一
あたりはしいんとしていて、ときおり谷のもっと奥から山椒喰のかすかな啼き声が絶え絶えに聞えて来るばかりだった。そんな谷あいの山かげに、他の雑木に雑って、何んの木だか、目立って大きな葉を簇がらせた一本の丈高い木が、その枝ごとに、白く赫かしい花を一輪々々ぽっかりと咲かせていた。…… それは今年の夏になろうとする頃で、私と妻は、この村にはじめて来た画家の深沢さんを案内しながら、近所の林のなかを歩き廻った挙句、その林の奥深くにある大きな樅の木かげの別荘(そこで私達はおととし結婚したばかりのとき半年ほど暮らしていたのだった……)の前を通って、そのもっと奥にある村の水源地まで上って行ったときのことであった。その村を一目に見下ろすことの出来る頂上で少し遊んだ後、こんどはすぐ裏側の谷へ抜け、殆ど水が涸れて河床の露出した谷川に沿いながら、村の方へ下りて来た。雑木林はなかなか尽きそうで尽きなかった。漸くその雑木林の中に見おぼえのある一軒の別荘が見え出した。私達は去年の落葉の溜まったその張出縁を借りて一休みして行くことにした。 女の画家らしく草花などを描くことの好きな深沢さんは、ひとり離れて縁先に腰を下ろしながら、道ばたで写生して来たさまざまな花の絵に軽く絵具をなすっていたがそれを一とおりすますと、絵具函を脇に置いて、気軽くひょいと仰向けにそこへ寝そべろうとした。と、急に起上って、「あら、あんな真白な花が咲いている。」そう頭上を指しながら、もとのように腰をかけなおして、まぶしそうにそっちの方を見上げた。「いい花だなあ。ちょっと泰山木みたいだけれど……」 私も妻も立ち上って行って、一しょにそれを見上げた。妻がいった。「泰山木にしては葉がすこし……。」 そう言われて、私は漸っと他の楢や櫨の木の葉なんぞのよりも、目立って大きい若葉を見て、一目でそれが朴の木の葉であることを思い出した。でも私は、 「朴の木ではないかな?……」と、まだ半信半疑で言った。私もその木がこうやって花咲いているのを見かけるのは今がはじめてだからである。…… 三四年前、まだ私もいまのように結婚せず、この村で一年の半分以上を一人でぶらぶら暮らしていた時分、十月も末になると村じゅうどの木もどの木も落葉し出して、それから数日のうちに大抵の木が落葉し尽す――そんな落葉の一ぱいに溜まった山かげを私は好んで歩きまわったが、そういう折に私はそれ等の落葉に雑った図抜けて大きな枯葉をうっかりと踏んづけたりしてそれの立てる乾いた音に非常にさびしい思いをしたものだった。それは私自身だってかなりさびしい思いを持ってはいた。けれども、そんな大きな枯葉の目に立つほど溜っているような谷あいそのものも、なかなかさびしい場所であった。それが朴と云う木の葉であることを私は誰にともなく聞いて知るようになっていた。が、その朴の木にどんな花が咲くのかその頃の私は全然考えてもみなかった。――それが、いま見ると、夏の来るごとにいつもこんなに匂の高い花を咲かせていたものと見える。 「矢っ張、朴の花ですね。」そう私はこんどは確信をもって言えた。 「朴の花ですか?」深沢さんは鸚鵡返しに答えて、それからもう一ぺんその花を見上げながら言った。「いい花だなあ。」 私も妻もそれに釣られて、再び一しょにその真白い花をしみじみと見上げているうちに、私は不意とこの村のここかしこの谷あいに、このような花をいまぽっかりと咲かせているにちがいない、幾つもの朴の木の立っているさびしい場所を、今だって自分はひとつひとつ思い出していくことが出来そうな気がした。――そう思って、私はその頃自分の孤独をいたわるようにしながら一人歩きをしていたあの谷、この谷と思いをさまよわせているうちに、急に私は何かに突きあたったかのように、ついそこの谷の奥で山椒喰のかすかに啼いているのを耳に捉えた。が、それは二こえ三こえ啼いたきりで、それきり啼き止んでしまった。 気がつくと、私の傍で妻もその小鳥の啼くのを一しょに聴いていたと見え、それがそのまま啼き止んでしまうと、私の方へ顔を上げながら、 「ああ、もう啼かなくなった」と何気なさそうにいった。なんでもないことだのに、私はそれに気がつくと何かしらはっとした。 深沢さんは、又ひとりでスケッチブックをとり出して、縁先に腰かけたまま、その花さいた朴の木を見上げ見上げ写生していた。
