楢ノ木大学士の野宿(ならのきだいがくしののじゅく)
「大へん怒ってるね。どうかしたのかい。えゝ。あの東の雲のやつかい。あいつは今夜は雨をやってるんだ。ヒームカさんも蛇紋石(じゃもんせき)のきものがずぶぬれだらう。」「兄さん。ヒームカさんはほんたうに美しいね。兄さん。この前ね、僕、こゝからかたくりの花を投げてあげたんだよ。ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だまって持って行って呉(く)れたよ。」「さうかい。ハッハ。まあいゝよ。あの雲はあしたの朝はもう霽(は)れてるよ。ヒームカさんがまばゆい新らしい碧(あを)いきものを着てお日さまの出るころは、きっと一番さきにお前にあいさつするぜ。そいつはもうきっとなんだ。」「だけど兄さん。僕、今度は、何の花をあげたらいゝだらうね。もう僕のとこには何の花もないんだよ。」「うん、そいつはね、おれの所にね、桜草があるよ、それをお前にやらう。」「ありがたう、兄さん。」「やかましい、何をふざけたことを云ってるんだ。」暴(あら)っぽいラクシャンの第一子が金粉の怒鳴り声を夜の空高く吹きあげた。「ヒームカってなんだ。ヒームカって。ヒームカって云ふのは、あの向ふの女の子の山だらう。よわむしめ。あんなものとつきあふのはよせと何べんもおれが云ったぢゃないか。ぜんたいおれたちは火から生れたんだぞ青ざめた水の中で生れたやつらとちがふんだぞ。」ラクシャンの第四子(しし)はしょげて首を垂れたがしづかな直(ぢ)かの兄が弟のために長兄をなだめた。「兄さん。ヒームカさんは血統はいゝのですよ。火から生れたのですよ。立派なカンランガンですよ。」ラクシャンの第一子は尚更(なほさら)怒って立派な金粉のどなりをまるで火のやうにあげた。「知ってるよ。ヒームカはカンランガンさ。火から生れたさ。それはいゝよ。けれどもそんなら、一体いつ、おれたちのやうにめざましい噴火をやったんだ。あいつは地面まで騰(のぼ)って来る途中で、もう疲れてやめてしまったんだ。今こそ地殻ののろのろのぼりや風や空気のおかげで、おれたちと肩をならべてゐるが、元来おれたちとはまるで生れ付きがちがふんだ。きさまたちには、まだおれたちの仕事がよくわからないのだ。おれたちの仕事はな、地殻の底の底で、とけてとけて、まるでへたへたになった岩漿(がんしゃう)や、上から押しつけられて古綿のやうにちぢまった蒸気やらを取って来て、いざといふ瞬間には大きな黒い山の塊を、まるで粉々に引き裂いて飛び出す。煙と火とを固めて空に抛(な)げつける。石と石とをぶっつけ合せていなづまを起す。百万の雷を集めて、地面をぐらぐら云はせてやる。丁度、楢(なら)ノ木大学士といふものが、おれのどなりをひょっと聞いて、びっくりして頭をふらふら、ゆすぶったやうにだ。ハッハッハ。山も海もみんな濃い灰に埋(うづ)まってしまふ。平らな運動場のやうになってしまふ。その熱い灰の上でばかり、おれたちの魂は舞踏していゝ。いゝか。もうみんな大さわぎだ。さて、その煙が納まって空気が奇麗に澄んだときは、こっちはどうだ、いつかまるで空へ届くくらゐ高くなって、まるでそんなこともあったかといふやうな顔をして、銀か白金かの冠ぐらゐをかぶって、きちんとすましてゐるのだぞ。」ラクシャンの第三子はしばらく考へて云ふ。「兄さん、私はどうも、そんなことはきらひです。私はそんな、まはりを熱い灰でうづめて、自分だけ一人高くなるやうなそんなことはしたくありません。水や空気がいつでも地面を平らにしようとしてゐるでせう。