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源氏物語(げんじものがたり)39 夕霧一

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-11-6 10:00:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「悲しいことですね。恋の成り立った人のように分けて出なければならない草葉の露に対してすら私は恥ずかしいではありませんか。ではお言葉どおりにいたしますから、私の誠意だけはおくみとりください。馬鹿正直に仰せどおりにして帰ります私に、若し、上手じょうずに追いやってしまったのだというふうを今後お見せになることがありましたなら、その時にはもう自制の力をなくして情熱のなすがままに自分をまかせなければならなくなることと思いますよ」
 大将は心残りを多く覚えるのであるが、放縦な男のような行為は、言っているごとく過去にも経験したことがなく、またできない人であって、恋人の宮のためにもおかわいそうなことであり、自分自身の思い出にも不快さの残ることであろうなどと思って、自他のために人目を避ける必要を感じ、深い霧に隠れて去って行こうとしたが、魂がもはや空虚うつろになったような気持ちであった。

萩原はぎはら軒端のきばの露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき

 あなたも濡衣ぬれぎぬをおしになれないでしょう。それも無情に私をお追いになった報いとお思いになるほかはないでしょう」
 と大将が言った。そのとおりである。名はどうしても立つであろうが、自分自身をせめてやましくないものにしておきたいと思召す心から、宮は冷ややかな態度をお示しになって、

「わけ行かん草葉の露をかごとにてなほ濡衣をかけんとや思ふ

 ひどい目に私をおあわせになるのですね」
 と批難をあそばすのが、非常に美しいことにも、貴女らしいふうにもお見えになった。今まで古い情誼じょうぎを忘れない親切な男になりすまして、好意を見せ続けて来た態度を一変して好色漢になってしまうことが宮にお気の毒でもあり、自身にも恥ずかしいと、大将は心に燃え上がるものをおさえていたが、またあまり過ぎた謙抑けんよくは取り返しのつかぬ後悔を招くことではないかともいろいろに煩悶はんもんをしながら帰って行くのであった。深い山里の朝露は冷たかった。夫人がこの濡れ姿を見とがめることを恐れて大将は家へは帰らずに六条院の東の花散里はなちるさと夫人の住居すまいへ行った。まだ朝霧は晴れなかった。町でもこんなのであるから、小野の山荘の人はどんなに寂しい霧を眺めておいでになるであろうと大将は思いやった。
「珍しくお忍び歩きをなさいましたのですよ」
 と女房たちはささやいていた。
 夕霧の大将はしばらく休息をしてから衣服を脱ぎかえた。平生からこの人の夏物、冬物を幾かさねとなく作って用意してある養母であったから、香の唐櫃からびつからすぐに品々が選び出されたのである。朝のかゆを食べたりしたあとで夫人の居間へ夕霧ははいって行った。夕霧はそこから小野へ手紙をお送りした。
 山荘の宮は予想もあそばさなかった、にわかな変わった態度を男のとり出した昨夜ゆうべのことで、無礼なとも、恥を見せたともお思いになることで夕霧への御反感が強かった。御息所の耳へはいることがあったならと羞恥しゅうちをお覚えになるのであるが、またそんなことがあったとは少しも御息所が知らずにいて、不意に何かのことから気のついた時に、隔て心があるように思われるのも苦しい、女房がありのままを話すことによって母を悲しませることがあってもやむをえないと宮はおあきらめになるよりほかはなかった。親子と申してもこれほど親しみ合う仲は少ない母と御子なのである。世間に噂の立っていることも親にはなお秘密にしておくことがよく昔の小説などにはあるが、宮にそれはおできになれないことであった。女房たちは昨夜ゆうべのことを御息所が片端だけ聞いてもほんとうにあやまちが起こったことのように歎かれるのであろうから、今はまだそうした思いをさせる必要はないと相談をしていながらも、まだどの程度の関係にまで進んだのか進まなかったのかに疑問を持っていて、今来た大将の手紙が真相を説明してくれるであろうと思う好奇心から、宮がお読みになる時に盗み見をしたいと願っているのであるが、宮はお開きになろうともあそばされないのに気をんで、
「全然御返事をあそばさないことも、たよりない御性質のように想像をなさることでもございましょうし、お若々し過ぎることでもございます」
 などと言って、大将の手紙をひろげると、
「思いがけないことで、たとえあれだけのことにもせよ男の人を接近させたことは、皆私自身の軽率から起こした過失だとは思うがね、思いやりのないことをした人を、私の憎む心がまだ直らないのだから、読まなかったと言ってやるがいい」
 と不機嫌ふきげんに仰せられて宮は横になっておしまいになった。夕霧の手紙は宮の御迷惑になるようなことを避けて書かれたものであった。

たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心から惑はるるかな

「ほかなるものは」(身を捨てていにやしにけん思ふよりほかなるものは心なりけり)と歌われておりますから、昔もすでに私ほど苦しんだ人があったと思いまして、みずからを慰めようとはいたすにもかかわらずなお魂は身に添いません。
 こんなことが長く書かれてあるようであったが、女房も細かに読むことは遠慮されてできないのである。事の成り立ったのちに書かれたふみではないようであるとは見ながらも、なお疑いを消してはいなかった。女房たちは宮の御気分のすぐれぬことをなげきながら、
「昨晩のことがまだ不可解なことに思われます。非常に御親切だということは長い間に私どももお認めしている方ですけれど、良人おっとという御関係におなりになった時と、熱のある友情期間とが同じでありうるでしょうかどうかが心配ですよ」
 などと言い、親しく宮にお仕えしている女房たちもこのことに重い関心をもって宮のためにお案じ申し上げているのであった。御息所はまだこのことを少しも知らずにいた。
 物怪に煩っている病人は重態に見えるかと思うと、またたちまちに軽快らしくなることもあって、平常に近い気分になっていたこの日の昼ごろに、日中の加持が終わり、律師一人だけが病床に近くいて陀羅尼だらに経を読んでいた。病人の苦痛のやや去ったことを律師は喜んで、祈りの終わりに、
「大日如来がうそを仰せられたのでなければ、私が熱誠をこめて行なう修法に効果の見えぬわけはありません。悪霊は執拗しつようであっても、それはごうにまとわれたつまらぬ亡者もうじゃではありませんか」
 と太い枯れ声で言っていた。俗離れのした強い性格の律師で、突然、
「あ、左大将はいつごろから宮様の所へ通って来ておいでになりますか」
 と問うた。
「そんなことはありません、くなられた大納言の親友でしたから、あの方が遺言して宮様のことも頼んでお置きになったものですから、その約束をお守りになって、それ以来親切によくたずねて来てくださることが、もう何年も続いています。そんなお交際つきあいの仲なのですが、この遠い所まで私の病気を見舞いに来てくださいましたそうですから、恐縮して私は聞いておりましたよ」
 御息所みやすどころの答えはこうであった。
「とんでもない。私に隠しだてをなさる必要はない。今朝けさ後夜ごやの勤めにこちらへ参った時に、あちらの西の妻戸からりっぱな若い方が出ておいでになったのを、霧が深くて私にはよく顔が見えませんじゃったが、弟子でしどもは左大将が帰って行かれるのじゃ、昨夜ゆうべも車をお返しになってお泊まりになったのを見たと口々に言っておりました。そうだろうと私もうなずかれました。よいにおいのする方じゃからな。しかしこの御関係は結構なことじゃありませんなあ。あちらがりっぱな方であることに異議はないが、しかしどうも賛成ができん。子供でいられたころからあの方の御祈祷きとうは御祖母の宮様から私が命ぜられていたものじゃから、今も何かといっては私に頼まれるのですがな、そのことはよくありませんな。奥さんの勢力が強くてしかたがない。盛んな一族が背景になっていますからな。お子さんはもう七、八人もできているでしょう。こちらの宮様がそれにお勝ちになることはできないでしょうな。また一方から言えば女という罪障の深いものに生まれて、救いのない長夜のやみに迷うのもこうした関係から生じる煩悩ぼんのうが原因になり、恐ろしい報いを受けることになりますからな、長いきずなが付きまとわることですからな、絶対によろしくないことじゃ」
 律師は頭を振り立てながら、興奮して乱暴なことも言うのである。
「私にはに落ちないことですよ。そんな様子などは少しもお見せにならなかった方ですもの、昨日は私があまり苦しんでいたものですから、しばらく休息をしてからまた話そうとお言いになって、あちらにいらっしゃると女房たちは言っていましたが、そんなふうで夜明けまでおいでになったのでしょう。至極まじめな堅い方をそんなふうに言う人があるのはよくありません」
