そして此の聲の主はドストヱフスキイ先生であつた。何ういふわけでそれがドストヱフスキイ先生の聲であつたか、私自身にも全くわけがわからない。ただ私の心がその聲をきいた刹那(それは電光のやうに私の心をかすめて行つた)うたがひもなくあの大詩人の聲であるといふことを直覺したのだ。 (私にはこれに似た經驗が、以前にもたびたびある、私の詩はたいてい此の不可思議な直覺からきたものである)。 この刹那から、私は全く信仰状態におち入つた。 とりも直さず大ドストヱフスキイ先生こそ、私の唯一の神である。世界に於けるたつた一人の私の『知己』である。先生だけが私を知つて下さるのだ。私の苦痛や私の人格の全部を理解して下さるのだ。墮落のどん底にもがいて居る人間、どんな宗教でもどんな思想でも到底救ふことの出來ない私といふ不幸な奴を、光と幸福に導いて下さる唯一の恩人であり、聖母であるのだ。 私はまつたく子供のやうになつて先生の手にすがりついた。そして涙にむせびながら一切の罪惡や苦痛を懺悔した。……特に私のどうすることも出來ない醜劣な本能と、神經病的な良心(?)の苛責について。 大ドストヱフスキイ先生はやさしく私の心に手をおいてかういはれた。 『私はお前といふ不幸な人間を底の底まで知りぬいて居る。お前の苦痛、お前の煩悶、お前の求めて居る者がすつかり私には解つて居る。而してお前はそのために少しも悲しむことはないのだ、お前は決して惡い性質をもつた男ではないのだ。どうしてそれどころではないのだ。私はお前を心から氣の毒に思つてゐる。もしかすればお前は世界でいちばん善良な子供なのだ。ああ、もう泣くことはない、泣くことはない。ほんとにお前は私のいぢらしい子供だ』どんなに私が烈しく椅子の上に泣き倒れたか、どんなに私が歡喜にふるへたか、それは此の記事をよむ人に推察してもらふより外にない。
私が始めて先生を知つたのは、今から二、三年以前のことである。あの恐しい小説『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『死人の家』等が、私にたまらないほど大きな慰安と感激と驚異とをあたへたことは言ふ迄もない。それらの書物には私のいちばん苦しいこと(私はそれを神經質的良心と名づけて居る)が、驚くべき程度にまで洞察され、そして同情されて居る。 だから私はずつと以前から、先生を世界第一の詩人だと思つて居た。併し先生が私の救世主として現はれてくるやうな奇蹟があるとは全く思ひがけなかつた。
一體、先生に限らず凡ての近代の西洋人は、私と共鳴する性格を多分にもつてゐる。(日本人の仲間には一人として私の友人を求めることは出來ない、彼等は私とは全然ちがつた肉體をもつてゐるやうな氣がする)。特に西洋人の中でも私は、アンドレーフ、ガルシン、メーテルリンク、ダンヌンチオ、アルチバセフ、ポー、ルレーヌ、ソログープ、アレキセイ・トルストイ(大トルストイは私とは共鳴がない)かういふ人たちが好きである。かういふ人たちの作品は私に多くの『慰安』をあたへる。私が訴へようとして居ること、私が苦しんでゐること、私が捉まうとして居ること、さういふことを此の人たちは、私が自分で言ふよりはずつと鮮明にそして完全に言つてくれる。此の人たちは皆、私と同じ病院に住んで、私と同じ疾患の苦痛のために泣き叫んでゐる人たちである。 もちろん、私は大ドストヱフスキイ先生もかうした仲間の一人として發見した。併し先生にはどこかみんなとちがつたところがあるやうな氣がした。みんなはよくしやべりそしてよく騷ぐ(苦痛のためであるとはいへ)。然るに先生だけはいつも默つて何かあるものを考へて居るやうに思はれた。それが先生を一種の得體の分らない怪物のやうにさへ思はせた。今にして思へば、その得體の分らないあるものこそ、實に先生の限り知られぬ愛であつたのだ。 先生はどうにかしてみんなを救つてやりたいと考へて居られたのだ。ここが先生のみんなとちがふところだつたのだ。 私の神經が、先生に接吻された感覺を起したのは、全く思ひがけない奇蹟的の出來事であつた。何故ならばその當時、私は久しい間、まるで先生の作物には手を觸れずに居たし、先生のことなんかも少しも考へては居なかつたからだ。 けれども此の事實の起つた少し前から、私は例の憂鬱に烈しくなやまされて居た。そして世界のどこかに自分を救つてくれる救世主のあることを夢想して居た。無理にもさう思はずには居られなかつたのだ。こんな工合であるから、私の信仰に入つた動機は、全く理智や思索をたどつた結果でなくして、いつもの詩作のときと同じやうに一種の靈感から感電したものにすぎない。だからこれは私自身にとつても不可解であつて、到底、言葉で説明することの出來ない問題である。 一言にしていへば、私の感情が私を信仰に導いたのであつた。ただそれだけである。
