拾
或る日の晩の事であった。末造が来て箱火鉢の向うに据わった。始ての晩からお玉はいつも末造の這入って来るのを見ると、座布団を出して、箱火鉢の向うに敷く。末造はその上に胡坐を掻いて、烟草を飲みながら世間話をする。お玉は手持不沙汰なように、不断自分のいる所にいて、火鉢の縁を撫でたり、火箸をいじったりしながら、恥かしげに、詞数少く受答をしている。その様子が火鉢から離れて据わらせたら、身の置所に困りはすまいかと思われるようである。火鉢と云う胸壁に拠って、僅かに敵に当っていると云っても好い位である。暫く話しているうちに、お玉はふと調子附いて長い話をする。それが大抵これまで父親と二人で暮していた、何年かの間に閲して来た、小さい喜怒哀楽に過ぎない。末造はその話の内容を聴くよりは、籠に飼ってある鈴虫の鳴くのをでも聞くように、可哀らしい囀の声を聞いて、覚えず微笑む。その時お玉はふいと自分の饒舌っているのに気が附いて、顔を赤くして、急に話を端折って、元の詞数の少い対話に戻ってしまう。その総ての言語挙動が、いかにも無邪気で、或る向きには頗る鋭利な観察をすることに慣れている末造の目で見れば、澄み切った水盤の水を見るように、隅々まで隠れる所もなく見渡すことが出来る。こう云う差向いの味は、末造がためには、手足を働かせた跡で、加減の好い湯に這入って、じっとして温まっているように愉快である。そしてこの味を味うのが、末造がためには全く新しい経験に属するので、末造はこの家に通い始めてから、猛獣が人に馴れるように、意識せずに一種の culture を受けているのである。 それに三四日立った頃から、自分が例の通りに箱火鉢の向うに胡坐を掻くと、お玉はこれと云う用もないに立ち働いたり何かして、とかく落ち着かぬようになったのに、末造は段々気が附いて来た。はにかんで目を見合せぬようにしたり、返事を手間取らせたりすることは最初にもあったが、今晩なんぞの素振には何か特別な仔細がありそうである。 「おい、お前何か考えているね」と、末造が烟管に烟草を詰めつつ云った。 わざわざ片附けてあるような箱火鉢の抽斗を、半分抜いて、捜すものもないのに、中を見込んでいたお玉は、「いいえ」と云って、大きい目を末造の顔に注いだ。昔話の神秘は知らず、余り大した秘密なんぞをしまって置かれそうな目ではない。 末造は覚えず蹙めていた顔を、又覚えず晴やかにせずにはいられなかった。「いいえじゃあないぜ。困っちまう。どうしよう。どうしようと、ちゃんと顔に書いてあらあ」 お玉の顔はすぐに真っ赤になった。そして姑く黙っている。どう言おうかと考える。細かい器械の運転が透き通って見えるようである。「あの、父の所へ疾うから行って見よう、行って見ようと思っていながら、もう随分長くなりましたもんですから」 細かい器械がどう動くかは見えても、何をするかは見えない。常に自分より大きい、強い物の迫害を避けなくてはいられぬ虫は、mimicry を持っている。女は嘘を衝く。 末造は顔で笑って、叱るような物の言様をした。「なんだ。つい鼻の先の池の端に越して来ているのに、まだ行って見ないでいたのか。向いの岩崎の邸の事なんぞを思えば、同じ内にいるようなものだぜ。今からだって、行こうと思えば行けるのだが、まあ、あすの朝にするが好い」 お玉は火箸で灰をいじりながら、偸むように末造の顔を見ている。「でもいろいろと思って見ますものですから」 「笑談じゃないぜ。その位な事を、どう思って見ようもないじゃないか。いつまでねんねえでいるのだい」こん度は声も優しかった。 この話はこれだけで済んだ。とうとうしまいには末造が、そんなにおっくうがるようなら、自分が朝出掛けて来て、四五町の道を連れて行って遣ろうかなどとも云った。 お玉はこの頃種々に思って見た。檀那に逢って、頼もしげな、気の利いた、優しい様子を目の前に見て、この人がどうしてそんな、厭な商売をするのかと、不思議に思ったり、なんとか話をして、堅気な商売になって貰うことは出来まいかと、無理な事を考えたりしていた。