ところがその撃剣の先生はつかつかと歩いて来ました。 「うちの中のあかりを消せい、電燈を消してもべつのあかりをつけちゃなんにもならん。はやく消せい。おや、今晩は。なるほど、こちらの商売では仕方ないかね。」 「ええ、先生、今晩は、ご苦労さまでございます。」 親方がでてきて挨拶しました。 「いや今晩は、どうもひどい暑気ですね。」 「へい、全く、虫でしめっ切りですからやりきれませんや。」 「そうねえ、いや、さよなら。」撃剣の先生はまただんだん向うへ叫んで行きました。 この声がだんだん遠くなって、どこかの町の角でもまがったらしいとき、この青い海の中のような床屋の店のなかから、とうとうデストゥパーゴが出て来てしばらく往来を見まわしてから、すたすた南の方へあるきだしました。わたくしは後向きになって火の中へ落ちる蛾を見ているふりをしていましたが、すぐあとをつけました。デストゥパーゴは毒蛾にさわられたためにたいへん落ち着かないようすでした。それにどこかよほどしょげていました。わたくしはあとをつけながら、なんだかかあいそうなような気もちになりました。もちろんひとりもデストゥパーゴに挨拶するものもありませんでしたし、またデストゥパーゴはなるべくみんなに眼のつかないように車道との堺の並木のしたの陰影になったところをあるいているのでした。 どうもデストゥパーゴが大びらに陸軍の獣医たちなどと交際するなんて偽らしいとわたくしは思いました。とうとうデストゥパーゴは立ちどまって、しばらくあちこち見まわしてから、大通りから小さな小路にはいりました。わたくしは知らないふりしてぐんぐん歩いて行きました。その小路をはいるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデストゥパーゴははいって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデストゥパーゴに会おうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしているデストゥパーゴだと云って押えてしまってもらおうかと、そのときまで考えていましたが、いまデストゥパーゴの家のなかへはいるのを見るともう前後を忘れて走り寄りました。 「デストゥパーゴさん。しばらくでしたな。」 デストゥパーゴはぎくっとして棒立ちになりましたが、わたくしを見ると遁げもしないでしょんぼりそこへ立ってしまいました。 「ファゼーロをたずねてまいったのですが、どうかお渡しをねがいます。」 デストゥパーゴははげしく両手をふりました。 「それは誤解です、誤解です。あの子どもは、わたくしは知りません。」 「いったいそんならあなたは、なぜこんなところへかくれたのですか。」 デストゥパーゴはまっ青になりました。 「イーハトーヴォの警察ではファゼーロといっしょにあなたをさがしているのです。もうすっかり手配がついています。今夜はどうなってもあなたは捕まります。ファゼーロはどこにいるのです。」わたくしは思わず、うそをついてしまいました。 デストゥパーゴは、毒蛾のためにふくれておかしな格好になった顔でななめにわたくしを見ながら、ぶるぶるふるえて、まるで聞きとれないくらい早口に云いました。 「そんな筈はない、そんな筈はない。名誉にかけて、紳士の名誉にかけて。」 「なぜそんならあなたはこんなところへかくれたのです。」 デストゥパーゴはようやくふるえるのをやめて、しばらく考えていましたが、ようやく少しゆっくり云いました。 「わたくしは警察からは召喚されただけで、それは旅行届を出して代人を出してある筈です。それに就ては署長に充分諒解を得てあります。警察では、わたくしに何の嫌疑もかけていない筈です。」 「それならなぜ旅行届を出したりして遁げたのです。」 デストゥパーゴはやっと落ち着きました。 「いや、おはいりください。詳しくお話しましょう。」 デストゥパーゴはさきに立って小さな玄関の戸を押しました。するとさっきから内側で立って見ていたと見えて一人のおばあさんが出迎えました。 「お茶をあげてくれ。」 デストゥパーゴはすぐ右側の室へはいって行きました。わたくしはもう多分大丈夫だけれども遁げるといけないと思って戸口に立っていました。デストゥパーゴは何か瓶をかちかち鳴らしてから白いきれで顔を押えながら出て来ました。 「さあ、どうぞこちらへ。」 わたくしは応接室に通されました。デストゥパーゴはようやく落ち着きました。 「わたくしがここへ人を避けて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でしょうが、あの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になって、どうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいけなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産も賭してあります。すると重役会で、ある重役がそれをあのまま醸造所にしようということを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにして、わたくしのある部下のものがわたくしを脅迫しました。あの晩はじつに六ヵしい場合でした。あすこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになって、ああいう風に酔っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ。」 