楢ノ木大学士の野宿(ならのきだいがくしののじゅく)
「何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風を呑(の)んだせいか、まるで人が変ったやうに意地悪になったね。」「はてね、少しぐらゐ僕が手足をのばしたってそれをとやかうお前が云ふのかい。十万二千年昔のことを考へてごらん。」「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」大学士はこの語(ことば)を聞いてすっかり愕(おど)ろいてしまふ。「どうも実に記憶のいゝやつらだ。えゝ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね、えゝ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいゝやつは。」大学士は又そろそろと起きあがりあたりをさがすが何もない。声はいよいよ高くなる。「それはたしかに、あなたは僕の先輩さ。けれどもそれがどうしたの。」「どうしたのぢゃないぢゃないか。僕がやっと体骼(たいかく)と人格を完成してほっと息をついてるとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をしたと思ふね。こんな工合(ぐあひ)さ。もし、ホンブレンさま、こゝの所で私もちっとばかり延びたいと思ひまする。どうかあなたさまのおみあしさきにでも一寸(ちょっと)取りつかせて下さいませ。まあかう云ふお前のことばだったよ。」楢(なら)ノ木学士は手を叩(たた)く。「ははあ、わかった。ホンブレンさまと、一人はホル[#「ル」は小書き]ンブレンドだ。すると相手は誰(たれ)だらう。わからんなあ。けれども、ふふん、こいつは面白い。いよいよ今日も問答がはじまった。しめ、しめ、これだから野宿はやめられん。」大学士は煙草(たばこ)を新らしく一本出してマッチをする声はいよいよ高くなる。もっともいくら高くてもせいぜい蚊の軍歌ぐらゐだ。「それはたしかにその通りさ、けれどもそれに対してお前は何と答へたね。いゝえ、そいつは困ります、どうかほかのお方とご相談下さいと斯(こ)んなに立派にはねつけたらう。」「おや、とにかくさ。それでもお前はかまはず僕の足さきにとりついたんだよ。まあ、そんなこと出来たもんだらうかね。もっとも誰かさんは出来たやうさ。」「あてこするない。とりついたんぢゃないよ。お前の足が僕の体骼の頭のとこにあったんだよ。僕はお前よりももっと前に生れたジッコさんを頼んだんだよ。今だって僕はジッコさんは大事に大事にしてあげてるんだ。」大学士はよろこんで笑ひ出す。「はっはっは、ジッコさんといふのは磁鉄鉱だね、もうわかったさ、喧嘩(けんくゎ)の相手はバイオタイトだ。して見るとなんでもこの辺にさっきの花崗岩(くゎかうがん)のかけらがあるね、そいつの中の鉱物がかやかや物を云ってるんだね。」なるほど大学士の頭の下に支那(しな)の六銭銀貨のくらゐのみかげのかけらが落ちてゐた。学士はいよいよにこにこする。「さうかい。そんならいゝよ。お前のやうな恩知らずは早く粘土になっちまへ。」「おや、呪(のろ)ひをかけたね。僕も引っ込んぢゃゐないよ。さあ、お前のやうな、」「一寸(ちょっと)お待ちなさい。あなた方は一体何をさっきから喧嘩(けんくゎ)してるんですか。」新らしい二人の声が一緒にはっきり聞え出す。「オーソクレさん。かまはないで下さい。あんまりこいつがわからないもんですからね。」「双子さん。どうかかまはないで下さい。あんまりこいつが恩知らずなもんですからね。」「ははあ、双晶のオーソクレースが仲裁に入った。これは実におもしろい。」大学士はたきびに手をあぶり顔中口にしてよろこんで云ふ。二つの声が又聞える。「まあ、静かになさい。