七
寒い。手拭を下げて、湯壺へ下る。 三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどな湯槽を据える。槽とは云うもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭もない。病気にも利くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだ事がない。ただ這入る度に考え出すのは、白楽天の温泉水滑洗凝脂と云う句だけである。温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。 すぽりと浸かると、乳のあたりまで這入る。湯はどこから湧いて出るか知らぬが、常でも槽の縁を奇麗に越している。春の石は乾くひまなく濡れて、あたたかに、踏む足の、心は穏やかに嬉しい。降る雨は、夜の目を掠めて、ひそかに春を潤おすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく繁く、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立て籠められた湯気は、床から天井を隈なく埋めて、隙間さえあれば、節穴の細きを厭わず洩れ出でんとする景色である。 秋の霧は冷やかに、たなびく靄は長閑に、夕餉炊く、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。様々の憐れはあるが、春の夜の温泉の曇りばかりは、浴するものの肌を、柔らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を一重破れば、何の苦もなく、下界の人と、己れを見出すように、浅きものではない。一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、温かき虹の中に埋め去る。酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。ただこの靄に、春宵の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。 余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊わすが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。 湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門の賛を作って見る。
雨が降ったら濡れるだろう。 霜が下りたら冷たかろ。 土のしたでは暗かろう。 浮かば波の上、 沈まば波の底、 春の水なら苦はなかろ。
と口のうちで小声に誦しつつ漫然と浮いていると、どこかで弾く三味線の音が聞える。美術家だのにと云われると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における智識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳には余り影響を受けた試しがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の湯壺の中で、魂まで春の温泉に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。遠いから何を唄って、何を弾いているか無論わからない。そこに何だか趣がある。音色の落ちついているところから察すると、上方の検校さんの地唄にでも聴かれそうな太棹かとも思う。 小供の時分、門前に万屋と云う酒屋があって、そこに御倉さんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚いをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好を形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺のようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、苔深き地を抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独り匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかに膝を容るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠を睨めて、この草の香を臭いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。 御倉さんはもう赤い手絡の時代さえ通り越して、だいぶんと世帯じみた顔を、帳場へ曝してるだろう。聟とは折合がいいか知らん。燕は年々帰って来て、泥を啣んだ嘴を、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の香とはどうしても想像から切り離せない。 三本の松はいまだに好い恰好で残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、昔し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。御倉さんの旅の衣は鈴懸のと云う、日ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。 三味の音が思わぬパノラマを余の眼前に展開するにつけ、余は床しい過去の面のあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開いた。 誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に注ぐ。湯槽の縁の最も入口から、隔たりたるに頭を乗せているから、槽に下る段々は、間二丈を隔てて斜めに余が眼に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒を遶る雨垂の音のみが聞える。三味線はいつの間にかやんでいた。 やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照すものは、ただ一つの小さき釣り洋灯のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、確と物色はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、濃かなる雨に抑えられて、逃場を失いたる今宵の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞 のごとく柔かと見えて、足音を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差支ない。が輪廓は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に在る事を覚った。 