眞晝
目がさめた。ウーンと、睡り足りた後の快い伸びをすると、手足の下、背中の下で、砂が――眞白な花珊瑚の屑がサラ/\と輕く崩れる。汀から二間と隔たらない所、大きなタマナ樹の茂みの下、濃い茄子色の影の中で私は晝寢をしてゐたのである。頭上の枝葉はぎつしりと密生んでゐて、葉洩日も殆ど落ちて來ない。 起上つて沖を見た時、青鯖色の水を切つて走る朱の三角帆の鮮やかさが、私の目をハツキリと醒めさせた。その帆掛獨木舟は、今丁度外海から堡礁の裂目にさしかかつた所だつた。陽射しの工合から見れば、時刻は午を少しつたところであらう。 煙草を一服つけ、又、珊瑚屑の上に腰を下す。靜かだ。頭上の葉のそよぎと、ピチヤリ/\と舐めるやうな渚の水音の外は、時たま堡礁の外の濤の音が微かに響くばかり。 期限付の約束に追立てられることもなく、又、季節の繼ぎ目といふものも無しに、たゞ長閑にダラ/\と時が流れて行く此の島では、浦島太郎は決して單なるお話ではない。唯此の昔語の主人公が其の女主人公に見出した魅力を、我々が此の島の肌黒く逞しい少女共に見出し難いだけのことだ。一體、時間といふ言葉が此の島の語彙の中にあるのだらうか? 一年前、北方の冷たい霧の中で一體自分は何を思ひ惱んでゐたやら、と、ふと私は考へた。何か、それは遠い前の世の出來事ででもあるやうに思はれる。肌に浸みる冬の感覺も最早生々しく記憶の上に再現することが不可能だ。と同樣に、曾て北方で己を責めさいなんだ數々の煩ひも、單なる事柄の記憶にとどまつて了ひ、快い忘却の膜の彼方に朧ろな影を殘してゐるに過ぎない。 では、自分が旅立つ前に期待してゐた南方の至福とは、これなのだらうか? 此の晝寢の目醒めの快さ、珊瑚屑の上での靜かな忘却と無爲と休息となのだらうか? 「いや」とハツキリそれを否定するものが私の中にある。「いや、さうではない。お前が南方に期待してゐたものは、斯んな無爲と倦怠とではなかつた筈だ。それは、新しい未知の環境の中に己を投出して、己の中にあつて未だ己の知らないでゐる力を存分に試みることだつたのではないのか。更に又、近く來るべき戰爭に當然戰場として選ばれるだらうことを豫想しての冒險への期待だつたのではないか。」 さうだ。たしかに。それだのに、其の新しい・きびしいものへの翹望は、何時か快い海軟風の中へと融け去つて、今は唯夢のやうな安逸と怠惰とだけが、懶く怡しく何の悔も無く、私を取り圍んでゐる。 「何の悔も無く? 果して、本當に、さうか?」と、又先刻の私の中の意地の惡い奴が聞く。「怠惰でも無爲でも構はない。本當にお前が何の悔も無くあるならば。人工の・歐羅巴の・近代の・亡靈から完全に解放されてゐるならばだ。所が、實際は、何時何處にゐたつてお前はお前なのだ。銀杏の葉の散る神宮外苑をうそ寒く歩いてゐた時も、島民共と石燒のパンの實にむしやぶりついてゐる時も、お前は何時もお前だ。少しも變りはせぬ。ただ、陽光と熱風とが一時的な厚い面被を一寸お前の意識の上にかぶせてゐるだけだ。お前は今、輝く海と空とを眺めてゐると思つてゐる。或ひは島民と同じ目で眺めてゐると自惚れてゐるのかも知れぬ。とんでもない。お前は實は、海も空も見てをりはせぬのだ。たゞ空間の彼方に目を向けながら心の中で Elle est retrouve! ―― Quoi? ―― L'Eternit. C'est la mer mle au soleil.(見付かつたぞ! 何が? 永遠が。陽と溶け合つた海原が)と呪文のやうに繰返してゐるだけなのだ。お前は島民をも見てをりはせぬ。ゴーガンの複製を見てをるだけだ。ミクロネシアを見てをるのでもない。ロティとメルヴィルの畫いたポリネシアの色褪せた再現を見てをるに過ぎぬのだ。そんな蒼ざめた殼をくつつけてゐる目で、何が永遠だ。哀れな奴め!」 「いや、氣を付けろよ」と、もう一つの別な聲がする。「未開は決して健康ではないぞ。