五
伯父はその晩ずっと睡り続けた。次の日の昼頃、ひょいと眼をあけたが、何も認めることが出来ないようであった。空をみつめた眼玉をぐるりと一廻転させると、すぐにまた、瞼を閉じた。そしてそのまま、微かな寝息を立てて、眠り続けた。 その晩八時頃、三造が風呂にはいっていると、すぐ外の廊下を食堂(洗足の伯父の家は半ば洋風になっていた)から、伯父の病室の方へバタバタ四、五人の急ぎ足のスリッパの音が聞えた。彼は「はっ」と思ったが、どうせ睡眠状態のままなのだから、と、そう考えて、身体を洗ってから、廊下へ出た。病室へはいると、昼間の姿勢のままにねている伯父を真中にして、その日、朝からこの家につめかけていた四人の親戚たちやこの家の家族たちが、大方黙って下を向いていた。彼が障子をあけてはいっても誰も振向かない。彼らの環の中にはいって座を占め、伯父の顔を眺めた。かすかな寝息ももう聞えなかった。彼はしばらく見ていた。が、何の感動も起らなかった。突然、笑い声のような短く高い叫びが、彼の一人おいて隣から起った。それは二、三年前女学校を出たこの家の娘であった。彼女はハンケチで顔をおおって深く下を向いたまま、小刻みに肩のあたりを顫わせている。この従妹が三日ほど前、水の飲ませ方が悪いと言って、ひどく伯父から叱られて泣いていたのを三造は思い出した。 棺は翌朝来た。それまでに伯父の身体はすっかり白装束に着換えさせられていた。元来小柄な伯父の、経帷子を着て横たわった姿は、ちょうど、子供のようであった。その小さな身体の上部を洗足の伯父が持ち、下を看護婦が支えて、白木の棺に入れた時、三造は、こんな小さな痩せっぽちな伯父がこれから一人ぼっちで棺の中に入らなければならないのかと思って、ひどく傷々しい気がした。それは、哀れ、とよりほか言いようのない気持であった。小さな枕どもに埋まって、ちょこんと小さく寝ている伯父を見ている中に、その痩せた白い身体の中が次第に透きとおって来て、筋や臓腑がみんな消えてしまい、その代りに何ともいえない哀れさ寂しさがその中に一杯になってくるように思われた。敬われはしたかも知れないが竟に誰にも愛されず、孤独な放浪の中に一生を送った伯父の、その生涯の寂しさと心細さとが、今、この棺桶の中に一杯になって、それが、ひしひしと三造の方まで流れ出して来るかのように思われるのであった。昔、自分と一緒に猫を埋めた時の伯父の姿や、昨夜、薬をのむ前に「お前にも色々世話になった。」と言った伯父の声が(低い、嗄れた声がそのまま)三造の頭の奥をちらりと掠めて過ぎた。突然、熱いものがグッと押上げて来、あわてて手をやるひまもなく、大粒の涙が一つポタリと垂れた。彼は自分で吃驚しながら、また、人に見られるのを恥じて、手の甲で頻りに拭った。が、拭っても拭っても、涙は止まらなかった。彼は自分の不覚が腹立たしく、下を向いたまま廊下へ出ると、下駄をひっかけて庭へ下りて行った。六月の中旬のことで、庭の隅には丈の高い紅と白とのスウィートピイが美しく簇り咲いていた。花の前に立って、三造は、しばらく涙の涸くのを待った。
六
伯父の遺稿集の巻末につけた、お髯の伯父の跋によれば、死んだ伯父は「狷介ニシテ善ク罵リ、人ヲ仮ス能ハズ。人マタ因ツテ之ヲ仮スコトナシ。大抵視テ以テ狂トナス。遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイフ。」とある。従って、その遺稿集は、『斗南存稾』と題されている。この『斗南存稾』を前にしながら、三造は、これを図書館へ持って行ったものか、どうかと頻りに躊躇している。(お髯の伯父から、これを帝大と一高の図書館へ納めるように、いいつけられているのである。)図書館へ持って行って寄贈を申し出る時、著者と自分との関係を聞かれることはないだろうか? その時「私の伯父の書いたものです」と、昂然と答えられるだろうか? 書物の内容の価値とか、著者の有名無名とかいうことでなしに、ただ、「自分の伯父の書いたものを、得々として自分が持って行く」という事の中に、何か、おしつけがましい、図々しさがあるような気がして、神経質の三造には、堪えられないのである。が、また、一方、伯父が文名嘖々たる大家ででもあったなら、案外、自分は得意になって持って行くような軽薄児ではないか、とも考えられる。三造は色々に迷った。とにかく、こんな心遣が多少病的なものであることは、彼も自分で気がついている。しかし、自己的な虚栄的なこういう気持を、別に、死んだ伯父に対して済まないとは考えない。ただ、この書の寄贈を彼に託した親戚や家人たちが、この気持を知ったら烈しく責めるだろうと思うのである。 だが、結局彼は、それを図書館に納めることにした。生前、伯父に対してほとんど愛情を抱かなかった罪ほろぼしという気持も、少しは手伝ったのである。実際、近頃になっても伯父について思出すことといえば、大抵、伯父にとって意地の悪い事柄ばかりであった。死ぬ一月ばかり前に、伯父が遺言のようなものを予め書いた。「勿葬、勿墳、勿碑。」(葬式を出すな。墓に埋めるな。碑を立てるな。)これを死後、新聞の死亡通知に出した時、「勿墳」が誤植で、「勿憤」になっていた。一生を焦躁と憤懣との中に送った伯父の遺言が、皮肉にも、憤る勿れ、となっていたのである。三造の思出すのは大抵このような意地の悪いことばかりだった。ただ、一、二年前と少し違って来たのは、ようやく近頃になって彼は、当時の伯父に対する自分のひねくれた気持の中に「余りに子供っぽい性急な自己反省」と、「自分が最も嫌っていたはずの乏しさ」とを見るようになったことである。 彼は、軽い罪ほろぼしの気持で『斗南存稾』を大学と高等学校の図書館に納めることにした。但し、神経の浪費を防ぐために、郵便小包で送ろうと考えたのである。図書館に納めることが功徳になるか、どうかすこぶる疑問だな、などと思いながら、彼は、渋紙を探して小包を作りにかかった。