僕たちは実に実に長い間堅く堅く結び合ってあのまっくらなまっくらなとこで一緒にまはりからのはげしい圧迫やすてきな強い熱にこらへて来たではありませんか。一時はあまりの熱と力にみんな一緒に気違ひにでもなりさうなのをじっとこらへて来たではありませんか。」「さうです、それは全くその通りです。けれども苦しい間は人をたのんで楽になると人をそねむのはぜんたいいゝ事なんでせうか。」「何だって。」「ちょっと、ちょっと、ちょっとお待ちなさい。ね。そして今やっとお日さまを見たでせう。そのお日さまも僕たちが前に土の底でコングロメレートから聞いたとは大へんなちがひではありませんか。」「えゝ、それはもうちがってます。コングロメレートのはなしではお日さまはまっかで空は茶いろなもんだと云ってゐましたが今見るとお日さまはまっ白で空はまっ青です。あの人はうそつきでしたね。」双子の声が又聞えた。「さあ、しかしあのコングロメレートといふ方は前にたゞの砂利だったころはほんたうに空が茶いろだったかも知れませんね。」「さうでせうか。とにかくうそをつくこととひとの恩を仇(あだ)でかへすのとはどっちも悪いことですね。」「何だと、僕のことを云ってるのかい。よしさあ、僕も覚悟があるぞ。決闘をしろ、決闘を。」「まあ、お待ちなさい。ね、あのお日さまを見たときのうれしかったこと。どんなに僕らは叫んだでせう。千五百万年光といふものを知らなかったんだもの。あの時鋼の槌(つち)がギギンギギンと僕らの頭にひゞいて来ましたね。遠くの方で誰(たれ)かが、あゝお前たちもたうとうお日さまの下へ出るよと叫んでゐた、もう僕たちの誰と誰とが一緒になって誰と誰とがわかれなければならないか。一向判(わか)らなかったんですね。さよならさよならってみんな叫びましたねえ。そしたら急にパッと明るくなって僕たちは空へ飛びあがりましたねえ。あの時僕はお日さまの外に何か赤い光るものを見たやうに思ふんですよ。」「それは僕も見たよ。」「僕も見たんだよ、何だったらうね、あれは。」大学士は又笑ふ。「それはね、明らかにたがねのさきから出た火花だよ。パチッて云ったらう。そして熱かったらう。」ところが学士の声などは鉱物どもに聞えない。「そんなら僕たちはこれからさきどうなるでせう。」双子の声が又聞えた。「さあ、あんまりこれから愉快なことでもないやうですよ。僕が前にコングロメレートから聞きましたがどうも僕らはこのまゝ又土の中にうづもれるかさうでなければ砂か粘土かにわかれてしまふだけなやうですよ。この小屋の中に居たって安心にもなりません。内に居たって外に居たってたかが二千年もたって見れば結局おんなじことでせう。」大学士はすっかりおどろいてしまふ。「実にどうも達観してるね。この小屋の中に居たって外に居たってたかが二千年も経(た)って見れば粘土か砂のつぶになる、実にどうも達観してる。」その時俄(には)かにピチピチ鳴りそれからバイオタが泣き出した。「あゝ、いた、いた、いた、いた、痛ぁい、いたい。」「バイオタさん。どうしたの、どうしたの。」「早くプラヂョさんをよばないとだめだ。」「ははあ、プラヂョさんといふのはプラヂオクレースで青白いから医者なんだな。」大学士はつぶやいて耳をすます。「プラヂョさん、プラヂョさん。プラヂョさん。」「はあい。」「バイオタさんがひどくおなかが痛がってます。どうか早く診(み)て下さい。」「はあい、なあにべつだん心配はありません。かぜを引いたのでせう。」「ははあ、こいつらは風を引くと腹が痛くなる。それがつまり風化だな。」大学士は眼鏡(めがね)をはづし半巾(はんけち)で拭(ふ)いて呟(つぶ)やく。「プラヂョさん。お早くどうか願ひます。只今(ただいま)気絶をいたしました。」「はぁい。いまだんだんそっちを向きますから。ようっと。はい、はい。これは、なるほど。ふふん。一寸(ちょっと)脈をお見せ、はい。こんどはお舌、ははあ、よろしい。