 と御息所はなお不審をいだくふうを僧に見せながらも、心のうちではそんなことがあったのかもしれない、宮を恋しくお思いする様子はおりおり見えたが、りっぱな人格のある人は人の批難の種になるようなことは避けて、まじめな友情だけを見せていたために、危険はないものとして自分は油断をしていたが、おそばに人も少ないのを見てお居間へはいるようなこともしたのではないかと思われもした。律師が立って行ったあとで、少将を呼んで、こうこうしたことを聞いたとまず御息所は言った。
「ほんとうのことはどれほどのことだったのかね。なぜ私にくわしく報告してくれなかったの。人の言うようなことは決してあるまいとは思っていても私の心は不安でならない」
 聞く御息所に気の毒な思いをしながらも、小少将は昨日のことを初めからくわしく話した。今朝の手紙の内容、宮がその時におらしになった言葉なども言って、
「ながくおさえ続けておいでになりました心を、お知らせなさろうというだけのことだったかと存じます。宮様への敬意をお失いになるようなことはございませんで、御迷惑とお考えになって朝まではおいでになられませんで早く出てお行きになりましたのを、ほかの人はどんなふうに申し上げたのでしょう」
 と、律師とは知らずに、ほかに密告した女房があったのだと小少将は思って言った。御息所は何も言わずに、残念そうな表情をしていたが涙がほろほろとこぼれ出した。見ていて小少将は気の毒で、なぜありのままのことを言ったのだろう、病気の上に御息所は煩悶はんもんをして、どんなに堪えがたいことであろうと悔いた。
襖子からかみはしめたままでございました」
 などと、今になって、少しでもよいように取りなそうと努めるのであったが、そんなことはどうでも、なぜそんなに近くへ男の寄って来るようなことを宮がおさせになったかと思うと悲しい。やましいところはおありにならなくても、さっき聞いたようなことを言って騒いでいる律師の弟子たちは、宮様のためにこれは不利であると思って隠すようなことをするはずもない、どう人に言いわけをすればいいことかわからない、絶対にないことと打ち消すことはしなければなるまい、何にしても心の幼稚な女房ばかりがお付きしていてとも思う心を御息所は口へ出しては言えなかった。病気が重い上に大きい衝動を受けたのであったからこの人はいたましいほどにも苦しんだ。神聖な方としており立てしていきたかった宮様も、世間の女並みに浮き名を立てられておしまいになることがもってのほかに思われてならなかった。
「今日のような私の気分の少しよい間に、宮様がこちらへおいでくださるように申し上げなさい。あちらへ伺うはずだけれど動けそうではないのだからね。ずいぶんながくお目にかからない気がする」
 御息所は目に涙を浮かべてこう言っているのであった。
 小少将は宮のお居間へ帰って、御息所の最後の言葉だけをお伝えした。宮は母君の所へ行こうとあそばされて、額髪の涙でかたまったのをお直しになり、お召し物のほころんでいた単衣ひとえをお着かえになっても、お気が進まないでじっとすわっておいでになるのであった。この女房たちもどう自分を見ているのであろう、御息所も今は何もお知りにならないで、あとで少しでも昨夜のことをお聞きになることがあったなら、素知らぬ顔をしていたと今日の自分が思われることであろうとお考えになると、非常に恥ずかしくおなりになり、宮はまた横になっておしまいになって、
「私はどうも気分がよくない。このまま病気になって死んでしまうのはいいことだけれどね、あしからのぼせ上がってきたようだから」
 とお言いになり、宮は脚をおませになった。あまり物思いをあそばすためにおのぼせになったのである。
「御息所に昨晩のことをほのめかしてお話しした人があったのでございますよ。ほんとうのことが聞きたいとお言いになるものでございますから、正直にお話しいたしましたが、お襖子からかみのことだけは少し誇張をいたしまして、しまいまで皆はあいたのでないように申し上げておきましたから、もしくわしいお話を聞こうとなさいましたら、私のと同じようにおっしゃってくださいまし」
