大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
三、四軒屋敷 天満橋筋(てんまばしすぢ)長柄町(ながらまち)を東に入(い)つて、角(かど)から二軒目の南側で、所謂(いはゆる)四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助(おほしほかくのすけ)の役宅(やくたく)がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫(あをたいふ)の弟に生れたのを、養父平八郎が貰(もら)つて置いて、七年前にお暇(いとま)になる時、番代(ばんだい)に立たせたのである。併(しか)し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。 玄関を上がつて右が旧塾(きうじゆく)と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕(した)つて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂(どくれいだう)と云ふ額(へんがく)が懸けてある。その東隣が後に他家(たけ)を買ひ潰(つぶ)して広げた新塾(しんじゆく)である。講堂の背後(うしろ)が平八郎の書斎で、中斎(ちゆうさい)と名づけてある。それから奥、東照宮(とうせうぐう)の境内(けいだい)の方へ向いた部屋々々(へや/″\)が家内(かない)のものの居所(ゐどころ)で、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館(きやうちゆうかんくわくわん)と云ふ額(へんがく)が懸(か)かつてゐる。これだけの建物の内に起臥(きぐわ)してゐるものは、家族でも学生でも、悉(ことごと)く平八郎が独裁の杖(つゑ)の下(もと)に項(うなじ)を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平(ひら)の学生に比べて、殆(ほとんど)何等(なにら)の特権をも有してをらぬのである。 東町奉行所で白刃(はくじん)の下(した)を脱(のが)れて、瀬田済之助(せいのすけ)が此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天(せいてん)の霹靂(へきれき)として聞くやうな、平穏無事の光景(ありさま)ではなかつた。家内中(かないぢゆう)の女子供(をんなこども)はもう十日前に悉(ことごと)く立(た)ち退(の)かせてある。平八郎が二十六歳で番代(ばんだい)に出た年に雇つた妾(めかけ)、曾根崎新地(そねざきしんち)の茶屋大黒屋和市(わいち)の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村(はんにやじむら)の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩(しま)の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎(ゆみたらう)を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立(た)ち退(の)かせたのである。 女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは兼(かね)て門人の籍にゐる兵庫西出町(にしでまち)の柴屋長太夫(しばやちやうだいふ)、其外(そのほか)縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯(しつさく)をする度(たび)に、科料の代(かはり)に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入(い)つてからそれを悉(ことごと)く運び出させ、土蔵にあつた一切経(いつさいきやう)などをさへそれに加へて、書店河内屋喜兵衛(かはちやきへゑ)、同新次郎(しんじらう)、同記一兵衛(きいちべゑ)、同茂兵衛(もへゑ)の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀(なんぎ)する人民に施(ほどこ)すのだと云つて、安堂寺町(あんだうじまち)五丁目の本屋会所(ほんやくわいしよ)で、親類や門下生に縁故のある凡(およそ)三十三町村のもの一万軒に、一軒(けん)一朱(しゆ)の割(わり)を以(もつ)て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家(うち)はがらんとしてしまつた。 今一つ此家の外貌が傷(きずつ)けられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力(まちよりき)は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組(たまつくりぐみ)与力柴田勘兵衛(しばたかんべゑ)の門人で、佐分利流(さぶりりう)の槍(やり)を使ふ。当主格之助は同組同心故人藤重孫三郎(ふぢしげまごさぶらう)の門人で、中島流の大筒(おほづゝ)を打つ。中にも砲術家は大筒をも貯(たくは)へ火薬をも製する習(ならひ)ではあるが、此家では夫(それ)が格別に盛(さかん)になつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師藤重(ふぢしげ)の倅(せがれ)良左衛門(りやうざゑもん)、孫槌太郎(つちたらう)の両人を呼んで、今年の春堺(さかひ)七堂(だう)が浜(はま)で格之助に丁打(ちやううち)をさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締(とじまり)をして、塾生を使つて火薬を製させる。棒火矢(ぼうひや)、炮碌玉(はうろくだま)を作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。火矢(ひや)の材木を挽(ひ)き切つた天満北木幡町(てんまきたこばたまち)の大工作兵衛(さくべゑ)などがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。大筒(おほづゝ)は人から買ひ取つた百目筒(ひやくめづゝ)が一挺(ちやう)、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村(もりぐちむら)の百姓兼質商白井孝右衛門(しらゐかうゑもん)が土蔵の側(そば)の松の木を伐(き)つて作つた木筒(きづゝ)が二挺ある。