お屋敷の子と生まれた悲哀を、しみじみと知り初めたのはいつからであったろう。 一日一日と限りなき喜悦に満ちた世界に近づいて行くのだと、未来を待った少年の若々しい心も、時の進行につれていつかしら、何気なく過ぎて来た帰らぬ昨日に、身も魂も投げ出して追憶の甘き愁いに耽りたいというはかない慰藉を弄ぶようになってから、私は私にいつもこう尋ねるのであった。 山の手の高台もやがて尽きようというだらだら坂をちょうど登りきった角屋敷の黒門の中に生まれた私は、幼き日の自分をその黒門と切り離して想い起すことは出来ない。私の家を終りとして丘の上は屋敷門の薄暗い底には何物か潜んでいるように、牢獄のような大きな構造の家が厳めしい塀を連ねて、どこの家でも広く取り囲んだ庭には欝蒼と茂った樹木の間に春は梅、桜、桃、李が咲き揃って、風の吹く日にはどこの家の梢から散るのか見も知らぬいろいろの花が庭に散り敷いた。そればかりではない、もう二十年も前にその丘を去った私の幼い心にも深く沁み込んで忘れられないのは、寂然した屋敷屋敷から、花のころ月の宵などには申し合わせたように単調な懶い、古びた琴の音が洩れ聞えて淋しい涙を誘うのであった。私はこうした丘の上に生まれた。静寂な重苦しい陰欝なこの丘の端れから狭いだらだら坂を下ると、カラリと四囲の空気は変ってせせこましい、軒の低い家ばかりの場末の町が帯のように繁華な下町の真中へと続いていた。 今も静かに眼を閉じて昔を描けば、坂の両側の小さな、つつましやかな商家がとびとびながらも瞭然と浮んで来る。赤々と禿げた、肥った翁が丸い鉄火鉢を膝子のように抱いて、睡たそうに店番をしていた唐物屋は、長崎屋と言った。そのころの人々にはまだ見馴れなかった西洋の帽子や、肩掛けや、リボンや、いろいろの派手な色彩を掛け連ねた店は子供の眼にはむしろ不可思議に映った。その店で私は、動物、植物あるいはまた滑稽人形の絵を切って湯に浮かせ、つぶつぶと紙面に汗をかくのを待って白紙に押し付けると、その獣や花や人の絵が奇麗に映る西洋押絵というものを買いに行った。 「坊ちゃん。今度はメリケンから上等舶来の押絵が参りましたよ」 と禿頭は玻璃棚からクルクルと巻いたのを出しては店先に拡げた。子供には想像もつかない遠い遠いメリケンから海を渡って来た奇妙な慰藉品を私はどんなに憧憬をもって見たろう。油絵で見るような天使が大きな白鳥と遊んでいるありとあらゆる美しい花鳥を集めた異国を想像してどんなに懐かしみ焦がれたろう。実際あり来たりの独楽、凧、太鼓、そんな物に飽きたお屋敷の子は珍物好きの心から烈しい異国趣味に陥って何でも上等舶来と言われなければ喜ばなかった。長崎屋の筋向うの玩具屋の、私はいい花客だった。洋刀、喇叭、鉄砲を肩に、腰にした坊ちゃんの勇ましい姿を坂下の子らはどんなに羨ましく妬ましく見送ったろう。いつだったか父母が旅中お祖母様とお留守居の御褒美に西洋木馬を買っていただいたのもその家であった。白斑の大きな木馬の鞍の上に小さい主人が、両足を蹈ん張って跨がると、白い房々した鬣を動かして馬は前後に揺れるのだった。 「マア、玩具にまで何両という品が出来るのですかねえ、今時の子供は幸福ですねえ」 とお祖母様はニコニコして見ていらっしゃった。玩具屋の側を次第に下って行くと坂の下には絵双紙屋があった。この店には千代紙を買いに行く、私の姉のお河童さんの姿もしばしば見えた。芳年の三十六怪選の勇ましくも物恐ろしい妖怪変化の絵や、三枚続きの武者絵に、乳母や女中に手を曳かれた坊ちゃんの足は幾度もその前で動かなくなった。なかにも忘れられないのは古い錦絵で、誰の筆か滝夜叉姫の一枚絵。私が誕生日の祝い物に何が欲しいと聞かれて、あれと答えたので散歩がてらに父に連れられて行った時「これは売物ではございません」とむずかしい顔の亭主が言ってから亭主を憎いと思うよりも一層姫の美しい姿絵が懐かしくなった。その他そこらには呉服屋、陶器屋、葉茶屋、なぞがあったようだが私はそれらについて懐かしい何の思い出もない。坂下もまた絵双紙屋の側の熊野神社、それと向い合った柳の木に軒燈の隠れた小さな煙草屋のほかはやはり記憶から消えてしまったけれどもその小さな煙草屋の玻璃棚が並べられて、わずかに板敷を残した店先に、私の幼かった姿が瞭然と佇むのである。