そして自分でもいつでも低い方低い方と流れて行くでせう、私はあなたのやり方よりは、却(かへ)ってあの方がほんたうだと思ひます。」暴(あら)っぽいラクシャン第一子がこのときまるできらきら笑った。きらきら光って笑ったのだ。(こんな不思議な笑ひやうをいままでおれは見たことがない、愕(おどろ)くべきだ、立派なもんだ。)楢ノ木学士が考へた。暴っぽいラクシャンの第一子がずゐぶんしばらく光ってからやっとしづまって斯(か)う云った。「水と空気かい。あいつらは朝から晩まで、俺(おい)らの耳のそば迄(まで)来て、世界の平和の為に、お前らの傲慢(がうまん)を削るとかなんとか云ひながら、毎日こそこそ、俺らを擦(こす)って耗(へら)して行くが、まるっきりうそさ。何でもおれのきくとこに依(よ)ると、あいつらは海岸のふくふくした黒土や、美しい緑いろの野原に行って知らん顔をして溝(みぞ)を掘るやら、濠(ほり)をこさへるやら、それはどうも実にひどいもんださうだ。話にも何にもならんといふこった。」ラクシャンの第三子もつい大声で笑ってしまふ。「兄さん。なんだか、そんな、こじつけみたいな、あてこすりみたいな、芝居のせりふのやうなものは、一向あなたに似合ひませんよ。」ところがラクシャン第一子は案外に怒り出しもしなかった。きらきら光って大声で笑って笑って笑ってしまった。その笑ひ声の洪水は空を流れて遙(はる)かに遙かに南へ行ってねぼけた雷のやうにとゞろいた。「うん、さうだ、もうあまり、おれたちのがらにもない小理窟(こりくつ)は止(よ)さう。おれたちのお父さんにすまない。お父さんは九つの氷河を持っていらしゃったさうだ。そのころは、こゝらは、一面の雪と氷で白熊(しろくま)や雪狐(ゆきぎつね)や、いろいろなけものが居たさうだ。お父さんはおれが生れるときなくなられたのだ。」俄(には)かにラクシャンの末子(まっし)が叫ぶ。「火が燃えてゐる。火が燃えてゐる。大兄さん。大兄さん。ごらんなさい。だんだん拡(ひろ)がります。」ラクシャン第一子がびっくりして叫ぶ。「熔岩(ようがん)、用意っ。灰をふらせろ、えい、畜生、何だ、野火か。」その声にラクシャンの第二子がびっくりして眼をさまし、その長い顎(あご)をあげて、眼を釘(くぎ)づけにされたやうにしばらく野火をみつめてゐる。「誰(たれ)かやったのか。誰だ、誰だ、今ごろ。なんだ野火か。地面の挨(ほこり)をさらさらさらっと掃除する、てまへなんぞに用はない。」するとラクシャンの第一子がちょっと意地悪さうにわらひ手をばたばたと振って見せて「石だ、火だ。熔岩だ。用意っ。ふん。」と叫ぶ。ばかなラクシャンの第二子がすぐ釣り込まれてあわて出し顔いろをぽっとほてらせながら「おい兄貴、一吠(ほ)えしようか。」と斯(か)う云った。兄貴はわらふ、「一吠えってもう何十万年を、きさまはぐうぐう寝てゐたのだ。それでもいくらかまだ力が残ってゐるのか」無精な弟は只(ただ)一言(ひとこと)「ない」と答へた。そして又長い顎(あご)をうでに載せ、ぽっかりぽっかり寝てしまふ。しづかなラクシャン第三子がラクシャンの第四子(しし)に云ふ「空が大へん軽くなったね、あしたの朝はきっと晴れるよ。」「えゝ今夜は鷹(たか)が出ませんね」兄は笑って弟を試す。「さっきの野火で鷹の子供が焼けたのかな。」弟は賢く答へた。「鷹の子供は、もう余程、毛も剛(こは)くなりました。それに仲々強いから、きっと焼けないで遁(に)げたでせう」兄は心持よく笑ふ。「そんなら結構だ、さあもう兄さんたちはよくおやすみだ。