毎我出門挽吾衣 翁々此去復何時 今日睦児出門去 千年万年終不帰
睦子とはその妹の名である。三造には漢詩の巧拙は分らなかった。従って伯父の詩で記憶しているのもほとんどないのであるが、今、次のようなのがあったのを、ひょっと思い出した。その冗談めいた自嘲の調子が彼の注意を惹いたものであろうか。
悪詩悪筆 自欺欺人 億千万劫 不免蛇身
口の中で、しばらくこれを繰返しながら、三造は自然に不快な寒けを感じてきた。何故か知らぬが、詩の全体の意味からはまるで遊離した「不免蛇身」という言葉だけが、三造を妙におびやかしたのである。彼自身も、この伯父のように、一生何ら為すなく、自嘲の中に終らねばならぬかも知れぬというような予感からではなかった。それはもっと会体のしれない、気味の悪い不快さであった。眼をつぶったまま揺られつづけている伯父を、暗い車燈の下に眺めながら、彼は「この世界で冗談にいったことも別の世界では決して冗談ではなくなるのだ」という気がした。(そのくせ、彼はふだん決して他の世界の存在など信じてはいないのだが)すると、伯父の詩の蛇身という言葉が、蛇身という文字がそのまま生きてきて、グニャグニャと身をくねらせて車室の空気の中を匍いまわっているような気持さえしてくるのであった。
翌朝、大阪駅から乗ったタクシイの中で――従姉の家は八尾にあった――三造はそっと自分の蟇口をのぞいて見た。前日の夕方、松田駅で、切符を買うとき「ちょっと、今、一緒に出して置いてくれ」と伯父に言われて、立替えて置いた金のことを、伯父はもうすっかり忘れてしまったと見えて、いまだに何ともいい出さないのである。車に揺られて、ゴミゴミした大阪の街中を通りながら、またこの車賃も払わせられるのかと、彼は観念していた。そうなると洗足の伯父から貰ってきた金では、帰りの汽車賃があぶなくなるのである。どうせ従姉に借りれば済むことではあるが、とにかく近頃の伯父の忘れっぽさには呆れない訳には行かなかった。それに、冗談にも催促がましいことでも口にしようものなら大変なのだから、全く、ひどい目に逢うものだと三造は思った。車が次第に郊外らしいあたりにはいって行った時、しかし、伯父は、突然自分の財布を出して五円紙幣を一枚抜き出した。明らかに、今度は自分で払うつもりに違いない。三造は、ちょっと助かったような気がしたけれど、それにしても財布まで出しながら、まだ、昨夕の汽車賃のことを思い出さないのは変だと思った。車はやがて八尾の町にはいって、しばらくすると、伯父は、そこで車を停めさせて、どうも此処らしいから下りて見るといった。三造は初めてであるし、伯父もまだ二度目なのではっきり分らないのである。三造を車内に残して、ひとり下りた伯父は、紙幣を一枚、右の人差指と中指の間にはさんだまま、あまり確かでない足どりで、往来から十間ほどひっこんだ路次にはいって行った。そして、突当りの格子戸の上の標札を読むと、病人のわりにかなり大きな声で「ああ、ここだ。ここだ」といって、彼の方を向いて手招きをした。それからそのまま――紙幣を指の間にはさんだまま――格子をあけて、すうっとはいってしまったのである。どうにも仕方がなかった。三造は苦笑しながら、またしても四円なにがしのタクシイ代を払った。