砲車(はうしや)は石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々(げんしようやう/\)の地が次第に喧噪(けんさう)と雑 (ざつたふ)とを常とする工場(こうぢやう)になつてゐたのである。 家がそんな摸様(もやう)になつてゐて、そこへ重立(おもだ)つた門人共の寄り合つて、夜(よ)の更(ふ)けるまで還らぬことが、此頃次第に度重(たびかさ)なつて来てゐる。昨夜は隠居と当主との妾(めかけ)の家元、摂津(せつつ)般若寺村(はんにやじむら)の庄屋橋本忠兵衛、物持(ものもち)で大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村(もりぐちむら)の百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門(しやうじぎざゑもん)、同組同心の倅近藤梶五郎(かぢごらう)、般若寺村の百姓柏岡(かしはをか)源右衛門、同倅伝七(でんしち)、河内(かはち)門真(もんしん)三番村の百姓茨田郡次(いばらたぐんじ)の八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々(をり/\)いつもの人を圧伏(あつぷく)するやうな調子の、隠居の声が漏れた。平生最も隠居に親(したし)んでゐる此八人の門人は、とう/\屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の為事(しごと)は、兼て塾の賄方(まかなひかた)をしてゐる杉山三平(すぎやまさんぺい)が、人夫を使つて取り賄(まかな)つてゐる。杉山は河内国(かはちのくに)衣摺村(きぬすりむら)の庄屋で、何か仔細(しさい)があつて所払(ところばらひ)になつたものださうである。手近な用を達(た)すのは、格之助の若党大和国(やまとのくに)曾我村生(そがむらうまれ)の曾我岩蔵(いはざう)、中間(ちゆうげん)木八(きはち)、吉助(きちすけ)である。女はうたと云ふ女中が一人、傍輩(はうばい)のりつがお部屋に附いて立(た)ち退(の)いた跡(あと)で、頻(しきり)に暇(いとま)を貰(もら)ひたがるのを、宥(なだ)め賺(すか)して引(ひ)き留(と)めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方(まかなひかた)杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫抔(など)がゐたのである。 瀬田済之助(せいのすけ)はかう云ふ中へ駆け込んで来た。 四、宇津木と岡田と 新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た宇津木矩之允(うつぎのりのすけ)と云ふものがある。平八郎の著(あらは)した大学刮目(だいがくくわつもく)の訓点(くんてん)を施(ほどこ)した一人(にん)で、大塩の門人中学力の優(すぐ)れた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町(にしつきまち)の医師岡田道玄(だうげん)の子で、名を良之進(りやうのしん)と云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。 この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目を醒(さ)ました。職人が多く入(い)り込(こ)むやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がた/\、めり/\、みし/\と、物を打ち毀(こは)す音がする。しかと聴き定めようとして、床(とこ)の上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が障子(しやうじ)襖(ふすま)だと云ふことが分かつた。それに雑(まじ)つて人声がする。「役に立たぬものは討(う)ち棄てい」と云ふ詞(ことば)がはつきり聞えた。岡田は怜悧(れいり)な、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、頸(くび)を延(の)ばして見ると、先生はいつもの通(とほり)に着布団(きぶとん)の襟(えり)を頤(あご)の下に挿(はさ)むやうにして寝てゐる。物音は次第に劇(はげ)しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。 岡田は跳(は)ね起(お)きた。宇津木の枕元(まくらもと)にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。 宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。「先生。えらい騒ぎでございますが。」「うん。知つてをる。己(おれ)は余り人を信じ過ぎて、君をまで危地(きち)に置いた。こらへてくれ給(たま)へ。去年の秋からの丁打(ちやううち)の支度(したく)が、仰山(ぎやうさん)だとは己(おれ)も思つた。それに門人中の老輩(らうはい)数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振(そぶり)をする。それを怪(あや)しいとは己(おれ)も思つた。併(しか)し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。所(ところ)が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て遣(や)ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、独(ひと)り席を起(た)つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方(まへがた)はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。己(おれ)は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生良知(りやうち)の学を攻(をさ)めてゐる。あれは根本の教(をしへ)だ。然(しか)るに今の天下の形勢は枝葉(しえふ)を病(や)んでゐる。民の疲弊(ひへい)は窮(きは)まつてゐる。草妨礙(くさばうがい)あらば、理(り)亦(また)宜(よろ)しく去(さ)るべしである。天下のために残賊(ざんぞく)を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」「はあ」と云つて、岡田は目を(みは)つた。