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大阪の町人学者富永仲基(おおさかのちょうにんがくしゃとみながなかもと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:13:54 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 大阪毎日新聞が、一萬五千號のお祝で講演會を催されるといふことで、私にも出るやうにとのお話で出て參りました。但しこの講演會は、時に毎日新聞の一萬五千號のお祝のやうにも聞え、大大阪のお祝のやうにも聞え、時としては大大阪文化史の講演といふ風に見えたこともあります。それについて一寸お斷りして置きますが、私は大都市主義に反對です。それで一萬五千號のお祝に出て參りましたので、大大阪讚美のために出て參つたのではありませぬ。これだけはお斷りして置きます。(拍手)今日は殊に大大阪について十分に讚美のお話がありませうから、一寸それだけ申上げて置きます。

       大天才富永仲基

 私のお話申上げますのは、「大阪の町人學者富永仲基」についてゞ、この長々しい題號は、毎日新聞の岩井君が選定して呉れたので、私は何も知りませぬ。併しこの事をお話したいといふことは私の注文です。
 これについては私が前にも或時に講演したことがあります。大阪に懷徳堂といふものがありまして、其處で大正十年に一度講演をしました。その時はまだ富永の著書について、私共見たいと思うて見付からぬものがありまして、殘念のことに思つたのでありますが、それが幸ひに昨年の春見付かりまして、私は非常に嬉しかつたので、早速これを貧乏の中から大奮發で出版しました。それは「翁の文」といふ本であります。此處に持つて參つて居りますから後で御覽を願ひます。但し澤山お買ひ下さると云つても、もう本は澤山ありませぬ。それもお斷り申して置きます。私が出版した本はこれで、これは(原本を示す)昨年見付かつた本でございます。
 この富永仲基といふ人は、私のひどく崇拜して居る一人です。大阪に關係のある人では、いろ/\な天才、えらい人がありませう。昨日お話のあつた筈の豐太閤、これも非常な天才、日本の天才でございました。それから文學者として近松門左衞門といふ人もありませう。併し眞に大阪で生れて、而も大阪の町人の家に生れて、さうして日本で第一流の天才と云つてよい人は富永仲基であると思ひます。
 此人を隨分若い時から私は崇拜して居りまして、初めて此人の事について何かつまらないことを書きましたのが明治二十六年であります。今此處にお出になつて私の話をお聽き下さる方で、明治二十六年にはまだ生れない方もあるかも知れませぬ、隨分古いことであります。その時分から敬服して居つた。それは彼の有名な「出定後語しゆつぢやうごご」といふ本を讀んで敬服したのであります。それはこの本でございます。(書物を示す)これもどうぞ後で御覽下さい。
 それから段々いろ/\の人がこの事について書いたものも見ました。又それに就ていろ/\の事を調べまして、今日では此人の歿年は分りませぬけれども、大體何時頃に生存して居つたといふことは分ります。さうして此人の出所も大分はつきり分るやうになりました。其處に列べてあるのが富永家の墓の拓本であります。これは岩井君にお願ひして作つて戴きましたが、このいろ/\の墓は今日でも下寺町の西照寺にあります。その墓は私共が初めて見付けた譯ではありませぬ、前から知つてゐる人がありまして、私が初めて見ましたのが、隨分これも古い、明治三十七年であります。その年が丁度甲辰の年――日露戰爭の起つた年でありますから甲辰の年であります。この「出定後語」が出來ましたのが延享元年甲子の年で、丁度百六十年に當ります。それに大阪生れで有名な慈雲尊者がなくなつてから百年に當つて居るので、私共二三の同志の者が、一つ富永の墓を弔つてやらうぢやないかといふことで、その西照寺で小さい會を致しまして、富永仲基と葛城慈雲、この二人を偲ぶために、その著書などを列べたことがあります。