模範兵士
御維新後、煉瓦焼きが流行った際に、村から半道ばかり上の川添いの赤土山を、村の名主どんが半分ばかり切り取って売ってしまった。そのあとの雑木林の中から清水が湧くのを中心にして、いつからともなく乞食の部落が出来ているのを、村の者は単に川上川上と呼んでいた。 部落といっても、見すぼらしい蒲鉾小舎が、四ツ五ツ固まっているきりであったが、それでも郵便や為替も来るし、越中富山の薬売りも立ち寄る。それに又この頃は、日ごとに軍服厳めしい兵隊さんが帰省して来るというので、急に村の注意を惹き出した。何でも立派な身分の人の成れの果が隠れているらしいという噂であった。 その兵隊さんというのは、郵便局員の話によると西村さんというので、眼鼻立ちのパッチリした、活動役者のように優しい青年であるが、この部落の仲間では新米らしく、すこし離れた所に蒲鉾小舎を作って、その中に床に就いたままの女を一人匿まっている。その女の顔はよくわからないが年の頃は四十ばかりで、気味の悪いほど色の白い上品な顔で、西村さんがお土産をさし出すと、両手を合わせて泣きながら受け取っているのを見た……と……これは村の子守たちの話であった。 それから後西村さんの評判は、だんだん高くなるばかりであった。その女は西村さんの何であろうか……と噂が取り取りであったが、そのうちに、村でたった一軒だけ荒物屋に配達されている新聞に、西村さんの事が大きく写真入りで出た。
――西村二等卒は元来、東北の財産家の一人息子であったが、十三の年に父親が死ぬと間もなく一家が分散したので、母親に連れられて長崎の親類の処へ行くうちに、あわれや乞食にまで零落して終った。それから七年の間、方々を流浪していると、昨年の春から母親が癆症で、腰が抜けたので、とうとうこの川上の部落に落ちつく事になったが、丁度その時が適齢だったので、呼び出されて検査を受けると、美事に甲種で合格した。しかし西村二等卒は入営しても決して贅沢をしなかった。給料を一文も費わないばかりか、営庭の掃除の時に見付けた尾錠や釦を拾い溜めては、そんなものをなくして困っている同僚に一個一銭宛で売りつけて貯金をする。そうして日曜日を待ちかねて、母親を慰めに行くことが聯隊中の評判になったので、遂に聯隊長から表彰された。性質は極めて柔順温良で、勤務勉励、品行方正、成績優等……曰く何……曰く何……。
西村さんの評判はそれ以来絶頂に達した。日曜になると村の子守女が、吾も吾もと出かけて、川上の部落を取り巻いて、西村さんの親孝行振りを見物した。西村さんが病人の汚れものと、自分のシャツを一緒にして、朝霜の大川で洗濯するのを眺めながら「あたし西村さんの処へお嫁に行って上げたい」「ホンニナア」と涙ぐむ者さえあった。 そのうちに新聞社や、聯隊へ宛ててドシドシ同情金が送りつけて来たが、中には女の名前で、大枚「金五十円也」を寄贈するものが出来たりしたので、西村さんは急に金持ちになったらしく、同じ部落の者の世話で、母親の寝ている蒲鉾小舎を、家らしい形の亜鉛板張りに建て換えたりした。 「親孝行チウはすべきもんやナア」 と村の人々は歎息し合った。
ところが間もなく大変な事が起った。 ちょうど桜がチラチラし初めて、麦畑を雲雀がチョロチョロして、トテモいい日曜の朝のこと。カーキー色の軍服を、平生よりシャンと着た西村さんが、それこそ本当に活動女優ソックリの、ステキなハイカラ美人と一緒に自動車に乗って、川上の部落へやって来たのであった。 尤もこの日に限って西村さんは、何となく気が進まぬらしい態度で、自動車から降りると、泣き出しそうな青い顔をして尻込みをしているのを、ハイカラ美人が無理に手を引っぱって、亜鉛張りの家に這入ったが、母親はまだ睡っていたらしく、二人とも直ぐに外へ出て来た。 それから西村さんは直ぐに帰ろうとして自動車の方へ行きかけたけれども、ハイカラサンが無理やりに引き止めた。