わたくしははじめてあの頃のことがはっきりして来ました。それといっしょに眼の前にいるデストゥパーゴがかあいそうにもなりました。 「いや、わかりました。けれども、ああ、ファゼーロはどうしたろうなあ。」 デストゥパーゴが云いました。 「わたくしはあの子どもを憎んで居りません。わたくしに前のようないい条件があれば世話して学校にさえ入れたいのです。けれどもあの子どもはきっとどこかで何かしていますぞ。警察でもそう見ています。」 わたくしはいきなり立ってデストゥパーゴに別れを告げました。 「ではわたくしは帰ります。あなたはここをどうかお立ち退きください。わたくしは帰ってこの事情を云わないわけにも参りませんから。」 デストゥパーゴはしょんぼりとして云いました。 「いまわたくしは全く収入のみちもないのです。どうか諒解してください。」 わたくしは礼をしました。 「ロザーロは変りありませんか。」デストゥパーゴが大へん早口に云いました。 「ええ、働いているようです。」わたくしもなぜか、ふだんとちがった声で云いました。
六、風と草穂
九月一日の朝わたくしは、旅程表やいろいろな報告を持って、きまった時間に役所に出ました。わたくしはみんなにも挨拶して廻り、所長が出て来るや否や、その扉をノックしてはいって行きました。 「あ帰ったかね。どうだった。」所長は左手ではずれたカラーのぼたんをはめながら云いました。 「はい、お陰で昨晩戻って参りました。これは報告でございます。集めた標本類は整理いたしましてから目録をつくって後ほど持って参ります。」 「うん、そう急がないでもよろしい。」所長はカラーをはめてしまってしゃんとなりました。 わたくしは礼をして室を出ました。そしてその日は一日、来ていた荷物をほどいたり机の上にたまっていた書類を整理したりしているうちに、いつか夕方になってしまいました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂で食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れていたと見えて、ちょっと椅子へかけたと思ったら、いつかもうとろとろ睡ってしまっていました。その甘ったるい夕方の夢のなかで、わたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干された、イーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕ぎまわっていました。俄かに舟がぐらぐらゆれ、何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきて、わたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。誰かわたくしをゆすぶっていたのです。 わたくしは何べんも瞳を定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。 「あっ、どうしたんだ、きみは、ずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云いました。 「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまえはいままで居なかったじゃないか。」 「居なかったさ。海岸へ出張していたんだ。」 「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」 「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」 「ぼくはねえ、センダードのまちの革を染める工場へはいっていたよ。」 「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けというのかい。」 「そうじゃないよ。」 「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまで行ったんだ。」 「ぼく、どうしても、うちへはいれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って坐っていると革を買う人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事も手伝ってとうとうセンダードへ行ったんだ。」 「そうか。ほんとうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸工場の釜の中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」 「ぼくはねえ、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教えてくれた。薬もみんな教えてくれた。ぼくはもう革のことなら、なめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」 「そしてどうして帰ってきた。」 「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」 「きみの主人は何と云った。」 「もうどこへ行ってもいいから勝手にしろって。」 