伯父を送りとどけると、三造はほっと荷を下した気になって、すぐに、ひとりで京都へ遊びに出かけた。京都には、この春、京都大学にはいった高等学校の友人がいた。二日ほど、その友人の下宿に泊って遊んでから、八尾の従姉の家に帰ると、玄関へ出て来た従姉が小声で彼に告げた。三ちゃんが黙って遊びに行ってしまったって大変御機嫌が悪いから、早く行って大人しくあやまっていらっしゃいと言うのである。昨日は大変元気で鯛の刺身を一人で三人前も喰べたのはいいが、そのおかげで昨夕は何度も嘔吐や腸出血らしいのがあったのだとも言った。何しろ医者を寄付けようとしないので従姉も困っているらしかった。二階へ上って行くと、果して、伯父は大きな枕の中から顔を此方へ向け、黙ってじろりと彼を睨んだ。それから突然、掃除をしろと言い出した。彼が、座敷の隅にかかっていた座敷箒を取ろうとすると、まず、自分の寝ている床の上から掃かなけりゃいけないと言う。小さな棕櫚の手箒で蒲団の上を、それから座敷箒で、その部屋と隣の部屋まで、とうとう三造はすっかり二階中掃除させられてしまった。それが終ると、大分伯父も気が済んだようであったが、それでも、まだ「お前は病人を送るために来たのだか、自分の遊びのために来たのだか分らない」などと言った。その晩、三造は早々に東京へ帰った。
三
二週間ほどして、伯父は八尾の姪の夫に送られて東京へ帰って来た。何のために大阪へ行ったのか、訳が分らない位であった。恐らく伯父も既に死を覚ったのであろう。そうして同じ死ぬならば、やはり自分の生れた東京で死にたかったのであろう。三造が電話でしらせを受取ってすぐに高樹町の赤十字病院に行った時、伯父はひどく彼を待兼ねていた様子であった。一生竟に家庭を持たなかった伯父は、数ある姪や甥たちの中でも特に三造を愛していたように見えた。殊に、彼の学校の成績の比較的良い点に信頼していたようであった。三造がまだ中学の二年生だった時分、同じく二年生だった彼の従兄の圭吉と二人で、伯父の前で、将来自分たちの進む学校について話し合ったことがあった。その時、二人とも中学の四年から高等学校へ進む予定で、そのことを話していると、それを聞いていた伯父が横から、「三造は四年からはいれるだろうが、圭吉なんか、とても駄目さ」と言った。三造は、子供心にも、思い遣りのない伯父の軽率を、許しがたいものに思い、まるで自分が圭吉を辱しめでもしたかのような「すまなさ」と「恥ずかしさ」とを感じ、しばしは、顔を上げられない位であった。それから二年余りも経って、駄目だと言われた圭吉も、三造と共に四年から高等学校にはいった時、三造は、まだ、かつての伯父の無礼を執念深く覚えていて、それに対する自分の復讐が出来たような嬉しさを感じたのであった。 赤十字病院の病室には、洗足の伯父と渋谷の伯父(これは、例のお髯の伯父と洗足の伯父の間の伯父であった。その頃遠く大連にいた三造の父は、十人兄弟の七番目であった。)とが来ていた。もちろん、附添や看護婦もいた。三造がはいって行くと、伯父は寝顔を此方へ向けて、真先に、ちょうどその頃神宮外苑で行われていた極東オリンピックのことを彼に訊ねた。そして、陸上競技で支那が依然無得点であることを彼の口から確かめると、我が意を得たというような調子で、「こういうような事でも、やはり支那人は徹底的に懲して置く必要がある」と呟いた。それから、その日の新聞の支那時局に関する所を三造に読ませて、じっと聞いていた。伯父は、人間の好悪が甚だしく、気に入らない者には新聞も読ませないのである。
次に三造が受取った伯父についての報知は、いよいよ胃癌で到底助かる見込の無いことを伯父自身に知らせたということ――それは、もうずっと以前から分っていたことだが、病人の請うままにそれを告げてよいか、どうかを医者が親戚たちに計った時、伯父の平生の気質から推して、本当のことをはっきり言ってしまった方がかえって落著いた綺麗な往生が遂げられるだろうと、一同が答えたのであるという。――そして、どうせ助からないなら病院よりは、というので、洗足の家へ引移ったということであった。なお、その親戚の一人からの手紙には、「助かる見込のない事を宣告された時の伯父は、実に従容としていて、顔色一つ変えなかった」と附加えてあった。