そうして自動車の中から赤い毛布を一枚と、美味そうなものを一パイ詰めた籠を出して、雑木林の中の空地に敷き並べると、部落に残っている片輪連中を五六人呼び集めて、奇妙キテレツな酒宴を初めた。 まず、最初は三々九度の真似事らしく、顔を真赤にして羞恥んでいる西村さんと、キャアキャア笑っているハイカラ美人が、呆気に取られている片輪たちの前で、赤い盃を遣ったり取ったり、押し戴いたりしていたが、間もなく外の連中も、白い盃や茶呑茶碗でガブガブとお酒を呑み初めた。その御馳走の中には、ネジパンや、西洋のお酒らしい細長い瓶や、ネープル蜜柑などがあったが、その他は誰一人見たことも聞いたこともない鑵詰みたようなものばかりを、寄ってたかってお美味そうにパクついていた。 西村さんもハイカラ美人にお酌をされて恥かしそうに飲んでいたが、その中にハイカラ美人はスッカリ酔っ払ってしまったらしく、毛布の上に立ち上って何かしらペラペラと、演説みたような事を饒舌り初めた。それから赤い湯もじをお臍の上までマクリ上げると、大きな真白いお尻を振り立てて、妙テケレンな踊りをおどり出した。それを片輪連中が手をたたいて賞めていた……。 ……までは、よっぽど面白かったが、間もなく横のトタン葺きの小舎から、幽霊のように痩せ細った西村さんのお母さんが、白い湯もじ一貫のまま、ヒョロヒョロと出て来た姿を見ると、みんな震え上がってしまった。 青白い糸のような身体に、髪毛をバラバラとふり乱して、眼の玉を真白に剥き出して、歯をギリギリと噛んで、まるで般若のようにスゴイ顔つきであったが、慌てて抱き止めようとする西村さんを突き飛ばすと、踊りを止めてボンヤリ突立っているハイカラ美人に、ヨロヨロとよろめきかかった。そのままシッカリと抱き付いて、眼の玉をギョロギョロさせながら、口を耳までアーンと開いて喰い付こうとした。それを西村さんが一生懸命に引き離して、ハイカラ美人の手を取りながら、自動車に乗ってドンドン逃げて行った。あとにはお母さんが片息になって倒れているのを、皆で介抱しているようであったが、離れた処から見ていた上に、言葉が普通と違っているので、どんな経緯なのかサッパリわからなかった……という子守女たちの報告であった。 「フーン。それは、わかり切っとるじゃないか」 と、聞いていた荒物屋の隠居は、新聞片手に子守女たちを見まわした。 「西村さんのお母さんが、そんな女は嫁にすることはならんと云うて、止めたまでの事じゃがナ」 子守女たちは、みんな妙な顔をした。何だかわかったような、わからぬようなアンバイで、張り合い抜けがしたように、荒物屋の店先から散って行った。
ところが又、その翌る日の正午頃になると、村の駐在巡査と、部長さんらしい金モールを巻いた人を先に立てて、村の村医と腰にピストルをつけた憲兵との四人が、めいめいに自転車のベルの音をケタタマシク立てながら村を通り抜けて、川上の方へ行ったので、通り筋の者は皆、何事かと思って、表へ飛び出して見送った。その中から一人行き、二人駈け出しして行ったので、川上の部落のまわりは黒山のような人だかりになったが、そんな連中が帰って来てからの話によると、事件というのは西村のお母さんが昨夜のうちに首を縊ったので、昨日のハイカラ美人が殺したのじゃないかと、疑いがかかっているらしい……というのであった。 しかし、それにしても様子がおかしいというので、評議が区々になっていたが、あくる朝を待ちかねて人々が、荒物屋に集まってみると、果して、事件の真相が詳しく新聞に出ていた。「模範兵士の化けの皮」という大きな標題で……