そして第十八へきかい予備面が痛いと。なるほど、ふんふん、いやわかりました。どうもこの病気は恐(こは)いですよ。それにお前さんのからだは大地の底に居たときから慢性りょくでい病にかかって大分軟化してますからね、どうも恢復(くゎいふく)の見込がありません。」病人はキシキシと泣く。「お医者さん。私の病気は何でせう。いつごろ私は死にませう。」「さやう、病人が病名を知らなくてもいゝのですがまあ蛭石(ひるいし)病の初期ですね、所謂(いはゆる)ふう病の中の一つ。俗にかぜは万病のもとと云ひますがね。それから、えゝと、も一つのご質問はあなたの命でしたかね。さやう、まあ長くても一万年は持ちません。お気の毒ですが一万年は持ちません。」「あゝあ、さっきのホンブレンのやつの呪(のろ)ひが利いたんだ。」「いや、いや。そんなことはない。けだし、風病にかかって土になることはけだしすべて吾人(ごじん)に免かれないことですから。けだし。」「あゝ、プラヂョさん。どんな手あてをいたしたらよろしうございませうか。」「さあ、さう云ふ工合(ぐあひ)に泣いてゐるのは一番よろしくありません。からだをねぢってあちこちのへきかいよび面にすきまをつくるのはなほさら、よろしくありません。その他風にあたれば病気のしゃうけつを来します。日にあたれば病勢がつのります。霜にあたれば病勢が進みます。露にあたれば病状がかう進します。雪にあたれば症状が悪変します。じっとしてゐるのはなほさらよろしくありません。それよりは、その、精神的に眼をつむって観念するのがいゝでせう、わがこの恐れるところの死なるものは、そもそも何であるか、その本質はいかん、生死巌頭(がんとう)に立って、をかしいぞ、はてな、をかしい、はて、これはいかん、あいた、いた、いた、いた、いた、」「プラヂョさん、プラヂョさん、しつかりなさい。一体どうなすったのです。」「うむ、私も、うむ、風病のうち、うむ、うむ。」「苦しいでせう、これはほんたうにお気の毒なことになりました。」「うむ、うむ、いゝえ、苦しくありません。うむ。」「何かお手あていたしませう。」「うむ、うむ、実はわたくしも地面の底から、うむ、うむ、大分カオリン病にかかってゐた、うむ、オーソクレさん、オーソクレさん。うむ、今こそあなたにも明します。あなたも丁度わたし同様の病気です。うむ。」「あゝ、やっぱりさやうでございましたか。全く、全く、全く、実に、実に、あいた、いた、いた、いた。」そこでホンブレンドの声がした。「ずゐぶん神経過敏な人だ。すると病気でないものは僕とクォーツさんだけだ。」「うむ、うむ、そのホンブレンもバイオタと同病。」「あ、いた、いた、いた。」「おや、おや、どなたもずゐぶん弱い。健康なのは僕一人。」「うむ、うむ、そのクォーツさんもお気の毒ですがクウシャウ中の瓦斯(ガス)が病因です。うむ。」「あいた、いた、いた、いた。た。」「ずゐぶんひどい医者だ。漢方の藪医(やぶい)だな。たうとうみんな風化かな。」大学士は又新らしくたばこをくはへてにやにやする。耳の下では鉱物どもが声をそろへて叫んでゐた。「あ、いた、いた、いた、いた、た、たた。」みんなの声はだんだん低くたうとうしんとしてしまふ。「はてな、みんな死んだのか。あるいは僕だけ聞えなくなったのか。」大学士はみかげのかけらを手にとりあげてつくづく見てパチッと向ふの隅(すみ)へ弾(はじ)く。それから榾(ほだ)を一本くべた。その時はもうあけ方で大学士は背嚢(はいなう)から巻煙草(まきたばこ)を二包み出して榾のお礼に藁(わら)に置き背嚢をしょひ小屋を出た。石切場の壁はすっかり白くその西側の面だけに月のあかりがうつってゐた。 野宿第三夜(どうも少し引き受けやうが軽率だったな。グリーンランドの成金がびっくりする程立派な蛋白石(たんぱくせき)などを、二週間でさがしてやらうなんてのは、実際少し軽率だった。 