英雄の最後でも画くようなそういう書きっぷりにはいささか辟易したが、とにかく三造はすぐに洗足の伯父の家へ行った。そうして、ずっと其処に寝泊りして最後まで附添うことにした。 病気が進むにつれ、人に対する好悪がますますひどくなり側に附添うことを許されるのは、三造の他四、五人しかいなかった。その四、五人にも、伯父は絶えず何か小言を言続けていた。田舎からわざわざ見舞に来た三造の伯母――伯父の妹――などは、何か気に入らぬことがあるとて、病室へも通されなかった。三造にとって一番たまらないのは、伯父が看護婦を罵ることであった。看護婦には、伯父の低声の早口が聞きとれないのである。それを伯父は、少しも言うことを聞かぬ女だ、といって罵った。或時は、三造に向って看護婦の面前で、「看護婦を殴れ。殴っても構わん」などと、憤怒に堪えかねた眼付で、しわ嗄れた声を絞りながら叫んだ。利かない上体を、心持、枕から浮かすように務めながら目をけわしくして、衰えた体力を無理にふりしぼるように罵っている伯父の姿は全く悲惨であった。そういう時、最初の看護婦は、――その女は二日ほどいたが堪えられずに帰ってしまった――後を向いて泣出し、二度目の看護婦は不貞腐れて外っ方を向いていた。三造は、どうにもやり切れぬ傷ましい気持になりながら、何とも手の下しようが無かった。 病人の苦痛は極めて激しいもののようであった。食物という食物は、まるで咽喉に通らないのである。「天ぷらが喰べたい」と伯父が言出した。何処のが良い? と聞くと「はしぜん」だという。親戚の一人が急いで新橋まで行って買って来た。が、ほんの小指の先ほど喰べると、もうすぐに吐出してしまった。まる三週間近く、水の他何にも摂れないので、まるで生きながら餓鬼道に堕ちたようなものであった。例の気象で、伯父はそれを、目をつぶってじっと堪えようとするのである。時として、堪えに堪えた気力の隙から、かすかな呻きが洩れる。瞑った眼の周囲に苦しそうな深い皺を寄せ、口を堅く閉じ、じっとしていられずに、大きな枕の中で頭をじりじり動かしている。身体には、もうほんの少しの肉も残されていない。意識が明瞭なので、それだけ苦痛が激しいのである。筋だらけの両の手の指を硬くこわばらせ、その指先で、寝衣の襟から出たこつこつの咽喉骨や胸骨のあたりを小刻みに顫えながら押える。その胸の辺が呼吸と共に力なく上下するのを見ていると、三造にも伯父の肉体の苦痛が蔽いかぶさって来るような気がした。しまいに、伯父は、薬で殺してくれと言出した。医者は、それは出来ないと言った。だが、苦痛を軽くするために、死ぬまで、薬で睡眠状態を持続させて置くことは許されるだろう、と附加えた。結局、その手段が採られることになった。いよいよその薬をのむという前に、三造は伯父に呼ばれた。側には、ほかに伯父の従弟に当る男と、及び、伯父の五十年来の友人であり弟子でもある老人とがいた。伯父は扶けられて、やっと蒲団の上に起きて坐り、夜具を三方に高く積ませて、それに凭って辛うじて身を支えた。伯父は側にいる三人の名を一人一人呼んで床の上に来させ、その手を握りながら、別れの挨拶をした。伯父が握手をするのはちょっと不思議であったが、恐らく、それがその時の伯父には最も自然な愛情の表現法だったのであろう。三造は、他の二人の握手を見ながら、多少の困惑を交えた驚きを感じていた。最後に彼が呼ばれた。彼が近づくと、伯父は真白な細く堅い手を彼の掌に握らせながら、「お前にも色々厄介を掛けた」と、とぎれとぎれの声で言った。三造は眼を上げて伯父の顔を見た。と、静かに彼を見詰めている伯父の視線にぶっつかった。その眼の光の静かな美しさにひどく打たれ、彼は覚えず伯父の手を強く握りしめた。不思議な感動が身体を顫わせるのを彼は感じた。 それから伯父はその薬を飲み、やがて寝入ってしまった。