怠惰が健康でないやうに。謬つた文明逃避ほど危險なものは無い。」 「さうだ」と先刻の聲が答へる。「確かに、未開は健康ではない。少くとも現代では。しかし、それでも、お前の文明よりはまだしも溌剌としてゐはしないか。いや、大體、健康不健康は文明未開といふことと係はり無きものだ。現實を恐れぬ者は、借り物でない・己の目でハツキリ視る者は、何時どのやうな環境にゐても健康なのだ。所が、お前の中にゐる『古代支那の衣冠を着けたいかさま君子』や『ヴォルテエル面をした狡さうな道化』と來たら、どうだ。先生達、今こそ南洋の暑氣に醉つぱらつてよろめいてゐるらしいが、醒めてゐる時の慘めさを思へば、まだしも、醉つてゐる時の方が、ましの樣だな。……」
見慣れぬ殼をかぶつたちつぽけな宿借が三つ四つ私の足許近く迄やつて來たが、人の氣配を感じて立止り、一寸樣子を窺つてから、慌てて又逃げて行つた。 村は今晝寢の時刻らしい。誰一人濱を通らぬ。海も――少くとも堡礁の内側の水だけは――トロリと翡翠色にまどろんでゐるやうだ。時々キラリと眩しく陽を照返すだけで。たまに鯔らしいのが水の上に跳ねるのを見れば、魚類だけは目覺めてゐるらしい。明るい靜かな・華やかな海と空だ。今、此の海の何處かで、半身を生温い水の上に乘出したトリイトンが嚠喨と貝殼を吹いてゐる。何處か、此の晴れ渡つた空の下で、薔薇色の泡からアフロディテが生れかかつてゐる。何處か紺碧の波の間から、甘美なサイレンの歌が賢いイタカ人の王を誘惑しようとしてゐる。……いけない! 又しても亡靈だ。文學、それも歐羅巴文學とやらいふものの蒼ざめた幽靈だ。 舌打をしながら私は立上る。ほろ苦いものが暫くの間心の隅に殘つてゐる。 濕つた渚に踏入ると、無數のやどかり共、青と赤の玩具のやうな小蟹共が一齊に逃げ出す。五寸程芽の出掛かつた椰子の實の落ちてゐるのを蹴飛ばすと、水の中にころげ入つてボチヤンと音を立てる。 さういへば、昨夜、奇妙なことがあつた。島民家屋の丸竹を竝べた床の上に、薄いタコの葉の呉蓙を一枚敷いて寢てゐた時、私は、突然、何の連絡も無く、東京の歌舞伎座の、(それも舞臺ではなく)みやげもの屋(あられや飴や似顏繪やブロマイド等を賣る)の明るい華美な店先と、其の前を行き交ふ着飾つた人波とを思出したのだ。役者の家の紋を散らした派手な箱や罐や手拭や、俳優の似顏の目の隈取りや、それを照らす白い強い電燈の光や、それに見入る娘達や雛妓等の樣子迄もはつきり、彼女等の髮油の匂までもありありと、浮かんで來た。私は、歌舞伎劇そのものも餘り好きではない。みやげもの屋などに何の興味も無い筈である。何故、こんな意味も内容も無い東京生活の薄つぺらな一斷面が、太平洋の濤に圍まれた小さな島の・椰子の葉で葺いた土民小舍の中で、家の周圍にズシンと落ちる椰子の實の音を聞いてゐる時に、突然思出されたものか。私には皆目判らぬ。とにかく、私の中には色んな奇妙な奴等がゴチヤ/\と雜居してゐるらしい。淺間しい、唾棄すべき奴までが。
海岸のタマナ竝木の蔭のはづれ迄來た時、向ふから陽に灼けた砂の上を素裸の小さい男の子が駈けて來た。私の前迄來ると、立止つてキチンと足を揃へ、頭が膝の所まで來る程の丁寧なお辭儀をしてから、食事の用意が出來たことを告げた。私の泊つてゐる島民の家の兒で、今年八歳になる。痩せた・目の大きい・腹ばかり出た・糜爛性腫瘍だらけの兒である。何か御馳走が出來たか、と聞けば、兄が先刻カムドゥックル魚を突いて來たから、日本流の刺身に作つたといふ。 少年について一歩日向の砂の上に踏出した時、タマナ樹の梢から眞白な一羽のソホーソホ鳥(島民が斯う呼ぶのは鳴き聲からであるが、内地人は其の形から飛行機鳥と名付けてゐる)が、バタ/\と舞上つて、忽ち、高く眩しい碧空に消えて行つた。
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マリヤン