……西村二等卒の性行を調査の結果、表面温順に見える一種の白痴で、且つ、甚だしい変態性慾の耽溺者であることがわかった。すなわち、その母親として仕えていたのは、実は子供の時から可愛がられていた情婦に過ぎないのであったが、最近に至って有名な箱師のお玉という、これも変態的な素質を持った毒婦が、模範兵士の新聞記事を見て、大胆にも原籍本名を明記した封筒に、長々しい感激の手紙と、五拾円也の為替を入れて聯隊長宛に送って来た。これを本紙の記事によって知った警察当局では、極秘裡に彼女の所在を厳探中であったが、あくまでも大胆不敵なお玉は、その中を潜って西村と関係を結んだらしく、すっかり西村を丸め込んでしまった揚句、二人で自動車に同乗して、贋の母親を嘲弄しに行ったのが一昨日曜の午前中の事であったという。ところが西村はそのまま、隊へは帰らずに、駅前の旅館で服装を改めて、お玉と一緒に逃亡した模様である。一方に西村の贋母親は、憤慨の余り縊死していることが昨朝に至って発見されたので、早速係官が出張して取調の結果、他殺の疑いは無いことになった。しかし、同時に、附近の乞食連中の言に依って、この種の変態的関係は、彼等仲間の通有的茶飯事で、決して珍らしい事ではないと判明したので、係官も苦笑に堪えず……云々……。
「……ところでこの、ヘンタイ、セイヨクの、何とかチウのは、何じゃろか……」 「おらにもわからんがナ」 と荒物屋の隠居は、大勢に取り巻かれながら、投げ出すように云った。 「近頃の新聞はチットでも訳のわからんことがあると、すぐに、ヘンタイ何とかチウて書きおるでナ。おらが思うに西村さんは、やっぱり親孝行者じゃったのよ。それが性の悪い女に欺されて、大病人の母親を見すてたので、義理も恩もしらぬ近所隣りの乞食めらが、あとの世話を面倒がって、何とかかとかケチをつけて、無理往生に首を縊らせたのじゃないかと思うがナ……ドウジャエ……」 皆一時にシンとなった。
兄貴の骨
「お前の家の、一番西に当る軒先から、三尺離れた処を、誰にも知らせぬようにして掘って見よ。何尺下かわからぬが、石が一個埋もっている筈じゃ。その石を大切に祭れば、お前の女房の血の道は一と月経たぬうちに癒る。一年のうちには子供も出来る。二人ともまだ若いのじゃから……エーカナ……」 「ヘーッ」 と若い文作はひれ伏した。その向うには何でも適中るという評判の足萎え和尚さんが、丸々と肥った身体に、浴衣がけの大胡座で筮竹を斜に構えて、大きな眼玉を剥いていた。 その座布団の前に文作は、五十銭玉を一つ入れた状袋を、恐る恐る差し出して又ひれ伏した。するとその頭の上から、和尚の胴間声が雷のように響いて来た。 「しかし、早うせんと、病人の生命が無いぞ……」 「ヘーッ……」 と文作は今一度畳の上に額をすりつけると、フラフラになったような気もちで方丈を出た。途中で寒さ凌ぎに一パイ飲んで、夕方になって、やっと自宅へ帰りついた文作は着のみ着のまま、物も云わずに、蒲団を冠って寝てしまった。難産のあとの血の道で、お医者に見放されてブラブラしている女房が心配して、どうしたのかと、いろいろに聞いても返事もせずにグーグー鼾をかいていたが、やがて夜中過ぎになると文作は、女房の寝息を窺いながらソーッと起き上って、裏口から、西側の軒下にまわった。そこに積んであった薪を片づけて、分捕りスコップ(日露戦役戦利払下品)を取り上げると、氷のような満月の光を便りに、物音を忍ばせてセッセと掘り初めたが、鍬と違って骨が折れるばかりでなく、土が馬鹿に固くて、三尺ばかり掘り下げるうちに二の腕がシビレて来たので、文作はホッと一息して腰を伸ばした。 するとその時に、今まで気がつかなかったが、最初に掘り返した下積みの土の端っこに、何やら白いものが二ツ三ツコロコロと混っているのが見えた。文作はそれを、何の気もなく月あかりに抓み出しながら、泥を払い落してみると、それは魚よりすこし大きい位の背骨の一部だったので、文作は身体中の血が一時に凍ったようにドキンとした。ワナワナと慄え出しながら、切れるように冷たい土を両手で掻き拡げて、丹念に探しまわってみると、泥まみれになってはいるが、脊椎骨らしいものが七八ツと、手足の骨かと思われるものが二三本と、わけのわからない平べったい、三角形の骨が二枚と、一番おしまいに、黒い粘っこい泥が一パイに詰まった、頭蓋骨らしいものが一個出た。 