「そしてどうするの。」 「年よりたちがねえ、ムラードの森の工場に居て、ぼくに革の仕事をしろというんだ。」 「できるかい。」 「できるさ。それにミーロはハムを拵えれるからな。みんなでやるんだよ。」 「姉さんは?」 「姉さんも工場へ来るよ。」 「そうかねえ。」 「さあ行こう、今夜も確か来ているから。」 わたくしは俄かに疲れを忘れて立ちあがりました。 「じゃ行こう。だけど遠いかい。」 「この前のポラーノの広場のちょっと向うさ。」 「少し遠いねえ。けれど行こう。」わたくしはすばやく旅行のときのままのなりをして、いっしょにうちを出ました。ファゼーロはまた走りだしました。 雲が黄ばんでけわしくひかりながら南から北へぐんぐん飛んで居りました。けれども野原はひっそりとして風もなく、ただいろいろの草が高い穂を出したり変にもつれたりしているばかり、夏のつめくさの花はみんな鳶いろに枯れてしまって、その三つ葉さえ大へん小さく縮まってしまったように思われました。 わたくしどもはどんどん走りつづけました。 「そら、あすこに一つあかしがあるよ。」 ファゼーロがちょっと立ちどまって右手の草の中を指さしました。そこの草穂のかげに小さな小さなつめくさの花が、青白くさびしそうにぽっと咲いていました。 俄かに風が向うからどうっと吹いて来て、いちめんの暗い草穂は波だち、私のきもののすきまからは、その冷たい風がからだ一杯に浸みてきました。 「ふう。秋になったねえ。」わたくしは大きく息をしました。 ファゼーロがいつか上着は脱いでわきに持ちながら、 「途中のあかりはみんな消えたけれども……。」 おしまい何と云ったか、風がざあっとやって来て声をもって行ってしまいました。 そのとき、わたくしは二人の大きな鎌をもった百姓が、わたくしどもの前を横ぎるように通って行くのを見ました。その二人もこっちをちらっと見たようでしたが、それから何かはなし合って、とまって、わたくしどもの行くのを待っているようすです。わたくしどもも急いで行きました。 「やあ、お前さん帰って来さしゃったね。まずご無事で結構でした。」一人がわたくしに挨拶しました。 この前ポラーノの広場でデストゥパーゴに介添をしろと云われて遁げた男のようでした。 「ええ、ありがとう。ファゼーロも帰って来てすっかりもとの通りですね。」 「山猫博士が居ませんや。」 「山猫博士? デストゥパーゴ? デストゥパーゴにわたしはセンダードで会いましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらいだった。」 「いいえ、デストゥパーゴが落ちぶれるもんですか。大将、センダードのまちにたくさん土地を持っていますよ。」 「はてな、財産はみんなあの乾溜会社にかけてしまったと云っていたが。」 「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株が、ただみたいになったから大将遁げてしまったんです。」 「いや、何か重役の人が醸造の方へかかろうとして手続を欠いて責任を負ったとか云っていたが。」 「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考えなんですよ。」 「だって試験的にわずかつくっただけだそうじゃないですか。」 「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽詰めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精もまぜたんです。その密造なら二年もやっていたんです。」 「じゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」 「そうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入でさあ。ただまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使って、できるだけお互いのいるものは拵えようというんです。」 「そうかねえ。」「ファゼーロが何かするのかい。」 「ええ、まあ別に新らしい資本がかかるわけでもなし、革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやろうというんです。」 「さあもう行こう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。 「それじゃまた。」 「お休みなさい。」 どうもデストゥパーゴの云ったのが本当か、みんなの云うのが本当か、これはどうもよくわからないと、わたくしはあるきだしながらおもいました。 「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかっているから。」 わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるように云いました。ファゼーロはかすかにうなずいて、また走りだしました。夕暗のなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。 