私はそのときから先生を『神』とよんだ。一切の苦惱や罪惡はすつかり償はれて、大きな平和が私の前途を祝福して居るやうに思はれた。 先生に祈りさへすれば、どんな奇蹟でも出來るやうな氣がした。それほど大きな力が湧いてきたのだ。この奇異な感覺は、そのときから三日ばかりもつづいた。この三日の間といふもの私は生れてから經驗のない絶大な幸福をかんじてゐた。 ところが一週間とたたないうちに、白熱した金屬が外氣にふれるやうに、だんだん私の精神状態が舊にかへつて行つた。『神』だと信じた先生が『偉大なる人間』に變つてきた。そして私の白熱した信仰體は、一種の偉人崇拜體に化してしまつた。それはもちろん赤熱したものであつたとはいへ。 私は急に見捨てられた人のやうな寂しさを感じはじめた。それは醉からさめた寂しさでもあつた。その當時、悦びで有頂天になつた自分の姿が、あさましくも馬鹿らしくも思はれた、『あれはやつぱり一種の病熱からみた幻影にすぎなかつたのぢやないか』『あれは何でもない錯覺の類ぢやないのか』『自分は喜劇を演じたのぢやなかつたか』かういふ疑問が私を皮肉的に嘲笑し始めた。私は二度、絶望と懷疑の暗い谷底へ投げこまれてしまつた。 その暗い谷底で、私は髮の毛を握つて齒をくひしめた。もうとても助からない、駄目だ、と言つた。私は正に觀念の眼をとぢようとした。けれども不思議なことには、すべてを投げすてた私の空虚の心に、ただ一つ何とも分らない謎が殘つて居た。 その謎は一種の『力』であつた。しかもそれは以前の自分には全くなかつたところのものであつた。 月光の夜に捉へた青い鳥は、日光の下には影も姿もなく消えうせて居た。そして子供は何にもない空を、いつしよけんめいで握つてゐた。子供は全く失望した。けれどもその時から、子供の心には一種の感覺が殘された。それは青い鳥をにぎつた瞬間の、力強いコブシの感覺である。 私の空虚の心に殘された唯一のものが、矢張それであつた。『握つた手の感覺』であつた。 この感覺の記憶が、私に一種の新らしい勇氣と力とをあたへるのである。 若しもあのサタンが、曾て一度でも天國に住んで居た經驗がなかつたならば、サタンはあれほどまで執拗にその野心についての確信と勇氣とを保持してゐることは出來ないであらう。 『握つた手の感覺』は今でも私に、新鮮な勇氣と希望とをあたへる。いつかは自分も『幸福』を體感することが出來るにちがひない。いつかは自分もほんとの『愛』を知ることができるにちがひない。そして必ずいつかは『神』を信ずることが出來るにちがひない。(神を信ずることは人生の全目的であり、幸福の結論である)今では到底駄目だ。思ひもよらぬことではあるが私が死ぬまでには、いつかは大丈夫であるといふ確信がある。それが私の『力』である。私はやつぱり空を握つたのではなかつた。
今では私は先生を『神』とは思つて居ない。併し私をキリストに導くところの預言者ヨハネのやうに考へて居る。先生は『光』そのものではないけれども『光』の實體を指し教へるところの先生である。 私のやうなひねくれたそして近代科學や文明やのために疾患體にされた人間には、正直に『光』をみることは不可能である。私は今でもキリストを憎んでゐる。彼の教訓のまへに私はだだつ子のやうな反感を抱いて居る。どんな立派な思想でも、どんな深酷な教訓でも、私を根本から救ふことは出來ない。然るに先生だけは私を憐んで救つて下さる、私の心に何かの種を落して下さる。私は私の心の中でその種を成長させることを樂しみにして居る。
