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書簡(しょかん)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/23 13:55:32 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 | |||
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十月三十一日 原民喜 永井善次郎様 ●昭和二十年十一月二十四日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛 御手紙拝見。長篇を書いてゐるのですか、それは前から、プランされてゐるものでせうね。僕もそろそろ長篇を手がけたいと思ひますがまだプランは建ててゐません。光太が詩の雑誌を来秋あたりからやりたいと云つてゐますが現在のところ組代など大変なものでせうね、一度逢つて印刷のことなどお訊ねしたいと思つて居ります。先日熊平兄弟を訪ねました、二人とも健在、木下も助かつて居ました。音楽学校の先生をしてゐた岡田二郎君は死亡しました。雑誌の原稿、十二月二十日が締切だと少し急だと思ひますが出来たら御送り致しませう。原子爆弾のことはあの直後早速書き上げてみましたが、読返してみるとどうも意に満たないのでこれはもつと整理してから発表したいと思ひます。 ここへ美樹が 「冬の日」で光彩を放つてゐる杜国と荷兮のうち、杜国の抒情味もさることながら、荷兮の作家的手腕にこの頃また今更のやうに感心してをります。この荷兮といふ男はどうした男なのでせうか。俳句の方はそれほどでもないのに、連句のつけのあざやかさ。 先日宮島へ行つてみました、ここも水害でやられてをりますが紅葉は綺麗でした。あまりみごとだつたので、その葉を拾つて帰りました。 広島は己斐駅のあたりが賑やかになり、バラツクの食堂が建つて居ります。物価は東京とあまり違はないのではないかと思へる位です。乞食もだいぶ居るやうです。 十二月にはお目にかかれるでせう。元気で帰つて来なさい。 十一月二十四日 原民喜 永井善次郎様 ●昭和二十年十二月十二日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛 お変りありませんか。新しい原稿書きかけたのですが纏らないので原子爆弾の方を速達で送つておきました。十七字十二行になつて居て字もきたなく意に満たない個所もありますが、適当に御取扱ひ下さい。 本郷へはまだおいでになりませんか。 寒くてやりきれない年末がやつて来ます。 十二月十二日 原民喜 原子爆弾 即興ニスギズ 夏の野に幻の破片きらめけり 短夜を※[#「血+卜」、256-3]れし山河叫び合ふ 炎の樹雷雨の空に舞ひ上る 日の暑さ死臭に満てる百日紅 重傷者来て飲む清水生温く 梯子にゐる屍もあり雲の峰 水をのみ死にゆく少女蝉の声 人の肩に爪立てて死す夏の月 魂呆けて川にかがめり月見草 廃虚すぎて蜻蛉の群を眺めやる ●昭和二十年十二月二十八日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛 拝復 十七日日附の端書拝見。なるほど検閲といふこともあつたのですね。別便で別の原稿送つておきますから読んでみて下さい。この「雑音帳」は原稿が間にあはなかつた時の用意にと思つて清書しておいたものです。阿佐ヶ谷の方はあまり焼かれてゐないのですか。自炊生活も容易ではないでせう。僕もこちらでは皆からだんだん厄介者扱にされ、再婚せよとすすめられて居りますが、そんな気にはなれず、飢ゑと寒さにふるへながら暮して居ります。一そこの地を離れて何処かもつと住みよい処へ移りたいのですが、汽車は当分駄目だといふことだし、そんなことをきかされるとひどく気が滅入つてなりません。東京の近くで月三百円位でおいてくれる所はないでせうか。参考までに東京の下宿料がわかつたらお知らせ下さい。この間原製作所の解散式がありましたが商人達の云ふことには、今後は百姓になるかそれとも闇屋になるかしなくては、暮しては行けないと申しますが、誰も彼も闇屋になつたのではどうなるのでせうか。こちらで今をときめいて居るのは闇屋ですが「大きな商売をして居ります。なにしろ月三千円生活費がかかりますしね」などうそぶいて居ります。