しかしまだ厭な人だとは少しも思わなかった。 末造はお玉の心の底に、何か隠している物のあるのを微かに認めて、探りを入れて見たが、子供らしい、なんでもない事だと云うのであった。しかし十一時過ぎにこの家を出て、無縁坂をぶらぶら降りながら考えて見れば、どうもまだその奥に何物かが潜んでいそうである。末造の物馴れた、鋭い観察は、この何物かをまるで見遁してはおらぬのである。少くも或る気まずい感情を起させるような事を、誰かがお玉に話したのではあるまいかとまで、末造は推測を逞うして見た。それでも誰が何を言ったかは、とうとう分からずにしまった。
拾壱
翌朝お玉が、池の端の父親の家に来た時は、父親は丁度朝飯を食べてしまった所であった。化粧の手間を取らないお玉が、ちと早過ぎはせぬかと思いながら、急いで来たのだが、早起の老人はもう門口を綺麗に掃いて、打水をして、それから手足を洗って、新しい畳の上に上がって、いつもの寂しい食事を済ませた所であった。 二三軒隔てては、近頃待合も出来ていて、夕方になれば騒がしい時があるが、両隣は同じように格子戸の締まった家で、殊に朝のうちは、あたりがひっそりしている。肱掛窓から外を見れば、高野槙の枝の間から、爽かな朝風に、微かに揺れている柳の糸と、その向うの池一面に茂っている蓮の葉とが見える。そしてその緑の中に、所所に薄い紅を点じたように、今朝開いた花も見えている。北向の家で寒くはあるまいかと云う話はあったが、夏は求めても住みたい所である。 お玉は物を弁えるようになってから、若し身に為合せが向いて来たら、お父っさんをああもして上げたい、こうもして上げたいと、色々に思っても見たが、今目の前に見るように、こんな家にこうして住まわせて上げれば、平生の願がったのだと云っても好いと、嬉しく思わずにはいられなかった。しかしその嬉しさには一滴の苦い物が交っている。それがなくて、けさお父っさんに逢うのだったら、どんなにか嬉しかろうと、つくづく世の中の儘ならぬを、じれったくも思うのである。 箸を置いて、湯呑みに注いだ茶を飲んでいた爺いさんは、まだついぞ人のおとずれたことのない門の戸の開いた時、はっと思って、湯呑を下に置いて、上り口の方を見た。二枚折の葭簀屏風にまだ姿の遮られているうちに、「お父っさん」と呼んだお玉の声が聞えた時は、すぐに起って出迎えたいような気がしたのを、じっとこらえて据わっていた。そしてなんと云って遣ろうかと、心の内にせわしい思案をした。「好くお父っさんの事を忘れずにいたなあ」とでも云おうかと思ったが、そこへ急いで這入って来て、懐かしげに傍に来た娘を見ては、どうもそんな詞は口に出されなくなって、自分で自分を不満足に思いながら、黙って娘の顔を見ていた。 まあ、なんと云う美しい子だろう。不断から自慢に思って、貧しい中にも荒い事をさせずに、身綺麗にさせて置いた積ではあったが、十日ばかり見ずにいるうちに、まるで生れ替って来たようである。どんな忙しい暮らしをしていても、本能のように、肌に垢の附くような事はしていなかった娘ではあるが、意識して体を磨くようになっているきのうきょうに比べて見れば、爺いさんの記憶にあるお玉の姿は、まだ璞のままであった。親が子を見ても、老人が若いものを見ても、美しいものは美しい。そして美しいものが人の心を和げる威力の下には、親だって、老人だって屈せずにはいられない。 わざと黙っている爺いさんは、渋い顔をしている積であったが、不本意ながら、つい気色を和げてしまった。お玉も新らしい境遇に身を委ねた為めに、これまで小さい時から一日も別れていたことのない父親を、逢いたい逢いたいと思いながら、十日も見ずにいたのだから、話そうと思って来た事も、暫くは口に出すことが出来ずに、嬉しげに父親の顔を見ていた。 「もうお膳を下げまして宜しゅうございましょうか」と、女中が勝手から顔を出して、尻上がりの早言に云った。馴染のないお玉には、なんと云ったか聞き取れない。髪を櫛巻にした小さい頭の下に太った顔の附いているのが、いかにも不釣合である。