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書簡(しょかん)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/23 13:55:32 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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史朗君へ 謎 ![]() ![]() 答 ![]() ![]() ●昭和二十一年十一月二十七日 大森区馬込末田方より 広島県佐伯郡平良村 原美樹宛 美樹君 慶応義塾は財政難で倒れさうになつてゐるよ。塾長改選問題なども紛糾してゐるし、早く君が出て来て何とかしてやつてくれ。今度の土曜に十一番教室で三田文学紅茶会があるが出て来ないか。この頃はときどき米が食へるやうになつた。十一月二十七日 ●昭和二十一年十二月十六日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原信嗣宛 永らく御無沙汰してゐましたが御変りございませんか。既に幟町の方へ転宅なさつたのではないかと思つてそちらへこの手紙差出します。先日美樹君が上京し御近況も承はりました。特殊預金のこと何とも御気の毒なことです。財産税を控へてインフレは昂進するばかりで困つたものです。こちらでは又、食糧の遅配がはじまりどうなることやら暗澹たるものです。上野駅のコンクリートの上に寝起する宿なしの群はニユース映画でも出て来ますが実際を見て来た人の話をきいては一層驚かされます。新聞紙をコンクリートの上に敷いて寝るのでそのため夜遅くなると夕刊が五十銭に値上になるさうです。美樹君も折角上京したのに宿が無くて帰京し気の毒なことです。 扨て私はこの月の二十一日に学校が終りますから一度そちらへ行つてみたいと思つてゐます。二十五日か六日に出発、途中倉敷と本郷へ立寄りますから広島へ着くのは卅日頃となるでせう。何分その折にはよろしく御願ひ致します。 寒さの折柄、御大切に。皆さんによろしく御伝へ下さい。 兄上様 民喜 ●昭和二十二年一月八日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原信嗣宛 先日はいろいろ御世話になりました。慌しい旅でしたが印象深いものでした。帰りの汽車も大混乱でした。 美樹君に見送り有難う。 ●昭和二十二年二月七日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原すみ江宛 お手紙有難うございました。寒はあけたのに、まだまだ寒いことですが、皆さんは御元気の様子何よりと存じます。先日帰郷の際は何彼と御世話になり有難く御礼申上げます。とても大変な汽車でしたが拵へていただいた弁当がおいしかつたので助かりました。その後こちらではあんなおいしいものは食べられません。寒いのでとかく縮こまつてゐますが東京の街もインフレで憂鬱なことです。 扨て着物の件いろいろ御配慮にあずかり済みませんでした。私にも見当がつきませんからまあ適当な値段で処理して下さい。何分早い方が結構なのですから。 増岡登三郎氏のことについては、美樹君に先便で申上ましたが、まああんな人なのですから仕方がないでせう。荷物は先方から発送してくれることと思います。それにしても早く美樹君の宿が見つかるといいのですが。 先日も永井君が逗子の方へ探してやるとは云つてゐましたが、住宅難はなかなか深刻です。 新新円が出るといふ噂も御座いますが、何が飛び出してくるやら全く日本の前途は暗澹としてゐます。 寒さの折、御大切に。皆さんによろしく御伝へ下さい。 姉上様 二月七日 民喜 ●昭和二十二年三月二十九日 大森区馬込末田方より 広島市幟町 原すみ江宛 御手紙有難うございました。みなさん元気で結構なことと存じます。大分陽気も暖かになりましたから広島も賑やかになつてゆくことでせう。東京も人足ばかりはぞろぞろしてゐますが、闇市の闇の物凄いことに胆を抜かれさうです。茂君も上京したさうですが、まだこちらへは姿を見せませんが、いづれ立寄ることでせう。美樹君も下宿がなくていらいらしてゐることでせう。私の考では増岡増造さんに当座の宿をたのんでみてはどうかしらと思ひます。煙草はまた高くなるし、銭湯へも滅多に行けずやねこいことばつかしです。 姉上様 民喜 ●昭和二十二年八月十五日 東京都中野区打越十三より 広島市幟町 原美樹宛 暑いね、今年は少し暑すぎるやうだ。