一
オーストラリヤの大陸近くに、木曜島といふ真珠貝の沢山取れる有名な島があります。そこには何百人といふ日本人の潜水夫が貝をとつてゐます。 今は昔、そこにゐる潜水夫のうちで、太海今太郎といふ少年潜水夫がゐました。この人は貝をとる潜水夫のうちでも、名人とよばれた太海三之助の一人息子でありましたが、海亀を助けてやつて、海亀に助けられたところから浦島といふあだ名がついて、後には浦島今太郎といふ通名になつて、誰も本姓太海を呼ばなくなりました。 これから、その冒険談を聞くことにしませう。
今太郎君が十五のときでした。 ある日、お父さんの採貝艇(潜水夫をのせて真珠貝をとりにゆく船)に乗り、沖へ出て、空気を潜水夫へ送るポンプをせつせと動かしてゐると、すぐ船のそばへ、チヤブ台ほどの大きさの海亀が一匹浮き上りました。船の者共は面白半分鉤をかけて、引上げてしまひました。 「こいつの肉はうまいから、今夜一ぱい飲めるぞ」と、水夫の一人がにこにこして言ひました。 「今太郎さん」と、も一人の水夫はポンプを動かしながら言ひました。「すばらしく、おいしいスープを拵へて、君にも、うんと喰べさしてあげるよ」 今太郎君は船板の上に、仰向けにひつくりかへつてゐる亀を、珍しさうに見てゐましたが、これが今夜喰べられてしまふのかと思ふと、何だかかはいさうなやうな気がしました。そして浦島太郎の昔話を思出しました。 そのうち、水底にもぐつてゐたお父さんが真珠貝をとつて、上つて来ました。潜水兜をまづぬぐと、すぐ大きな亀に目をつけました。 「フン、えらいものを捕つたね。どうするんだい」と、お父さんがきゝました。 「どうするつて」と、さきの水夫が言ひました。「そりや親方勿論、喰べるにきまつてゐるぢやありませんか」 すると、今太郎君が横合から言ひました。 「ねえ、お父さん、かはいさうですよ。放しておやんなさいよ。だつて、日本ぢや、漁師たちは、亀がとれるのは、大漁のしらせだといつて、お酒を飲まして、放してやるつていふぢやありませんか」 「いや、それはいけない」と、別の水夫が言ひました。「日本の漁師なんて迷信が深いから、そんな馬鹿げたことをいふのだ。亀なんて、こちとら真珠とりにや、邪魔にこそなれ、ちつとも益にやならない。それよりもスープにしたり、テキにしたりして、喰つた方がいゝ」 お父さんはにこ/\笑つて、双方の言分を聞いてゐましたが、やがて、 「ぢや、かうしよう、お前たちには、わしから一人に一両づゝやるから、亀は今太郎の言ふやうに、放してやつてくれ」と、言ひました。 「ハハハ、これや、とんだ浦島太郎――ぢやない、浦島今太郎だね」と、水夫は笑ひながら、仰向けになつて、手足をもがもがさしてゐる亀を、そのまま、ずる/\とひきずつて、海の中へ、ぼちやんと投込みました。亀は水に入ると、すぐ自由を取もどして、上手に起直り、三度ほど波の上に頭を出して、こちらを見い/\、どことも知れず姿を隠してしまひました。
二
程経て、ある日、大きな亀が来て、もし/\今太郎さん、竜宮へ御案内と言つたなら、浦島そのまゝですが、実際の話は、今太郎君が放してやつた海亀はその後、さつぱり行方が知れなかつたのです。又今太郎君の方でも、半分はそのことを忘れて、月日を送るうち、その年も過ぎて、十六になつたので、お父さん同様、海の底へもぐつて、真珠貝をとる稽古を始めました。 今太郎君は厚い丈夫な潜水服を着て、まん丸い、ボール[#「ボール」は底本では「ポール」]のやうな潜水兜をかぶり、足には何キログラムといふ重い鉛の底のついた靴をはき、お父さんと一緒に、舷の梯子を下りて、海へ潜りました。海の底は薄暗くて、ちやうど、陸で木や草が茂つてゐるやうに、海藻が一ぱいに生えてゐるところもあれば、又砂原のやうなところもあり、山の崖みたやうなところもありました。そして時々魚が、まるで鳥のやうに、身のまはりや、頭の上を泳いで通りました。 今太郎君はお父さんにならつて、持つて来た袋に、真珠貝を拾つては入れました。けれども海の中では、人がとつて来たのを、舟の上や陸で見るやうに、さう、ざうさなくとることは出来ません。なか/\見つけるのが難しくて熟練がいるのでした。 かうして、毎日のやうに、潜水して貝とりの稽古をしてゐるうち、ある日今太郎君が貝をさがし/\行くうち、ふと、自分から余り遠くないところに大きな岩が丘のやうにつゞいてゐるのを見つけました。 