慈雲尊者は日本の梵學研究に大なる功績を遺し、又佛教にも一種の創見を有して居り、富永と行方は違ふが天才と云ふべき人で、私が聊かでも佛教に關する正しい知見をもつて居るのは此人の御蔭です。此時に初めて富永一家の墓を見ましたが、惜しいことには富永仲基本人の墓は已にありませぬ。祖父祖母の墓、兩親の墓はあります、兄の墓もあります、其外一族の墓もありますが、私共の見ました時はまだ元の墓地その儘の處にあつたのであります。近頃はどうやら少し横の方に片付けてしまつてあると聞いて居ります。片付けられてから後私は行つて見ませぬ。兎も角その本人の墓はありませぬけれども、一族の墓石はありまして、而もその母の墓の中に富永仲基のことがはつきり出て居りますので、それで確かなことが分るやうになりました。仲基の亡くなつた年ははつきり分りませぬが、何年頃から何年頃までの間といふこと位は、この母の墓碑によつて分るやうになつたのであります。
 さういふ風に幾らか此人の事について前から注意をして居りましたので、大正十年に懷徳堂で、その時丁度大阪の町人學者に關する講演をいろ/\の人が引續きやつたことがありまして、私もその一人として富永のことを引受けて話をしたことがあります。それからこの「翁の文」が昨年見付かりまして、丁度その頃京都の龍谷大學の教員生徒達の間に史學會といふものが出來まして、そこで何か話をして呉れと頼まれて、その時少しばかりお話したのでありますが、斯ういふ一般の有識者のお集りの晴れの席でお話するのは今日が初めであります。それで此人は、大大阪ではありませぬ、昔からの大阪、その大阪が生んだ所の第一番の天才、學者もいろ/\大阪にありませうけれども、兎も角第一流の天才として數へることが出來る人だと思ひますので、この講演會で是非お話をして見たいと思つたのであります。
 懷徳堂の大阪町人學者に關する多數の講演の筆記は、實は今頃既に出版に相成る筈でありましたが、その筆記の原稿が東京の本屋で震災の折に燒けてしまつたといふことで、その本が出來ませぬ。併し私のは實は燒けたのではありませぬ。私は懶惰者でその原稿を預かつて置いて訂正しなかつたため、私のは燒けなかつた。其後に私の話が土臺になつて富永仲基の傳が出來て居ります。それは仲基の傳だけ一册に出來て居る譯ではありませぬ。この大阪の北の方に池田町といふ處があります。その池田町の篤志な人々の仕事で、いろ/\の池田町から出た人々の著述等を出版して居ります。さうして「池田人物誌」といふものを出した、その中に富永仲基の傳記があります。實はか程の人を大阪市が横取りされるといふことは勿論心外なことであるべき筈でありますが、横取りする十分な理由……裁判所に出たら負け公事になるかどうかは知りませぬが、相應な縁故があるので、池田町の人が「池田人物誌」の中に富永の事を書きました。富永の弟に荒木蘭皐といふ人がありまして、その人が池田の荒木といふ家に養子に行つたのであります。それで兄弟共に、池田に居りました田中桐江といふ學者に從つて稽古をしたので、池田には隨分縁故があるのです。池田には又富永の作つた詩などが遺つて居ります。それから書も遺つて居ります。いろ/\大阪に遺つて居らぬものが池田に遺つて居る所からして、池田の人がひどくその荒木蘭皐の關係と共に富永贔負でありまして、それで「池田人物誌」の中に富永の事を併せて載せたのです。どちらかと申しますると、この將に大大阪にならんとして居る……現になつて居るか知れませぬが、それ程の大阪が、池田町にこの第一流の天才、大阪自身が造り上げた天才を横取りされる程不明であつたといふことは、或は良いみせしめになるかも知れませぬ。横取りされてもこれは餘り苦情が云へないかも知れませぬ。それは餘計な話でありますが、先づ此人をどういふ譯で私共が感心するかといふことから、單刀直入に申しませう。