間もなくわたくしははるかな野原のはてに青白い五つばかりのあかりと、その上に青く傘のようになってぼんやりひかっている、この前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くと、その葉が風にもまれて次から次と湧いているよう、枝と枝とがぶっつかり合って、じぶんから青白い光を出しているようなのもわかるようになり、またその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかう、アセチレン燈をもって立っているのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子も箱もありませんでした。ただ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある、大きな帽子、円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。 「とうとう来たな。今晩は、いいお晩でございます。」 ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待っていたらしく口々に云いました。わたくしどもは、そのまま広場を通りこしてどんどん急ぎました。 のはらはだんだん草があらくなって、あちこちには黒い藪も風に鳴り、たびたび柏の木か樺の木かが、まっ黒にそらに立って、ざわざわざわざわゆれているのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいていたのです。 「もうじきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。 みちの両側はいつかすっかり林になっていたのです。そして三十分ばかりだまって歩くと、なにかぷうんと木屑のようなものの匂がして、すぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。 「誰か来ているな。」ファゼーロが叫びました。 その大きな黒い建物の窓に、ちらちらあかりが射しているのです。 「おおい、キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。 「おおい。」中からも誰かが返事をしました。 私どもはその建物の中へ入って行きました。そこに巨きな鉄の罐が、スフィンクスのように、こっちに向いて置いてあって、土間には沢山の大きな素焼の壺が列んでいました。 「いや今晩は。」ひとりのはだしの年老った人が土間で私に挨拶しました。 「これが乾燥罐だよ。」ファゼーロが云いました。 「ここで何人稼いでいたって。」私はたずねました。 「そうねえ、盛んにもうかったときは三十人から居たろう。」ミーロが答えました。 「どうしてだめになったんだ。」 みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云いました。 「薬のねだんが下ったためです。」 「そうですかねえ。そんなに間に合わないのかなあ。ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこの釜でやっぱり醋酸をつくった方がいいと思う。あのときは会社だなんて、あんまりみんなでやったから損になったんだけれども、おれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十瓶だって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」 「そうだ。」ファゼーロが云いました。 「ここの下へたいた煙を、となりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといいな。」 「それはサートもそう云ってるよ。とにかくこの罐へ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐには売れなくたって仲間へだけは頒けられるからな。」 「さあよし、やろう。キューストはたびたび来て見てくれるだろう。」 「ああ、ぼくは畜産の方にも林産製造の方にも友だちがあるから、みんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」 「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれども、やっとのことでそれをさがすと、それは選挙につかう酒盛りだった。けれども、むかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」 「だからぼくらは、ぼくらの手でこれからそれを拵えようでないか。」 「そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざとじぶんをごまかすような、そんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」 「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」 「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う。こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、そんならどうしてそれをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ。町にはたくさんの学校があって、そこにはたくさんの学生がいる。