己斐駅と広島駅の前には闇市が賑はひ、僕も時に見物に行きます。蜜柑が自由販売でいくらでも買へるので、僕はすつかり蜜柑党になつてしまひました。 生活も押つめられるので、今のうち就職でもして暮らさうかと思つたりそれとも一年間位はこの地を離れたところで、英気を養つておきたいとも思ふのですが、なかなか目鼻がつかず今年も虚しく八幡村で終るかと思ふと佗しいことです。ヴアレリーのスタンダールを読返してみて、さうだつた、もつと元気を出さうと云ふ気持にされました。 御自愛を祈ります。よき年を迎へ給へ。 十二月二十八日 原民喜 永井善次郎様 ●昭和二十一年二月五日 八幡村より 東京都杉並区阿佐谷六ノ九三 永井善次郎宛 御手紙有難う。御無沙汰してゐましたが先日本郷へ行つたので、あなたのことも承知してをりました。会へなかつたのは残念でした。先日は近代文学を昨日は文学時標をたしかに拝受致しました。久しぶりに雑誌らしいものを読めたので何だか昂奮しました。もつともその前に展望一月号は読んでゐましたが近代文学の方が同人雑誌としての親しみや張りがあり頼もしく思ひました。あなたの小説は今後あれをどういふ風に切りひらいて行くか、かなり神経をなやまし苦吟を要するのではないかと予想されました。どうか頑張つて完成させて下さい。光太の詩は韻律といふか言葉の発展といふかさういふ点で僕には驚異です。作家案内はなかなか気のきいた企劃だと思います。継続して百人位扱つてみてはどうです。「人間は人間をまつてはじめて可能な仕事だけに従事したい。電車の乗り降りに見られるやうな、愚かさから来るエネルギーの損失を、人間同志の生活から除きたい(芸術歴史人間)」僕など痛切にこの嘆きを感じるのですが。花田といふ人は才人ですね。 僕も、正月以来早く八幡村を立去らうと思ひ、或は広島の城谷の家に置いて貰つて一時就職しようかとも考へてゐましたが光太の処に部屋があいてゐて置いてやつてもいいと云ふので早く上京しようと思ひます。ただ、現在では六大都市転入禁止になつてゐますが、あれは世帯の移動を禁止してゐるのか、同居や寄 こちらは財産税のことでみんなあれこれ案じて居り品物を買ひあさつて居る人が多いのです。美樹などもおかげで景気がいいのですよ。 僕の原稿二篇ともあなたの方の都合にまかせます。その後書きたいことはかなりあるのですがなかなか机にむかへません。 光太は僕の詩集に貞恵といふ題をつけと云ひますが、貞恵といふささやかな本は別にひそかに考へて居るのです。 それでは御健闘を祈ります。 二月五日 ●昭和二十一年二月十五日 八幡村より 東京都杉並区阿佐谷六ノ九三 永井善次郎宛 速達拝見しました。原稿の件については先便で申上げた通りあなたの方の都合に一任します。「新日本文学」へ持つて行かれても結構です。「原子爆弾」といふ題名がいけないなら「ある記録」ぐらゐの題にしてはどうでせうか、それともまだ適切な題があればそちらでつけて下さい。下宿は末田のところに置いてやつてもいいと云ふので、一先づそこへ移らうかと思つてゐるのですが、転入の許可がとれるものかどうか目下問合はせてゐます。兄は食糧持参で一寸上京してみよと云ひますが末田のところに夜具があるものかどうか、それも目下問合はせ中です。 二日の速達が今日十五日に届くのですから相変らず郵便物は遅れるのですね。 兄は焼跡へバラツクを建てるので奔走してをります。焼跡といへば去年の十二月埋めてゐたものを掘り出しに行きましたが、そのなかに南京豆が健在だつたのは悦ばしくありました。炒つて食べましたが死にもしませんでした。 僕はあの英文法の Subjunctive といふ奴を頻りに考へさされます。もしあの時、ああしたら、かうはならなかつただらうに――と、焼き出された人間は愚痴ります。Subjunctive Past は愚痴を現はす mood なのでせう。 御健筆を祈ります。 二月十五日 原民喜 永井善次郎様 ●昭和二十一年七月三日 大森区馬込東二ノ八九九末田方より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛 先日は御世話になりました。こんどの部屋は落着いてゐるので、このまゝこゝへ居坐りたい気がします。光太が詩を送つて来ました。何処かへ掲載してほしいといふのですが。心あたりはありませんか。 三田文学十号が出ました。一部送らせます。 信濃へ行かれる前に一度逢ひたいと思ひます。気がむいたら、こちらへも御立寄り下さい。 