「先づ町奉行衆(まちぶぎやうしゆう)位(くらゐ)の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損(みそこな)つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」「そんなら今事(こと)を挙(あ)げるのですね。」「さうだ。家には火を掛け、与(くみ)せぬものは切棄(きりす)てゝ起(た)つと云ふのだらう。併(しか)しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇(ひま)がある。まあ、聞き給(たま)へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己(おれ)は明朝御返事をすると云つて一時を糊塗(こと)した。若(も)し諫(いさ)める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止(と)まらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子(ていし)となつたのが命(めい)だ、甘(あま)んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」 岡田は又「はあ」と云つて耳を欹(そばだ)てた。「君は中斎先生の弟子ではない。己(おれ)は君に此場を立ち退(の)いて貰(もら)ひたい。挙兵の時期が最も好(い)い。若(も)しどうすると問ふものがあつたら、お供(とも)をすると云ひ給(たま)へ。さう云つて置いて逃げるのだ。己(おれ)はゆうべ寝られぬから墓誌銘(ぼしめい)を自撰(じせん)した。それを今書いて君に遣(や)る。それから京都東本願寺家(ひがしほんぐわんじけ)の粟津陸奥之助(あはづむつのすけ)と云ふものに、己の心血を灑(そゝ)いだ詩文稿(しぶんかう)が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄下総(しもふさ)の邸(やしき)へ往つて大林権之進(ごんのしん)と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木(うつぎ)はゆつくり起きて、机に靠(もた)れたが、宿墨(しゆくぼく)に筆を浸(ひた)して、有り合せた美濃紙(みのがみ)二枚に、一字の書損(しよそん)もなく腹藁(ふくかう)の文章を書いた。書き畢(をは)つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。 岡田は草稿を受け取りながら、「併(しか)し先生」と何やら言ひ出しさうにした。 宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。 手に草稿を持つた儘(まゝ)、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。「先生の指図通(さしづどほり)、宇津木を遣(や)つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴(な)れた門人大井(おほゐ)の声である。玉造組与力(たまつくりぐみよりき)の倅(せがれ)で、名は正一郎(しやういちらう)と云ふ。三十五歳になる。「宜(よろ)しい。しつかり遣(や)り給(たま)へ。」これは安田図書(やすだづしよ)の声である。外宮(げぐう)の御師(おし)で、三十三歳になる。 岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」「好(い)い。君早く逃げてくれ給へ。」「併(しか)し。」「早くせんと駄目だ。」 廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐(ふところ)に捩(ね)ぢ込んで、机の所へ小鼠(こねずみ)のやうに走り戻つて、鉄の文鎮(ぶんちん)を手に持つた。そして跣足(はだし)で庭に飛び下りて、植込(うゑごみ)の中を潜(くゞ)つて、塀(へい)にぴつたり身を寄せた。 大井は抜刀(ばつたう)を手にして新塾に這入(はひ)つて来た。先づ寝所(しんじよ)の温(あたゝか)みを探(さぐ)つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留(と)まつた。暫(しばら)くして便所の戸に手を掛けて開けた。 中から無腰(むこし)の宇津木が、恬然(てんぜん)たる態度で出て来た。 大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を構(かま)へながら言分(いひわけ)らしく「先生のお指図(さしづ)だ」と云つた。 宇津木は「うん」と云つた切(きり)、棒立(ぼうだち)に立つてゐる。 大井は酔人(すゐじん)を虎が食(く)ひ兼(か)ねるやうに、良(やゝ)久しく立ち竦(すく)んでゐたが、やう/\思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲(まつかふ)を目掛(めが)けて切り下(おろ)した。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減(うつむきかげん)になつたので、百会(ひやくゑ)の背後(うしろ)が縦(たて)に六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘(そのまゝ)立つてゐる。大井は少し慌(あわ)てながら、二の太刀(たち)で宇津木の腹を刺した。刀は臍(ほぞ)の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後(うしろ)へ押し倒して喉(のど)を刺した。 塀際(へいぎは)にゐた岡田は、宇津木の最期(さいご)を見届けるや否(いな)や、塀に沿うて東照宮(とうせうぐう)の境内(けいだい)へ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前(ぢやうまへ)を文鎮(ぶんちん)で開(あ)けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。 五、門出 瀬田済之助(せたせいのすけ)が東町奉行所の危急を逃(のが)れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明(あけ)六つを少し過ぎた時であつた。 