 こう小少将が言った。御息所が悲しんでいることは申さない。宮はそれでお呼びになったのであると、いっそうわびしい気におなりになり、何も仰せられなかったが、おまくらからしずくが落ちていた。この問題だけではなく、自分の意志でなくした結婚からこの方、母に物思いばかりをさせる自分であると、宮は子としてのかいのないことを悲しんでおいでになって、あの大将もこのままで心をひるがえすことはせずに、いろいろと自分を苦しめるであろうことが煩わしい、それについて立つうわさもあろうと御煩悶はんもんをあそばした。弁明することのできない弱い女の自分は、無根のことでどんなに悪名をきせられることになるのであろうと、けがれのない自信は持っておいでになるのであるが、皇女に生まれた者があれほど異性と近くいて夜の何時間かを過ごしたというようなことはありうることでなく、あってよいわけのものでもないとお思いになることで、御自身の運命がお悲しまれになり、憂鬱ゆううつにされておいでになったが、夕方にまた、
「ぜひおいでなさいますように」
 と、御息所のほうから言って来たので、間にある座敷倉の戸を、向こうとこちらと両方であけて宮は御息所の東の病室へおいでになった。
 病苦がありながらも御息所はうやうやしく宮をお取り扱いした。平生の作法どおりに起き上がってもいた。
「だらしなくいたしているのでございますから、お迎えいたしますことも心が引けてなりません。ただ二、三日だけお目にかからなかったのでございますのを、何年もおいすることのできなかったほど寂しく思われますのも味気ないことでございます。親子の縁では未来で必然的にお逢いできますともきまらないのでございますからね。もう一度生まれてまいりましてもだめなのでございますのに、考えますれば瞬間で永遠の別れになりますわれわれがあまりに愛し過ぎて暮らしましたのが、後悔いたされます」
 などと、御息所は泣くのであった。宮もいろいろなことがお心にあってお悲しい時で、何もお言いになることができずに、ただ母君の顔をながめておいでになった。非常にお内気で思うことをはきはきとお告げになることもおできにならずに、恥ずかしいお様子ばかりのお見えになるのがおかわいそうで、御息所は昨日のことをお尋ねすることもできない。を早くつけさせてお夕食などもこちらで差し上げさせることに御息所はした。今朝から何も召し上がらないことを御息所は聞いて、ある物は自身で料理をし変えさせることを命じまでしてお勧めするのであるが、宮は御はしをお触れになる気にもおなりになれなかった。ただ母君の容体がよさそうである点だけで少しの慰めを得ておいでになった。
 夕霧の大将からまた手紙が来た。事情を知らない女房が使いから受け取って、
「大将さんから少将さんにというお手紙がまいりました」
 と、この座敷で披露ひろうしたことは、宮のお心をさらに苦しくさせたことであった。少将はすぐにそれを手もとへ取ってしまった。
「どんなお手紙」
 と、今までそのことに一言も触れなかった御息所も問うた。反抗的になっていた御息所の心も、何時間かのうちに弱くなり、人知れず大将の今夜の来訪を待っていたのであるから、手紙が来るのは自身で来ぬことであろうと胸が騒いだのである。
「およこしになった手紙のお返事はなさいまし、しかたがございません。一度立てた名を取り消すような評判はだれがしてくれましょう。きれいな御自信はおありになっても、だれがそれを認めてくれましょう。素直にお返事もあそばして、冷淡になさらないほうがよろしゅうございます。わがままな性格だと思われてはなりません」
 と宮に申し上げて、御息所みやすどころは手紙を少将から受け取ろうとした。少将は心に当惑をしながらも渡すよりほかはなかった。
冷ややかなお心を知りましたことによってかえっておさえがたいものに私の恋はなっていきそうです。