七月三日 ●昭和二十二年五月十七日 大森区馬込東二ノ八九九末田方より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛 女房的文学論は面白かつたです。先日の部屋の話はどうなりましたか、いつ頃あくのでせうか、実は、今大至急立退を命じられてゐて弱つてゐるので、もしそちらがあけばすぐ引移さうと決心してゐます。美樹君もその部屋をあてにしてゐて一緒に、自炊しようと話合ひました。「高原」書店で見ましたがまだ手許には送つて来ません。「四季」は和紙で立派なのが出るといふことです。 二十三日交洵社に行くかもしれません。 ●昭和二十二年七月三日 東京都中野区打越十三平田方より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛 小田切秀雄の「人間と文学」あれはつまり文学をだらけさせまいとするものの声として私にはうけとれました。近代文学6では座談会が面白く、あなたの小説はこんどのところは非常によく纏つてゐてあそこだけでも独立して短篇になると思へました。美樹が漸く上京して来ました。広島では間もなくバラツクが建つさうでこの暮には一度あちらへ行つてみようと考へて居ます。学校も今学期限りやめるつもりです。気ケウ(肺の治療にする)といふ字がわからないのですが、調べてくれませんか。相変らず天気が不順ですね。 ●昭和二十三年二月六日 東京都神田神保町三ノ六より 杉並区阿佐谷 永井善次郎宛 お元気ですか。どうもこの頃は雑用に追はれて落着けません。小説も書かねばならないのになかなか捗りません。長光太が暦程(3)に詩論を出してゐますが、これはなかなか面白いものでした。壊滅の序曲はどうなつてゐるのでせうか。今ならいいところへ出せさうなのですが、取し戻て頂けないでせうか。もつとも昭森社で組んでゐるのでしたら仕方ありませんが確かめてみて下さい。 ●昭和二十三年八月頃 東京都神田神保町一ノ三能楽書林内より 長野県軽井沢町追分山屋内 永井善次郎宛 ハガキ有難う。東京はこの一週間ばかり猛暑です。僕の部屋など畳が熱くなつてゐて昼寝さへ出来ません。時時阿佐ヶ谷の美樹のところへ避暑に行きます。水田氏とは一度逢ひましたがまだその後、部屋の件については、はつきりした返事を得てゐません。三田文学は十二号まで編輯済ませました。十三号にも平田君に時評もらふつもりですが、十四号から中田君が書いてくれるでせうか。病気とききましたので、おたづねします。高原特輯号に小説が欲しいといふことをききましたので「雲の裂け目」を掛川氏あてに送りました。明日は美樹とアメリカ交響楽を見に行くはずです。暑くてとても書けません。無理して秋に弱つては困ると思ひ、なまけてゐます。 ●昭和二十五年三月頃 武蔵野市吉祥寺二四〇六川崎方より 茨城県多賀郡大津町西町大津館内 永井善次郎宛 二三日寒さが烈しくて震へ上つてゐましたが今日は漸く春らしい天気にもどりました。この近辺を歩いてゐると樹木が多いので、ひとりでに武蔵野を感じます。大岡昇平の「武蔵野夫人」は名作になりさうですね。埴谷君も昨日、群像の原稿書上げました。強引に少女小説を一つ書いてみました。 僕は三田の三奇人の一人にされました、あとの二人は片山修三と改造社編集長の小野田ださうです。 底本:「定本原民喜全集3[#「3」はローマ数字3、1-13-23]」青土社 1978(昭和53)年11月30日発行 ※これらは、底本にはじめて収録されました。 ※村岡敏宛書簡(このファイル冒頭の4通。昭和十一年四月三十日・昭和十一年六月三十日・昭和十一年七月十五日・昭和十一年七月二十四日)について。底本では(おそらく原民喜自筆の)手紙がそのまま写真で載せられています。このファイルでは、それを判読し、テキストデータとしました。判読間違いがあるかもしれません。 ※各書簡の区切りは、改行3個に統一しました。 ※文中の「血+卜」の文字は、底本収録の「杞憂句集 その二」中の対応する句では、「倒」と表記されています。読みは「たお」か。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:砂場清隆 校正:土屋隆 2006年3月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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