二
午後から、深沢さんが一人で雑木林に写生に行っている間、私は妻と一緒に宿の主の不二男さんの案内で、今年借りることにした近所の林の中にある家を見に出掛けた。 その小さな家は昔から私も知っていた。夏になると入口の棚に赤だの白だのの豆の花が咲いて、その下を潜りながら、毎年違った人達――或年には外人の一家もいたことがある――が出たり入ったりしているのがちょっと好もしい眺めだった。それは外にも大きな別荘を持っていた日向さんという未亡人の持物で、冬の間別荘番に住まわせるために建ててあったのだが、夏場だけ人に借していたのである。 実は去年も私達はそれを借りかけて、矢っ張宿の主の不二男さんと一緒にそれを見に行ったことがあった。 「夏になると、これに豆の花が咲いてなかなか好くなるよ。」そのとき私は妻にそんな説明をしながらその家の入口を指し示した。 「『道のべは人の家に入り豆の花』――これは犀星先生の句だがね。ちょっとそんな感じだ。」 が、はじめてその家のなかへはいって見て、案外方々が傷んでいるのに驚いた。その上、家のすぐ裏のわずかな空地にもってきて、外からは見えなかったが、納屋のようなものが立っていて、家全体がいかにも暗ぼったい感じがするので、「あれは何なの?」ときいてみると、「それはいずれ取壊そうと思っていますが……」と不二男さんは言って、その小屋には日向さんの爺やがしばらく仮住みしていたが、その前年の冬にそこで死んで行ったことを包まずに話した。 「ここの家、傷んでいるだけ位ならいいんだけれど、あんなものがあっては」……妻はそう私にそっと耳打ちしたが、それには私も同感だった。若しかすると昔ちょいちょい見かけたことのあるその死んだ爺やの顔――目つきのこわい、因業そうな爺やの顔がふいとその瞬間鮮かに浮んで来ただけ、その閉された小屋は妻がそれをうす気味悪がった以上に、私自身の心に暗い影を与えているにちがいなかった。 そんな事で、去年はその家を借りるのを見あわせ、もう一方の、同じ林の中にあった、もっと小さな、もっときたない家で間に合わせた。 が、今年はその爺やの小屋も取壊したし、いろいろ手を入れたので幾らかさっぱりしたから、どうですかあれをお借りになっては、と不二男さんもすすめるので、私は性懲りもなくもう一遍その豆の花の咲く小家を借りようかと思い立って、再びそれを見に来たわけだった。―― その小家が急に若葉の中から私達に見え出して来たとき、何んだかすっかり様子が違っているのですぐにはそれと気づかなかった位であった。おやと思って、私はおもわずその場に足を駐めた。 「あ、あの豆の棚をとってしまったの?」私はひどくびっくりしたように叫んだ。 「ええ、あれはあのままですと、どうもこちらの三枝さんのお家へあまり真向になるので……」不二男さんはいかにも何んでもなさそうに説明した。「ちょっと斜めに道をつけてみましたが……」 「それは惜しいことをしちゃったなあ。」私はこんどはがっかりしたように言った。 そうして不二男さんと妻とがずんずんその新しい小径から中へはいって行ってしまってからも、私はなお暫くその入口に一人残ったまま、お隣りの三枝さんの別荘の、数本の松の木にちょっと一もと芒をあしらっただけの、生籬もなんにもない、瀟洒な庭を少し恨めしそうに見やりながら、いつまでも秦皮のステッキで砂を掘じっていた。 