤病院に馳け付けて巻頭に掲げた翁の主治医寿三郎先生を引っぱって来た。 寿三郎先生の手当で翁の容態の急変は一時落付く事になったが、寿三郎氏はその時既に「最早絶望」と思ってしまったという。だから冒頭に掲げた翁の臨終の逸話は、その翌日の事である。 翁の容態の急変が三度が三度とも能楽のお稽古の最中であった事は、翁の能楽師としての生涯の崇高さを一層悲痛に高潮させる所以ではあるまいか。 [#改ページ]
梅津只圓翁の逸話
翁の逸話として何よりも先に挙げなければならないのは、翁自身の勉強の抜群さと、子弟の教育の厳格さであった。 翁は毎朝未明(夏冬によって時刻は違うが)に必ず起上ってタッタ一人で袴を着け、扇を持って舞台に出て、自分で謡って仕舞の稽古をする。翁の養子になっていた梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)などは遠方の中学校へ行くために早く起きようとすると、早くも翁の足踏の音が舞台の方向に聞こえるので、又夜具の中へ潜り込んだという利彦氏の直話である。こうした刻苦精励が翁の終生を通じて変らなかった事は側近者が皆実見したところであった。 前記の通り晩年、足腰が不叶いになって臥床するようになっても、稽古人が来ると喜んで、仰臥したまま夜具の襟元でアシライつつ稽古を附けてやった。傍の人が、余りつとめられると身体に障るからといって心配しても、「何を云う。家業ではないか」と云って頑として稽古を続けた。
◇
弟子に対する稽古の厳重、慎重であった事は、事柄が事柄だけに最も多く云い伝えられている。殆んど数限りがない位である。 翁の弟子には素人玄人の区別がなかった。又弟子の器用無器用、年齢の高下、謝礼の多少なぞは一切問題にせずに、殆んど弟子をタタキ殺しかねまじき勢いで稽古を鍛い込んだ。一人も稽古人が来なくなっても構わない勢いで残忍、酷忍、酷烈なタタキ込み方をした。むろん御機嫌を取って弟子を殖やそうなぞいう気は毛頭なかったので、現今のような幇間式お稽古の流行時代だったら瞬く間に翁の門下は絶滅していたであろう。 翁のこうした稽古振の裡面には、よしや日本中の能楽が滅亡するとも、自分の信ずる能楽の格だけは断じて崩すまい。その精神で上は神明に仕え下は自己の修養に資しようという無敵、潔白の自負と、いい加減な弟子を後世に残して流風を堕落させては師匠の相伝に対して相済まぬ。それよりも自分の門下を絶った方が正しいという非常時的な大決心が一貫していた事が、明らかに認められる。 能楽は平時の武士道の精華である。舞台はその戦場である。だから稽古は生命を棄てて芸道に生きる方便である。すなわち「捨身成仏」が芸道の根本精神でなければならぬ……というのが翁自身のモットーであり、数々の訓戒に含まれている不言不語の点睛であったらしい。次のような逸話の数々が残っている。
◇
翁は初心者が復習する事を禁じた。新しい小謡を習った青少年達が帰りがけに翁の表門を出ると、直ぐに大きな声で嬉しそうに連吟して行くのを聞き付けた翁は、その次の稽古日に必ず訓戒した。 「お前達はあのような自分勝手な謡を自分勝手に謡うことはならぬ。必ず私の前に来て謡いなさい。そうせねば謡が崩れて悪い癖が付く。一度悪い癖が付くとなかなか直らぬものだ」 弟子達は皆恥じて小さくなった。しかし、それでも謡いたいので、門を出ると翁に聞こえぬ位の小声で謡って、だんだん遠くなると大声で怒鳴りながら家へ帰ると、いよいよ大得意になって習い立ての小謡を謡った。家人も梅津先生から習い立ての謡というと謹んで聞いたものだという。 ところがその次の翁の稽古日に翁の前で復習させられると、直ぐに我儘謡を謡った事を看破されて驚き且つ赤面した。 「そげな節をば誰から習うたか。又、自分で勝手に復習しつろう」 と云うのであった。そのたんびに、子供心に「どこが違うのだろう。習った通りに稽古したつもりだが」……と不思議に思い思いしたという。(佐藤文次郎氏談)
◇
高弟梅津朔造氏はもう五十を越していた。斑白頭の瘠せこけた病身の人で、喘息が持病であったが、頑健な翁によく舞台の上で突飛ばされた。当時二十歳前後の屈強の青年であった梅津利彦氏なども、やはり突飛ばされた組で、当時九歳か十歳であった筆者ですらもその例に洩れなかった。 但し筆者は幼少であった故か、こうした体刑を受けた事は極めて稀であった代りに、「ソラソラ……又……又ッ」という大喝の下に遣り直させられた事が、大人よりも多かったように思う。 中の舞の初段の左右の型のところで気が掛からないと云って十遍ばかり遣り直させられてスッカリ涙ぐんだあとで、利彦氏が同じ稽古(男舞)で又やり直し十数回の後、とうとう突飛ばされてしまったのを見て、「出来ないのは自分ばかりじゃないな」と窃に得意になった事もある。 翁の晩年の弟子の中で最も嘱望されていたのは斎田惟成氏であった。この人の稽古振りや能の舞いぶりを筆者は在京中であったために、あまり見ていなかったが、よほど烈しいものがあったと伝え聞いている。 やはり五十近かった氏に、口の開き方が悪いと云って張扇を突込んだり、「首が縮む、シャンとせよ」と云って張扇で鼻の下からハネ上げて鼻血を出させたりしたという話である。しかもそれが冬の極寒の時であったというから随分辛かったであろう。むろんその鼻血ぐらいの事で稽古中止にはならない。斎田氏は襟元を血だらけにしたまま舞い続けたという。
◇
梅津朔造氏の「安宅」の披露能の時であった。勧進帳が済んで関所を越え、下曲前のサシ謡のところへ来るとシテの朔造氏がホッとしたものか、急に持病の喘息が差込んで来て、「たださながらに十余人」の謡を謡いさしたまま息を呑んでシテ座に平伏してしまった。 そこで謡を誰が代りに謡ったか記憶しないが下曲を終り、ワキとの懸合いに入ると、やっと朔造氏が気息を繕って顔色蒼然たるまま謡い出し、山伏舞を勤め終ったが、その焦瘁疲労の状は見るも気の毒な位であった。 朔造氏は幕に這入ると、装束のまま楽屋の畳の上に平伏して息も絶え絶えに噎せ入ったが、その背後から翁が、 「ええい……このヒョロヒョロ弁慶……ヒョロヒョロ弁慶……」 と罵倒する大声が、舞台、見所は勿論、近隣までも響き渡ったので、観衆は皆眼を丸くして顔を見合わせていた。 その時の筆者は十四五歳であったろうか。何事かと思って見所から楽屋を覗きに行ったものであったが、その時の翁の声と顔付の恐ろしかった事を想起すると、今でも肌に粟を生ずる思いがある。
◇
梅津利彦氏が十七八歳頃の事であったろうか。右手に赤塗のお盆を持って翁の後から舞台に行くので、子供心に何事かと思って随いて行った。 元来利彦氏のお稽古は、翁が自分の芸の後継者と思っていたのであろう。極度の酷烈を極めたものであったので、私は見るに忍びないために滅多にお稽古を拝見せず、外で遊ぶ事にきめていたのであった。
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