七
町にはいった。 木之助は一軒ずつ軒づたいに門附けをするようなことはやめた。自分の記憶をさぐって見て、いつも彼の胡弓をきいてくれた家だけを拾って行った。それも沢山はなく、味噌屋をいれて僅か五、六軒だったにすぎない。 だがそれらの家々を廻りはじめて四軒目に木之助は深く心の内に失望しなければならなかった。どの家も、申しあわせたように木之助の門附けを辞った。帽子屋では木之助が硝子戸を三寸ばかり明けたとき、店の火鉢に顎をのせるようにして坐っていた年寄りの主人が痩せた大きな手を横に振ったので木之助は三寸あけただけでまた硝子戸をしめねばならなかった。また一昨々年まで必ず木之助の門附けを辞らなかった或るしもた家には、木之助があけようとして手をかけた入口の格子硝子に「諸芸人、物貰い、押売り、強請、一切おことわり、警察電話一五〇番」と書いた判紙が貼ってあった。また或る店屋では、木之助が中にはいって、ちょっと胡弓を弾いた瞬間、声の大きい旦那が、今日はごめんだ、と怒鳴りつけるような声で言ったので、木之助はびくっとして手をとめた。胡弓の音もびっくりしたようにとまってしまった。 もうこれ以上他を廻るのは無駄であると木之助は思った。そこで最後のたのしみにとっておいた味噌屋の方へ足を向けた。 門の前に立った時木之助はおやと思った。そこには見馴れた古い「味噌溜」の板看板はなくなり、代りに、まだ新しい杉板に「※[#「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号、59-12]味噌醤油製造販売店」と書いたのが掲げられてあった。それだけのことで、木之助にはいつもと様子が変ったような、うとましい気がした。門をくぐってゆくと、あの大きい天水桶はなくなっていた。そして天水桶のあったあたりには、木之助の嫌いな、オート三輪がとめてあった。 「ごめんやす」とほっぽこ頭巾をぬいで木之助は土間にはいった。 奥の方で、誰か来たよといっているのが静けさの中をつつぬけて来た。やがて誰かが立ってこちらへ来る気配がした。木之助はちょっと身繕いした。だが衝立の蔭から、始めて見る若い美しい女の人が出て来て、そこに片手をついてこごんだときはまた面くらった。 「あのう」といって木之助は黙った。言葉がつづかなかった。それから一つ咳をして「ご隠居は今日はお留守でごぜえますか。毎年ごひいきに預っています胡弓弾きが参りましたと仰有って下せえまし」といった。 女の人が引っ込んでいって、低声で何か囁きあっているのが、心臓の高鳴りはじめた木之助の神経を刺戟した。やがてまた足音がして、こんどは頭をぴかぴかの時分けにし、黒い太い縁の眼鏡をかけた若主人が現われた。 「ああ、また来ましたね」と木之助を見て若主人はいった。「君、知らなかったのかね、親父は昨年の夏なくなったんだよ」 「へっ」といって木之助はしばらく口がふさがらなかった。立っている自分に、寂しさが足元から上って来るのを、しみじみ感じながら。 「そうでごぜえますか、とうとうなくなられましたか」。やっと気を取り直して木之助はそれだけいった。 木之助はすごすごと踵をかえした。閾に躓いて、も少しで見苦しく這いつくばうところだった。右足の親指を痛めただけで胡弓をぶち折らなかったのはまだしも仕合わせというべきだった。 門を出ると、一人の風呂敷包みを持った五十位の女が、雪駄の歯につまった雪を、門柱の土台石にぶつけて、はずしていた。木之助を見ると女の人は、おや、と懐しそうにいった。木之助は見て、その人がこの家の女中であることを知った。彼女は三十年前、木之助が始めて松次郎と門附けに来たとき、主人にいいつけられて御馳走のはいった皿を持って来た、あの意地の汚なかった女中である。来る年も来る年も木之助は彼女を味噌屋の家で見た。木之助が少年から大人へ、大人からやがて老人へと成長し年とっていったように、彼女は見る年ごとに成長し年とっていった。二十五位のとき彼女は一度味噌屋から姿を消し、それから五、六年は見えなかったが、再び味噌屋へ戻って来た時は一度に十も年をとったように老けて見えた。その時彼女は五つ位になる女の子を一人つれて来た。木之助は御隠居から、彼女の身の上を少しばかりきかされた事があった。彼女は不仕合わせな女で一度嫁いだが夫に死なれたので、女の子をつれてまた味噌屋へ奉公に戻って来たのだそうである。その時以来彼女はずっとこの家から出ていかなかった。若かった頃は意地が悪くて、木之助を見ると白い眼をして見下したが嫁いだ先で苦労をして戻ってからは、人が変ったように大人しくなったのである。