文作は、もうすこしで大声をあげるところであったが、女房が寝ていることを思い出してやっと我慢した。身体中がガタガタと慄えて、頭が物に取り憑かれたようにガンガンと痛み出した。横路地から這うようにして往来に出ると、一目散に馳け出した。 文作が足萎え和尚の寝ている方丈の雨戸をたたいた時には、もう夜が明けはなれていたが、和尚が躄りながら雨戸を開けて「何事か」と声をかけると、文作は「ウーン」と云うなり霜の降ったお庭へ引っくり返ってしまった。 それをやがて起きて来た梵妻や寺男が介抱をしてやると、やっと正気づいたので、手足の泥を洗わせて方丈へ連れ込んだのであったが、熱い湯を飲ませて落ちつかせながら、詳しく事情を聞き取るうちに、和尚はニヤリニヤリと笑い出して、何度も何度も首肯いた。 「ウーム。そうじゃろう……そうじゃろうと思うた。実はナ……埋まっているのが人間の骨じゃと云うと、臆病者のお前が、よう掘るまいと思うたから石じゃと云うておいたのじゃが、その骨というのはナ……エエか……ほかならぬ、お前の兄貴の骨じゃぞ……」 「ゲーッ。私の兄貴の……」 「……と云うてもわかるまいが……これには深い仔細があるのじゃ」 「ヘエッ。どんな仔細で……」 「まあ急き込まずとよう聞け。……ところでまず、その前に聞くが、お前は昨日来た時に両親はもう居らんと云うたノ」 「ヘエ。一昨年の大虎列剌の時に死にましたので……」 「ウンウン。それじゃから云うて聞かすが、お前の母親というのは、ああ見えても若いうちはナカナカ男好きじゃったのでナ。ちょうどお前の処に嫁入る半年ばかり前に、拙僧の処へコッソリと相談に来おってナ……こう云うのじゃ。わたしはこの間の盆踊りの晩に、誰とも知れぬ男の胤を宿したが、まだ誰にも云わずにいるうちに、文太郎さんが養子に来ることになりました。わたしも文太郎さんなら固い人じゃけに、一緒になってもええと思うけれど、お腹の子があってはどうにもならぬ故、どうか一ツ御祈祷をして下さらんかという是非ない頼みじゃ。そこで拙僧は望み通りに、真言秘密の御祈祷をしてやって、出て来た孩児はこれこれの処に埋めなさい……とまで指図をしておいたが……それがソレ……その骨じゃ。エエカナ……ところが、それから二十年余り経った昨日の事、お前がやって来てからの頼みで、卦を立ててみると……どうじゃ……その盆踊りの晩に、お前の母親の腹に宿ったタネというのは、お前の父親……すなわち文太郎のタネに相違ないという本文が出たのじゃ。つまりその、堕胎された孩児というのは、取りも直さずお前の兄さんで、お前の代りに家倉を貰う身柄であったのを、闇から闇に落されたわけで、多分この事はお前の両親も知っていたろうと思われる証拠には……ソレ……その孩児を埋めた土の上がわざっと薪置場にしてあったじゃろう。けれども、その兄貴の怨みはきょうまでも消えず、お前の家の跡を絶やすつもりで、お前の女房に祟っているのでナ……出て来たものを丁寧に祭れと云うたのはここの事ジャ……エーカナ。本当を云うと、これはお前の母親の過失で、お前や、お前の女房が祟られる筋合いの無いのじゃが、そこが人間凡夫の浅ましさでナ……」 という風に和尚は、引き続いて長々とした説教を始めた。 文作は青くなったり、赤くなったりして、首肯首肯聞いていたが、そのうちに立っても居てもいられぬようにソワソワし始めた。和尚の志の茶づけを二三杯、大急ぎで掻き込むとそのまま、霜解けの道を走って帰った。