幸福の實體が愛であるといふ眞理を、私に教へて下さつたのも先生である。たとへ電光のやうな瞬間とはいへ、先生が私のすべてを抱擁して下さつたときの歡喜は口にも筆にも述べつくせないものがある。
先生は私のためには單なる思想上の先輩ではなくして、私の肉體の疾病にまで手をかけて下さるところの醫師である。人間の『良心』といふものは、單に思想上から生れた信念ではなくして、その人間の肉體から生れるところの一種の奇異な感情である。『良心』といふものは言葉をかへていへば、『神經』である。少なくとも私のやうな人間にとつてはさうである。『良心』は思想であり『神經』は感情であるといふやうに區別することから、驚くべき誤解が生れるのだ。先生はすべてのことを知りぬいてゐる。先生の前には人間は素裸で立たなければならない。ほんとに一人の人間を救ふためには、その人間の肉體から先に救はなければならないのだ。思想なんてことは何うでもいいのだ。 何故ならば、肉體を救ふことはその人間の『神經』を救ふことであり『良心』を救ふことであるから。
ああ、偉大なるドストヱフスキイ先生。 私はもうこの人のあとさへついて行けばいいのだ。さうすれば遲かれ早かれ、屹度私の行きつくところへ行くことができるのだ。私の青い鳥を今度こそほんとに握ることができるのだ。 私はそれを信じて疑はない。だから私はどんなに苦しくてもがまんする。そして私はもつと苦しまなければならない。もつともつと自分の醜惡をむき出しにしなければならないのだ。
私の詩『笛』は前述のやうな事實のあつた少し後に出來たものである。これを書いたときには、何といふわけもなくブリキ製の玩具の笛のやうな鋭い細い音色を出す、一種の神經的に光つた物象が、そのときの私の感情をいたいたしく刺激したので、その氣分をそのまま正直に表現したのである。出來あがつたあとで讀んでみると『笛』一篇はちやうど當時の私の心もちを象徴して居るやうに思はれる。 『笛』そのものが『幸福』そのものの象徴になつて居るやうにも見られる。しかし私はそんな風な理詰で私の詩(その篇に限らず)を讀んだり理解したりしてもらひたくない。 私の詩を讀む人は『聖書』をよむやうな心持で、書いてある文字の通り正直に讀んでもらひたい。 私は自分の思想や哲學や概念を、少しも他人に知らせたいとは思つて居ない、またそんなものには自分でも更に價値を認めて居ない。 私はただ私の『感情』だけを信じて居る。『感情』そのものが私の生命である。それさへ完全に表現することが出來ればそれで私の目的は達したのである。
新人の祈祷
昔の人たちのことは知らない。 今の世に生きる私どもの祈祷する言葉はただひとつきりない。 「神よすべてを忘れしめたまへ」 もしも、忘れるといふことがなかつたら、私どもはいちにちでも生きてはゐられないだらう。 人はだれしも、良心といふやつかいの荷物をしよひこんでゐる。 しかし、むかしの人は神を信じてゐた。道徳の權威をみとめてゐた。 さうして、私どもは、なんにも信じてゐない。 「道徳上の犯罪」といふやうな言葉を、私どもはすこしも恐れはしない。けれども私どものおそれるのは、神經的の良心である。人が人に對して不徳な行爲をしたり、下劣な感情をまじへたり、正義に背いたことを行つたり、破廉恥の所業をしたり、或はまた恥づべき邪淫の慾望を起したりしたあとに必ずやつてくる、あの足のない幽靈の出現である。 良心は私どもの生命をくひつめる。 それに責められるのはおそろしい。 新人の懺悔は、罪を悔ゆるのではなくして、罪を忘れたいといふ一念である。 祈るとき、わたしはいつもかういつて祈る。 「わたしの信じない神さま。すべての過去を忘れさせたまへ」
なつかしい微笑