マリヤンといふのは、私の良く知つてゐる一人の島民女の名前である。 マリヤンとはマリヤのことだ。聖母マリヤのマリヤである。パラオ地方の島民は、凡て發音が鼻にかかるので、マリヤンと聞えるのだ。 マリヤンの年が幾つだか、私は知らない。別に遠慮した譯ではなかつたが、つい、聞いたことがないのである。とにかく三十に間があることだけは確かだ。 マリヤンの容貌が、島民の眼から見て美しいかどうか、之も私は知らない。醜いことだけはあるまいと思ふ。少しも日本がかつた所が無く、又西洋がかつた所も無い(南洋で一寸顏立が整つてゐると思はれるのは大抵どちらかの血が混つてゐるものだ)純然たるミクロネシヤ・カナカの典型的な顏だが、私はそれを大變立派だと思ふ。人種としての制限は仕方が無いが、其の制限の中で考へれば、實にのび/\と屈託の無い豐かな顏だと思ふ。しかし、マリヤン自身は、自分のカナカ的な容貌を多少恥づかしいと考へてゐるやうである。といふのは、後に述べるやうに、彼女は極めてインテリであつて、頭腦の内容は殆どカナカではなくなつてゐるからだ。それにもう一つ、マリヤンの住んでゐるコロール(南洋群島の文化の中心地だ)の町では、島民等の間にあつても、文明的な美の標準が巾をきかせてゐるからである。實際、此のコロールといふ街――其處に私は一番永く滯在してゐた譯だが――には、熱帶でありながら温帶の價値標準が巾をきかせてゐる所から生ずる一種の混亂があるやうに思はれた。最初此の町に來た時はそれ程に感じなかつたのだが、其の後一旦此處を去つて、日本人が一人も住まない島々を經巡つて來たあとで再び訪れた時に、此の事が極めてハツキリと感じられたのである。此處では、熱帶的のものも温帶的のものも共に美しく見えない。といふより、全然、美といふものが――熱帶美も温帶美も共に――存在しないのだ。熱帶的な美を有つ筈のものも此處では温帶文明的な去勢を受けて萎びてゐるし、温帶的な美を有つべき筈のものも熱帶的風土自然(殊に其の陽光の強さ)の下に、不均合な弱々しさを呈するに過ぎない。此の街にあるものは、唯、如何にも植民地の場末と云つた感じの・頽廢した・それでゐて、妙に虚勢を張つた所の目立つ・貧しさばかりである。とにかく、マリヤンは斯うした環境にゐるために、自分の顏のカナカ的な豐かさを餘り欣んでゐないやうに見えた。豐かといへば、しかし、容貌よりも寧ろ、彼女の體格の方が一層豐かに違ひない。身長は五尺四寸を下るまいし、體重は少し痩せた時に二十貫といつてゐた位である。全く、羨ましい位見事な身體であつた。 私が初めてマリヤンを見たのは、土俗學者H氏の部屋に於てであつた。夜、狹い獨身官舍の一室で、疊の代りにうすべりを敷いた上に坐つてH氏と話をしてゐると、窓の外で急にピピーと口笛の音が聞え、窓を細目にあけた隙間から(H氏は南洋に十餘年住んでゐる中に、すつかり暑さを感じなくなつて了ひ、朝晩は寒くて窓をしめずにはゐられないのである。)若い女の聲が「はひつてもいい?」と聞いた。オヤ、この土俗學者先生、中々油斷がならないな、と驚いてゐる中に、扉をあけてはひつて來たのが、内地人ではなく、堂々たる體躯の島民女だつたので、もう一度私は驚いた。「僕のパラオ語の先生」とH氏は私に紹介した。H氏は今パラオ地方の古譚詩の類を集めて、それを邦譯してゐるのだが、其の女は――マリヤンは、日を決めて一週に三日だけ其の手傳ひをしに來るのだといふ。其の晩も、私を側に置いて二人は直ぐに勉強を始めた。 パラオには文字といふものが無い。古譚詩は凡てH氏が島々の故老に尋ねて歩いて、アルファベットを用ひて筆記するのである。マリヤンは先づ筆記されたパラオ古譚詩のノートを見て、其處に書かれたパラオ語の間違を直す。それから、譯しつつあるH氏の側にゐて、H氏の時々の質問に答へるのである。 