書斎の襖(ふすま)をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党(よたう)、その外(ほか)中船場町(なかせんばまち)の医師の倅(せがれ)で僅(わづか)に十四歳になる松本隣太夫(りんたいふ)、天満(てんま)五丁目の商人阿部長助(ちやうすけ)、摂津(せつつ)沢上江村(さはかみえむら)の百姓上田孝太郎(うえだかうたらう)、河内(かはち)門真三番村の百姓高橋九右衛門(たかはしくゑもん)、河内弓削村(ゆげむら)の百姓西村利三郎(にしむらりさぶらう)、河内尊延寺村(そんえんじむら)の百姓深尾才次郎(ふかをさいじらう)、播磨(はりま)西村の百姓堀井儀三郎(ほりゐぎさぶらう)、近江(あふみ)小川村の医師志村力之助(しむらりきのすけ)、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵(しとね)の上に端坐(たんざ)してゐた。 身(み)の丈(たけ)五尺五六寸の、面長(おもなが)な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉(まゆ)は弔(つ)つてゐるが、張(はり)の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額(ひたひ)に青筋(あをすぢ)がある。髷(まげ)は短く詰(つ)めて結(ゆ)つてゐる。月題(さかやき)は薄い。一度喀血(かくけつ)したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪(あをべうたん)と云はれたと云ふが、現(げ)にもと頷(うなづ)かれる。「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。「さうだらう。巡見(じゆんけん)が取止(とりやめ)になつたには、仔細(しさい)がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為(しよゐ)だ。」「小泉は遣(や)られました。」「さうか。」 目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。 平八郎は一座をずつと見わたした。「兼(かね)ての手筈(てはず)の通りに打ち立たう。棄て置き難(がた)いのは宇津木一人(にん)だが、その処置は大井と安田に任せる。」 大井、安田の二人(にん)はすぐに起(た)たうとした。「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只(たゞ)第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を襲(おそ)ふことで、第二段とは北船場(きたせんば)へ進むことである。これは方略(はうりやく)に極(き)めてあつたのである。「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧(かへり)みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡(かしはをか)伝七と、檄文(げきぶん)を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具(たてぐ)を奥庭(おくには)へ運び出す音がし出した。 平八郎は其儘(そのまゝ)端坐(たんざ)してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽(はうが)し、いかに生長し、いかなる曲折を経(へ)て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。己(おれ)が自分の材幹(さいかん)と値遇(ちぐう)とによつて、吏胥(りしよ)として成(な)し遂(と)げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保(てんぱう)元年は泰平であつた。民の休戚(きうせき)が米作(べいさく)の豊凶(ほうきよう)に繋(かゝ)つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍(やゝ)常(つね)に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫(めいちゆう)が出来る。海嘯(つなみ)がある。とう/\去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風(たいふう)大水(たいすゐ)があり、東北を始(はじめ)として全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に専(もつぱら)にして、古本大学刮目(こほんだいがくくわつもく)、洗心洞剳記(せんしんどうさつき)、同附録抄(ふろくせう)、儒門空虚聚語(じゆもんくうきよしゆうご)、孝経彙註(かうきやうゐちゆう)の刻本が次第に完成し、剳記(さつき)を富士山の石室(せきしつ)に蔵(ざう)し、又足代権太夫弘訓(あじろごんたいふひろのり)の勧(すゝめ)によつて、宮崎、林崎の両文庫に納(をさ)めて、学者としての志(こゝろざし)をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞(ふさ)いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平(たひら)かなることが出来なかつた。賑恤(しんじゆつ)もする。造酒(ざうしゆ)に制限も加へる。併(しか)し民の疾苦(しつく)は増すばかりで減じはせぬ。殊(こと)に去年から与力内山を使つて東町奉行跡部(あとべ)の遣(や)つてゐる為事(しごと)が気に食はぬ。幕命(ばくめい)によつて江戸へ米を廻漕(くわいさう)するのは好い。併(しか)し些(すこ)しの米を京都に輸(おく)ることをも拒(こば)んで、細民(さいみん)が大阪へ小買(こがひ)に出ると、捕縛(ほばく)するのは何事だ。己(おれ)は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上(かみ)の驕奢(けうしや)と下(しも)の疲弊(ひへい)とがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。併し理を以て推(お)せば、これが人世(じんせい)必然の勢(いきほひ)だとして旁看(ばうかん)するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅(ちゆう)し富豪を脅(おびやか)して其私蓄(しちく)を散ずるかの三つより外(ほか)あるまい。己(おれ)は此不平に甘んじて旁看(ばうかん)してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀(はか)つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐(ちゆうばつ)と脅迫(けふはく)とによつて事を済(な)さうと思ひ立つた。