注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。漲ぎり渡る湯煙りの、やわらかな光線を一分子ごとに含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漾わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のと云う感じはことごとく、わが脳裏を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。 古代希臘の彫刻はいざ知らず、今世仏国の画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに露骨な肉の美を、極端まで描がき尽そうとする痕迹が、ありありと見えるので、どことなく気韻に乏しい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが、解らぬ故、吾知らず、答えを得るに煩悶して今日に至ったのだろう。肉を蔽えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば卑しくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を留めておらぬ。衣を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、飽くまでも裸体を、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。十分で事足るべきを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く描出しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその観者を強うるを陋とする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦せるとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの諺はこれがためである。 放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画において、詩において、もしくは文章において、必須の条件である。今代芸術の一大弊竇は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、拘々として随処に齷齪たらしむるにある。裸体画はその好例であろう。都会に芸妓と云うものがある。色を売りて、人に媚びるを商売にしている。彼らは嫖客に対する時、わが容姿のいかに相手の瞳子に映ずるかを顧慮するのほか、何らの表情をも発揮し得ぬ。年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満している。彼らは一秒時も、わが裸体なるを忘るる能わざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんと力めている。 今余が面前に娉 と現われたる姿には、一塵もこの俗埃の眼に遮ぎるものを帯びておらぬ。常の人の纏える衣装を脱ぎ捨てたる様と云えばすでに人界に堕在する。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代の姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。 室を埋むる湯煙は、埋めつくしたる後から、絶えず湧き上がる。春の夜の灯を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓の世界が濃かに揺れるなかに、朦朧と、黒きかとも思わるるほどの髪を暈して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓を見よ。 頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢を後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。 しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗を溌墨淋漓の間に点じて、 竜の怪を、楮毫のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥 なる調子とを具えている。六々三十六鱗を丁寧に描きたる竜の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々の肉を浄洒々に眺めぬうちに神往の余韻はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥が、彩虹の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。 輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾のごとくに風を起して、莽と靡いた。渦捲く煙りを劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く。余はがぶりと湯を呑んだまま槽の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。
八
御茶の御馳走になる。相客は僧一人、観海寺の和尚で名は大徹と云うそうだ。俗一人、二十四五の若い男である。 老人の部屋は、余が室の廊下を右へ突き当って、左へ折れた行き留りにある。大さは六畳もあろう。大きな紫檀の机を真中に据えてあるから、思ったより狭苦しい。それへと云う席を見ると、布団の代りに花毯が敷いてある。無論支那製だろう。真中を六角に仕切って、妙な家と、妙な柳が織り出してある。周囲は鉄色に近い藍で、四隅に唐草の模様を飾った茶の輪を染め抜いてある。支那ではこれを座敷に用いたものか疑わしいが、こうやって布団に代用して見るとすこぶる面白い。印度の更紗とか、ペルシャの壁掛とか号するものが、ちょっと間が抜けているところに価値があるごとく、この花毯もこせつかないところに趣がある。花毯ばかりではない、すべて支那の器具は皆抜けている。どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに、ぼおっとするところが尊とい。日本は巾着切りの態度で美術品を作る。西洋は大きくて細かくて、そうしてどこまでも娑婆気がとれない。まずこう考えながら席に着く。若い男は余とならんで、花毯の半を占領した。 和尚は虎の皮の上へ坐った。虎の皮の尻尾が余の膝の傍を通り越して、頭は老人の臀の下に敷かれている。老人は頭の毛をことごとく抜いて、頬と顎へ移植したように、白い髯をむしゃむしゃと生やして、茶托へ載せた茶碗を丁寧に机の上へならべる。 「今日は久し振りで、うちへ御客が見えたから、御茶を上げようと思って、……」と坊さんの方を向くと、 「いや、御使をありがとう。わしも、だいぶ御無沙汰をしたから、今日ぐらい来て見ようかと思っとったところじゃ」と云う。