私の生まれた黒門の内は、家も庭もじめじめと暗かった。さる旗本の古屋敷で、往来から見ても塀の上に蒼黒い樹木の茂りが家を隠していた。かなり広い庭も、大木が造る影にすっかり苔蒸して日中も夜のようだった。それでもさすがに春は植込みの花の木が思いがけない庭の隅々にも咲いたけれど、やがて五月雨のころにでもなろうものなら絶え間なく降る雨はしとしと苔に沁みて一日や二日からりと晴れても乾くことではなく、だだっ広い家の踏めばぶよぶよと海のように思われる室々の畳の上に蛞蝓の落ちて匍うようなことも多かった。物心つくころから私はこの陰気な家を嫌った。そして時たま乳母の背に負われて黒門を出る機会があると坂下のカラカラに乾ききった往来で、独楽廻しやメンコをする町の子を見て、自分も乳母の手を離れて、あんなに多勢の友達と一緒に遊びたいと思う心を強くするのみであった。乳母は、 「町っ子とお遊びになってはいけません」 と痩せた蒼白い顔をことさら真面目にして誡めた。なぜということはなしに私は町っ子と遊んではいけないものだと思っているほど幼なかった。そのころ私は毎晩母の懐に抱かれて、竹取の翁が見つけた小さいお姫様や、継母にいじめられる可哀そうな落窪のお話を他人事とは思わずに身にしみて、時には涙を溢して聞きながらいつかしら寝入るのであったがある晩から私は乳母に添い寝されるようになった。 「もうじき赤さんがお生まれになると、新様はお兄いさんにおなりになるのですから、お母様に甘ったれていらっしゃってはいけません」 と言い聞かされて、私は小さい赤坊の兄になるのを嬉しくは思ったが母の懐に別れなければならないことの悲しさに涙ぐまれて冷たい乳母の胸に顔を押し当てた。 間もなく母は寝所を出ない身となった。家内の者は何かしら気忙しそうに、物言いも声を潜めるようになり相手をしてくれることもなくなった。私の乳母さえも年役に、若い女のともすれば騒ぎたがるのを叱りながらそわそわ立ち働いていて私をば顧みることが少なくなった。出産の準備に混乱した家の中で私は孤独をつくづく淋しいと思った。お祖母様のお気に入りで夜も廊下続きの隠居所に寝る姉も、そのころ習い初めた琴を弾くことさえ止められて、一人で人形を抱えては、遊び相手を欲しがって常は疳癪を恐れて避けている弟をもお祖母様の傍に呼んで飯事の旦那様にするのであったが、それもじきと私の方で飽きが来てふとしたことから腕白が出ては姉を泣かすのでお祖母様や乳母に叱られる種となった。腕白盛りの坊ちゃんは「静かにしていらっしゃい」と言われて人気の少ない、室の片隅に手遊品を並べてもしばらく経つと厭になって忙しい人々に相手を求めるので「ちっとお庭にでも出てお遊びなさい」と家の内から追い立てられる。 黒土の上に透き間もない苔は木立の間に形ばかり付いていた小道をも埋めて踏めばじとじとと音もなく水の湧き出る小暗い庭は、話に聞いたいろいろの恐ろしい物の住家のように思われ、自由に遊び廻る気にはなれないので縁近いところでつまらなくすくんでいた。けれども次第に馴れて来るとまだ見ぬ庭の木立の奥が何となく心を引くので、恐々ながらも幾年か箒目も入らずに朽敗した落葉を踏んでは、未知の国土を探究する冒険家のように、不安と好奇心で日に日に少しずつ繁った枝を潜り潜り奥深く進み入るようになった。手入れをしない古庭は植物の朽ちた匂いが充ちていた。数知れぬ羽虫は到るところに影のように飛んでいた。森閑として木下闇に枯葉を踏む自分の足音が幾度か耳を脅かした。蜘蛛の巣に顔を包まれては土蜘蛛の精を思い出して逃げかえった。しかしこうして踏み馴れた道を知らず知らずに造って私はついにわが家の庭の奥底を究めたのであった。暗緑のしめっぽい木立を抜けるとカラリと晴れた日を充分に受けて、そこはまばらに結った竹垣もいつか倒れてはいたが垣の外は打ち立てたような崖で、眼の下には坂下の町の屋根が遠くまで昼の光の中に連なっている。その果てに品川の海が真蒼に輝いていた。今まで思いもかけなかった眼新しい、広い景色を自分一人の力で見出した嬉しさに私は雨さえ降らなければ毎日一度は必ず崖の上に小さい姿を現わすようになった。そして馴れるに従って日一日と何かしら珍しい物を発見した。熊野神社の大鳥居も見えた。三吉座という小芝居の白壁に幾筋かの贔負幟が風に吹かれているのを、一様に黒い屋根の間に見出した時はことに嬉しかった。芝居好きの車夫の藤次郎が父の役所の休日には私の守りをしながら、 「乳母には秘密ですぜ」 と言っては肩車に乗せてその三吉座の立見に連れて行く。父母とともに行く歌舞伎座や新富座の緋毛氈の美しい棧敷とは打って変って薄暗い鉄格子の中から人の頭を越して覗いたケレンだくさんの小芝居の舞台は子供の目にはかえって不思議に面白かった。ことに大向うと言わず土間も棧敷も一斉に贔負贔負の名を呼び立てて、もしか敵役でも出ようものなら熱誠を籠めた怒罵の声が場内に充満になる不秩序な賑やかさが心も躍るように思わせたのに違いない。私は藤次郎の言うままに乳母には隠れてたびたび連れて行ってもらったものだった。静寂な木立を後にして崖の上に立っていると芝居の内部の鳴物の音が瞭然と耳に響くように思われてあの坂下の賑わいの中に飛んで行きたいほど一人ぼっちの自分がうら淋しく思われた。
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