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散文詩・詩的散文(さんぶんし・してきさんぶん)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-23 9:17:49 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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――人魚詩社宣言―― 聖餐餘録 食して後酒盃をとりて曰けるは此の酒盃は爾曹
の爲に流す我が血にして建つる所の新約なり、 ―路加傳二二、二〇、 鐘鳴る。 我れの道路に菊を植ゑ、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。 道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らむとする聖徒勤行の路でもある。 鐘鳴る。 鐘鳴る。 エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。 ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るるところ、この酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。 ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。 見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりして 愛する兄弟よ。 いまこそわが左に來れ。 汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。 爾は女の足をひきかつぎ まことに夜陰に及び、汝が邪淫の 凡そ我れの諸弟子諸信徒のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない。乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に坐することを許せ。 ああ、この兄弟よ、ぷうしきんの徒よ、爾は愛するユダである。我をあざむき 愛する兄弟よ。 而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。 肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。 みよ、汝が匍行するところに汝が蒼白の血痕はあり。 師走に及び、汝は恆に磨ける裸體である。汝が念念祈祷するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。 汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒入に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。況んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感應せる、或はその神祕を啓示するところにならざるべからず。 愛する兄弟よ、まことに師走におよび、爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。 諸弟子。 諸信經の中、感傷品を超えて解脱あることなし。萬有の上に我れをあがめ、我れの上に爾曹のさんちまんたるを頌榮せよ。 今宵、あふぎて見るものは天井の蜂巣蝋燭、伏して見るものは女人淫行の指、皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患蝕金の掌と、輝やく氷雪の飾卓晶峯とあり。 みよ、更に光るそが絶頂にも花鳥をつけ。 ああ、各の肩を超え、しめやかに薫郁するところの香料と沒藥と、音樂と夢みる香爐とあり。 諸使徒。 われと共にあるの日は恆に連坐して酒盃をあげ、交歡淫樂して一念さんちまんたりずむを頌榮せよ。 蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發意、道心のみ、もとより十字架にかかる所以のものは我れの涅槃に至ればなり。亞眠。 ―人魚詩社信條― 光の説 光は人間にある 光は太陽にある 光は金屬にある 光は魚鳥にある 光は螢にある 光は幽靈の手にもある。 幽靈の手は 幽靈の手は我の手だ、我の手を描くものは、幽靈の手を描くものだ。然も幽靈を見るものは尠ない。 幽靈とは幻影である、あやまちなき光の反照である。 幽靈は實在である、妄想ではない。 夢を見ないものは夢の眞實を信じない。 幽靈を見ないものは幽靈の眞實を理解しない。 光は『形』でなくて『命』である。概念でなくてリズムである。光は音波でもある、熱でもある、ええてるでもある。所詮、光は理解でなくて感知である。 光とは詩である。 詩の本體はセンチメンタリズムである。 光は色の急速に旋した炎燃リズムである。色には七色ある。理智、信條、道理、意志、觀念、等その他。 光の中に色がある。 光から色を分析するためには、分光機が必要である。 然もさういふ試驗は理學者にのみ必要である。(貧弱な國家には完全な分光機を持つた學者すらも居ない。)我我は光を光として感知すれば好い、何故ならば、光は既に光そのものであつて色ではない。 色は悉く概念である。 盲目は光を感知しない、――或は感知しても自ら氣がつかない――。 盲目は形ある物象以外のものを否定する。 白秋氏の詩に哲學がないと言つた人がある。無いのではない、見えないのだ。 色が色として單に配列されたものは、哲學である、科學である、思想である、小説である。 色が融熱して轉を始めたときに、色と色とが混濁して或る一色となる。けれども夫れは色であるが故に尚概念である。すなはち感傷の油を差して一層の加速度を與へた場合に始めて色は消滅する。すなはち『光』が生れる、すなはち『詩』が生れる。 熱は眞實である、光は感傷である。 色が色として見えるやうなものは光でない、物體である。斷じて詩ではない。 * * * * 螢の光は戀である。 女の美は淫慾である。 あらゆる生物のパツシヨンは光である。けれどもあらゆる光が必ずしもパツシヨンではない。 聖人の輪光は肉體をはなれて見える。 パツシヨンばかりが詩ではない。 センチメンタルばかりが詩である。 光輪も聖人の怒と哀傷とによつて輝く。 足が地上を離れんとして電光に撃たれる。自分の肢體が金粉のやうに飛散する。 月光の海に盲魚が居る。 眞實は燐だ、感傷は露だ。 光は天の一方にある、空の青明を照映するために我の額は磨かれる、一心不亂に磨きあげられる。 鵞鳥は純金の卵を生む。自分の安住する世界はいつも美しい、夢のやうに不可思議で、夢のやうに美しい。 手の幻影 白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。左である。 而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。 手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。 手は歴歴として發光する。 手はしんしんとして疾患する。 手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。 手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。 われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。 微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちえんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。 我はつねに『先祖』を怖る。 危險なる新光線 疾患せる植物及び動物の脊髓より發光するところの螢光又はラジウム性放射線が、如何に我我の健康に有害なるかを想へ、斯くの如き光線は人身をして糜爛せしめ、侵蝕せしめずんば止まず。新らしき人類をして悲慘なる破滅より救助せしめんがため、科學者は新らたに發見を要す。 懺悔者の姿 懺悔するものの姿は冬に於て最も鮮明である。 暗黒の世界に於ても、彼の姿のみはくつきりと浮彫のごとく宇宙に光つて見える。 見よ、合掌せる懺悔者の背後には美麗なる極光がある。 地平を超えて永遠の闇夜が眠つて居る。 恐るべき氷山の流失がある。 見よ、祈る、懺悔の姿。 むざんや口角より血をしたたらし、合掌し、瞑目し、むざんや天上に縊れたるものの、光る松が枝に靈魂はかけられ、霜夜の空に、凍れる、凍れる。 みよ、祈る罪人の姿をば。 想へ、流失する時劫と、闇黒と、物言はざる刹那との宙宇にありて、只一人吊されたる單位の恐怖をば、光の心靈の屍體をば。 ああ、懺悔の涙、我にありて血のごとし、肢體をしぼる血のごとし。 鼠と病人の巣 密房通信 しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、さうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巣となつてしまつた。 鼠、巣をかけ。鼠、巣をかけ。 うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巣をかけてしまつた。 巣がかかる、巣がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巣にてべたいちめんである。 みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の青白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。 祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。 ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。 いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纖毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。 ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささへうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。 私はいまそれを知らない。 何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巣となつたかを知らない。 ただ、私は私の左の手の食指から、絹糸のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。 いちにち、瓦斯すとほぶの火は青ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。 今こそ、私は祈らねばならぬ。 齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。 ああ、ねずみ巣をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。 私の病氣はますます青くなり。おとろへ。 海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。 ―四月三日―
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