この僧は六十近い、丸顔の、達磨を草書に崩したような容貌を有している。老人とは平常からの昵懇と見える。 「この方が御客さんかな」 老人は首肯ながら、朱泥の急須から、緑を含む琥珀色の玉液を、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。清い香りがかすかに鼻を襲う気分がした。 「こんな田舎に一人では御淋しかろ」と和尚はすぐ余に話しかけた。 「はああ」となんともかとも要領を得ぬ返事をする。淋しいと云えば、偽りである。淋しからずと云えば、長い説明が入る。 「なんの、和尚さん。このかたは画を書かれるために来られたのじゃから、御忙がしいくらいじゃ」 「おお左様か、それは結構だ。やはり南宗派かな」 「いいえ」と今度は答えた。西洋画だなどと云っても、この和尚にはわかるまい。 「いや、例の西洋画じゃ」と老人は、主人役に、また半分引き受けてくれる。 「ははあ、洋画か。すると、あの久一さんのやられるようなものかな。あれは、わしこの間始めて見たが、随分奇麗にかけたのう」 「いえ、詰らんものです」と若い男がこの時ようやく口を開いた。 「御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか」と老人が若い男に聞く。言葉から云うても、様子から云うても、どうも親類らしい。 「なあに、見ていただいたんじゃないですが、鏡が池で写生しているところを和尚さんに見つかったのです」 「ふん、そうか――さあ御茶が注げたから、一杯」と老人は茶碗を各自の前に置く。茶の量は三四滴に過ぎぬが、茶碗はすこぶる大きい。生壁色の地へ、焦げた丹と、薄い黄で、絵だか、模様だか、鬼の面の模様になりかかったところか、ちょっと見当のつかないものが、べたに描いてある。 「杢兵衛です」と老人が簡単に説明した。 「これは面白い」と余も簡単に賞めた。 「杢兵衛はどうも偽物が多くて、――その糸底を見て御覧なさい。銘があるから」と云う。 取り上げて、障子の方へ向けて見る。障子には植木鉢の葉蘭の影が暖かそうに写っている。首を曲げて、覗き込むと、杢の字が小さく見える。銘は観賞の上において、さのみ大切のものとは思わないが、好事者はよほどこれが気にかかるそうだ。茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して味って見るのは閑人適意の韻事である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである。歯を用いるは卑しい。水はあまりに軽い。玉露に至っては濃かなる事、淡水の境を脱して、顎を疲らすほどの硬さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。 老人はいつの間にやら、青玉の菓子皿を出した。大きな塊を、かくまで薄く、かくまで規則正しく、刳りぬいた匠人の手際は驚ろくべきものと思う。すかして見ると春の日影は一面に射し込んで、射し込んだまま、逃がれ出ずる路を失ったような感じである。中には何も盛らぬがいい。 「御客さんが、青磁を賞められたから、今日はちとばかり見せようと思うて、出して置きました」 「どの青磁を――うん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも好じゃ。時にあなた、西洋画では襖などはかけんものかな。かけるなら一つ頼みたいがな」 かいてくれなら、かかぬ事もないが、この和尚の気に入るか入らぬかわからない。せっかく骨を折って、西洋画は駄目だなどと云われては、骨の折栄がない。 「襖には向かないでしょう」 「向かんかな。そうさな、この間の久一さんの画のようじゃ、少し派手過ぎるかも知れん」 「私のは駄目です。あれはまるでいたずらです」と若い男はしきりに、恥かしがって謙遜する。 「その何とか云う池はどこにあるんですか」と余は若い男に念のため尋ねて置く。 「ちょっと観海寺の裏の谷の所で、幽邃な所です。――なあに学校にいる時分、習ったから、退屈まぎれに、やって見ただけです」 「観海寺と云うと……」 「観海寺と云うと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を一目に見下しての――まあ逗留中にちょっと来て御覧。なに、ここからはつい五六丁よ。あの廊下から、そら、寺の石段が見えるじゃろうが」 「いつか御邪魔に上ってもいいですか」 「ああいいとも、いつでもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。――御嬢さんと云えば今日は御那美さんが見えんようだが――どうかされたかな、隠居さん」 「どこぞへ出ましたかな、久一、御前の方へ行きはせんかな」 「いいや、見えません」 「また独り散歩かな、ハハハハ。御那美さんはなかなか足が強い。この間法用で礪並まで行ったら、姿見橋の所で――どうも、善く似とると思ったら、御那美さんよ。尻を端折って、草履を穿いて、和尚さん、何をぐずぐず、どこへ行きなさると、いきなり、驚ろかされたて、ハハハハ。御前はそんな形姿で地体どこへ、行ったのぞいと聴くと、今芹摘みに行った戻りじゃ、和尚さん少しやろうかと云うて、いきなりわしの袂へ泥だらけの芹を押し込んで、ハハハハハ」 「どうも、……」と老人は苦笑いをしたが、急に立って「実はこれを御覧に入れるつもりで」と話をまた道具の方へそらした。 老人が紫檀の書架から、恭しく取り下した紋緞子の古い袋は、何だか重そうなものである。 「和尚さん、あなたには、御目に懸けた事があったかな」 「なんじゃ、一体」 「硯よ」 「へえ、どんな硯かい」 「山陽の愛蔵したと云う……」 「いいえ、そりゃまだ見ん」 「春水の替え蓋がついて……」 「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」 老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色の四角な石が、ちらりと角を見せる。 「いい色合じゃのう。端渓かい」 「端渓で 眼が九つある」 「九つ?」と和尚大に感じた様子である。 「これが春水の替え蓋」と老人は綸子で張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句が書いてある。 「なるほど。春水はようかく。ようかくが、書は杏坪の方が上手じゃて」 「やはり杏坪の方がいいかな」 「山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌で俗気があって、いっこう面白うない」 「ハハハハ。和尚さんは、山陽が嫌いだから、今日は山陽の幅を懸け替えて置いた」 「ほんに」と和尚さんは後ろを振り向く。床は平床を鏡のようにふき込んで、 気を吹いた古銅瓶には、木蘭を二尺の高さに、活けてある。軸は底光りのある古錦襴に、装幀の工夫を籠めた物徂徠の大幅である。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色が褪せて、金糸が沈んで、華麗なところが滅り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。