そしてその顔が不遠慮に、さも驚いたように、お玉を目守っている。 「早くお膳を下げて、お茶を入れ替えて来るのだ。あの棚にある青い分のお茶だ」爺いさんはこう云って、膳を前へ衝き出した。女中は膳を持って勝手へ這入った。 「あら。好いお茶なんか戴かなくっても好いのだから」 「馬鹿言え。お茶受もあるのだ」爺いさんは起って、押入からブリキの鑵を出して、菓子鉢へ玉子煎餅を盛っている。「これは宝丹のじき裏の内で拵えているのだ。この辺は便利の好い所で、その側の横町には如燕の佃煮もある」 「まあ。あの柳原の寄席へ、お父っさんと聞きに行った時、何か御馳走のお話をして、その旨きこと、己の店の佃煮の如しと云って、みんなを笑わせましたっけね。本当に福福しいお爺いさんね。高座へ出ると、行きなりお尻をくるっとまくって据わるのですもの。わたくし可笑しくって。お父っさんもあんなにお太りなさるようだと好いわ」 「如燕のように太ってたまるものか」と云いながら、爺いさんは煎餅を娘の前へ出した。 そのうち茶が来たので、親子はきのうもおとついも一しょにいたもののように、取留のない話をしていた。爺いさんがふと何か言いにくい事を言うように、こう云った。 「どうだい、工合は。檀那は折々お出になるかい」 「ええ」とお玉は云ったぎり、ちょいと返事にまごついた。末造の来るのは折々どころではない。毎晩顔を出さないことはない。これがよめに往ったので、折合が好いかと問われたのなら、大層好いから安心して下さいと、晴れ晴れと返事が出来るのだろう。それがこうした身の上で見れば、どうも檀那が毎晩お出になるとは、気が咎めて言いにくい。お玉は暫く考えて、「まあ、好い工合のようですから、お父っさん、お案じなさらなくっても好ござんすわ」と云った。 「そんなら好いが」と爺いさんは云ったが、娘の答にどこやら物足らぬ所のあるのを感じた。問う人も、答える人も無意識に含糊の態をなして物を言うようになったのである。これまで何事も打ち明け合って、お互の間に秘密と云うものを持っていたことのない二人が、厭でも秘密のあるらしい、他人行儀の挨拶をしなくてはならなくなったのである。前に悪い壻を取って騙された時なんぞは、近所の人に面目ないとは思っても、親子共胸の底には曲彼に在りと云う心持があったので、互に話をし合うには、少しも遠慮はしなかった。その時とは違って、親子は一旦決心して纏めた話が旨く纏まって、不自由のない身の上になっていながら、今は親しい会話の上に、暗い影のさす、悲しい味を知ったのである。暫くして爺いさんは、何か娘の口から具体的な返事が聞きたいような気がしたので、「一体どんな方だい」と、又新しい方角から問うて見た。 「そうね」と云って、お玉は首を傾げていたが、独語のような調子で言い足した。「どうも悪い人だとは思われませんわ。まだ日も立たないのだけれども、荒い詞なんぞは掛けないのですもの」 「ふん」と云って、爺いさんは得心の行かぬような顔をした。「悪い人の筈はないじゃないか」 お玉は父親と顔を見合せて、急に動悸のするのを覚えた。きょう話そうと思って来た事を、話せば今が好い折だとは思いながら、切角暮らしを楽にして、安心をさせようとしている父親に、新しい苦痛を感ぜさせるのがつらいからである。そう思ったので、お玉は父親との隔たりの大きくなるような不快を忍んで、日影ものと云う秘密の奥に、今一つある秘密を、ここまで持って来たまま蓋を開けずに、そっくり持って帰ろうと、際どい所で決心して、話を余所に逸らしてしまった。 「だって随分いろいろな事をして、一代のうちに身上を拵えた人だと云うのですから、わたくしどんな気立の人だか分からないと思って、心配していたのですわ。そうですね。なんと云ったら好いでしょう。まあ、おとこ気のある人と云う風でございますの。真底からそんな人なのだか、それはなかなか分からないのですけれど、人にそう見せようと心掛けて何か言ったりしたりしている人のようね。ねえ、お父っさん。