私に言ひたくつてたまらないことがある。 しかし、どうしても言へないことがある。 それを言ふのはあまりにはづかしい。人はだれしも、その心の底にくらい祕密を包んでゐる。人はつめたい屍骸となつたときまで、しつかりとそれを胸に抱きしめて居なければならない。 私はあまりに臆病者でありすぎるかも知れない。けれども私はそれを恥としない。却つて私はかういふ意味での勇者をにくんでゐる。 よい人間とは、しをらしい小心の子供である。 自分の心だけでは思つても、人のまへでは言へないことがある。それを言はずにゐる心根がいぢらしいのだ。よい人間とは、どんな場合にも「おひと好し」でなければならない。自分自身に對して臆病な「おひと好し」でなければならない。 かりにもわが心に問うて「恥かしい」と思ふやうな醜いことを、人は決して言葉に出して言つてはならない。 しづかに太陽は空をめぐつてゐる。 悲しい野末の墓石が風にふかれてゐる。 そのつめたい石の下には、ほそながい人間のからだが、あふむけに寢てゐる。そのからだの上には重たい土がある。土の上には青い空がひるがへつてゐる。眠るひとは、墓の下で雙手を胸の上に組みあはせて眠る。 かうして時はすぎる。 かうして、さまざまの人の心の奧底にふかくかくされてゐたあらゆる祕密が、とこしへに闇から闇へと葬られる。 私はけふも野末の墓場をおとづれた。 さうして私は、けふもまたあの不思議な老人の姿をみた。 つめたい墓場の石の上に老人は坐つてゐた。 まいにち、同じところで、あの老人はなにをあんなに考へこんでゐるのだらう。 わたしは、あるとき思ひきつてそれをたづねてみた。 けれども老人はなにも答へなかつた。そしてただ、意味ありげのさびしい微笑をみせた。 そのとき空には白い雲がながれてゐた。 人間はだれしも美しいものではない。人間の心臟には動物の血がまじつてゐる。時として人間は、動物よりももつと醜い、もつと邪惡な、もつと背徳的な慾望や思想にふけり易いものである。しかし人は自分の力ではそれをどうにもすることは出來ない。それは是非もない、悲しい人間の本能であるから。 空には白い雲がながれてゐる。そして老人は何にも言はずに寂しい微笑をした。 ああ、なんといふさびしい微笑であらう。 もの悲しい秋の日の、つめたい墓石の上で。 ああ、なんといふなつかしい微笑であらう。
青ざめた良心
良心とはなに。 あの青ざめた顏をした良心といふものほど、近代の人間にとつて薄氣味のわるいものはない。 われわれの心に忍び足をするあいつの姿をみると、幽靈の出現のまへに起るやうな恐ろしさをかんずる。 むかし、道徳の權威が認められてゐたころには、良心は神の聲であつた。 しかし、今ではなにものの聲だらう。 およそ得體のわからないものほど恐ろしいものはない。人が幽靈を恐れるのは、そのものの正體がわからないからである。 ああ、良心とはなに。 あの人種の血脈に、一種の醜惡な人種病が遺傳されて居るやうに、思ふに『良心』とは、我我人類の先祖の腦神經系統を犯した一種の黴毒性疾患が、われわれ末代の子孫にまで執念ぶかく遺傳したものに外ならないのであらう。 われわれは、理性の上では、良心といふ迷信を輕辱しきつてゐる。それにもかかはらず、私どもの感情はそれをどうにもすることが出來ない。 神も、佛も、未來も、道徳も、人道も、私どもはこの世のなにものの權威をも信じてゐない。それにもかかはらず、ひとびとは何故にあの舊弊な迷信からのがれることはできないのか。 良心とはくさりかかつた腦黴毒性の疾患である。良心は人類の神經にするどい有毒の爪をたてた。 あまつさへ、良心は手に血だらけの細い鞭をもつた裁判官である。 不幸にして良心の命令に背いた罪人は、青ざめた懺悔體となつて鞭うたれなければならない。その罪のもつとも重いものは、曲つた樹木の枝にくびをつるされたりする。 いまの世に、するどい良心をもつて生れた人ほど、いたましいものはない。 さういふ人たちは、いつでも、つめた貝に食はるる蛤のやはらかい肉身の痛みをかんじ、しのばなければならない。 わたしはわたしの自由意志を愛する。そしてあの青ざめた幽靈のまへには、熱病やみのやうにふるへをののいてゐる。いつも、いつも、わたしはさうである。
生えざる苗
