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大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-6 18:00:24 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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寛政五年癸丑(一七九三年) 大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に 橋本氏 某─┬─忠兵衛─┬─みね │ │ └ゆう └松次郎 │ ┌太一郎 │ │ │┌格之助 大西氏 某─┼与五郎─善之進 ├┤ │ │└いく └女 │ │ │ │ ┌平八郎 ├────┤ │ └忠之丞 大塩氏 ┌平八郎 ┌喜内─政之丞─┤ 某─┤ └志摩 └助左衛門 │ │┌発太郎 │├とく │├いく ├┼新次郎 │├ゑい │└辰三郎 │ 宮脇氏 日向─┬りか └むつ 是年平八郎後素の祖父成余四十二歳、父敬高二十四歳。 六年甲寅 平八郎二歳。成余四十三歳。敬高二十五歳。 七年乙卯 平八郎三歳。成余四十四歳。敬高二十六歳。 八年丙辰 平八郎四歳。成余四十五歳。敬高二十七歳。橋本忠兵衛生る。 九年丁巳 平八郎五歳。成余四十六歳。敬高二十八歳。 十年戊午 平八郎六歳。成余四十七歳。敬高二十九歳。大黒屋和市の女ひろ生る。後橋本氏ゆうと改名し、平八郎の 十一年己未 平八郎七歳。成余四十八歳。五月十一日敬高三十歳にして歿す。平八郎の弟忠之丞生る。 十二年庚申 平八郎八歳。成余四十九歳。七月二十五日忠之丞歿す。九月二十日平八郎の母大西氏歿す。 享和元年辛酉 平八郎九歳。成余五十歳。宮脇りか生る。 二年壬戌 平八郎十歳。成余五十一歳。 三年癸亥 平八郎十一歳。成余五十二歳。 文化元年甲子 平八郎十二歳。成余五十三歳。 二年乙丑 平八郎十三歳。成余五十四歳。 三年丙寅 平八郎十四歳。此頃番方見習となる。成余五十五歳。 四年丁卯 平八郎十五歳。家譜を読みて志を立つ。成余五十六歳。 五年戊辰 平八郎十六歳。成余五十七歳。 六年己巳 平八郎十七歳。成余五十八歳。 七年庚午 平八郎十八歳。成余五十九歳。豊田貢斎藤伊織に離別せられ、水野軍記の徒弟となる。 八年辛未 平八郎十九歳。成余六十歳。 九年壬申 平八郎二十歳。成余六十一歳。 十年癸酉 平八郎二十一歳。始て学問す。成余六十二歳。西組与力 十一年甲戌 平八郎二十二歳。此頃竹上万太郎平八郎の門人となる。成余六十三歳。 十二年乙亥 平八郎二十三歳。成余六十四歳。 十三年丙子 平八郎二十四歳。成余六十五歳。京屋きぬ水野の徒弟となる。 十四年丁丑 平八郎二十五歳。成余六十六歳。 文政元年戊寅 六月二日成余六十七歳にして歿す。平八郎二十六歳にして番代を命ぜらる。妾ゆうを 二年己卯 平八郎二十七歳。 三年庚辰 平八郎二十八歳。目安役並証文役たり。十一月高井山城守実徳東町奉行となる。 四年辛巳 平八郎二十九歳。平山助次郎十六歳にして入門す。四月坂本鉉之助始て平八郎を訪ふ。橋本みね生る。 五年壬午 平八郎三十歳。 六年癸未 平八郎三十一歳。平八郎の叔父志摩宮脇氏の婿養子となり、りかに配せらる。是年大井正一郎入門す。水野軍記の妻そへ歿す。 七年甲申 平八郎三十二歳。宮脇発太郎生る。庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。 八年乙酉 平八郎三十三歳。正月十四日洗心洞学舎東掲西掲を書す。白井孝右衛門三十七歳にして入門す。 九年丙戌 平八郎三十四歳。宮脇とく生る。 十年丁亥 平八郎三十五歳。吟味役たり。正月京屋さの、四月京屋きぬ、六月豊田貢、閏六月より七月に至り、水野軍記の関係者皆逮捕せらる。さの五十六歳、きぬ五十九歳、貢五十四歳、所謂邪宗門事件なり。 十一年戊子 平八郎三十六歳。吉見九郎右衛門三十八歳にして入門す。十月邪宗門事件評定所に移さる。 十二年己丑 平八郎三十七歳。三月弓削新右衛門糺弾事件あり。平八郎の妾ゆう 天保元年庚寅 平八郎三十八歳。三月破戒僧検挙事件あり。七月高井実徳西丸留守居に転ず。平八郎勤仕十三年にして暇を乞ひ、養子格之助番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。 二年辛卯 平八郎三十九歳。父祖の墓石を天満東寺町成正寺に建つ。吉見英太郎、河合八十次郎入門す。彼は十歳、此は十二歳なり。 三年壬辰 平八郎四十歳。四月頼襄京都より至り、古本 四年癸巳 平八郎四十一歳。四月 五年甲午 平八郎四十二歳。秋 六年乙未 平八郎四十三歳。四月孝経彙註を刻す。夏剳記及附録抄の版を 七年丙申 平八郎四十四歳。七月跡部良弼東町奉行となる。九月格之助砲術を試みんとすと称し、火薬を製す。十一月百目筒三挺を買ひ又借る。十二月檄文を印刷す。同月格之助の子弓太郎生る。安田図書、服部末次郎入門す。宇津木矩之允再び入塾す。天保四年以後飢饉にして、是歳最も甚し。 八年丁酉(一八三七年) 平八郎四十五歳。正月八日吉見、平山、庄司連判状に署名す。十八日柏岡源右衛門、同伝七署名す。二十八日茨田、高橋署名す。是月白井孝右衛門、橋本、大井も亦署名す。二月二日西町奉行堀利堅就任す。七日ゆう、みね、弓太郎、いく般若寺村橋本の家に 九年戊戌 八月二十一日平八郎等の獄定まる。九月十八日平八郎以下二十人を鳶田に磔す。竹上一人を除く外、皆 二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しよに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で 試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、 二月十九日後の記事は一、信貴越 二、美吉屋 三、評定と云ふことになつた。 ――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置] 平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、大抵 大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に 石高実数(単位万石) 全国石高に対する百分比例 徳川幕府 800 29.2 諸大名 1900 69.4 御料 3 0.1 皇族并公卿 4.7 0.2 社寺 30 1.2 ―――――――――――――――――――― 計 2737.7 100 天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。 