ところが帰って来て見ると、文作が心配していた以上の大騒ぎになっていた。 文作が昨日のうちに、軒下から孩児の骨を掘り出したまま、どこかへ逃げてしまっている。女房はそれを聞くと一ペンに血が上がって、医師が間に合わぬうちに歯を喰い締めて息を引き取った……というので文作の家の中には、村の女房達がワイワイと詰めかけている。家の外には老人や青年が真黒に集まって、泥だらけの白骨を中心に、大評議をしている……というわけで……そこへ文作が帰って来たのであったが、女房の死骸を一眼見ると、文作は青い顔をしたまま物をも云わず外へ飛び出して、村の人々を押しわけて、白骨の置いてある土盛りの処へ来た。ジイッと泥だらけの白骨を見ていたがイキナリその上に突伏して、 「兄貴……ヒドイ事をしてくれたなア……」 と大声をあげて泣き出した。 人々は文作が発狂したのかと思った。けれども、そのうちに、駐在所の旦那や区長さんが来て、顔中泥だらけにして泣いている文作を引きずり起こすと、文作は土の上に坐ったまま、シャクリ上げシャクリ上げして一伍一什を話し出した。 聞いていた人々は皆眼を丸くして呆れた。顔を見交して震え上った。うしろから取り巻いて耳を立てていた女たちの中には、気持ちがわるくなったと云って水を飲みに行ったものもあった。 それから間もなく件の白骨は、キレイに洗い浄められて、古綿を詰めたボールの菓子箱に納まって、文作の家の仏壇に、女房の位牌と並べて飾られた。評判に釣られて見に来る人が多いので、文作の女房の葬式は近頃にない大勢の見送りであった。 ところが事件はこれで済まなかった。どうも話がおかしいというので、駐在所の旦那が色々と取調べたあげく、一週間ばかりしてから郡の医師会長の学士さんに来てもらって、件の白骨を見てもらうと、犬の骨に間違いない……という鑑定だったので又も大評判になった。その結果、あくまでも人間の胎児の骨だと云い張った足萎え和尚は、拘留処分を受けることになったが、しかし村の者の大部分は学士さんの鑑定を信じなかった。文作の話をどこまでも本当にして、云い伝え聞き伝えしたので、足萎え和尚を信仰するものが、前よりもズッと殖えるようになった。 文作もその後久しく独身でいるが、誰も恐ろしがって嫁に来るものが無い。
X光線
電車会社の大きなベースボールグラウンドが、村外れの松原を切り開いて出来た。その開場式を兼ねた第一回の野球試合の入場券が村中に配られた。おまけにその救護班の主任が、その村の村医で、郡医師会の中でも一番古参の人格者と呼ばれている、松浦先生に当ったというので、村中の評判は大したものであった。本物のベースボールというものは、戦争みたように恐ろしいもので時々怪我人が出来る。救護班というのは、その怪我人を介抱する赤十字みたようなものだ……なぞと真顔になって説明するものさえあった。 当の本人の松浦先生も、むろんステキに意気込んでいた。当日の朝になると、まだ暗いうちに一帳羅のフロックコートを着て、金鎖を胸高にかけて、玄関口に寄せかけた新調の自転車をながめながら、ニコニコ然と朝飯の膳に坐ったが、奥さんの心づくしの鯛の潮煮を美味そうに突ついているうちに、フト、二三度眼を白黒さした。それから汁椀をソッと置いて、大きな飯の固まりを二ツ三ツ、頬張っては呑み込み呑み込みしたと思うと、真青になってガラリと箸を投げ出してしまった。奥さんが仔細を尋ねる間もなく立ち上って、帽子を冠って、新しい靴下の上から、古い庭穿きを突かけると、自転車に跨りながらドンドン都の方へ走り出した。 一時間ばかり走って、やっと都の中央の、目貫きの処に開業している、遠藤という耳鼻咽喉科病院の玄関に乗りつけた松浦先生は、滝のように流るる汗を拭き拭き、通りかかった看護婦に名刺を出して診察を頼んだ。 「鯛の骨が咽喉へかかりましたので……どうかすぐに先生へ……」 間もなく真暗な室に通された松浦先生は、白い診察服を着けた堂々たる遠藤博士と、さし向いに坐りながら、禿頭をペコペコ下げて汗を拭き続けた。 「そんな訳で、気が急いておりましたせいか、ここの処に鯛の骨が刺さりまして、痛くてたまりませんので……実は先年、講習会へ参りました時に、先生のお話を承りまして……ある老人が食道に刺さった鯛の骨を放任しておいたら、その骨が肉の中をめぐりめぐって、心臓に突き刺さったために死亡した……という、あのお話を思い出しましたので……」 「ハハハハハ……イヤ。