日が暮れると大将の心はもう静めようもなく浮き立って、どうかして自邸から一刻も早く出たいとばかり願うのであったが、大降りに雪が降っていた。こんな天候の時に家を出て行くことは人目に不人情なことに映ることであろうし、妻が見さかいなしの嫉妬でもするのでもあれば自分のほうからも十分に抗争して家を出て行く機会も作れるのであるが、おおように静かにしていられては、ただ気の毒になるばかりであると、大将は煩悶して格子も下ろさせずに、縁側へ近い所で庭をながめているのを、夫人が見て、 「あやにくな雪はだんだん深くなるようですよ。時間だってもうおそいでしょう」 と外出を促して、もう自分といることに全然良人は興味を失っているのであるから、とめてもむだであると考えているらしいのが哀れに見られた。 「こんな夜にどうして」 と大将は言ったのであるが、そのあとではまた反対な意味のことを、 「当分はこちらの心持ちを知らずに、そばにいる女房などからいろんなことを言われたりして疑ったりすることもあるだろうし、また両方で大臣がこちらの態度を監視していられもするのだから、間を置かないで行く必要がある。あなたは落ち着いて、気長に私を見ていてください。邸へつれて来れば、それからはその人だけを偏愛するように見えることもしないで済むでしょう。今日のように病気が起こらないでいる時には、少し外へ向いているような心もなくなって、あなたばかりが好きになる」 こんなに言っていた。 「家においでになっても、お心だけは外へ行っていては私も苦しゅうございます。よそにいらっしってもこちらのことを思いやっていてさえくだされば私の氷った涙も解けるでしょう」 夫人は柔らかに言っていた。火入れを持って来させて夫人は良人の外出の衣服に香を焚きしめさせていた。夫人自身は構わない着ふるした衣服を着て、ほっそりとした弱々しい姿で、気のめいるふうにすわっているのをながめて、大将は心苦しく思った。目の泣きはらされているのだけは醜いのを、愛している良人の心にはそれも悪いとは思えないのである。長い年月の間二人だけが愛し合ってきたのであると思うと、新しい妻に傾倒してしまった自分は軽薄な男であると、大将は反省をしながらも、行って逢おうとする新しい妻を思う興奮はどうすることもできない。心にもない歎息をしながら、着がえをして、なお小さい火入れを袖の中へ入れて香をしめていた。ちょうどよいほどに着なれた衣服に身を装うた大将は、源氏の美貌の前にこそ光はないが、くっきりとした男性的な顔は、平凡な階級の男の顔ではなかった。貴族らしい風采である。侍所に集っている人たちが、 「ちょっと雪もやんだようだ。もうおそかろう」 などと言って、さすがに真正面から促すのでなく、主人の注意を引こうとするようなことを言う声が聞こえた。中将の君や木工などは、 「悲しいことになってしまいましたね」 などと話して、歎きながら皆床にはいっていたが、夫人は静かにしていて、可憐なふうに身体を横たえたかと見るうちに、起き上がって、大きな衣服のあぶり籠の下に置かれてあった火入れを手につかんで、良人の後ろに寄り、それを投げかけた。人が見とがめる間も何もないほどの瞬間のことであった。大将はこうした目にあってただあきれていた。細かな灰が目にも鼻にもはいって何もわからなくなっていた。やがて払い捨てたが、部屋じゅうにもうもうと灰が立っていたから大将は衣服も脱いでしまった。正気でこんなことをする夫人であったら、だれも顧みる者はないであろうが、いつもの物怪が夫人を憎ませようとしていることであるから、夫人は気の毒であると女房らも見ていた。皆が大騒ぎをして大将に着がえをさせたりしたが、灰が髪などにもたくさん降りかかって、どこもかしこも灰になった気がするので、きれいな六条院へこのままで行けるわけのものではなかった。大将は爪弾きがされて、妻に対する憎悪の念ばかりが心につのった。先刻愛を感じていた気持ちなどは跡かたもなくなったが、現在は荒だてるのに都合のよろしくない時である。どんな悪い影響が自分の新しい幸福の上に現われてくるかもしれないと、大将は夫人に腹をたてながらも、もう夜中であったが僧などを招いて加持をさせたりしていた。夫人が上げるあさましい叫び声などを聞いては、大将がうとむのも道理であると思われた。夜通し夫人は僧から打たれたり、引きずられたりしていたあとで、少し眠ったのを見て、大将はその間に玉鬘へ手紙を書いた。
昨夜から容体のよろしくない病人ができまして、おりから降る雪もひどく、こんな時に出て行くことはどうかと、そちらへ行くのをやむなく断念することにしましたが、外界の雪のためでもなく、私の身の内は凍ってしまうほど寂しく思われました。あなたは信じていてくださるでしょうが、そばの者が何とかいいかげんなことを忖度して申し上げなかったであろうかと心配です。