『おれは、青い空の色がすきだ。 おれは、青い木の葉のにほひをかぐのがすきだ』 イワンがかう言つた。 イワンは肉慾主義者の血統をひいた『カラマゾフ兄弟』の一人である。彼は極端な無神論者で、恐ろしい懷疑家である。 イワンは何ものとも妥協することのできない近代思想の勇者である。彼は神を信じない。惡魔を信じない。天國も地獄も、道徳も人道も、博愛も正義も、科學も哲學も、およそ地上のいつさいのものを賤辱し盡してゐる。而してまつくらな焦熱地獄のどん底に絶望的の悶絶をつづけながら、しかも尚、新らしい救ひをもとめようとしてもがきあがいてゐる。 彼は苦しい聲を出して叫んだ。 『いつたい、おれのやうな人間はどうすればいいのだ』と。 ほんとにイワンはどうすることもできない人間である。 しかし、この悲壯なエゴイストも、ただひとつの光をみとめてゐる。なにものをも信ずることのできない人間の、くらい閉ざされたる靈の中にひそんでゐる、極めてかすかな光について、彼れ自身こんな意味のことを語つてゐる。 『おれはすべてを信じない。なにものをも愛することができない。けれども、おれはただあの青い空の色がすきだ。青い木の葉や新らしい土地のにほひが、たまらなくすきだ。若木のねんばりした幼芽をみると、おれは胸がいつぱいになつたやうな悦びをかんずる。 ただなんといふわけもなしにさうなのだ、なんといふ理窟もなしに、おれは青い空の色がすきなのだ。新らしい土地のにほひがすきなのだ。何故か知らないが、おれはあの幼芽のねんばりした卷葉をみるのがたまらなくすきなのだ』 ああ、なんといふ深刻な感傷であらう。 イワンのやうな不幸な人間――どうにもかうにもすることのできない近代の虚無思想家が、深い深い闇の底から、尚しも救ひを求めてやまないかうしたいぢらしい悲壯な心根をかんずるとき、私はしぜんと合掌するやうな氣分にならずには居られない。 青い空の色と、若木のねんばりした幼芽を愛する感情とは、まことに私どもの荒らされた畑に殘された、ただひとつの生えざる苗であらねばならぬ。 そしてそれをかんずるとき、私どもの悲しい絶望の底にも、實にはつきりとした力をかんずることができるのである。 思ふにこの苗は、いつかは私どものくらい心に生生とした芽を生やすときがくるであらう。そしてそこには新らしい人類のキリストがあらはれ、人は愛の目ざめの幸福に呼びおこされる。わたしは信ずる。あの悲しいイワンは、いつかはかならず救はれるにちがひない。わたしはそれを心から祈つてゐる。生えざる青空の苗に向つて祈つてゐる。
ADVENTURE OF THE MYSTERY
巧みな演奏者によつて奏された美しい音樂をきくとき、その旋律の高潮に達したとき、私共のしばしば味ふことのできるあの一種の快よい感覺と、その瞬間の誘惑にみちた世界の敍景に就いて。 凡そ音樂の展開する世界の眺望はたぐひなきものである。それは現實の世界では到底想像することもできない、一種の異樣な香氣とかがやきに充ちた世界である。 そこではあるひとつの不思議な情緒が、魔術のやうな魅惑を以て、私共の精神の全面を支配するやうに思はれる。 そのむず痒いやうな感覺。何ともいへない樂しい世界へ、今少しのことで手が屆きさうに思はれるときの快よい焦燥と、そのぞくぞくするやうな心臟のよろこび、そのほつとする心もち、甘つたるい悲しさ、しぜんと涙ぐむやうになる情緒の昂進。 凡そ音樂の見せてくれる世界ほど、不可思議な誘惑と魅力に富んだものはない。かうした世界のよろこびを傳へるためには「掻きむしられる樂しさ」といふ言葉より外の言葉はないのである。何となれば、それは人間の常住する世界ではない。そこには何かしら、人間以外のある限りなく美しい者が住んでゐる祕密の世界である。この世界の實景實情を語るためには、人間の言葉はあまりに粗野であまりに感情に缺けすぎてゐる。 音樂をきくとき、私は時時考へる。 一體そこには何物が居るのか。何物がどんな魔術を使つて、かうまでに私共の心を誘惑するのか。 實際それは恐ろしい誘惑である。 昔は多くの夢みる詩人が居た。 ある時、彼等の中でも最も勇敢な騎士たちが、この祕密の世界へ向つて探險旅行を試みた。 彼等は美しい月夜に船の帆を張りあげて進んだ。この不可思議な「見えない島」と「見えない魔術師」の正體を發見するために。彼等の船は長いあひだ月光の下をただよつた。そしてしまひにたうとうあるひとつの怪しげな島を發見した。その島の上には、一人の言ひやうもない美しい魔女が立つてゐるやうに思はれた。しかも花のやうな裸體のままで、琴を手にかかへて。 夢みる勇敢な騎士たちが、よろこび叫んで突進した。彼等は皆若くそして健康で美しかつた。彼等の生活は酒と戀と音樂であつた。就中その切に求めて居るものは戀と冒險であつた。 