その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかえるし、いい先生は覚えたいくらい教えてくれる。ぼくらには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。先生といったら講義録しかない。わからないところができて質問してやってもなかなか返事が来ない。けれどもぼくたちは一生けん命に勉強して行かなければならない。ぼくはどうかしてもっと勉強のできるようなしかたをみんなでやりたいと思う。」 その子どもは坐りました。 わたくしは思わずはねあがりました。 「諸君、諸君の勉強はきっとできる。きっとできる。町の学生たちは仕事に勉強はしている。けれども何のために勉強しているかもう忘れている。先生の方でもなるべくたくさん教えようとして、まるで生徒の頭をつからしてぐったりさしている。そしてテニスだのランニングも必要だと云って盛んにやっている。諸君はテニスだの野球の競争だなんてことはやらない。けれども体のことならもうやりすぎるくらいやっている。けれどもどっちがさきに進むだろう。それは何といっても向うの方が進むだろう。そのときぼくらはひどい仕事をしたほかに、どうしてそれに追い付くか。さっき諸君の云う通りだ。向うは何年か専門で勉強すればあとはゆっくりそれでくらして、酒を呑んだりうちをもったり、だんだん勉強しなくなる。こっちはいつまでもいまの勢で一生勉強して行くのだ。 諸君、酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割余計の力を得る。まっすぐに進む方向をきめて、頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものにくらべて二割以上の力を得る。そうだあの人たちが女のことを考えたり、お互の間の喧嘩のことでつかう力をみんなぼくらのほんとうの幸をもってくることにつかう。見たまえ、諸君はまもなくあれらの人たちへくらべて倍の力を得るだろう。けれどもこういうやりかたをいままでのほかの人たちに強いることはいけない。あの人たちは、ああいう風に酒を呑まなければ、淋しくて寒くて生きていられないようなときに生れたのだ。 ぼくらはだまってやって行こう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりもっと立派なポラーノの広場をつくるだろう。」 みんなはよろこんで叫びだしました。ファゼーロが云いました。 「ぼくらはねえ、冬の間に勉強しよう。みんなで同じ本を読んで置いて、五日に一晩あすこの工場に集って、かわるがわるたずねたり教えたりすることをしよう。ねえ、キュースト。あなたは何か教えてくれるだろう。」 「ああ、ぼくはねえ、前に植物の先生をしたから、植物の生理のことや、ほかにも何か三つぐらいは教えてあげるよ。それはねえ。いままでのようにごたごた要らないことまでおぼえて物知りになることはいらないんだ。ほんとうに骨組みと要るとこだけやればいいんだから。あとは仕事がひとりでそれを教えるし、だんだんじぶんで読んで行けるから。」 「ぼくらは冬にあの工場へ集ったりしていろいろこさえようじゃないか。ファゼーロが皮を染めたりするだろう、ぼくはへただけれどもチョッキはつくれるよ。ミーロはいつでも上手に帽子をこしらえているんだから、仕事にやったらもっと上手にできるだろう。」 「そうだそうだ。ぼくらは冬につくったものをお互で取り換えようねえ。ぼくは木をくってこしらえるものならすきだよ。」 「やろうやろう。夏にははたけや野原ではたらいて食べるものをとるし、冬にはお互で要るものをこしらえて取りかえれば……。」 ミーロがにわかに風があんまり烈しく吹いてきたので眼を細くしながら坐りました。はんの木もまるで弓のようになりました。 その風のなかでわたくしはまた立ちました。 「そうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才がいっしょに、お互に尊敬し合いながら、めいめいの仕事をやって行くだろう。ぼくももうきみらの仲間にはいろうかなあ。」 「ああはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまへはいると。」 「ロザーロ姉さんをもらったらいいや。」だれかが叫びました。 わたくしは思わずぎくっとしてしまいました。 「いや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原へ来てしまっては、わたくしにはそれはいいことでない。いや、わたくしははいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるという風にはなっていないんだ。わたくしはびんぼうな教師の子どもにうまれて、ずうっと本ばかり読んで育ってきたのだ。諸君のように雨にうたれ風に吹かれ育ってきていない。ぼくは考えはまったくきみらの考えだけれども、からだはそうはいかないんだ。けれどもぼくはぼくできっと仕事をするよ。ずうっと前からぼくは野原の富をいま三倍もできるようにすることを考えていたんだ。ぼくはそれをやって行く。 (原稿約一枚分空白) そしてわたくしどもは立ちあがりました。 風がどうっと吹いて来ました。みんなは思わず風にうしろ向きになってかがみ、わたくしはさっきからあんまり叫んだので風でいっぱいにむせました。はんのきも梢がまるで地面まで届くようでした。 