という文学的でない文章であった。
心さへそらに乱れし雪もよに一人さえつる片敷の袖
堪えがたいことです。
ともあった。白い薄様に重苦しい字で書かれてあった。字は能書であった。大将は学問のある人でもあった。尚侍は大将の来ないことで何の痛痒も感じていないのに、一方は一所懸命な言いわけがしてあるこの手紙も、玉鬘は無関心なふうに見てしまっただけであるから、返事は来なかった。大将は自宅で憂鬱な一日を暮らした。夫人はなお今日も苦しんでいたから、大将は修法などを始めさせた。大将自身の心の中でも、ここしばらくは夫人に発作のないようにと祈っていた。物怪につかれないほんとうの妻は愛すべき性質であるのを自分は知っているから我慢ができるのであるが、そうでもなかったら捨てて惜しくない気もすることであろうと大将は思っていた。大将は日が暮れるとすぐに出かける用意にかかったのである。大将の服装などについても、夫人は行き届いた妻らしい世話の十分できない人なのである。自分の着せられるものは流行おくれの調子のそろわないものだと大将は不足を言っていたが、きれいな直衣などがすぐまにあわないで見苦しかった。昨夜のは焼け通って焦げ臭いにおいがした。小袖類にもその臭気は移っていたから、妻の嫉妬にあったことを標榜しているようで、先方の反感を買うことになるであろうと思って、一度着た衣服を脱いで、風呂を立てさせて入浴したりなどして大将は苦心した。木工の君は主人のために薫物をしながら言う、
「一人ゐて焦るる胸の苦しきに思ひ余れる焔とぞ見し
あまりに露骨な態度をおとりになりますから、拝見する私たちまでもお気の毒になってなりません」 袖で口をおおうて言っている木工の君の目つきは大将を十分にとがめているのであったが、主人のほうでは、どうして自分はこんな女などと情人関係を作ったのであろうとだけ思っていた。情けない話である。
「うきことを思ひ騒げばさまざまにくゆる煙ぞいとど立ち添ふ
ああした醜態が噂になれば、あちらの人も私を悪く思うようになって、どちらつかずの不幸な私になるだろうよ」 などと歎息を洩らしながら大将は出て行った。中一夜置いただけで美しさがまた加わったように見える玉鬘であったから、大将の愛はいっそうこの一人に集まる気がして、自邸へ帰ることができずにそのままずっと玉鬘のほうにいた。大騒ぎして修法などをしていても夫人の病気は相変わらず起こって大声を上げて人をののしるようなことのある報知を得ている大将は、妻のためにもよくない、自分のためにも不名誉なことが必ず近くにいれば起こることを予想して、怖ろしがって近づかないのである。邸へ帰る時にもほかの対に離れていて、子供たちを呼び寄せて見るだけを楽しみにしていた。女の子が一人あって、それは十二、三になっていた。そのあとに男の子が二人あった。近年はもう夫婦の間も隔たりがちに暮らしていたが、ただ一人の夫人として尊重することは昔に変わらなかったのが、こんなふうになったのであるから、夫人ももう最後の時が来たのだと思うし、女房たちもそう見て悲しむよりほかはなかった。 父宮がそのことをお聞きになって、 「そんな冷酷な扱いを受けてもまだ辛抱強くあなたはしているのですか。それは自尊心も名誉心もない女のすることです。私の生きている間はまだあなたはそう奴隷的になっていないでもいいのです」 と言うお言葉をお伝えさせになって、にわかに迎えをお立てになった。夫人はやっと常態になっていて、自身の不幸な境遇を悲しんでいる時に、このお言葉を聞いたのであったから、今になってまだ父宮のお言葉に従わずここにいて、まったく良人から捨てられてしまう日を待つことは、現在以上の恥になることであろうなどと思って、実家へ行くことにしたのであった。夫人の弟の公子たちは、左兵衛督は高官であるから人目を引くのを遠慮して、そのほかの中将、侍従、民部大輔などで三つほどの車を用意して夫人を迎えに来たのであった。結局はこうなることを予想していたものの、いよいよ今日限りにこの家を離れなければならぬかと思うと、女房たちは皆悲しくなって泣き合った。 「これまでのようでないかかり人におなりになるのだから、お狭いところにおおぜいがお付きしていることはできません。幾人かの人だけはお供してあとは自分たちの家へ下がることにして、とにかくお落ち着きになるのを待ちましょう」 などと女房たちは言って、それぞれの荷物を自宅へ運ばせ、別れ別れになるものらしい。夫人の道具の運ばれる物は皆それぞれ荷作りされて行く所で、上下の人が皆声を立てて泣いている光景は悲しいものであった。