鹿台(ろくたい)の財を発するには、無道(むだう)の商(しやう)を滅(ほろぼ)さんではならぬと考へたのだ。己が意を此(こゝ)に決し、言(げん)を彼(かれ)に託(たく)し、格之助に丁打(ちやううち)をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐(お)うて加はつても、準備の捗(はかど)つて行くのを顧みて、慰藉(ゐしや)を其中(そのうち)に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に逡巡(しゆんじゆん)する怯(おくれ)もないが、又踊躍(ようやく)する競(きほひ)もない。準備をしてゐる久しい間には、折々(をり/\)成功の時の光景が幻(まぼろし)のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭(かうべ)を叩(たゝ)く金持、それから草木(さうもく)の風に靡(なび)くやうに来(きた)り附(ふ)する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻(まぼろし)も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井(たかゐ)殿に信任せられて、耶蘇(やそ)教徒を逮捕したり、奸吏(かんり)を糺弾(きうだん)したり、破戒僧を羅致(らち)したりしてゐながら、老婆豊田貢(とよだみつぎ)の磔(はりつけ)になる所や、両組与力(りやうくみよりき)弓削新右衛門(ゆげしんゑもん)の切腹する所や、大勢(おほぜい)の坊主が珠数繋(じゆずつなぎ)にせられる所を幻(まぼろし)に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、己(おれ)の胸には一度も疑(うたがひ)が萌(きざ)さなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先(ま)づ恣(ほしいまゝ)に動いて、外界(げかい)の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時(いつ)でも用に立てられる左券(さけん)を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉(ゐしや)にした丈(だけ)で、動(やゝ)もすれば其準備を永く準備の儘(まゝ)で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗(はかど)つて来たのは、事柄其物が自然に捗(はかど)つて来たのだと云つても好い。己(おれ)が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉(らつ)して走つたのだと云つても好い。一体此(この)終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。 平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗(はかど)つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々(うけもち/\)の為事(しごと)をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討(う)ち果(はた)したとか、今奥庭(おくには)に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎(そのたびごと)に平八郎は只(ただ)一目(ひとめ)そつちを見る丈(だけ)である。 さていよ/\勢揃(せいぞろひ)をすることになつた。場所は兼(かね)て東照宮の境内(けいだい)を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前(ぢやうまへ)の開(あ)いてゐたのを知つた。行列の真(ま)つ先(さき)に押し立てたのは救民と書いた四半(はん)の旗(はた)である。次に中に天照皇大神宮(てんせうくわうだいじんぐう)、右に湯武両聖王(たうぶりやうせいわう)、左に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と書いた旗、五七の桐(きり)に二つ引(びき)の旗を立てゝ行く。次に木筒(きづゝ)が二挺(ちやう)行く。次は大井と庄司とで各(おの/\)小筒(こづゝ)を持つ。次に格之助が着込野袴(きごみのばかま)で、白木綿(しろもめん)の鉢巻(はちまき)を締(し)めて行く。下辻村(しもつじむら)の猟師(れふし)金助(きんすけ)がそれに引き添ふ。次に大筒(おほづゝ)が二挺と鑓(やり)を持つた雑人(ざふにん)とが行く。次に略(ほゞ)格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗(くろらしや)の羽織、野袴(のばかま)で行く。茨田(いばらた)と杉山とが鑓(やり)を持つて左右に随ふ。若党(わかたう)曾我(そが)と中間(ちゆうげん)木八(きはち)、吉助(きちすけ)とが背後(うしろ)に附き添ふ。次に相図(あひづ)の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立(おもだ)つた人々で、特(こと)に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帯刀(きごみたいたう)で、多くは手鑓(てやり)を持つ。押(おさ)へは大筒(おほづゝ)一挺(ちやう)を挽(ひ)かせ、小筒持(こづゝもち)の雑人(ざふにん)二十人を随へた瀬田で、傍(そば)に若党植松周次(うゑまつしうじ)、中間浅佶(あさきち)が附いてゐる。 此(この)総人数(そうにんず)凡(およそ)百余人が屋敷に火を掛け、表側(おもてがは)の塀(へい)を押し倒して繰り出したのが、朝五つ時(どき)である。先(ま)づ主人の出勤した跡(あと)の、向屋敷(むかうやしき)朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋(てんまばしすぢ)の長柄町(ながらまち)に出て、南へ源八町(げんぱちまち)まで進んで、与力町(よりきまち)を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回(うくわい)して船場(せんば)に向はうとするのである。
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