「ほう、英語が出來るのか」と私が感心すると、「そりや、得意なもんだよ。内地の女學校にゐたんだものねえ」とH氏がマリヤンの方を見て笑ひながら言つた。マリヤンは一寸てれたやうに厚い脣を綻ばせたが、別にH氏の言葉を打消しもしない。 あとでH氏に聞くと、東京の何處とかの女學校に二三年(卒業はしなかつたらしいが)ゐたことがあるのださうだ。「さうでなくても、英語だけはおやぢに教はつてゐたから、出來るんですよ」とH氏は附加へた。「おやぢと云つても、養父ですがね。そら、あの、ウ※[#小書き片仮名ヰ、404-12]リアム・ギボンがあれの養父になつてゐるのですよ。」ギボンと云はれても、私にはあの浩瀚なローマ衰亡史の著者しか思ひ當らないのだが、よく聞くと、パラオでは相當に名の聞えたインテリ混血兒(英人と土民との)で、獨領時代に民俗學者クレエマア教授が調査に來てゐた間も、ずつと通譯として使はれてゐた男だといふ。尤も、獨逸語ができた譯ではなく、クレエマア氏との間も英語で用を足してゐたのださうだが、さういふ男の養女であつて見れば、英語が出來るのも當然である。
私の變屈な性質のせゐか、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出來ず、私の友人といつていいのはH氏の外に一人もゐなかつた。H氏の部屋に頻繁に出入するにつれ、自然、私はマリヤンとも親しくならざるを得ない。 マリヤンはH氏のことををぢさんと呼ぶ。彼女がまだほんの小さい時から知つてゐるからだ。マリヤンは時々をぢさんの所へうちからパラオ料理を作つて來ては御馳走する。その都度、私がお相伴に預かるのである。ビンルンムと稱するタピオカ芋のちまきや、ティティンムルといふ甘い菓子などを始めて覺えたのも、マリヤンのお蔭であつた。
或る時H氏と二人で道を通り掛かりに一寸マリヤンの家に寄つたことがある。うちは他の凡ての島民の家と同じく、丸竹を竝べた床が大部分で、一部だけ板の間になつてゐる。遠慮無しに上つて行くと、其の板の間に小さなテーブルがあつて、本が載つてゐた。取上げて見ると、一册は厨川白村の「英詩選釋」で、もう一つは岩波文庫の「ロティの結婚」であつた。天井に吊るされた棚には椰子バスケットが澤山竝び、室内に張られた紐には簡單着の類が亂雜に掛けられ(島民は衣類をしまはないで、ありつたけだらしなく干物のやうに引掛けておく)竹の床の下に共の鳴聲が聞える。室の隅には、マリヤンの親類でもあらう、一人の女がしどけなく寢ころんでゐて、私共がはひつて行くと、うさん臭さうな目を此方に向けたが、又其の儘向ふへ寢返りを打つて了つた。さういふ雰圍氣の中で、厨川白村やピエル・ロティを見付けた時は、實際、何だかへんな氣がした。少々いたましい氣がしたといつてもいい位である。尤も、それは、其の書物に對して、いたましく感じたのか、それともマリヤンに對していた/\しく感じたのか、其處迄はハツキリ判らないのだが。 其の「ロティの結婚」に就いては、マリヤンは不滿の意を洩らしてゐた。現實の南洋は決してこんなものではないといふ不滿である。「昔の、それもポリネシヤのことだから、よく分らないけれども、それでも、まさか、こんなことは無いでせう」といふ。 部屋の隅を見ると、蜜柑箱の樣なものの中に、まだ色々な書物や雜誌の類が詰め込んであるやうだつた。その一番上に載つてゐた一册は、たしか(彼女が曾て學んだ東京の)女學校の古い校友會雜誌らしく思はれた。 コロールの街には岩波文庫を扱つてゐる店が一軒も無い。或る時、内地人の集まりの場所で、偶私が山本有三氏の名を口にしたところ、それはどういふ人ですと一齊に尋ねられた。私は別に萬人が文學書を讀まねばならぬと思つてゐる次第ではないが、とにかく、此の町は之程に書物とは縁の遠い所である。恐らく、マリヤンは、内地人をも含めてコロール第一の讀書家かも知れない。