「おや、きれいだ!」 今太郎君は心のうちで叫びました。岩は下の方が赤紫で、上の方へ行くにつれて乳色をしてゐます。そして赤紫の根本には、大小幾つもの穴が黒々とあいてゐるので、ちよつとお城のやうにも見えました。 「はゝア、これだな潜水夫たちが、竜宮城つていふやつは……」 今太郎君は珍しいものですから、うか/\その方へ近づいて行きました。傍へ寄つてみると、その美しいこと。乳色の八つ手の葉をひろげたやうな珊瑚虫が、べた一面にひろがつて、花の畑を見るやうでした。私共が珊瑚といつて珍重するのはこの動物の骨なのです。 今太郎君は真珠貝をさがすことも、お父さんとはかなり遠く離れてしまつたことも忘れて、そこに立つてゐるうち、とある大きな岩穴の前に、沢山の蟹の殻が落ちてゐるのを見つけました。 「おや/\どうしたんだらう。蟹が戦争でもしたのか、こんなに沢山死んでゐる」 今太郎君が不審をいだいて、その方へもつと近づいて行きかけたとき、忽ち大きな穴の中から、真つ黒な雲がもく/\と湧出して、あたりは夜のやうに暗くなりました。
三
「あツ、しまつた!」 今太郎君は我知らず、かう叫びました。それは、かね/″\潜水夫たちに聞いてゐた、海の底に住むいろ/\の怪物のうちで、一番恐がられてゐる大蛸の仕業と分つたからです。沢山の蟹の殻は、そ奴が今まで餌食にしてゐたものだつたのです。 蛸は敵にあつてにげるときや、大きな獲物を襲ふときには、口から墨汁をふいて、あたりを真つ暗にする習慣をもつてゐます。つまり、我々が戦争をするとき、煙幕を張ると同じわけです。ですから、今太郎君はきつと自分が襲はれるものと思つて、早く逃げようとしましたが、真つ暗なので、どつちへ行つていゝか分りません。その上に、重い潜水服を着てゐるのですから、自由もきゝません。仕方がないから、貝入袋の中から、護身用の大ナイフを手早く取出して、蛸が手をかけたら、ぶつぶつ切つてしまはうと待つてゐました。 ところが何事もありません。はて不思議と怪しんでゐるうち、墨汁で濁つた水もやう/\澄んで、あたりが見えるやうになると、二度びつくりしました。 六メートルばかり前の岩穴の前に、雨傘ほども頭があるすばらしい大きな蛸が、錨の鎖にも似た、疣だらけの手を四本岩にかけて、残りの四本で何やら妙な大きな魚のやうなものを押へてゐます。しかし、押へてゐるだけで、すぐ喰はうとはしません。 今太郎君は蛸が自分にかゝつて来たのでない事を知ると、やつと安心して先程恐かつたことも忘れ、面白さうに、その場の成行をじつと見てゐました。 蛸がすぐに喰つかないのも道理で、その捕へてゐるのは、蛸にとつては恐しい大敵の海豚だつたのです。だから大蛸は海豚が案外やす/\と押へられはしたものの、うかつにそばへは寄りつけないから、その大きな目をむいてじつと隙を狙つてゐる、すると又、海豚の方では、不意を打たれて、幾分か自由を失つてはゐるものゝ、それぐらゐで閉口するやうな弱虫でないから、おとなしいやうなふりをして、実はじつと、蛸の様子をうかゞつてゐるのでした。 と、たちまち、どんな隙を見つけ出したか、大蛸はその尖つた口を、まるで電光のやうな速さで、海豚の胸の真つ只中に、ぐさりと一突き! 「あツやられた!」 今太郎君は自分がやられたものゝやうに、思はず大きな声を出しました。 しかし、海豚はそれを待つてゐたのです。とつさに身をかはしたが早いかあべこべに敵の頭の下を狙つて、ぱくりと、喰ひつきました。 蛸やいかは、手なんか二本や三本切つたところでびくともしませんが、その目のあるところは、人間で言へば首に当る大事な箇所ですから、こゝをやられたら、どんな奴でもかなひません。海豚は自然に、それを知つてゐるのです。 急所をやられて、さすがの怪物の大蛸も、とう/\参つてしまひ、吸付いてゐた疣だらけの手は、ぐつたりと力なく海の底に落ちて、大きな胴体はまるで開いた落下傘みたやうに、ふわりふわりと浮びました。 勝つた海豚は、まるで何事も起らなかつたものゝやうに、どこかへ悠々と泳いで去りました。 今太郎君は初めて、海の底の物凄い戦ひを見せられたのでした。しかし、こんなものはお茶の子です。海の底にはもつともつと恐しい危険が隠れてゐます。
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