五畿内東山道 45% 東海道 45 関八州 30―40 奥州 28 羽州 40 北陸道 54 山陰道 32 山陽道及南海道 55 西海道 50 ――――――――――――― ○ 42.4% これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三〇、四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗四合である。 平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。 若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の 若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎 この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して 未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を 平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。 平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。 ――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置] 平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の 暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。 大塩平八郎 美吉屋にて自刃す 次に左の十一人は獄門に処せられた。大塩格之助 東組与力西田青太夫実子 美吉屋にて死す 渡辺良左衛門 東組同心 河内田井中にて切腹す 瀬田済之助 東組与力 河内恩地にて縊死す 小泉淵次郎 郡山柳沢甲斐守家来春木弥之助実子、東組与力養子 東町奉行所にて斬らる 庄司義左衛門 河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同心養子 奈良にて捕はる 近藤梶五郎 東組同心 自宅焼跡にて切腹す 大井正一郎 玉造口与力倅 京都にて捕はる 深尾才次郎 河内交野郡尊延寺村百姓 能登にて自殺す 茨田郡次 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す 高橋九右衛門 河内茨田郡門真三番村百姓 支配役場へ自首す 柏岡源右衛門 摂津東成郡般若寺村百姓 支配役場へ自首す 柏岡伝七 同上倅 自宅にて捕はる 西村利三郎 河内志紀郡弓削村百姓 江戸にて願人となり病死す 宮脇志摩 摂津三島郡吹田村神主 自宅にて切腹入水す 橋本忠兵衛 摂津東成郡般若寺村庄屋 京都にて捕はる 白井孝右衛門 摂津守口村百姓兼質屋 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる 横山文哉 肥前三原村の人、摂津東成郡森小路村の医師となる 捕はる 木村司馬之助 摂津東成郡猪飼野村百姓 捕はる 竹上万太郎 弓奉行組同心 捕はる 松本隣太夫 大阪船場医師倅 捕はる 次に左の三人は死罪に処せられた。堀井儀三郎 播磨加東郡西村百姓 捕はる 杉山三平 大塩塾賄方 伏見に往く途中豊後橋にて捕はる 曾我岩蔵 大塩若党 大阪にて捕はる 植松周次 瀬田若党 京都にて捕はる 作兵衛 天満北木幡町大工 京都にて捕はる 金助 摂津東成郡下辻村猟師 捕はる 美吉屋五郎兵衛 油懸町手拭地職 自宅にて捕はる 浅佶 瀬田中間 捕はる 新兵衛 河内尊延寺村無宿、深尾才次郎の募に応ず 捕はる 忠右衛門 同村百姓、同上 捕はる 上田孝太郎 摂津東成郡沢上江村百姓 捕はる 次に左の四人は遠島に処せられた。白井儀次郎 河内渋河郡衣摺村百姓、白井孝右衛門従弟 捕はる 卯兵衛 摂津東成郡般若寺村百姓 捕はる 大西与五郎 東組与力、平八郎の母兄 捕はる 次に左の三人は追放に処せられた。白井彦右衛門 孝右衛門倅 大和に往く途中捕はる 橋本氏ゆう 実は曾根崎新地茶屋町大黒屋和市娘ひろ 京都にて捕はる 美吉屋つね 五郎兵衛妻 自宅にて捕はる 安田図書 伊勢山田外宮御師 淡路町附近にて捕はる 以上重罪者三十一人の中で、刑を執行せられる時生存してゐたものは、竹上、杉山、上田、大西、白井彦右衛門の五人丈である。他の二十六人は寛輔 堺北糸町医師、西村の姉婿、西村の逃亡を 正方 河内渋河郡大蓮寺隠居、杉山の伯父にして杉山をして剃髪せしむ 捕はる 当時の罪人は一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは ――――――――――――――――――――[#直線は中央に配置] 近い頃のロシアの小説に、 個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを 平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。 平山助次郎 東組同心 暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す 評定の結果として、平山、吉見は取高の儘吉見九郎右衛門 東組同心 暴動当日の 吉見英太郎 九郎右衛門倅 九郎右衛門の訴状を堀に呈す 河合八十次郎 平八郎の陰謀に 底本:「鴎外歴史文学集 第二巻」岩波書店 2000(平成12)年10月10日発行 入力:kompass 校正:小林繁雄 2001年12月13日公開 2004年11月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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