心掛ばかりだってそんなのは好いじゃございませんか」こう云って、父親の顔を見上げた。女はどんな正直な女でも、その時心に持っている事を隠して、外の事を言うのを、男程苦にしはしない。そしてそう云う場合に詞数の多くなるのは、女としては余程正直なのだと云っても好いかも知れない。 「さあ。それはそんな物かも知れないな。だが、なんだかお前、檀那を信用していないような、物の言いようをするじゃないか」 お玉はにっこりした。「わたくしこれで段々えらくなってよ。これからは人に馬鹿にせられてばかりはいない積なの。豪気でしょう」 父親はおとなしい一方の娘が、めずらしく鋒を自分に向けたように感じて、不安らしい顔をして娘を見た。「うん。己は随分人に馬鹿にせられ通しに馬鹿にせられて、世の中を渡ったものだ。だがな、人を騙すよりは、人に騙されている方が、気が安い。なんの商売をしても、人に不義理をしないように、恩になった人を大事にするようにしていなくてはならないぜ」 「大丈夫よ。お父っさんがいつも、たあ坊は正直だからとそう云ったでしょう。わたくし全く正直なの。ですけれど、この頃つくづくそう思ってよ。もう人に騙されることだけは、御免を蒙りたいわ。わたくし嘘を衝いたり、人を騙したりなんかしない代には、人に騙されもしない積なの」 「そこで檀那の言うことも、うかとは信用しないと云うのかい」 「そうなの。あの方はわたくしをまるで赤ん坊のように思っていますの。それはあんな目から鼻へ抜けるような人ですから、そう思うのも無理はないのですけれど、わたくしこれでもあの人の思う程赤ん坊ではない積なの」 「では何かい。何かこれまで檀那の仰ゃった事に、本当でなかった事でもあったのを、お前が気が附いたとでも云うのかい」 「それはあってよ。あの婆あさんが度々そう云ったでしょう。あの人は奥さんが子供を置いて亡くなったのだから、あの人の世話になるのは、本妻ではなくっても、本妻も同じ事だ。只世間体があるから、裏店にいたものを内に入れることは出来ないのだと云ったのね。ところが奥さんがちゃあんとあるの。自分で平気でそう云うのですもの。わたくしびっくりしてよ」 爺いさんは目を大きくした。「そうかい。矢っ張媒人口だなあ」 「ですから、わたくしの事を奥さんには極の内証にしているのでしょう。奥さんに嘘を衝く位ですから、わたくしにだって本当ばかし云っていやしませんわ。わたくし眉毛に唾を附けていなくちゃあ」 爺いさんは飲んでしまった烟草の吸殻をはたくのも忘れて、なんだか急にえらくなったような娘の様子をぼんやりと眺めていると、娘は急に思い出した様に云った。「わたくしきょうはもう帰ってよ。こうして一度来て見れば、もうなんでもなくなったから、これからはお父っさんとこへ毎日のように見に来て上げるわ。実はあの人が往けと云わないうちに来ては悪いかと思って、遠慮していたの。とうとうゆうべそう云ってことわって置いて、けさ来たのだわ。わたくしの所へ来た女中は、それは子供で、お午の支度だって、わたくしが帰って手伝って遣らなくては出来ないの」 「檀那にことわって来たのなら、午もこっちで食べて行けば好い」 「いいえ。不用心ですわ。またすぐ出掛けて来てよ。お父っさん。さようなら」 お玉が立ち上がるとたんに、女中が慌てて履物を直しに出た。気が利かぬようでも、女は女に遭遇して観察をせずには置かない。道で行き合っても、女は自己の競争者として外の女を見ると、或る哲学者は云った。汁椀の中へ親指を衝っ込む山出しの女でも、美しいお玉を気にして、立聴をしていたものと見える。 「じゃあ又来るが好い。檀那に宜しく言ってくれ」爺いさんは据わったままこう云った。 お玉は小さい紙入を黒襦子の帯の間から出して、幾らか紙に撚って女中に遣って置いて、駒下駄を引っ掛けて、格子戸の外へ出た。 たよりに思う父親に、苦しい胸を訴えて、一しょに不幸を歎く積で這入った門を、我ながら不思議な程、元気好くお玉は出た。切角安心している父親に、余計な苦労を掛けたくない、それよりは自分を強く、丈夫に見せて遣りたいと、努力して話をしているうちに、これまで自分の胸の中に眠っていた或る物が醒覚したような、これまで人にたよっていた自分が、思い掛けず独立したような気になって、お玉は不忍の池の畔を、晴やかな顔をして歩いている。 もう上野の山をだいぶはずれた日がくわっと照って、中島の弁天の社を真っ赤に染めているのに、お玉は持って来た、小さい蝙蝠をも挿さずに歩いているのである。