焦茶の砂壁に、白い象牙の軸が際立って、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、床全体の趣は落ちつき過ぎてむしろ陰気である。 「徂徠かな」と和尚が、首を向けたまま云う。 「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」 「それは徂徠の方が遥かにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある」 「広沢をして日本の能書ならしめば、われはすなわち漢人の拙なるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」 「わしは知らん。そう威張るほどの字でもないて、ワハハハハ」 「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」 「わしか。禅坊主は本も読まず、手習もせんから、のう」 「しかし、誰ぞ習われたろう」 「若い時に高泉の字を、少し稽古した事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓を一つ御見せ」と和尚が催促する。 とうとう緞子の袋を取り除ける。一座の視線はことごとく硯の上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまず並と云ってよろしい。蓋には、鱗のかたに研きをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆で、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。 「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」 老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる因縁があろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、 「松の蓋は少し俗ですな」 と云った。老人はまあと云わぬばかりに手を挙げて、 「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮を剥いで山陽が手ずから製したのですよ」 なるほど山陽は俗な男だと思ったから、 「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの鱗のかたなどをぴかぴか研ぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って退けた。 「ワハハハハ。そうよ、この蓋はあまり安っぽいようだな」と和尚はたちまち余に賛成した。 若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌の体に蓋を払いのけた。下からいよいよ硯が正体をあらわす。 もしこの硯について人の眼を峙つべき特異の点があるとすれば、その表面にあらわれたる匠人の刻である。真中に袂時計ほどな丸い肉が、縁とすれすれの高さに彫り残されて、これを蜘蛛の背に象どる。中央から四方に向って、八本の足が彎曲して走ると見れば、先には各 眼を抱えている。残る一個は背の真中に、黄な汁をしたたらしたごとく煮染んで見える。背と足と縁を残して余る部分はほとんど一寸余の深さに掘り下げてある。墨を湛える所は、よもやこの塹壕の底ではあるまい。たとい一合の水を注ぐともこの深さを充たすには足らぬ。思うに水盂の中から、一滴の水を銀杓にて、蜘蛛の背に落したるを、貴き墨に磨り去るのだろう。それでなければ、名は硯でも、その実は純然たる文房用の装飾品に過ぎぬ。 老人は涎の出そうな口をして云う。 「この肌合と、この眼を見て下さい」 なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く潤沢を帯びたる肌の上に、はっと、一息懸けたなら、直ちに凝って、一朶の雲を起すだろうと思われる。ことに驚くべきは眼の色である。眼の色と云わんより、眼と地の相交わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど吾眼の欺かれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなものである。眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。九個と云ったら、ほとんど類はあるまい。しかもその九個が整然と同距離に按排されて、あたかも人造のねりものと見違えらるるに至ってはもとより天下の逸品をもって許さざるを得ない。 「なるほど結構です。観て心持がいいばかりじゃありません。こうして触っても愉快です」と云いながら、余は隣りの若い男に硯を渡した。 「久一に、そんなものが解るかい」と老人が笑いながら聞いて見る。久一君は、少々自棄の気味で、 「分りゃしません」と打ち遣ったように云い放ったが、わからん硯を、自分の前へ置いて、眺めていては、もったいないと気がついたものか、また取り上げて、余に返した。余はもう一遍丁寧に撫で廻わした後、とうとうこれを恭しく禅師に返却した。禅師はとくと掌の上で見済ました末、それでは飽き足らぬと考えたと見えて、鼠木綿の着物の袖を容赦なく蜘蛛の背へこすりつけて、光沢の出た所をしきりに賞翫している。 「隠居さん、どうもこの色が実に善いな。使うた事があるかの」 「いいや、滅多には使いとう、ないから、まだ買うたなりじゃ」 「そうじゃろ。こないなのは支那でも珍らしかろうな、隠居さん」 「左様」 「わしも一つ欲しいものじゃ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買うて来ておくれかな」 「へへへへ。硯を見つけないうちに、死んでしまいそうです」 「本当に硯どころではないな。時にいつ御立ちか」 「二三日うちに立ちます」 「隠居さん。吉田まで送って御やり」 「普段なら、年は取っとるし、まあ見合すところじゃが、ことによると、もう逢えんかも、知れんから、送ってやろうと思うております」 「御伯父さんは送ってくれんでもいいです」 若い男はこの老人の甥と見える。なるほどどこか似ている。 「なあに、送って貰うがいい。川船で行けば訳はない。なあ隠居さん」 「はい、山越では難義だが、廻り路でも船なら……」 若い男は今度は別に辞退もしない。ただ黙っている。 「支那の方へおいでですか」と余はちょっと聞いて見た。 「ええ」 ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから控えた。障子を見ると、蘭の影が少し位置を変えている。 「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」 老人は当人に代って、満洲の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語げた。この夢のような詩のような春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰めていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼る。朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸る時が来るかも知れない。この青年の腰に吊る長き剣の先から煙りとなって吹くかも知れない。しかしてその青年は、夢みる事よりほかに、何らの価値を、人生に認め得ざる一画工の隣りに坐っている。耳をそばだつれば彼が胸に打つ心臓の鼓動さえ聞き得るほど近くに坐っている。その鼓動のうちには、百里の平野を捲く高き潮が今すでに響いているかも知れぬ。運命は卒然としてこの二人を一堂のうちに会したるのみにて、その他には何事をも語らぬ。