せくからに浅くぞ見えん山河やまかはの流れての名をつつみはてずば

 まだいろいろに書かれてある手紙であったが、御息所は終わりまでを読まなかった。この手紙も宮との関係を明瞭めいりょうに説明したものでなくて恋人の冷ややかであったことにこうしてむくいるというように、今夜も来ない大将の態度を御息所は悲しんだ。柏木かしわぎが宮にお持ちする愛情のこまやかでないのを知った時に、御息所は悲観したものであるが、ただ一人の妻として形式的には鄭重ていちょうをきわめたお取り扱いを故人がしたことで、強みのある気がして慰められはした。それでも心から御息所は宮が御幸福におなりになったとは思わなかった。それさえもそうであったのに、今度のことは何たる悲しいことであろう。太政大臣家での取り沙汰ざたは想像するだにいやであると御息所は思うのである。なおどう大将が言ってくるかと見たい心から、非常に苦しい身体からだの調子であるのを忍んで、目を無理にあけるようにもして書いた力のない、鳥の足跡のような字で返事をするのであった。
もう私はなおる見込みもなくなりました。宮様はただ今こちらへ見舞いに来ておいでになるのでございまして、お勧めをしてみましたが、めいったふうになっておいでになりまして、お返事もお書けにならないようでございますから、私が見かねまして、