拾弐
或る晩末造が無縁坂から帰って見ると、お上さんがもう子供を寝かして、自分だけ起きていた。いつも子供が寝ると、自分も一しょに横になっているのが、その晩は据わって俯向加減になっていて、末造が蚊屋の中に這入って来たのを知っていながら、振り向いても見ない。 末造の床は一番奥の壁際に、少し離して取ってある。その枕元には座布団が敷いて、烟草盆と茶道具とが置いてある。末造は座布団の上に据わって、烟草を吸い附けながら、優しい声で云った。 「どうしたのだ。まだ寐ないでいるね」 お上さんは黙っている。 末造も再び譲歩しようとはしない。こっちから媾和を持ち出したに、彼が応ぜぬなら、それまでの事だと思って、わざと平気で烟草を呑んでいる。 「あなた今までどこにいたんです」お上さんは突然頭を持ち上けて、末造を見た。奉公人を置くようになってから、次第に詞を上品にしたのだが、差向いになると、ぞんざいになる。ようよう「あなた」だけが維持せられている。 末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云わない。何等かの知識を女房が得たらしいとは認めても、その知識の範囲を測り知ることが出来ぬので、なんとも云うことが出来ない。末造は妄りに語って、相手に材料を供給するような男ではない。 「もう何もかも分かっています」鋭い声である。そして末の方は泣声になり掛かっている。 「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」さも意外な事に遭遇したと云うような調子で、声はいたわるように優しい。 「ひどいじゃありませんか。好くそんなにしらばっくれていられる事ね」夫の落ち着いているのが、却って強い刺戟のように利くので、上さんは声が切れ切れになって、湧いて来る涙を襦袢の袖でふいている。 「困るなあ。まあ、なんだかそう云って見ねえ。まるっきり見当が附かない」 「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしにそう云って下さいと云っているのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物なんぞを拵えて」鼻の低い赤ら顔が、涙ででたようになったのに、こわれた丸髷の鬢の毛が一握へばり附いている。潤んだ細い目を、無理に大きくって、末造の顔を見ていたが、ずっと傍へいざり寄って、金天狗の燃えさしを撮んでいた末造の手に、力一ぱいしがみ附いた。 「廃せ」と云って、末造はその手を振り放して、畳の上に散った烟草の燃えさしを揉み消した。 お上さんはしゃくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。「どこにだって、あなたのような人があるでしょうか。いくらお金が出来たって、自分ばかり檀那顔をして、女房には着物一つ拵えてはくれずに、子供の世話をさせて置いて、好い気になって妾狂いをするなんて」 「廃せと云えば」末造は再び女房の手を振り放した。「子供が目を覚すじゃないか。それに女中部屋にも聞える」翳めた声に力を入れて云ったのである。 末の子が寝返りをして、何か夢中で言ったので、お上さんも覚えず声を低うして、「一体わたしどうすれば好いのでしょう」と云って、今度は末造の胸の所に顔を押し附けて、しくしく泣いている。 「どうするにも及ばないのだ。お前が人が好いもんだから、人に焚き附けられたのだ。