姫君と二人の男の子が何も知らぬふうに無邪気に家の中を歩きまわっているのを呼んで、夫人は前へすわらせた。 「お母様は不幸な運命でお父様から捨てられてしまったのだから、どちらかへ行ってしまわなければならない。あなたがたはまだ小さいのにお母様から離れてしまわなければならないのはかわいそうだね。姫君はどうなるかしれないお母様だけれど私といっしょにいることになさい。男の子も私について来て、時々ここへ来るようなことだけにしてはお父様がかわいがってくださらないよ。大人になって出世もできないような不幸の原因にそれがなるかもしれないからね。お祖父様の宮様のいらっしゃる間は、ともかくも役人の端にはしてもらえるにもせよね、お父様が今度親類におなりになった二人の大臣次第の世の中なのだから、その方たちにきらわれている私についていてはあなたがたは損で、出世などはできませんよ。そうかといってお坊様になって山や林へはいってしまうことは悲しいことだからね。それに不自然な出家をしては死んでからのちまで罪になります」 と言って泣く母を見ては、深い意味はわからないままで子は皆悲しがって泣く。 「昔の小説の中でも普通にお子様を愛していらっしゃるお父様でも片親ではね、いろんなことの影響を受けてだんだん子供に冷淡になっていくものですよ。そしてこちらの殿様は現在でさえもああしたふうをお見せになるじゃありませんか。お子様の将来を思ってくださるようなことはないと思います」 と乳母たちは乳母たちでいっしょに集まって、悲しんでいた。日も落ちたし雪も降り出しそうな空になって来た心細い夕べであった。 「天気がずいぶん悪くなって来たそうです。早くお出かけになりませんか」 と夫人の弟たちは急がせながらも涙をふいて悲しい肉親たちをながめていた。姫君は大将が非常にかわいがっている子であったから、父に逢わないままで行ってしまうことはできない、今日父とものを言っておかないでは、もう一度そうした機会はないかもしれないと思ってうつぶしになって泣きながら行こうとしないふうであるのを夫人は見て、 「そんな気にあなたのなっていることはお母様を悲しくさせます」 などとなだめていた。そのうち父君は帰るかもしれぬと姫君は思っているのであるが、日が暮れて夜になった時間に、どうして逆にこの家へ大将が帰ろう。 姫君は始終自身のよりかかっていた東の座敷の中の柱を、だれかに取られてしまう気のするのも悲しかった。姫君は檜皮色の紙を重ねて、小さい字で歌を書いたのを、笄の端で柱の破れ目へ押し込んで置こうと思った。
今はとて宿借れぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな
この歌を書きかけては泣き泣いては書きしていた。夫人は、 「そんなことを」 と言いながら、
馴れきとは思ひ出づとも何により立ちとまるべき真木の柱ぞ
と自身も歌ったのであった。女房たちの心もいろいろなことが悲しくした。心のない庭の草や木と別れることも、あとに思い出して悲しいことであろうと心が動いた。木工の君は初めからこの家の女房であとへ残る人であった。中将の君は夫人といっしょに行くのである。
「浅けれど石間の水はすみはてて宿守る君やかげはなるべき
思いも寄らなかったことですね、こうしてあなたとお別れするようになるなどと」 と中将の君が言うと、木工は、
「ともかくも石間の水の結ぼほれかげとむべくも思ほえぬ世を
何が何だかどうなるのだか」 と言って泣いていた。 車が引き出されて人々は邸の木立ちのなお見える間は、自分らはまたもここを見る日はないであろうと悲しまれて、隠れてしまうまで顧みられた。住んでいる主人のために家と別れるのが惜しいのではなくて、家そのものに愛着のある心がそうさせるのである。 大将夫人をお迎えになって、宮は非常にお悲しみになった。母の夫人は泣き騒いだ。 「太政大臣のことをよい親戚を持ったようにあなたは喜んでいらっしゃいますが、私には前生にどんな仇敵だった人かと思われます。女御などにも何かの場合に好意のない態度を露骨にお見せになりましたが、そのころは須磨時代の恨みが忘られないのだろうとあなたがお言いになり、世間でもそう批評されたのでも私には腑に落ちなかったのです。それだのにまた今になって、養女を取ったりなどして、自分が御寵愛なすって古くなすった代償にまじめな堅い男を取り寄せて婿にするなどということをなさる。これが恨めしくなくて何ですか」 こう言い続けるのである。
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