       佛教の研究と其の學説――「出定後語」

 この富永仲基のどういふ點が偉いかといふと、今まで世間の人に知られてゐたのは即ち「出定後語」といふこの二卷の書の爲であります。これは何處か大阪の本屋に板木が今でもあるだらうと思ひますが、この本にどういふことが書いてあるかと申しますと、佛教の研究です。佛教の研究といふのは、佛教を有難いものとして、近頃の人が禪學をやつて膽力を練つたりするやうな研究ではありませぬ。佛教を批評的に研究した日本で最初の著述であります。而もそれ以上の著述が曾て出來なかつた所の著述であります。その佛教の研究法といふものが非常にえらいものだと思ひます。この本が出來ましてから、佛教者の方でも大分騷ぎまして、隨分有名な人がそれに對抗する反駁を書いて居ります。京都のもと寺町にありました寺でありますが、了蓮寺といふ寺です、今はこの寺は引越して百萬遍の内にあります。今の住職は私共懇意でありますが、その寺の無相文雄といふ百數十年前の人は、淨土宗の非常な學者であります。淨土宗の學者といふことの外に、漢字の音韻の學については大したもので、この方では、日本で最初に學術的に研究した人と云つてよい餘程えらい人であります。この坊さんが、富永の「出定後語」を攻撃した「非出定」といふものを書いた。これは版にならず寫本で傳はつて居ります。これも前から搜して居つて、先年了蓮寺の今の住職に注意したので、今の住職の熱心で帝國圖書館で見付かりまして、今はその方の研究者には知られるやうになつて居ります。これは簡單な「出定後語」の批評であります。併し實は「出定後語」の研究に對しては餘程つまらない批評でありまして、採るに足りませぬ。
 その後に眞宗の慧海潮音といふ人がありまして、これは江戸の淺草で生れた坊さんであります。眞宗の坊さんとしては餘程不思議な人でありまして、眞宗でありながら戒律を守つて肉食妻帶もしなかつた坊さんで、有名な眞宗の學者でありますが、此人が又「出定後語」を反駁した本を作りました。中々難かしい名前の本であります、「掴裂邪網編」といふ、これも二卷ありまして、いろ/\反駁してあります。勿論多少富永の誤を訂すだけのことはありますが、併し富永の根本學説に觸れたやうなことはありませぬ。兎も角今日まで富永の著述といふものは、佛教研究の著述としては非常な立派なものです。
 これをなぜ坊さん達が攻撃したかと申しますると、此人は詰り日本で大乘非佛説――大乘が佛説でないといふ、釋迦の説いたものでないといふ説の第一の主張者であります。さういふことで坊さん達が躍起となつて此人を攻撃したのであります。併し富永の研究は、大乘が佛説でないといつた所が、それは何も佛教に對し惡口を言ふために書いたのではない。佛教者に言はせると、佛法を謗つて書いたやうに申しまして、非常に憤慨して居るのでありますが、實は何も謗法の爲に書いたのではない。唯だ佛教を歴史的に學術的に研究したいといふのであります。昔は何でも歴史的學術的に研究すると叱られた。これは日本に限りませぬ。西洋でも天文の研究で叱られた學者がある。何處でも初め學術的に研究した人は皆叱られて居ります。その研究の仕方が、どういふ點がえらいかといふと、大乘非佛説を唱へたといふことも、勿論えらくないことはありませぬが、私共はさういふ富永の研究の結果で出來た所の、その結論に感服するのではございませぬ。此人の考へた研究法に我々感服したのであります。日本人は一體論理的な研究法の組立といふことに、至つて粗雜であります。學者の中で非常な新しい思ひ付きがあつて、さうして新しいことを何か研究して産み出す人は相當にありますが、併し自分で論理的研究法の基礎を形作つて、その基礎が極めて正確であつて、それによつてその研究の方式を立てるといふことは、至つて日本人は乏しいのであります。それは仁齋でも徂徠でも皆相當えらい人でありますが、日本人が學問を研究するに、論理的基礎の上に研究の方法を組立てるといふことをしたのは、富永仲基一人と言つても宜しい位であります。その點に我々非常に敬服するのであります。
 佛教といふものは餘程をかしなものであります。をかしいと云つても漠然たる話でありますが、凡そ今日の學術の根本思想として、空間に關する考へ、時間に關する考へといふものがなければ思想の根本が成立ちませぬ。ところがその點に於て佛教といふものは非常に自由であつて、自由といふよりは放漫であります。佛教では過去・現在・未來を三世と申しますが、指を彈く間に三世が起り、芥子粒の上に須彌山が現ずるといふ、時間も空間も滅茶々々にして考へる、それが非常に得意な所であります。それは實際、哲學的の面白い考へもあるに違ひありませぬが、併しさういふもので全體成立つて居る思想は、思想として考へる時は何でもありませぬけれども、それを歴史的に考へる時には非常に困る。佛教全體がさういふ風に空間・時間を殆ど無視したやうな考へから成立つて居りますから、お釋迦さんの話を見ても、過去の事を書いてあるかと思ふと、現在の事、未來の事、一度にいろ/\の話が出て來まして、一體それは何億萬年前の話であるか、昨夜の話だか、今の現在の話だか、ちつとも分らないです。十萬億土の西の方に阿彌陀如來の淨土があると、さうかと思ふと十萬億土は極く近い其處にあるといふ、とてもお話にならない。さういふ風に皆んな書いてあるから、歴史といふものを組立てることが出來ない。一體印度人は歴史に非常に無關心であります。歴史といふ觀念を非常に粗末にして居ります。それでお釋迦樣が話したことも、釋迦の弟子の話か、その又弟子の弟子の話か、一體誰がどういふ話をしたんだか少しも分らない。經文にあることは何も彼も皆んなお釋迦さんの話だといふ。一體今の佛典は何千卷あるか、近頃は六千卷か七千卷もありませう。その中、印度の根本に關する者がどれだけあるか知りませぬが、それが皆時間を無視したやうなもので、とんと始末が付かない。それをどうしてその間から歴史的關係を見付け出して、さうして佛教發達の歴史を考へるかといふことは非常に困難であります。昔からそれについてはいろ/\な方法を考へまして、例へば法華經、即ち天台宗などの考へでは、お釋迦さん一代の中にいろ/\な時期があつて、一番最初に當つて卑近な小乘教を説いて、それから段々時期を分けて深い教を説き、最後に法華經を説いた、それで法華經が一番尊いものであると、一代の事を五時とか八教とかに割當てゝ、それで以てあらゆる佛教の説の變つて居る所を片付けようといふ、それが一番永い間勢力があつた。併し富永は古來の傳統の説に囚はれないで、特別な方法を發見しました。