妾だの、囲物だのって、誰がそんな事を言ったのだい」こう云いながら、末造はこわれた丸髷のぶるぶる震えているのを見て、醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるものだろうと、気楽な問題を考えた。そして丸髷の震動が次第に細かく刻むようになると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたように水落の辺に押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言ったのだ」と繰り返した。 「誰だって好いじゃありませんか。本当なんだから」乳房の圧はいよいよ加わって来る。 「本当でないから、誰でも好くはないのだ。誰だかそう云え」 「それは言ったってかまいませんとも。魚金のお上さんなの」 「なにまるで狸が物を言うようで、分かりゃあしない。むにゃむにゃのむにゃむにゃさんなのとはなんだい」 お上さんは顔を末造の胸から離して、悔やしそうに笑った。「魚金のお上さんだと、そう云っているじゃありませんか」 「うん。あいつか。おお方そんな事だろうと思った」末造は優しい目をして、女房の逆上したような顔を見ながら、徐かに金天狗に火を附けた。「新聞屋なんかが好く社会の制裁だのなんのと云うが、己はその社会の制裁と云う奴を見た事がねえ。どうかしたら、あの金棒引なんかが、その制裁と云う奴かも知れねえ。近所中のおせっかいをしやがる。あんな奴の言う事を真に受けてたまるものか。己が今本当の事を云って聞して遣るから、好く聞いていろ」 お上さんの頭は霧が掛かったように、ぼうっとしているが、もしや騙されるのではあるまいかと云う猜疑だけは醒めている。それでも熱心に末造の顔を見て謹聴している。今社会の制裁と云うことを言われた時もそうであるが、いつでも末造が新聞で読んだ、むずかしい詞を使って何か言うと、お上さんは気おくれがして、分からぬなりに屈服してしまうのである。 末造は折々烟草を呑んで烟を吹きながら、矢張女房の顔を暗示するようにじっと見て、こんな事を言っている。「それ、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、好く内に来た吉田さんと云うのがいたなあ。あの金縁目金を掛けて、べらべらした着物を着ていた人よ。あれが千葉の病院へ行っているが、まだ己の方の勘定が二年や三年じゃあ埒が明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時から出来ていた女で、こないだまで七曲りの店を借りて入れてあったのだ。最初は月々極まって為送りをしていたところが、今年になってから手紙もよこさなけりゃ、金もよこさねえ。そこで女が先方へ掛け合ってくれろと云って己に頼んだのだ。どうして己を知っているかと思うだろうが、吉田さんは度々己の内へ来ると人の目に附いて困るからと云って、己を七曲の内へ呼んで書換の話なんぞをした事がある。その時から女が己を知っていたのだ。己も随分迷惑な話だが、序だから掛け合って遣ったよ。ところがなかなか埒は明かねえ。女はしつっこく頼む。己は飛んだ奴に引っ掛かったと思って持て扱っているのだ。お負に小綺麗な所で店賃の安い所へ越したいから、世話をしてくれろと云うので、切通しの質屋の隠居のいた跡へ、面倒を見て越させて遣った。それやこれやで、こないだからちょいちょい寄って、烟草を二三服呑んだ事があるもんだから、近所の奴がかれこれ言やあがるのだろう。隣は女の子を集めて、為立物の師匠をしていると云うのだから、口はうるさいやな。あんな所に女を囲って置く馬鹿があるものか」こんな事を言って、末造はさげすんだように笑った。 お上さんは小さい目を赫かして、熱心に聞いていたが、この時甘えたような調子でこう云った。「それはお前さんの云う通りかも知れないけれど、そんな女の所へ度々行くうちには、どうなるか知れたものじゃありゃしない。