九
「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几に縛りつけた、書物の一冊を抽いて読んでいた。 「御這入りなさい。ちっとも構いません」 女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。 「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」 「なあに」 「じゃ何が書いてあるんです」 「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」 「ホホホホ。それで御勉強なの」 「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」 「それで面白いんですか」 「それが面白いんです」 「なぜ?」 「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」 「よっぽど変っていらっしゃるのね」 「ええ、ちっと変ってます」 「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」 「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」 「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」 「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」 「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。 「あなたは小説が好きですか」 「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。 「好きだか、嫌だか自分にも解らないんじゃないですか」 「小説なんか読んだって、読まなくったって……」 と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。 「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」 「だって、あなたと私とは違いますもの」 「どこが?」と余は女の眼の中を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸は少しも動かない。 「ホホホホ解りませんか」 「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。 「今でも若いつもりですよ。可哀想に」放した鷹はまたそれかかる。すこしも油断がならん。 「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。 「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」 「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」 「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」 「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」 「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」 「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」 「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」 「話しちゃ駄目です。画だって話にしちゃ一文の価値もなくなるじゃありませんか」 「ホホホそれじゃ読んで下さい」 「英語でですか」 「いいえ日本語で」 「英語を日本語で読むのはつらいな」 「いいじゃありませんか、非人情で」 これも一興だろうと思ったから、余は女の乞に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。聴く女ももとより非人情で聴いている。 「情けの風が女から吹く。声から、眼から、肌から吹く。男に扶けられて舳に行く女は、夕暮のヴェニスを眺むるためか、扶くる男はわが脈に稲妻の血を走らすためか。――非人情だから、いい加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」 「よござんすとも。御都合次第で、御足しなすっても構いません」 「女は男とならんで舷に倚る。二人の隔りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」 「ドージとは何です」 「何だって構やしません。昔しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」 「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」 「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」 「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」 「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵になってしまうです」 「ホホホホじゃ聴きますまい」 「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣がない」 「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」 「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石の空のなかに円き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳えたる鐘楼が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺ぐ海は泡を濺がず。男は女の手を把る。鳴りやまぬ弦を握った心地である。