遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷の公園地をあるくのがすきだ。 ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。 おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。 おれはくるしくなる。 おれはさびしくなる。 心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。 おれは懺悔する。 懺悔する。 おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。 利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。 河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。 利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。 あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。 それらの顔はくらくして地面をばかりみる。 地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。
おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。
笛
子供は笛が欲しかつた。 その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。 子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。 子供はひつそりと扉のかげに立つてゐた。 扉のかげにはさくらの花のにほひがする。
そのとき室内で大人はかんがへこんでゐた、 大人の思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のぢれんまが大人の心を痙攣させた。 みれば、ですくの上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。 それは春らしい今朝の出来事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。
本能と良心と、 わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人の心のうらさびしさよ、 力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓のあたりをさまようた。 人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽霊の通りゆく姿をみた。 大人は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた 「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」 けれどもながいあひだ、幽霊は扉のかげを出這入りした。 扉のかげにはさくらの花のにほひがした。 そこには青白い顔をした病身のかれの子供が立つて居た。 子供は笛が欲しかつたのである。
子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。 子供は窓際のですくに突つ伏したおほいなる父の頭脳をみた。 その頭脳のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。 子供の視線が蠅のやうにその場所にとまつてゐた。 子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。 しだいに子供の心が力をかんじはじめた、 子供は実に、はつきりとした声で叫んだ。 みればそこには笛がおいてあつたのだ。 子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。
子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。 それ故この事実はまつたく偶然の出来事であつた。 おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。 けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。 もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、 卓の上に置かれた笛について。
[#ここに室生犀星氏が寄稿した「健康の都市」という長文が入ります。氏の著作権は現時点(1998年8月)保護されていますので、掲載をひかえさせていただきます]
故田中恭吉氏の芸術に就いて
雑誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の芸術を始めて知つたのは、今から二年ほど以前のことである。当時、私があの素ばらしい芸術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはつたかと言ふことは、殊更らに言ふまでもないことであらう。実に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によつて一層はつきりと凝視することが出来たのである。 その頃、私は自分の詩集の装幀や挿画を依頼する人を物色して居た際なので、この新らしい知己を得た悦びは一層深甚なものであつた。まもなく恩地孝氏の紹介によつて私と恭吉氏とは、互にその郷里から書簡を往復するやうな間柄になつた。 幸にも、恭吉氏は以前から私の詩を愛読して居られたので、二人の友情はたちまち深い所まで進んで行つた。当時、重患の病床中にあつた恭吉氏は、私の詩集の計画をきいて自分のことのやうに悦んでくれた。そしてその装幀と挿画のために、彼のすべての「生命の残部」を傾注することを約束された。 とはいへ、それ以来、氏からの消息はばつたり絶えてしまつた。そして恩地氏からの手紙では「いよいよ恭吉の最後も近づいた」といふことであつた。それから暫らくして或日突然、恩地氏から一封の書留小包が届いた。それは恭吉氏の私のために傾注しつくされた「生命の残部」であつた。床中で握りつめながら死んだといふ傷ましい形見の遺作であつた。私はきびしい心でそれを押戴いた。(この詩集に挿入した金泥の口絵と、赤地に赤いインキで薄く画いた線画がその形見である。この赤い絵は、劇薬を包む赤い四角の紙に赤いインキで描かれてあつた。恐らくは未完成の下図であつたらう。非常に緊張した鋭どいものである。その他の数葉は氏の遺作集から恩地君が選抜した。) 恭吉氏は自分の芸術を称して、自ら「傷める芽」と言つて居た。世にも稀有な鬼才をもちながら、不幸にして現代に認められることが出来ないで、あまつさへその若い生涯の殆んど全部を不治の病床生活に終つて寂しく夭死して仕舞つた無名の天才画家のことを考へると、私は胸に釘をうたれたやうな苦しい痛みをかんずる。 思ふに恭吉氏の芸術は「傷める生命」そのもののやるせない絶叫であつた。実に氏の芸術は「語る」といふのではなくして、殆んど「絶叫」に近いほど張りつめた生命の苦喚の声であつた。私は日本人の手に成つたあらゆる芸術の中で、氏の芸術ほど真に生命的な、恐ろしい真実性にふれたものを、他に決して見たことはない。 恭吉氏の病床生活を通じて、彼の生命を悩ましたものは、その異常なる性慾の発作と、死に面接する絶えまなき恐怖であつた。 就中、その性慾は、ああした病気に特有な一種の恐ろしい熱病的執拗をもつて、絶えず此の不幸な青年を苦しめたものである。恭吉氏の芸術に接した人は、そのありとあらゆる線が、無気味にも悉く「性慾の嘆き」を語つて居る事に気がつくであらう。それらの異常なる絵画は、見る人にとつては真に戦慄すべきものである。 「押へても押へても押へきれない性慾の発作」それはむざむざと彼の若い生命を喰ひつめた悪魔の手であつた。しかも身動きも出来ないやうな重病人にとつて、かうした性慾の発作が何にならうぞ。彼の芸術では、凡ての線が此の「対象の得られない性慾」の悲しみを訴へて居る。そこには気味の悪いほど深酷な音楽と祈祷とがある。 襲ひくる性慾の発作のまへに、彼はいつも瞳を閉ぢて低く唄つた。
こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ 何といふ善良な、至純な心根をもつた人であらう。たれかこのいぢらしい感傷の声をきいて涙を流さずに居られよう。 一方、かうした肉体の苦悩に呪はれながら、一方に彼はまた、眼のあたり死に面接する絶えまなき恐怖に襲はれて居た。彼はどんなに死を恐れて居たか解らない。「とても取り返すことの出来ない生」を取り返さうとして、墓場の下から身を起さうとして無益に焦心する、悲しいたましひのすすりなきのやうなものが、彼の不思議の芸術の一面であつた。そこには深い深い絶望の嗟嘆と、人間の心のどん底からにじみ出た恐ろしい深酷なセンチメンタリズムとがある。 併し此等のことは、私がここに拙悪な文章で紹介するまでもないことである。見る人が、彼の芸術を見さへすれば、何もかも全感的に解ることである。すべて芸術をみるに、その形状や事実の概念を離れて、直接その内部生命であるリズムにまで触感することの出来る人にとつては、一切の解説や紹介は不要なものにすぎないから。 要するに、田中恭吉氏の芸術は「異常な性慾のなやみ」と「死に面接する恐怖」との感傷的交錯である。 もちろん、私は絵画の方面では、全く智識のない素人であるから、専門的の立場から観照的に氏の芸術の優劣を批判することは出来ない。ただ私の限りなく氏を愛敬してその夭折を傷む所以は、勿論、氏の態度や思想や趣味性に私と共鳴する所の多かつたにもよるが、それよりも更に大切なことは、氏の芸術が真に恐ろしい人間の生命そのものに根ざした絶叫であつたと言ふことである。そしてかうした第一義的の貴重な創作を見ることは、現代の日本に於ては、極めて極めて特異な現象であるといふことである。
萩原朔太郎
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