楢(なら)ノ木大学士と云ふやつもよく睡(ねむ)ってゐる。さっきから僕等の夢を見てゐるんだぜ。」するとラクシャン第四子がずるさうに一寸(ちょっと)笑ってかう云った。「そんなら僕一つおどかしてやらう。」兄のラクシャン第三子が「よせよせいたづらするなよ」と止めたがいたづらの弟はそれを聞かずに光る大きな長い舌を出して大学士の額をべろりと嘗(な)めた。大学士はひどくびっくりしてそれでも笑ひながら眼をさまし寒さにがたっと顫(ふる)へたのだ。いつか空がすっかり晴れてまるで一面星が瞬きまっ黒な四つの岩頸(がんけい)がたゞしくもとの形になりじっとならんで立ってゐた。 野宿第二夜わが親愛な楢(なら)ノ木大学士は例の長い外套(ぐゎいたう)を着て夕陽(ゆふひ)をせ中に一杯浴びてすっかりくたびれたらしく度々空気に噛(か)みつくやうな大きな欠伸(あくび)をやりながら平らな熊出(くまで)街道をすたすた歩いて行ったのだ。俄(には)かに道の右側にがらんとした大きな石切場が口をあいてひらけて来た。学士は咽喉(のど)をこくっと鳴らし中に入って行きながら三角の石かけを一つ拾ひ「ふん、こゝも角閃花崗岩(かくせんくゎかうがん)」とつぶやきながらつくづくとあたりを見れば石切場、石切りたちも帰ったらしく小さな笹(ささ)の小屋が一つ淋(さび)しく隅(すみ)にあるだけだ。「こいつはうまい。丁度いゝ。どうもひとのうちの門口(かどぐち)に立って、もしもし今晩は、私は旅の者ですが、日が暮れてひどく困ってゐます。今夜一晩泊めて下さい。たべ物は持ってゐますから支度はなんにも要りませんなんて、へっ、こんなこと云ふのは、もう考へてもいやになる。そこで今夜はこゝへ泊らう。」大学士は大きな近眼鏡をちょっと直してにやにや笑ひ小屋へ入って行ったのだ。土間には四つの石かけが炉の役目をしその横には榾(ほだ)もいくらか積んである。大学士はマッチをすって火をたき、それからビスケットを出しもそもそ喰べたり手帳に何か書きつけたりしばらくの間してゐたがおしまひに火をどんどん燃してごろりと藁(わら)にねころんだ。夜中になって大学士は「うう寒い」と云ひながらばたりとはね起きて見たらもうたきゞが燃え尽きてたゞのおきだけになってゐた。学士はいそいでたきゞを入れる。火は赤く愉快に燃え出し大学士は胸をひろげてつくづくとよく暖る。それから一寸(ちょっと)外へ出た。二十日の月は東にかゝり空気は水より冷たかった、学士はしばらく足踏みをしそれからたばこを一本くはへマッチをすって「ふん、実にしづかだ、夜あけまでまだ三時間半あるな。」つぶやきながら小屋に入った。ぼんやりたき火をながめながらわらの上に横になり手を頭の上で組みうとうとうとうとした。突然頭の下のあたりで小さな声で云ひ合ってるのが聞えた。「そんなに肱(ひぢ)を張らないでお呉れ。おれの横の腹に病気が起るぢゃないか。」「おや、変なことを云ふね、一体いつ僕が肱を張ったね」「そんなに張ってゐるぢゃないか、ほんたうにお前この頃湿気を吸ったせいかひどくのさばり出して来たね」「おやそれは私のことだらうか。お前のことぢゃなからうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を押しつけようとするよ。」大学士は眼を大きく開き起き上ってその辺を見まはしたが誰(た)れも居(を)らない様だった。声はだんだん高くなる。
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