……」 「あんまり非人情でもないようですね」 「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭なら少々略しましょうか」 「なに私は大丈夫ですよ」 「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」 「読みにくければ、御略しなさい」 「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜を重ねてこそと云う」 「女が云うんですか、男が云うんですか」 「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語なんです。――真夜中の甲板に帆綱を枕にして横わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確と把りたる瞬時が大濤のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強いられたる結婚の淵より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉ずる。――」 「女は?」 「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様である。攫われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」 「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」 「え?」 轟と音がして山の樹がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端に、机の上の一輪挿に活けた、椿がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝を崩して余の机に靠りかかる。御互の身躯がすれすれに動く。キキーと鋭どい羽摶をして一羽の雉子が藪の中から飛び出す。 「雉子が」と余は窓の外を見て云う。 「どこに」と女は崩した、からだを擦寄せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸が余の髭にさわった。 「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居を正しながら屹と云う。 「無論」と言下に余は答えた。 岩の凹みに湛えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍く揺いている。地盤の響きに、満泓の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、砕けた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影を していた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。しかしどう変化してもやはり明らかに桜の姿を保っているところが非常に面白い。 「こいつは愉快だ。奇麗で、変化があって。こう云う風に動かなくっちゃ面白くない」 「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」 「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」 「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」 「あなた、だって嫌な方じゃありますまい。昨日の振袖なんか……」と言いかけると、 「何か御褒美をちょうだい」と女は急に甘えるように云った。 「なぜです」 「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」 「わたしがですか」 「山越をなさった画の先生が、茶店の婆さんにわざわざ御頼みになったそうで御座います」 余は何と答えてよいやらちょっと挨拶が出なかった。女はすかさず、 「そんな忘れっぽい人に、いくら実をつくしても駄目ですわねえ」と嘲けるごとく、恨むがごとく、また真向から切りつけるがごとく二の矢をついだ。だんだん旗色がわるくなるが、どこで盛り返したものか、いったん機先を制せられると、なかなか隙を見出しにくい。 「じゃ昨夕の風呂場も、全く御親切からなんですね」と際どいところでようやく立て直す。 女は黙っている。 「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」と出来るだけ先へ出て置く。いくら出ても何の利目もなかった。女は何喰わぬ顔で大徹和尚の額を眺めている。やがて、 「竹影払階塵不動」 と口のうちで静かに読み了って、また余の方へ向き直ったが、急に思い出したように、 「何ですって」 と、わざと大きな声で聞いた。その手は喰わない。 「その坊主にさっき逢いましたよ」と地震に揺れた池の水のように円満な動き方をして見せる。 「観海寺の和尚ですか。肥ってるでしょう」 「西洋画で唐紙をかいてくれって、云いましたよ。禅坊さんなんてものは随分訳のわからない事を云いますね」 「それだから、あんなに肥れるんでしょう」 「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」 「久一でしょう」 「ええ久一君です」 「よく御存じです事」 「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが嫌な人ですね」 「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」 「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」 「ホホホホそうですか。あれは私しの従弟ですが、今度戦地へ行くので、暇乞に来たのです」 「ここに留って、いるんですか」 「いいえ、兄の家におります」 「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」 「御茶より御白湯の方が好なんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。麻痺が切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」 「あなたはどこへいらしったんです。和尚が聞いていましたぜ、また一人散歩かって」 「ええ鏡の池の方を廻って来ました」 「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」 「行って御覧なさい」 「画にかくに好い所ですか」 「身を投げるに好い所です」 「身はまだなかなか投げないつもりです」 「私は近々投げるかも知れません」 余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。 「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」 「え?」 「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑った。茫然たる事多時。
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