八
「お前さん、しばらく見えなかっただね、一昨年の正月も昨年の正月もなくなられた大旦那が、あれが来ないがどうしたろうと言っておらしたに」 「ああ、去年は大病みをやり、一昨年は恰度旧正月の朝親父が死んだもので、どうしても来られなかっただ。御隠居も夏死なしたそうだな。俺あ今きいてびっくりしたところだよ」と木之助はいった。 「そうかね、お前さん知らなかっただね」と年とった女中はいって、それから優しく咎めるような口調で言葉をついだ。「去年の正月はほんとに大旦那はお前さんのことを言っておらしただに。どうしよっただろう、もう門附けなんかしてもつまらんと思って止めよっただろうか、病気でもしていやがるか、ってそりゃ気にして見えただよ」 木之助は熱いものがこみあげて来るような気がした。「ほうかな、ほうかな」といってきいていた。 年とった女中はそれから、もう一ぺんひっ返して、大旦那の御仏前で供養に胡弓を弾くことをすすめた。「そいでも、若い御主人が嫌うだろ」と木之助がしりごむと、女中は、「なにが。わたしがいるから大丈夫だよ」と言って木之助をひっぱっていった。 女中は木之助を勝手口の方から案内し、ちょっとそこに待たせておいて奥へ姿を消したが、直また出て来て、さあおあがりな、と言った。木之助は長靴をぬいで女中のあとに従って仏間にいった。仏壇は大きい立派なもので、点された蝋燭の光に、よく磨かれた仏具や仏像が金色にぴかぴかと煌いていた。木之助はその前に冷えた膝を揃えて坐ると、焚かれた香がしめっぽく匂った。南無阿弥陀仏と唱えて、心から頭をさげた。深い仏壇の奥の方から大旦那がこちらを見ているような気がしたのである。 「そいじゃ、何か一つ、弾いてあげておくれやな」と背後に坐っていた女中がいった。木之助は今までに仏壇に向って胡弓を弾いたことはなかったので、変なそぐわない気がした。だが思い切って弾き出して見ると、じきそんな気持ちは消えた。いつ弾く時でもそうであるように、木之助はもう胡弓に夢中になってしまった。木之助の前にあるのはもう仏壇というような物ではなかった。耳のある生物だった。それは耳をそばだてて胡弓の声にきき入り、そののんびりしたような、また物哀しいような音色を味わっていた。木之助は一心にひいていた。 門を出ると木之助は、道の向う側からふりかえって見た。再びこの家に訪ねて来ることはあるまい。長い間木之助の毎日の生活の中で、煩わしいことや冗らぬことの多い生活の中で竜宮城のように楽しい想いであったこの家もこれからは普通の家になったのである。もはやこの家には木之助の弾く胡弓の、最後の一人の聴手がいないのである。 木之助はすっぽりほっぽこ頭巾をかむって歩き出した。町の物音や、眼の前を行き交う人々が何だか遠い下の方にあるように思われた。木之助の心だけが、群をはなれた孤独な鳥のように、ずんずん高い天へ舞いのぼって行くように感ぜられた。 ふと木之助は「鉄道省払下げ品、電車中遺留品、古物」と書かれた白い看板に眼をとめた。それは街角の、外から様々な古物の帽子や煙草入れなどが見えている小さい店の前に立っていた。木之助は看板から自分の持っている胡弓に眼をうつした。聴く人のなくなった胡弓など持っていて何になろう。 誰かに逆うように、深くも考えずに木之助はそこの硝子戸をあけた。 「これいくらで取ってもらえるだね」 青くむくんだ顔の女主人が、まず、 「こりゃ一体、何だい。三味線じゃない。胡弓か、えらい古い物だな」と男のような口のきき方をして、胡弓をうけとった。そして、あちこち傷んでいないか見てから、 「こんなものは、買えない」とつき返した。 「買えんということはねえだろうがな」と木之助は気が立っていたので口をとがらせていった。「古物屋が古物を買えんという法はねえだら」 「古物屋だとて、今どき使わんようなものはどうにもならんよ。うちは骨董屋じゃねえから」 二人はしばらく押問答した。女主人は買わぬつもりでもないらしく、 「まあ、そうだな。三十銭でよかったら置いてゆきな」といった。