三造はその晩ずっと、眠続けている伯父の側について見守った。一時の感動が過ぎると、彼には先刻の所作が――また、それに感動させられた自分が少々気羞しく思出されて来る。彼はそれを忌々しく思い、その反動として、今度は、伯父の死についてあくまで冷静な観察をもち続けようとの心構を固めるのである。青い風呂敷で電燈を覆ったので、部屋は海の底のような光の中に沈んでいる。そのうす暗さの真中にぼんやり浮かび上った端正な伯父の寝顔には、もはや、先刻までの激しい苦痛の跡は見られないようである。その寝顔を横から眺めながら、彼は伯父の生涯だの、自分との間の交渉だの、また病気になる前後の事情だのを色々と思いかえして見る。突然、ある妙な考えが彼の中に起って来た。「こうして伯父が寝ている側で、伯父の性質の一つ一つを意地悪く検討して行って見てやろう。感情的になりやすい周囲の中にあって、どれほど自分は客観的な物の見方が出来るか、を試すために」と、そういう考えが起って来たのである。(若い頃の或る時期には、全く後から考えると汗顔のほかは無い・未熟な精神的擬態を採ることがあるものだ。この場合も明らかにその一つだった。)その子供らしい試みのために彼は、携帯用の小型日記を取り出し、暗い電気の下でボツボツ次のような備忘録風のものを書き始めた。書留めて行く中に、伯父の性質の、というよりも、伯父と彼自身との精神的類似に関するとりとめのない考察のようなものになって行った。
四
(一) 彼の意志、(と三造は、まず書いた。) 自分がかつてその下に訓練され陶冶された紀律の命ずる方向に向っては、絶対盲目的に努力し得ること。それ以外のことに対しては全然意志的な努力を試みない。一見すこぶる鞏固であるかに見える彼の意志も、その用いられ方が甚だ保守的であって、全然未知な精神的分野の開拓に向って、それが用いられることは決して無い。 (二) 彼の感情 論理的推論は学問的理解の過程において多少示されるに過ぎず(実はそれさえ甚だ飛躍的なものであるが)、彼の日常生活には全然見られない。行動の動機はことごとく感情から出発している。甚だ理性的でない。その没理性的な感情の強烈さは、時に(本末顛倒的な、)執拗醜悪な面貌を呈する。彼の強情がそれである。が、また、時として、それは子供のような純粋な「没利害」の美しさを示すこともある。 自己、及び自己の教養に対する強い確信にもかかわらず、なお、自己の教養以外にも多くの学問的世界のあることを知るが故に、彼はしばしば(殊に青年たちの前にあって、)それらの世界への理解を示そうとする。――多くの場合、それは無益な努力であり、時に、滑稽でさえある。――しかもこの他の世界への理解の努力は、常に、悟性的な概念的な学問的な範囲にのみ止っていて、決して、感情的に異った世界、性格的に違った人間の世界にまでは及ばないのである。かかる理解を示そうとする努力、――新しい時代に置き去りにされまいとする焦躁――が、彼の表面に現れる最も著しい弱さである。 (ここまで書いて来た三造は、絶えず自分につきまとっている気持――自分自身の中にある所のものを憎み、自身の中に無いものを希求している彼の気持――が、伯父に対する彼の見方に非常に影響していることに気が付き始めた。彼は自分自身の中に、何かしら「乏しさ」のあることを自ら感じていた。そして、それを甚だしく嫌って、すべて、豊かさの感じられる(鋭さなどはその場合、ない方が良かった)ものへ、強い希求を感じていた。この豊かさを求める三造の気持が、伯父自身の中に、――その人間の中に、その言動の一つ一つの中に見出される禿鷹のような「鋭い乏しさ」に出会って、烈しく反撥するのであろう。彼はこんなことを考えながら、書続けて行った。) (三) 移り気 彼の感情も意志も、その儒教倫理(とばかりは言えない。