あの話ですか」 と遠藤博士は、肥った身体を反り気味にして苦笑した。 「あんな例は、滅多にありませんので……さほど御心配には及ぶまいと思いますが」 「ハイ……でも……実は、忰が、来年大学を卒業致しますので、それまでに万一の事がありましては申訳ありませんから、念のために是非一ツ……」 「イヤ……御尤もで……」 と遠藤博士は苦笑しいしい金ぶち眼鏡をかけ直して、ピカピカ光る凹面鏡を取り上げた。松浦先生の口をあけさせて、とりあえず喉頭鏡を突込んでみたが、そこいらに骨は見当らなかった。けれども痛いのは相変らず痛いというので、それでは食道鏡を入れてみようという事になった。 松浦先生は食道鏡というものを初めて見たらしかったが、奇妙な恐ろしい恰好の椅子に坐らせられて、二名の看護婦に両手を押えられたまま食道鏡の筒をさしつけられると、フト又青い顔になって遠藤博士を見上げた。 「これが……胃袋を突き通した器械で……」 と云いかけて口籠もった。遠藤博士は噴き出した。 「アハハハハハ、あの話を御記憶でしたか。あれはソノ何ですよ。あれは西洋で初めて食道鏡を使った時の失敗談で、手先の器用な日本人だったら、あんなヘマな事をする気遣いはありませんよ。サア、御心配なく口を開いて……もっと上を向いて……そうそう……」 食道鏡が突き込まれると、松浦先生は天井を仰いだまま、開口器を噛み砕くかと思うほど苦悶し初めた。大粒の涙をポトポト落しながら、青くなり、又赤くなったが、そんなにして残りなく調べてもらっても、骨らしいものはどこにも見つからなかった。 しかし、それでも唾を飲み込んでみると、痛いのは相変らず痛いというので、思い切って今一度診てもらいたいと云い出した。遠藤博士も苦笑しいしい、今一度食道鏡を突込んだ。 こうして、三度までくり返したけれども、骨は依然として見付からない。しかし痛い処はやはり痛いというので、流石の遠藤博士も持て余したらしく、懇意なX光線の専門家に紹介してやるから、そこで探してもらったらよかろう……と云って名刺を一枚渡した。
X光線によって照し出された鯛の骨の在所を、正面と、横からと、二枚の図に写してもらった松浦先生は、又も遠藤博士の処に引返して来たが、博士はたった今急患を往診に出かけたというので、今度は町外れに在る大学の耳鼻科に駈け込んだ。 そこには若い医員が一パイに並んで診察をしていたが、その中の一人が、松浦先生の話をきくと、X光線の図には一瞥だも与えないで冷笑した。 「……馬鹿な……そんな小さな骨がX光線に感じた例はまだ聞きません。こちらへお出でなさい。とにかく診てあげますから」 といううちに松浦先生を別室に連れて行って、又も奇妙な、恐ろしい形の椅子に腰をかけさせた。しかしその時には松浦先生の食道が、一面に腫れ爛れて、食道鏡が一寸触っても悲鳴をあげる位になっていたので、若い医員はスコポラミンの注射をしてから食道鏡を入れた。 けれども、ここで又三回ほど食道鏡を出したり入れたりされているうちに、松浦先生はもうフラフラになってしまった。 「もう結構です。骨が取れましたせいか、痛みがわからなくなりましたようで……その代り何だか眼がまわりますようで……」 「それじゃ、このベッドの上で暫く休んでからお帰りなさい。注射が利いているうちは眼がまわりますから」 と云い棄てて、若い医員は立ち去った。 松浦先生は……しかしベースボールの方が気にかかっていたかして、そのまま自転車に乗って大学を出たらしかった。そうして途中で注射がホントウに利き出して、眼が眩んだものらしく、国道沿いの海岸の高い崖の上から、自転車もろともころげ落ちて死んでいるのが、間もなく通りかかりの者に発見された。 その右の手には、X光線の図を二枚とも、固く握り締めていたという。
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