「さあよし、やるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あすこへ漬けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできている。こんやは新らしいポラーノの広場の開場式だ。」 「それでは酒を呑まずに水を呑むぅとやるか。」その年よりが云いました。 みんなはどっとわらいました。 「よしやろう。表へ出て。おいミーロ、おれが水を汲んでくるから、きみは戸棚からコップをだせ。」 ファゼーロはバケツをさげて外へ出て行きました。 みんなはアセチレン燈をもって工場の外の芝生に出ました。 みんなは草に円くなって坐りました。ミーロはみんなにコップをわたしました。ファゼーロがバケツを重そうにさげて来て、 「さあコップを洗うんだぜ。」と云いながらみんなのコップにひしゃくで水をつぎました。 私はその水のつめたいのにふるえあがるように思いました。みんなはこちこち指でコップをあらいました。 「さあまた洗うんだぜ。」ファゼーロが云ってまた水をつぎました。 みんなは前の水を草にすててまた水をそそぎました。 「もう一ぺん洗うんだぜ。前の酒の匂がついてるからな。」ファゼーロがまた水をつぎました。 「ファゼーロ、今夜一ばんコップを洗っているのかい。」 醋酸をつくっていたさっきの年老った人が、云いました。みんなはまたどっと笑いました。 「こんどは呑むんだ。冷たいぞ。」ファゼーロはまたみんなにつぎました。コップはつめたく白くひかり風に烈しく波だちました。 「さあ呑むぞ。一二三。」みんなはぐっと呑みました。私も呑んで、がたっとふるえました。 「では僕がうたうぞ。ポラーノの広場のうた。
つめくさのはなの 終る夜は ポランの広場の 秋まつり ポランの広場の 秋のまつり 水を呑まずに 酒を呑む そんなやつらが 威張っていると ポランの広場の 夜が明けぬ ポランの広場も 朝にならぬ。」
みんなはパチパチ手を叩いてわらいました。その声もすぐ風がどうっと来て、むかしのポラーノの広場の方へ持って行ってしまいました。 「おれもうたうぞ。」ミーロがたちました。
「つめくさの花の しぼむ夜は ポランの広場の 秋まつり ポランの広場の 秋のまつり 酒くせの悪い 山猫は 黄いろのシャツで 遠くへ遁げて ポランの広場は 朝になる ポランの広場は 夜が明ける。」
「さあぼくも歌うぞ。」 (原稿数行空白) 「さあ叫ぼう。あたらしいポラーノの広場のために。ばんざーい。」わたくしは帽子を高くふって叫びました。 「ばんざあい。」 そして私たちはまっ黒な林を通りぬけて、さっきの柏の疎林を通り古いポラーノの広場につきました。 そこにはいつものはんのきが風にもまれるたびに青くひかっていました。 わたくしどもの影はアセチレンの灯に黒く長くみだれる草の波のなかに落ちて、まるでわたくしどもは一人ずつ巨きな川を行く汽船のような気がしました。 いつものところへ来てわたくしどもは別れました。そこにほんの小さなつめくさのあかりが一つまたともっていました。わたくしはそれを摘んで、えりにはさみました。 「それではさよなら。また行きますよ。」ファゼーロは云いながら、みんなといっしょに帽子をふりました。みんなも何か叫んだようでしたが、それはもう風にもって行かれてきこえませんでした。そしてわたくしもあるき、みんなも向うへ行って、その青い、風のなかのアセチレンの灯と黒い影がだんだん小さくなったのです。
それからちょうど七年たったのです。ファゼーロたちの組合は、はじめはなかなかうまく行かなかったのでしたが、それでもどうにか面白く続けることができたのでした。 私はそれから何べんも遊びに行ったり相談のあるたびに友だちにきいたりして、それから三年の後には、とうとうファゼーロたちは立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と醋酸とオートミールはモリーオの市やセンダードの市はもちろん、広くどこへも出るようになりました。そして私はその三年目、仕事の都合でとうとうモリーオの市を去るようになり、わたくしはそれから大学の副手にもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのない、にぎやかながら荒さんだトキーオの市のはげしい輪転機の音のとなりの室で、わたくしの受持ちになる五十行の欄に、なにかものめずらしい博物の出来事をうずめながら一通の郵便を受けとりました。 それは一つの厚い紙へ刷ってみんなで手に持って歌えるようにした楽譜でした。それには歌がついていました。
ポラーノの広場のうた つめくさ灯ともす 夜のひろば むかしのラルゴを うたいかわし 雲をもどよもし 夜風にわすれて とりいれまぢかに 年ようれぬ
まさしきねがいに いさかうとも 銀河のかなたに ともにわらい なべてのなやみを たきぎともしつつ はえある世界を ともにつくらん
わたくしはその譜はたしかにファゼーロがつくったのだとおもいました。 なぜなら、そこにはいつもファゼーロが野原で口笛を吹いていた、その調子がいっぱいにはいっていたからです。けれどもその歌をつくったのはミーロかロザーロか、それとも誰か、わたくしには見わけがつきませんでした。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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