広島も暑いことだらう。この頃こちらは停電と断水が毎日つづき水も思ふやうには飲めないが阿佐谷の家鴨ばかりは、のん気さうに啼いてゐる。先日ウイスキーの配給があつたので、飲んだら久振りに酔つた。暑いからこれで失敬。 凸版印刷が争議中なので又雑誌が遅れた。 ●昭和二十二年十二月一日 東京都中野区打越十三より 広島市幟町 原すみ江宛 昨日はジヤケツを有難うございました。恰度具合がいいので大変うれしく思ひます。ここのところ毎日ぽかぽか温かくありますが、部屋がまだ見つからないので、気が気ではありません。美樹君に話してありますが夏のズボンをそのうち縫つていただけないでせうか。茂君は元気です。 ●昭和二十三年五月四日 東京都神田神保町三ノ六より 広島市幟町 原信嗣宛 先日は有難うございました。暫くのあいだ坐つてゐて御飯が食べられたので、東京へ戻つて来ると外食に出あるくのが忙しく佗しいことです。 土地のことなるべく早く御願いしておきます。 みんなによろしくお伝へ下さい。 ●昭和二十三年七月十七日 東京都神田神保町三ノ六より 原信嗣宛 不順な天候がつづいてゐますが皆さんお元気の様子で結構に存じます。今朝ほどズボンを有難うございました。お蔭でたすかります。麻のきれを持つてゐたので、白ズボンを拵へました。そして元の夏服のずぼんは半ずぼんになほし上衣は黒に染めました。これでどうやら夏の用意ができたと思つてゐると、太田咲太郎氏や水木京太氏が急に死にましたので、告別式の服に間にあひました。まづまづかつかつのところで身のまはりのものも間にあつてゆきます。御健勝を祈ります。●昭和二十四年七月十三日 神田神保町より 原美樹宛 すつかり夏らしくなつた。僕は毎晩、南京虫に攻められてゐるので、昔の空襲警報の頃を思ひ出す。八月六日頃そちらへ行つてみたい気もするのだが、暑いし金はないし、旅行もこの節は汽車が危険だしやめにする。村岡は結婚したのかしら。何だかんだとこの頃は、酒をよく飲むお蔭で貧乏してゐる。 ●昭和二十五年二月 東京都武蔵野市吉祥寺二四〇六より 広島市幟町 原信嗣宛 御手紙有難うございました。副報告書たしかに受取りました。 美樹君にはおめでたとの由、私も近頃童話を書きはじめてゐますが、美樹君たちの息子や娘がそれを読んでくれる日もあるだらうと思つてゐます。 ●昭和二十五年四月六日 東京都武蔵野市吉祥寺二四〇六より 広島市幟町 原信嗣宛 春らしくなりました。みなさんお変りございませんか。美樹君の新家庭もうららかなことと思ひます。扨てペンクラブの会が十五日に広島で行はれますので、それまでに広島へ行くことにしました。着広は十二日か十三日になります。よろしく御願ひ致します。●昭和二十五年四月末ごろ 東京都吉祥寺より 広島市幟町 原信嗣宛 滞在中はいろいろ御心づくし有難うございました。久し振りにみんなの元気さうな姿を見て嬉しく思ひました。 今朝無事で東京に戻りました。 こちらは雨で寒く火鉢をかかへてゐます。みなさんによろしく。 ●昭和二十年八月二十三日 広島県佐伯郡八幡村田尾方より 茨城県高萩町南町深谷方 永井善次郎(佐々木基一)宛 ゴオルキイの幼年時代を読みかけて面白くなつたところで、その本も灰になりました。その少し前には横光の上海と山本の真実一路を読みましたが上海はこけら脅しの作品だと思ひました。阿部次郎の三太郎の日記これも中途で灰になりましたが今度ここへ来て漱石の彼岸すぎまでを読み、あの日記にしろ漱石の作品にしろ明治四十何年代のものですが、それを思ふと、明治四十年代は昭和年代よりか進んでゐたのではないかと思つたりします。ただ昭和のものの考へ方は――それも戦争前迄のことですが、軟柔性に富んでゐたやうです。僕の蔵書も九割以上灰になりました。焼かれることは分つてゐながら輸送が出来なかつたのです。紙も二三冊のノートのほかは全部焼けました。これから大いに書かうと思ふと少し残念です。が紙は出て来るでせうね。ここでは米が足らないので一日にわづか二杯のかゆしか摂れません。しかし昨日は何処かからパイナツプルの罐詰が舞込みました。御健勝を祈ります。話したいこともあるやうですが遠からず再会も出来るでせうね。 八月二十三日 ●昭和二十年九月十五日 広島県佐伯郡八幡村田尾方より 松戸市三丁目一〇〇三鴻巣方 永井善次郎宛 高萩町といふのは地図で見ると海岸にあるやうですね。八幡村といふのは廿日市から一里あまり奥へはいつた寒村です。こないだから手紙を出しましたが届かなかつたことでせう。本郷にも思ひがけぬ不幸が訪れたものですね。広島の中心部で罹災した人は油断が出来ないらしいやうです。僕達も一ヶ月あまりを半病人のやうに勢なく暮して居ります。何せ食糧が足らないので無理もありません。 また九月二十八日がやつて来ます。思へばあはただしい一年間でした。近いうちに本郷を訪れようと思つて居ります。それでは御元気で居て下さい。 九月十五日 原民喜