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右の一文は、昭和七年の頃、別に創作のつもりではなく、一つの私記として書かれたものである。十年経つと、しかし、時勢も変り、個人も成長する。現在の三造には、伯父の遺作を図書館に寄贈するのを躊躇する心理的理由が、もはや余りにも滑稽な羞恥としか映らない。十年前の彼は、自分が伯父を少しも愛していないと、本気で、そう考えていた。人間は何と己れの心の在り処を自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はない。 伯父の死後七年にして、支那事変が起った時、三造は始めて伯父の著書『支那分割の運命』を繙いて見た。この書はまず袁世凱・孫逸仙の人物月旦に始まり、支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対する買被り的同情(この書は大正元年十月刊行。従ってその執筆は民国革命進行中だったことを想起せねばならぬ)を嗤い、一転して、当時の世界情勢、就中欧米列強の東亜侵略の勢を指陳して、「今や支那分割の勢既に成りて復動かすべからず。我が日本の之に対する、如何にせば可ならん。全く分割に与らざらんか。進みて分割に与らんか」と自ら設問し、さて前説が我が民族発展の閉塞を意味するとせば、勢い、欧米諸国に伍して進んで衡を中原に争わねばならぬものの如く見える。しかしながら、この事たる、究極よりこれを見るに「黄人の相食み相闘ふもの」に他ならず、「たとひ我が日本甘んじて白人の牛後となり、二三省の地を割き二三万方里の土地四五千万の人民を得るも、何ぞ黄人の衰滅に補あらん。又何ぞ白人の横行を妨げん。他年煢々孤立、五洲の内を環顧するに一の同種の国なく一の唇歯輔車相倚り相扶くる者なく、徒らに目前区々の小利を貪りて千年不滅の醜名を流さば、豈大東男児無前の羞に非ずや。」という。則ち分割のこと、これに与るも不利、与らざるも不利、然らばこれに対処するの策なきか。曰く、あり。しかも、ただ一つ。即ち日本国力の充実これのみ。「もし我をして絶大の果断、絶大の力量、絶大の抱負あらしめば、我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火塗炭の中に救はんのみ。蓋し大和民族の天職は殆ど之より始まらんか。」思うに「二十世紀の最大問題はそれ殆ど黄白人種の衝突か。」而して、「我に後来白人を東亜より駆逐せんの絶大理想あり。而して、我が徳我が力能く之を実行するに足らば」則ち始めて日本も救われ、黄人も救われるであろうと。そうして伯父は当時の我が国内各方面について、他日この絶大実力を貯うべき備ありやを顧み、上に聖天子おわしましながら有君而無臣を慨き、政治に外交に教育に、それぞれ得意の辛辣な皮肉を飛ばして、東亜百年のために国民全般の奮起を促しているのである。 支那事変に先立つこと二十一年、我が国の人口五千万、歳費七億の時代の著作であることを思い、その論旨の概ね正鵠を得ていることに三造は驚いた。もう少し早く読めば良かったと思った。あるいは、生前の伯父に対して必要以上の反撥を感じていたその反動で、死後の伯父に対しては実際以上の評価をして感心したのかも知れない。 大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦や馬来沖海戦の報を聞いた時も、三造のまず思ったのは、この伯父のことであった。十余年前、鬼雄となって我に寇なすものを禦ぐべく熊野灘の底深く沈んだこの伯父の遺骨のことであった。鯱か何かに成って敵の軍艦を喰ってやるぞ、といった意味の和歌が、確か、遺筆として与えられたはずだったことを彼は思出し、家中捜し廻って、ようやくそれを見付け出した。既に湿気のためにぐにゃぐにゃになった薄樺色地の二枚の色紙には、瀕死の病者のものとは思われない雄渾な筆つきで、次のような和歌がしたためられていた。
あが屍野にな埋みそ黒潮の逆まく海の底になげうて
さかまたはををしきものか熊野浦寄りくるいさな討ちてしやまむ
●表記について
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- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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