どうせお金で自由になるような女だもの」お上さんはいつか「あなた」を忘れている。 「馬鹿言え。己がお前と云うものがあるのに、外の女に手を出すような人間かい。これまでだって、女をどうしたと云うことが、只の一度でもあったかい。もうお互に焼餅喧嘩をする年でもあるめえ。好い加減にしろ」末造は存外容易に弁解が功を奏したと思って、心中に凱歌を歌っている。 「だってお前さんのようにしている人を、女は好くものだから、わたしゃあ心配さ」 「へん。あが仏尊しと云う奴だ」 「どう云うわけなの」 「己のような男を好いてくれるのは、お前ばかりだと云うことよ。なんだ。もう一時を過ぎている。寝よう寝よう」
拾参
真実と作為とを綯交にした末造の言分けが、一時お上さんの嫉妬の火を消したようでも、その効果は勿論 palliatif なのだから、無縁坂上に実在している物が、依然実在している限は、蔭口やら壁訴訟やらの絶えることはない。それが女中の口から、「今日も何某が檀那様の格子戸にお這入になるのを見たそうでございます」と云うような詞になって、お上さんの耳に届く。しかし末造は言分けには窮せない。商用とやらが、そう極まって晩方にあるものではあるまいと云えば、「金を借る相談を朝っぱらからする奴があるものか」と云う。なぜこれまでは今のようでなかったかと云えば、「それは商売を手広に遣り出さない前の事だ」と云う。末造は池の端へ越すまでは、何もかも一人でしていたのに、今は住まいの近所に事務所めいたものが置いてある外に、竜泉寺町にまで出張所とでも云うような家があって、学生が所謂金策のために、遠道を踏まなくても済むようにしてある。根津で金のいるものは事務所に駈け附ける。吉原でいるものは出張所に駈け附ける。後には吉原の西の宮と云う引手茶屋と、末造の出張所とは気脈を通じていて、出張所で承知していれば、金がなくても遊ばれるようになっていた。宛然たる遊蕩の兵站が編成せられていたのである。 末造夫婦は新に不調和の階級を進める程の衝突をせずに、一月ばかりも暮していた。つまりその間は末造の詭弁が功を奏していたのである。然るに或る日意外な辺から破綻が生じた。 さいわい夫が内にいるので、朝の涼しいうちに買物をして来ると云って、お常は女中を連れて広小路まで行った。その帰りに仲町を通り掛かると、背後から女中が袂をそっと引く。「なんだい」と叱るように云って、女中の顔を見る。女中は黙って左側の店に立っている女を指さす。お常はしぶしぶその方を見て、覚えず足を駐める。そのとたんに女は振り返る。お常とその女とは顔を見合せたのである。 お常は最初芸者かと思った。若し芸者なら、数寄屋町にこの女程どこもかしこも揃って美しいのは、外にあるまいと、せわしい暇に判断した。しかし次の瞬間には、この女が芸者の持っている何物かを持っていないのに気が附いた。その何物かはお常には名状することは出来ない。それを説明しようとすれば、態度の誇張とでも云おうか。芸者は着物を好い恰好に着る。その好い恰好は必ず幾分か誇張せられる。誇張せられるから、おとなしいと云う所が失われる。お常の目に何物かが無いと感ぜられたのは、この誇張である。 店の前の女は、傍を通り過ぎる誰やらが足を駐めたのを、殆ど意識せずに感じて、振り返って見たが、その通り過ぎる人の上に、なんの注意すべき点をも見出さなかったので、蝙蝠傘を少し内廻転をさせた膝の間に寄せ掛けて、帯の間から出して持っていた、小さい蝦蟇口の中を、項を屈めて覗き込んだ。小さい銀貨を捜しているのである。 店は仲町の南側の「たしがらや」であった。「たしがらや倒さに読めばやらかした」と、何者かの言い出した、珍らしい屋号のこの店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売っていた。まだ錬歯磨なんぞの舶来していなかったその頃、上等のざら附かない製品は、牡丹の香のする、岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨とであった。店の前の女は別人でない。朝早く父親の所を訪ねた帰りに、歯磨を買いに寄ったお玉であった。 お常が四五歩通り過ぎた時、女中がいた。「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は」 黙って頷いたお常には、この詞が格別の効果を与えないので、女中は意外に思った。あの女は芸者ではないと思うと同時に、お常は本能的に無縁坂の女だと云うことを暁っていたのである。それには女中が只美しい女がいると云うだけで、袖を引いて教えはしない筈だと云う判断も手伝っているが、今一つ意外な事が影響している。それはお玉が膝の所に寄せ掛けていた蝙蝠傘である。 もう一月余り前の事であった。夫が或る日横浜から帰って、みやげに蝙蝠の日傘を買って来た。柄がひどく長くて、張ってある切れが割合に小さい。背の高い西洋の女が手に持っておもちゃにするには好かろうが、ずんぐりむっくりしたお常が持って見ると、極端に言えば、物干竿の尖へおむつを引っ掛けて持ったようである。それでそのまま差さずにしまって置いた。その傘は白地に細かい弁慶縞のような形が、藍で染め出してあった。たしがらやの店にいた女の蝙蝠傘がそれと同じだと云うことを、お常ははっきり認めた。 酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るように云った。 「ねえ、奥さん。そんなに好い女じゃありませんでしょう。顔が平べったくて、いやに背が高くて」 「そんな事を言うものじゃないよ」と云ったぎり、相手にならずにずんずん歩く。女中は当がはずれて、不平らしい顔をして附いて行く。 お常は只胸の中が湧き返るようで、何事をもはっきり考えることが出来ない。夫に対してどうしよう、なんと云おうと云う思案も無い。その癖早く夫に打っ附かって、なんとか云わなくてはいられぬような気がする。そしてこんな事を思う。あの蝙蝠傘を買って来て貰った時、わたしはどんなにか喜んだだろう。これまでこっちから頼まぬのに、物なんぞ買って来てくれたことはない。どうして今度に限って、みやげを買って来てくれたのだろうと、不思議には思ったが、その不思議と云うのも、どうして夫が急に親切になったかと思ったのであった。今考えれば、おお方あの女が頼んで買って貰った時、ついでにわたしのを買ったのだろう。きっとそうに違いない。そうとは知らずに、わたしは難有く思ったのだ。わたしには差されもしない、あんな傘を貰って、難有く思ったのだ。傘ばかりでは無い。あの女の着物や髪の物も、内で買って遣ったのかも知れない。丁度わたしの差している、毛繻子張のこの傘と、あの舶来の蝙蝠とが違うように、わたしとあの女とは、身に着けている程の物が皆違っている。それにわたしばかりではない。子供に着物を着せたいと思っても、なかなか拵えてくれはしない。男の子には筒っぽが一枚あれば好いものだと云う。女の子だと、小さいうちに着物を拵えるのは損だと云う。何万と云う金を持った人の女房や子供に、わたし達親子のようななりをしているものがあるだろうか。今から思って見れば、あの女がいたお蔭で、わたし達に構ってくれなかったかも知れない。吉田さんの持物だったなんと云うのも、本当だかどうだか当にはならない。七曲りとかにいた時分から、内で囲って置いたかも知れない。いや。きっとそうに違ない。金廻りが好くなって、自分の着物や持物に贅沢をするようになったのを、附合があるからだのなんのと云ったが、あの女がいたからだろう。わたしをどこへでも連れて行かずに、あの女を連れて行ったに違ない。ええ、悔やしい。こんな事を思っていると、突然女中が叫んだ。 「あら、奥さん。どこへいらっしゃるのです」 お常はびっくりして立ち留まった。下を向いてずんずん歩いていて、我家の門を通り過きようとしたのである。 女中が無遠慮に笑った。
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