永井善次郎様 ●昭和二十年十月十二日 八幡村より 松戸市三丁目一〇〇三鴻巣方 永井善次郎宛 九月三十日日附のハガキ今日受取りました。もしかすると君は本郷の方へ居るのではないかとも思ひそれだと上々、僕も本郷を訪ねたいと思つて居るのですがまあこの手紙は松戸の方へ差出しておきます。八月六日の事は今になつて考へてみると、更に奇怪な感にうたれ勝ちです。あの朝八時頃警戒警報が解除になつて間もなく、広島上空に一機がパラシユートを投下したのを見たといふ人があります。そのパラシユートから光線が放射されたのを見たといふ人は沢山あります。僕は何も知らないでパンツ一つで、便所に居ましたが、急に頭上に一撃を加へられそれと同時に、眼の前は暗闇と化しました。がものの二三分するとあたりの破壊されてゐる光景が見えて来ました。家は柱と天井と床を残してあとは滅茶目茶になつてゐました。僕は身支度を整へ、隣家から煙が見えだした頃外へ逃出しました。見渡すかぎり家屋は倒壊してゐました。泉邸の川岸へ逃避すると向岸が燃えて居ました。はじめは小型爆弾の破片でも我が家へ落ちたのかと思つてゐましたが、ここへ来て見るとだんだん様子が違つてゐるのに気づきました。それに火傷した人の顔を見てびつくりしました。顔が黒焦になつてふくれ上つた人間が、男も女もあつたものではない姿でのそのそ歩いてゐました。その晩広島の街は燃えつづきました。水を求めて狂ひまはる瀕死者の叫びは生地獄でした。翌日東練兵場の治療所へ行きますとここでもひどい姿を見せつけられました。炎天の下に放り出されたまま、何の救助をも受けないで死んで行く人人を見るにつけ、もう戦争もおしまひだなと感じました。「兵隊さん助けてえ」と叫ぶ若い女もありましたが兵隊もひどく負傷してゐました。後できけば二部隊(むかしの十一聯隊)は全滅ださうです。西練兵場は死骸の山だつたさうです。何しろ外に出てゐた人は光線でやられたのです。勤労奉仕に出てゐて一村全滅になつたところもあります。人口の七割は死んだやうですが後から変調を来たして死ぬる人を加へるともつと多いいでせう。柳町の長男も九月二日頃、頭髪が脱け鼻血がとまらず躯に斑点が出て重態でしたが、これはどうやら持ちこたへ、今は快方に向つて居ます。本郷の兄の死因もこれと同じだらうと思ひます。元安橋辺が中心地ですから食糧営団あたりに居た人は負傷はしてゐなくても何かいけない影響を蒙つたのでせう(ガスを吸つたといふ人もあります)。幟町も中心地から二粁以内にあり危険区域ですから安心はできません。現に死んで行く人もありますし、助かつてゐる人の方が珍しいのです。僕は軽いかすり疵を受けただけでしたが右の眼の方に少し神経的の異常が生じ時時妙な光線がチラついて困ります。八幡村へ移る時広島の焼跡を通過しましたが全く奇怪な光景でした。銀灰色の廃墟のところどころに配置されてゐる死体はどうも人間離れのしたポーズで赤くふくれ上つてゐるのです。馬なども胴体がひどく膨脹して倒れてゐました。地獄といつてもこれは近代化された姿でせう。戦慄よりもさきに奇怪さにうたれるばかりでした。大体この空襲は不意打でしたので恐怖する暇もなく僕なども平素の臆病にもかかはらず落着いて行動できました。しかし死ぬるのも助かつたのも紙一重の相違でした。さて原子爆弾の話はこれ位にしておきませう。毎日よく雨が降りつづくので困ります。ここは食糧事情が悪くて弱らされて居ります。早く汽車に乗れるやうになり何処で暮しても困らないやうになつてくれないかなあと思ふばかりです。僕もなるべく早く都会の近くに栖みたいし、これからは大いに書きたいと思ひます。君の今後の活動も期待して居ります。雑誌も早く読みたいものです。光太からも久振りに便りが来ましたが彼も大いにやるのでせうね。みんなと逢つて話してみたいと思ひます。それでは御元気でゐて下さい。 十月十二日 原民喜 永井善次郎様 ●昭和二十年十月三十一日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛
手紙を出さうと思つてゐたところへ手紙を頂きました。
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