女郎花をみなへししをるる野辺をいづくとて一夜ばかりの宿を借りけん

 こう書きさしただけで紙を巻いて出した。そのまままた病床に横たわった御息所ははなはだしく苦しみだした。物怪もののけが油断をさせようと一時的に軽快ならしめていたのかと女房たちは騒ぎだした。効験のいちじるしい僧が皆呼び集められて、病室は混雑していた。あちらへお帰りになるように女房たちはお勧めするのであるが、宮は御自身をお悲しみになる心から、いっしょに死のうと思召して母君からお離れにならないのであった。
 夕霧はこの日の昼ごろから三条の家にいた。今夜また小野の山荘へ行くことは、まだない事実をあることらしく人に思わせるだけで、自分のためにはよい結果をもたらすことでないと行きたい心をしいておさえることに努力していたが、これまで恋しくお思いしていたことは物の数でもないほどに昨日からにわかに千倍した恋に苦しむ大将であった。夫人は山荘の昨日の訪問の様子をほかから聞き出して不快がっていたのであるが、知らぬ顔をして子供の相手をしながら自身の昼の居間のほうで横になっていた。
 八時過ぎに小野の山荘で書いた御息所の返事は大将の所へ持って来られたのであるが、大病人の書いた鳥の跡は一度見たのではわかりにくい。夕霧がを近くへ持って来させてさらに丁寧に読もうとしている時に、あちらにいたのであるが夫人はそれを見つけて、そっと寄って来て後ろから奪ってしまった。夕霧はあきれて、
「どうするのですか。けしからんじゃありませんか。六条の東のお母様のお手紙ですよ。今朝から風邪かぜでお悪かったから、院の御殿へ伺ったままでこちらへ帰って来て、もう一度おたずねすることをしなかったのがお気の毒だったから、御様子を聞く手紙を持たせてやったのじゃありませんか。御覧なさい、恋の手紙というような書き方ですか、これは。はしたない下品なことをするじゃありませんか。年月に添って私をあなどることがひどくなるのは困ったものだ。女房たちがどう思うかを少しも考慮に入れないのですね」
 と言って歎息たんそくはしたが、惜しそうにしてしいて夫人の手から取り上げることはしなかったから、雲井くもいかり夫人もさすがにこの場で読むこともできずにじっと持っていた。
「年月に添って侮るなどとは、あなた御自身がそうでいらっしゃるから、私のことまでも臆測おくそくなさるのよ」
 夫人は良人おっとがあまりにまじめな顔をしているのに気おくれがして、若々しく甘えてみせた。夕霧は笑って、
「それはどちらのことでもいい。世間のどこにもあることだからね。けれどもこれだけはほかにないことですよ。相当な身分の男がただ一人の妻を愛して、何かにおそれているたかのように、じっと一所を見守っているようなのに似た私を、どんなに人が笑っていることだろう。そんな偏屈な男に愛されていることはあなたにとっても名誉じゃありませんよ。おおぜいの妻妾さいしょうの中ですぐれて愛される人は、見ない人までもが尊敬を寄せるものだし、自分でも始終緊張していることができて、若々しい血はなくならないであろうし、真の生きがいを感じることが多いだろうと思われる。私のように、昔の何かの小説にある老いぼれの良人のようにあなた一人をただ夢中に愛しているようなことはあなたのために結構なことではありませんよ。そんなことはあなたが世間からはなやかに見られることでは少しもないからね」
 夕霧は小野の手紙をいざこざなしに取ってしまいたい心から妻を欺くと、夫人は派手はでに笑って、
「はなやかなことをあなたがしようとしていらっしゃるから、古いじみな女の私が一方で苦しんでいるのですよ。にわかにすっかりまじめでなくおなりになったのですもの、私にはそうした習慣がついていないのですから苦しくてなりません。初めからそうしておいでになればよかったのよ」
 と恨めしがる妻も憎くはなかった。
「にわかにとあなたが思うようなことが私のどこにあるのですか、あなたは疑い深いのですね。私を中傷する人があるのでしょう。そうした人たちは初めから私に敵意を見せていたものだ。浅葱あさぎの色の位階服が軽蔑けいべつすべきであった私を、今だってあなたの良人にさせておくのが残念で、何かほかの考えを持っている者などがあって、いろんなないうわさをあなたに聞かせるのだろう。一方で私のためにそうした濡衣ぬれぎぬを着せられておいでになる方もお気の毒なものだ」
 などと言いながらも夕霧は、女二にょにみやの御良人となることも堅く期しているのであるから、深く弁明はしようとしないのであった。乳母めのと大輔たゆう気術きじゅつながって何も言おうとしなかった。なお夫人は奪った手紙を返そうとはせずにどこかへ隠してしまった。夕霧は無理に取り返そうとはせずに、冷静に見せて寝についたのであるが、動悸どうきばかり高く打ってならなかった。どうかして取り返したい、御息所の手紙らしい、どんな内容なのであろうと思うと眠ることもできないのである。夫人が寝入ってしまったので、よいにいた所の敷き物の下などをさりげなく大将は捜すのであるが見つからなかった。深く隠すだけの時間のなかったのを思うと、近い所に置かれてあるに違いないと思うのに見つけられないのが歯がゆくて、悩ましい気持ちになり、夜が明けてもなお起きようとしなかった。夫人は子供に起こされて寝所からいざって出る時に、夕霧も今目をさましたふうに半身を起こして、昨夜の手紙をまたも捜そうとするのであったが、見つけることは不可能であった。夫人は良人おっとがそんなふうにほしがらぬ手紙はやはり恋の消息ではなかったのであろうと思って、もう気にもかからなかった。子供がそばで騒ぎまわったり、やや大きい子が人形を作って遊んだり、本を読んだり、手習いをしたりするのをいちいち見てやらねばならぬ忙しい時にも、また一人の小さい子が後ろからいかかって来てつかまり立ちをしようとするような、母であるための繁忙に追われて、夫人はもう奪った手紙のことなどは忘れ切っていた。男は他のことはいっさい思われないほど手紙がほしかった。小野へ今朝早く消息をしたいと思うのであるが、昨夜の手紙に書かれてあったことをよく見なかったのであるから、それに触れずに手紙を書いては、先方のものをそまつに取り扱って散らせてしまったことが知れてまずいことになると煩悶をしていた。夫婦も子供たちも食事を済ませてのどかになった昼ごろに、大将は思いあまって夫人に言うのであった。



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