まあそれも仕方がなかろうと思って、漸っとみんなの跡からはいって行って見ると、もう先きに不二男さんのところに古くからいる爺やが来ていて雨戸などをすっかり明けておいてくれた。裏の小屋も跡かたもなく取払われ、家のなかは去年から見ると見ちがえるように小ざっぱりとなっていた。大体、それを借りる事にし、そうしていろいろ足りない台所道具なぞを調べてから、みんなで家を締めて出て来たときは、まあ豆の棚ぐらいはどうでも好いやという位には私も満足していた。 「ちょっと三枝さんのヴェランダをお借りして、一休みして参りましょう。」 そこも管理している不二男さんがそう言いながら、先きに立ってずんずん松の木の庭のなかへはいって行くので、私達も構わずについて行った。そうして不二男さんが爺やに何か言いつけながらその別荘のまわりを一まわりしている間、私達は若葉の歯朶で縁どられたヴェランダに腰を下ろして、真向かいのわが家の方を見やっていた。やがて無口なおとなしい爺やが鍵束をじゃらつかせながら帰って行き、不二男さんだけが私達の傍に寄って来るのを見ると、 「なるほどあそこに豆棚の入口があったんじゃ、こっちへ真ん向きだね」と私は口をきいた。 「どうもあのままですと、一々出はいりするたんびに、こちらと顔を合わせなければならないので、お互にお厭でしょうと思って、ああ入口を変えてみたんですが。……しかし、もともとウインさんのいらしった頃は、こちらのヴェランダが向うを向いていましてね……」と不二男さんは今しがた爺やの出て行った南側を指さした。 「そうだったね、散歩のついでによくこの前を通りかかると、感じのいいおじいさんとおばあさんがいつも二人でヴェランダに出て本を読み合っていたっけなあ。」私も合槌を打った。「何しろここも古い別荘だ。」 「この村ではこの辺が一番最初に別荘地としてひらけたものでしてね、その時分は建てた順に別荘番号をつけていましたが、ここのウインさんの家なんぞは何んでも四号か五号でした。――三枝さんの奥さんがこの家をお買いになるといわれたとき、あんまり古い家なのでどうかと思いましたが、すっかりこうして手を入れたら、見ちがえる程になってしまいましてね。前はひどい紅殻塗りの小屋でしたが……」 私はこの村を知ってからもう十年以上になるので、そんな一昔前に流行っていた紅殻塗りの小屋のことも、その頃の古い住人達のことも少しは覚えていたが、おととし結婚後はじめてこの村に来るようになった妻の方は全然その頃のことを知らないので、そんな不二男さんの話にも珍らしそうに耳を借していた。 「日向さんのところはこの頃ずっと来ないの?」 「おととしひさしぶりで奥さんがお嬢さんをお連れになって、ひと夏お見えになっていました。――が、その冬に爺やが死んで、そのときは甥ごさんが見えられたっきり、それからはまだお見えになりません。」 「その死んだ爺やというのは僕も知っている爺やだろうけれど、おっかない爺やだったね。君んちの爺やとはずい分仲が悪かったんじゃあない。何んでも一度、あっちの爺やの畑の南瓜を君んちの爺やが何んとかしたとか云って、どういう行きがかりだったか、たいへん酔払って室生さんちの門の前まで来て、中へはいらずにいつまでも悪態をついていた事もあったね。」 「そんな事もありましたっけね。」不二男さんは少し苦笑いした。それから急に真顔になって、 「私なんぞも、これまであの爺やは飲んだくれで、因業な奴だとおもっておりましたけれど、死んでからいろいろ話を聞いてみると、かわいそうな爺やでした。……」 そう前置きをして、不二男さんも私達の隣りに腰を下ろしながら、何か思い出ふかそうに話し出した。
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