マリヤンには五歳になる女の兒がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのださうである。それも、彼が度外れた嫉妬家であるとの理由で。斯ういふとマリヤンが如何にも氣の荒い女のやうだが、――事實また、どう考へても氣の弱い方ではないが――之には、彼女の家柄から來る・島民としての地位の高さも、考へねばならぬのだ。彼女の養父たる混血兒のことは前に一寸述べたが、パラオは母系制だから、之はマリヤンの家格に何の關係も無い。だが、マリヤンの實母といふのが、コロールの第一長老家イデイヅ家の出なのだ。つまり、マリヤンはコロール島第一の名家に屬するのである。彼女が今でもコロール島民女子青年團長をしてゐるのは、彼女の才氣の外に、此の家柄にも依るのだ。マリヤンの夫だつた男は、パラオ本島オギワル村の者だが、(パラオでは女系制度ではあるが、結婚してゐる間は、矢張、妻が夫の家に赴いて住む。夫が死ねば子供等をみんな引連れて實家に歸つて了ふけれども)斯うした家格の關係もあり、又、マリヤンが田舍住ひを厭ふので、稍變則的ではあるが、夫の方がマリヤンの家に來て住んでゐた。それをマリヤンが追出したのである。體格から云つても男の方が敵はなかつたのかも知れぬ。しかし、其の後、追出された男が屡マリヤンの家に來て、慰藉料などを持出しては復縁を嘆願するので、一度だけ其の願を容れて、又同棲したのださうだが、嫉妬男の本性は依然直らず(といふよりも、實際は、マリヤンと男との頭腦の程度の相違が何よりの原因らしく)再び別れたのだといふ。さうして、それ以來、獨りでゐる譯である。家柄の關係で、(パラオでは特に之がやかましい)滅多な者を迎へることも出來ず、又、マリヤンが開化し過ぎてゐる爲に大抵の島民の男では相手にならず、結局、もうマリヤンは結婚できないのぢやないかな、と、H氏は言つてゐた。さういへば、マリヤンの友達は、どうも日本人ばかりのやうだ。夕方など、何時も内地人の商人の細君連の縁臺などに割込んで話してゐる。それも、どうやら、大抵の場合マリヤンが其の雜談の牛耳を執つてゐるらしいのである。
私はマリヤンの盛裝した姿を見たことがある。眞白な洋裝にハイ・ヒールを穿き、短い洋傘を手にしたいでたちである。彼女の顏色は例によつて生々と、或ひはテラ/\と茶褐色に飽く迄光り輝き、短い袖からは鬼をもひしぎさうな赤銅色の太い腕が逞しく出てをり、圓柱の如き脚の下で、靴の細く高い踵が折れさうに見えた。貧弱な體躯を有つた者の・體格的優越者に對する偏見を力めて排しようとはしながらも、私は何かしら可笑しさがこみ上げて來るのを禁じ得なかつた。が、それと同時に、何時か彼女の部屋で「英詩選釋」を發見した時のやうないたましさを再び感じたことも事實である。但し、此の場合も亦、其のいたましさが、純白のドレスに對してやら、それを着けた當人に對してやら、はつきりしなかつたのだが。
彼女の盛裝姿を見てから二三日後のこと、私が宿舍の部屋で本を讀んでゐると、外で、聞いたことのあるやうな口笛の音がする。窓から覗くと、直ぐ傍のバナナ畑の下草をマリヤンが刈取つてゐるのだ。島民女に時々課せられる此の町の勤勞奉仕に違ひない。マリヤンの外にも、七八人の島民女が鎌を手にして草の間にかがんでゐる。口笛は別に私を呼んだのではないらしい。(マリヤンはH氏の部屋には何時も行くが、私の部屋は知らない筈である。)マリヤンは私に見られてゐることも知らずにせつせと刈つてゐる。此の間の盛裝に比べて今日は又ひどいなりをしてゐる。色の褪せた、野良仕事用のアツパツパに、島民竝の跣足である。口笛は、働きながら、時々自分でも氣が付かずに吹いてゐるらしい。側の大籠に一杯刈り溜めると、かがめてゐた腰を伸ばして、此方に顏を向けた。私を認めるとニツと笑つたが、別に話しにも來ない。てれ隱しの樣にわざと大きな掛聲を「ヨイシヨ」と掛けて、大籠を頭上に載せ、その儘さよならも言はずに向ふへ行つて了つた。