どうも斯(か)う人の居ない海岸などへ来て、つくづく夕方歩いてゐると東京のまちのまん中で鼻の赤い連中などを相手にして、いゝ加減の法螺(ほら)を吹いたことが全く情けなくなっちまふ。どうだ、この頁岩(けつがん)の陰気なこと。全くいやになっちまふな。おまけに海も暗くなったし、なかなか、流紋玻璃(りうもんはり)にも出(で)っ会(く)はさない。それに今夜もやっぱり野宿だ。野宿も二晩ぐらゐはいゝが、三晩となっちゃうんざりするな。けれども、まあ、仕方もないさ。ビスケットのあるうちは、歩いて野宿して、面白い夢でも見る分が得といふもんだ。)例の楢(なら)ノ木大学士が衣嚢(ポケット)に両手を突っ込んで少しせ中を高くしてつくづく考へ込みながらもう夕方の鼠(ねずみ)いろの頁岩の波に洗はれる海岸を大股(おほまた)に歩いてゐた。全く海は暗くなりそのほのじろい波がしらだけ一列、何かけもののやうに見えたのだ。いよいよ今日は歩いてもだめだと学士はあきらめてぴたっと岩に立ちどまりしばらく黒い海面と向ふに浮ぶ腐った馬鈴薯(いも)のやうな雲を眺(なが)めてゐたが、又ポケットから煙草(たばこ)を出して火をつけた。それからくるっと振り向いて陸の方をじっと見定めて急いでそっちへ歩いて行った。そこには低い崖(がけ)があり崖(がけ)の脚には多分は濤(なみ)で削られたらしい小さな洞(ほら)があったのだ。大学士はにこにこして中へはひって背嚢(はいなう)をとる。それからまっくらなとこでもしゃもしゃビスケットを喰べた。ずうっと向ふで一列濤が鳴るばかり。「ははあ、どうだ、いよいよ宿がきまって腹もできると野宿もそんなに悪くない。さあ、もう一服やって寝よう。あしたはきっとうまく行く。その夢を今夜見るのも悪くない。」大学士の吸ふ巻煙草(まきたばこ)がポツンと赤く見えるだけ、「斯(か)う納まって見ると、我輩もさながら、洞熊(ほらくま)か、洞窟(どうくつ)住人だ。ところでもう寝よう。
大学士はすぐとろとろする疲れて睡(ねむ)れば夢も見ないいつかすっかり夜が明けて昨夜の続きの頁岩(けつがん)が青白くぼんやり光ってゐた。大学士はまるでびっくりして急いで洞を飛び出した。あわてて帽子を落しさうになりそれを押へさへもした。「すっかり寝過ごしちゃった。ところでおれは一体何のために歩いてゐるんだったかな。えゝと、よく思ひ出せないぞ。たしかに昨日も一昨日(をととひ)も人の居ない処(ところ)をせっせと歩いてゐたんだが。いや、もっと前から歩いてゐたぞ。もう一年も歩いてゐるぞ。その目的はと、はてな、忘れたぞ。こいつはいけない。目的がなくて学者が旅行をするといふことはない、必ず目的があるのだ。化石ぢゃなかったかな。えゝと、どうか第三紀の人類に就(つ)いてお調べを願ひます、と、誰(たれ)か云ったやうだ。いゝや、さうぢゃない、白堊(はくあ)紀の巨(おほ)きな爬虫(はちゅう)類の骨骼(こっかく)を博物館の方から頼まれてあるんですがいかゞでございませう、一つお探しを願はれますまいかと、斯うぢゃなかったかな。斯うだ、斯うだ、ちがひない。さあ、ところでこゝは白堊(はくあ)系の頁岩(けつがん)だ。もうこゝでおれは探し出すつもりだったんだ。なるほど、はじめてはっきりしたぞ。さあ探せ、恐竜の骨骼(こっかく)だ。恐竜の骨骼だ。」学士の影は黒く頁岩の上に落ち大股(おほまた)に歩いてゐたから踊ってゐるやうに見えた。海はもの凄(すご)いほど青く空はそれより又青く幾きれかのちぎれた雲がまばゆくそこに浮いてゐた。「おや出たぞ。」楢(なら)ノ木大学士が叫び出した。その灰いろの頁岩の平らな奇麗な層面に直径が一米(メートル)ばかりある五本指の足あとが深く喰ひ込んでならんでゐる。所々上の岩のためにかくれてゐるが足裏の皺(しわ)まではっきりわかるのだ。
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