九
木之助はあまり安い値をいわれたので腹が立ったが、腹立ちまぎれに、そいじゃ売ろうといってしまった。木之助は外に出ると何だかむしょうに腹が立ったが、その下にうつろな寂しい穴がぽかんとあいていた。 少しゆくと鉄柵でかこまれた大きい小学校があって、その前に学用品を売る店が道の方を向いていた。末っ子の由太のためにたのまれた王様クレヨンを買った。小僧がそれを包み紙で包むのを待っている間に、木之助の心は後悔の念に噛まれはじめた。胡弓を手ばなした瞬間、心の一隅に「しまった」という声が起った。それが、今は段々大きくなって来た。 クレヨンの包みを受けとると木之助は慌てて、ゴムの長靴を鳴らしながら、さっきの古物屋の方へひっかえしていった。あいつを手離してなるものか、あいつは三十年の間私につれそうて来た! もう胡弓が古帽子や煙草入れなどと一緒に、道からよく見えるところに吊してあるのが、木之助の眼に入った。まだあってよかったと思った。長い間逢わなかった親しい者にひょいと出逢ったように懐しい感じがした。 木之助は店にはいって行って、ちょっと躊躇いながら、いった。 「ちょっと、すまないが、さっきの胡弓は返してくれんかな。ちょっと、そのう、都合の悪いことが出来たもんで」 青くむくんだ女主人は、きつい眼をして木之助の顔を穴のあくほど見た。そこで木之助は財布から三十銭を出して火鉢の横にならべた。 「まことに勝手なこといってすまんが、あの胡弓は三十年も使って来たもんで、俺のかかあより古くから俺につれそっているんで」 女主人の心を和げようと思って木之助はそんなことをいった。すると女主人は、 「あんたのかかあがどうしただか、そんなこたあ知らんが、家あ商売してるだね。遊んでいるじゃねえよ」といって、帳面や算盤の乗っている机に頤杖をついた。そしてまたいった。「買いとったものを、おいそれと返すわけにゃいかんよ」 これはえらい女だなと木之助は思いながら「それじゃ、売ってくれや、いくらでも出すに」といった。 女主人はまたしばらく木之助の顔を見ていたが、 「売ってくれというなら売らんことはないよ、こっちは買って売るのが商売だあね」とちょっとおとなしく言った。 「ああ、そいじゃ、そうしてくれ。いやどうも俺の方が悪かった。それじゃもういくら上げたらいいかな」と木之助はまた財布を出して、半ば開いた。 「そうさな、他の客なら八十銭に売るところだが、お前さんはもとを知っとるから、六十銭にしとこう」 木之助の財布を持っている手が怒りのために震えた。 「そ、そげな、馬鹿なことが。あんまり人の足元を見やがるな。三十銭で取っといて、三十分とたたねえうちに倍の値で――」 「やだきゃ、やめとけよ」と女主人は遮って素気なくいった。 木之助は財布の中を見るともう十五銭しかなかった。いつもの習慣で家を出るとき金を持って出なかった。で、さっき由太のクレヨンを買うときは、味噌屋で貰ったお銭で払ったのだ。十五銭はその残りだった。 火鉢の横にならべた三十銭を一枚一枚拾って財布に入れると、木之助は黙って財布を腹の中へ入れた。そして力なく古物屋を出た。 午後の三時頃だった。また空は曇り、町は冷えて来た。足の先の凍えが急に身に沁みた。木之助は右も左もみず、深くかがみこんで歩いていった。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号 |
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