去年の大晦日の晩、それは白々とした良い月夜だつたが、私達は――H氏と私とマリヤンとは、涼しい夜風に肌をさらしながら街を歩いた。夜半迄さうして時を過ごし、十二時になると同時に南洋神社に初詣でをしようといふのである。私達はコロール波止場の方へ歩いて行つた。波止場の先にプールが出來てゐるのだが、其のプールの縁に我々は腰を下した。 相當な年輩のくせにひどく歌の好きなH氏が大聲を上げて、色んな歌を――主に氏の得意な樣々のオペラの中の一節だつたが――唱つた。マリヤンは口笛ばかり吹いてゐた。厚い大きな脣を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のは、そんなむづかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は、其等が元々北米の黒人共の哀しい歌だつたことを憶ひ出した。 何のきつかけからだつたか、突然、H氏がマリヤンに言つた。 「マリヤン! マリヤン!(氏がいやに大きな聲を出したのは、家を出る時一寸引掛けて來た合成酒のせゐに違ひない)マリヤンが今度お婿さんを貰ふんだつたら、内地の人でなきや駄目だなあ。え? マリヤン!」 「フン」と厚い脣の端を一寸ゆがめたきり、マリヤンは返辭をしないで、プールの面を眺めてゐた。月は丁度中天に近く、從つて海は退潮なので、海と通じてゐる此のプールは殆ど底の石が現れさうな程水がなくなつてゐる。暫くして、私が先刻のH氏の話のつづきを忘れて了つた頃、マリヤンが口を切つた。 「でもねえ、内地の男の人はねえ、やつぱりねえ。」 なんだ。此奴、やつぱり先刻からずつと、自分の將來の再婚のことを考へてゐたのかと急に私は可笑しくなつて、大きな聲で笑ひ出した。さうして、尚も笑ひながら「やつぱり内地の男は、どうなんだい? え?」と聞いた。笑はれたのに腹を立てたのか、マリヤンは外つぽを向いて、何も返辭をしなかつた。
此の春、偶然にもH氏と私とが揃つて一時内地へ出掛けることになつた時、マリヤンはをつぶして最後のパラオ料理の御馳走をして呉れた。 正月以來絶えて口にしなかつた肉の味に舌鼓を打ちながら、H氏と私とが「いづれ又秋頃迄には歸つて來るよ」(本當に、二人ともその豫定だつたのだ)と言ふと、マリヤンが笑ひながら言ふのである。 「をぢさんはそりや半分以上島民なんだから、又戻つて來るでせうけれど、トンちやん(困つたことに彼女は私のことを斯う呼ぶのだ。H氏の呼び方を眞似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまひには閉口して苦笑する外は無かつた)はねえ。」 「あてにならないといふのかい?」と言へば、「内地の人といくら友達になつても、一ぺん内地へ歸つたら二度と戻つて來た人は無いんだものねえ」と珍しくしみ/″\と言つた。
我々が内地へ歸つてから、H氏の所へ二三囘マリヤンから便りがあつたさうである。其の都度トンちやんの消息を聞いて來てゐるといふ。 私はといへば、實は、横濱へ上陸するや否や、忽ち寒さにやられて風邪をひき、それがこじれて肋膜になつて了つたのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底覺束無い。 H氏も最近偶然結婚(隨分晩婚だが)の話がまとまり、東京に落着くこととなつた。勿論、南洋土俗研究に一生を捧げた氏のこと故、いづれは又向ふへも調査には出掛けることがあるだらうが、それにしても、マリヤンの豫期してゐたやうに彼の地に永住することはなくなつた譯だ。 マリヤンが聞いたら何といふだらうか?
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