その儒教道徳と、それからやや喰み出した、彼の強烈な自己中心的な感情との混合体である。)への服従以外においては、質的にはすこぶる強烈であるが、時間的には甚だしく永続的でない。移り気なのである。 これには、彼の幼時からの書斎的俊敏が大いにあずかっている。彼が一生ついに何らのまとまった労作をも残し得なかったのはこの故である。決して彼が不遇なのでも何でもない。その自己の才能に対する無反省な過信はほとんど滑稽に近い。時に、それは失敗者の負惜みからの擬態とも取れた。若い者の前では、つとめて、新時代への理解を示そうとしながら、しかも、その物の見方の、どうにもならない頑冥さにおいて、宛然一個のドン・キホーテだったのは悲惨なことであった。しかも、彼が記憶力や解釈的思索力(つまり東洋的悟性)において異常に優れており、かつ、その気質は最後まで、我儘な、だが没利害的な純粋を保っており、また、その気魄の烈しさが遥かに常人を超えていたことが一層彼を悲惨に見せるのである。それは、東洋がいまだ近代の侵害を受ける以前の、或る一つのすぐれた精神の型の博物館的標本である。………… (このような批判を心の中に繰返しながら、三造は、こう考えている自分自身の物の見方が、あまりに生温い古臭いものであることに思い及ばないわけには行かなかった。伯父の一つの道への盲信を憐れむ(あるいは羨む)ことは、同時に自らの左顧右眄的な生き方を表白することになるではないか。して見れば彼自らも、伯父と同様、新しい時代精神の予感だけはもちながら、結局、古い時代思潮から一歩も出られない滑稽な存在となるのでないか。(ただ、それは伯父と比べて、半世紀だけ時代をずらしたにすぎない。)伯父のようになるであろうと言った彼の従姉の予言があたることになるではないか。…………) 彼は少々忌々しくなって、文章を続ける気がしなくなり、今度は表のようなものをこしらえるつもりで、日記帖の真中に横に線を引き、上に、伯父から享けたもの、と書き、下に、伯父と反対の点と書いた。そうして伯父と自分との類似や相違を其処に書き入れようとしたのである。 伯父から享けたものとしては、まず、その非論理的な傾向、気まぐれ、現実に疎い理想主義的な気質などが挙げられると、三造は考えた。穿ったような見方をするようでいて、実は大変に甘いお人好しである点なども、その一つであろう。三造も時に他人から記憶が良いと言われることがあるが、これも伯父から享けたものかも知れない。肉体的にいえば、伯父のはっきりした男性的な風貌に似なかったことは残念だったが、顱頂の極めてまん円な所(誰だって大体は円いに違いないが、案外でこぼこがあったり、上が平らだったり、後が絶壁だったりするものだ。)だけは、確かに似ている。しかし、伯父との間に最も共通した気質は何だろう。あるいは、二人ともに、小動物、殊に猫を愛好する所がそれかも知れぬ、と、三造は気が付いた。一つの情景が今三造の眼の前に浮んで来る。何でも夏の夕方で、彼はまだ小学校の三年生位である。次第に暮れて行く庭の隅で、彼が小さなシャベルで土を掘っている側に、伯父が小刀で白木を削っている。二人が共に非常に可愛がっていた三毛猫が何処かで猫イラズでも喰べたらしく、その朝、外から帰って来ると、黄色い塊を吐いて、やがて死んでしまった。その墓を二人はこしらえているのである。土が掘れると、猫の死骸を埋め、丁寧に土をかけて、伯父がその上に、白木の印を立てる。黄色く暮れ残った空に蚊柱の廻る音を聞きながら、三造はその前にしゃがんで手を合わせる。伯父は彼の後に立って、手の土を払いながら、黙ってそれを見ている。
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