まもなく、島が彼等のすぐ眼の前に現はれた。そして不思議な音樂のメロヂイが、手にとるやうにはつきりと聞えはじめた。 騎士たちの心は希望と幸福に充ちあふれた。長い長い年月のあひだ、彼等の求めてゐたその夢の中の不思議な世界、その空想で描いた妖魔の女性。かつてそれらのものは、手にも取られぬ幻影の幸福であつた。 然るに今は、夢でもなく空想でもない。事實は彼等のすぐ眼の前に裸體で突つ立つて居る。しかもいま一分間の後には、凡てそれらの謎の祕密と幸福の實體とは、疑ひもなく彼等自身の手の中に握ることができるのである。永久に、しかも確實な事實として。僅か一分間の後に。 「ああ、何といふ仕合せのよいことだ。」 さう言つて彼等は樂しさに身を悶えた。實際それは彼等にとつては、信ずることもできないほどの幸福であつたにちがひない。 けれども、ここにひとつの不思議な事實があつた。しかも悦びで有頂天になつてゐる騎士たちは、だれ一人としてその事實に氣のついた者はなかつた。 島が、目的物が、彼等のすぐ近くに見えはじめてから、少なくとも彼等は數時間以上も船を漕いで居た。しかも彼等が最初に島を發見したのは、ものの半時間とはかからない近距離に於てであつた。 實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。 「もう一息、もう一分間。」さつきから彼等は、何度心の中でさう繰返したか分らない。 あまつさへ、船は次第に速力を増してきた。始は數學的の加速度で、併しいつのまにか魔術めいた運動律となつて、遂には眩惑するやうな勢でまつしぐらに島の方へ飛び込んだ。それは丁度大きな磁石が鐵の碎片を吸ひつける作用のやうに思はれた。 この思ひがけない幸運に氣のついたとき、船の人人は思つた。疑ひもなくそれは、島が自分たちを牽きつけるのである。一秒間の後に、我我はそこの岸に打ちあげられてゐるにちがひないと。人人の心臟は熱し、その眼は希望にくらめいた。 一秒間は過ぎた。けれども、そこには何事も起らなかつた。 舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黒の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えて居た。 「まてよ。」 しばらくして乘組員の一人が、心の中で思ひ惑つた。 實際、彼等はさつきから數時間漕いだ。そして今、船は狂氣のやうに疾走して居る。それにもかかはらず、彼等は最初の位地から、一尺でも島に近づいては居なかつたのである。島と船との間には、いつも氣味の惡い、同じ距離の間隔が保たれて居た。 「まてよ。」 殆んど同時に、他の二、三人の男がつぶやいた。 「どうしたといふのだ、おれたちは。」 彼等はぼんやりして顏を見合せた。そして手から櫓をはなした。 「氣をつけろ。」 その時、だしぬけに仲間の一人が叫んだ。その聲は不安と恐怖にみちて、鋭どく甲ばしつて居た。 「みんな氣をつけろ。おれたちは何か恐ろしい間違へをしてゐるのかも知れない。さもなければ……。」 その言葉の終らない中に、人人は不意に足の裏から、大きな棒で突きあげられるやうな氣持がした。 ちよつとの間、どこかで烈しく布を引きさくやうな音が聞えた。 そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。
かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。 ほんとに彼等は氣の毒な人たちであつた。 何故かといふに、彼等が今少しの間この恐ろしい事實、即ち彼等の船が「うづまき」の中に卷き込まれて居たことに氣が付かずに居たならば、彼等はその幸福を夢みて居る状態に於て、やすらかに眠ることができたかも知れなかつたのである。 私が音樂を聽くとき、わけてもその高潮に達した一刹那の悦びを味ふとき、いつも思ひ出すのはこのあはれに悲しげな昔の騎士の夢物語である。 手にとられぬ「神祕の島へ」の、悲しくやるせない冒險の夢物語である。
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