          一「加上」の原則

 特別な方法、それはどういふことかと申しますると、こゝに一つの原則を立てました。富永の「出定後語」の中にかういふ言葉があります。それは「加上」――加上の原則といふものを發見したのであります。加上の原則といふものは、元何か一つ初めがある、さうしてそれから次に出た人がその上の事を考へる。又その次に出た者がその上の事を考へる。段々前の説が詰らないとして、後の説、自分の考へたことを良いとするために、段々上に、上の方へ/\と考へて行く。それで詰らなかつた最初の説が元にあつて、それから段々そのえらい話は後から發展して行つたのであると、斯ういふことを考へた。それは「出定後語」の「教起前後」の章に書いてある。佛教の中の小乘教も大乘教も、――その大乘教の中にいろ/\な宗派がある、その宗派の起る前後といふものは、この加上の原則によつて起つて來たといふことを考へました。
 一體佛教といふものは、――印度に婆羅門教があつて、それが天を崇拜して居つた。その婆羅門教といふものが段々發達して、次第に天の上に天を加へて、後になると二十八天、三十三天と段々上へ/\と附加へて、自分の拜む天が尊い、今まで拜んで居る天はそれは間違つて居るといふことで、さうして大きく分ければ三界の諸天と申しまして、慾界・色界・無色界、さういふ風に三つに分けるのであります。大體それで二十八天、三十三天と段々上の方にえらい天が出來て積み上げられて行つた。餘り天が高く積み上げられ過ぎて、その上に天を積み上げても致方がないから、お釋迦さんはそれを引つくり返して、天でない佛といふものにしてしまつた。つまりそれは天の上に加上した考へである。斯ういふことを考へまして、さうして最初お釋迦さんの考へたのは聲聞の教、即ち後にいふ小乘教であるが、その上に又その弟子達が段々世を經るに從つて、段々上の方に考へて、何百年かの間にこの大乘佛説が發達して來たと、斯ういふ加上の原則を發見したのが富永の説であります。
 これは詰り思想の上から考へて行つたので、思想の上から歴史の前後を發見する方法を立てた。歴史の記録のない時代のことを歴史的に考へるには、これより確かな方法がない。どうせ理窟のつんだ完全なものは段々後から出て來るに違ひない。一番最初は一番簡單のものであつて、それから段々いろ/\に理窟を變へて、引つくり返し/\上の方に行くに違ひないから、佛教の如き時間空間を構はない記録に對しては、斯ういふ方法で考へる外に仕方がないのであります。併しさういふ富永の考へ方も、今日から顧れば何でもないことでありますが、さういふことを發見する人といふものは中々あるものでない。それを富永が發見したのであります。これは非常に偉いことゝ思ひます。
 これは今日いろ/\な國の古代のことを研究するに非常な役に立つ原則だと思ひます。富永は支那のことも斯ういふ原則で研究しております。又日本のこともそれでやらうとしました。何も思想ばかりでない、事實に關する傳説でも、さういふ方法で研究が出來るのであります。但し此の加上の原則のえらいことは多くの人が皆氣が付きます。

          二「異部名字難必和會」の原則

 その外に多くの人が、富永の原則の尊いことに氣の付かないものがあります。それは「異部名字難必和會」といふ原則です。
 これはどうかすると今日歴史などを研究する人でも、この原則の尊いことを知らない人があります。これはどういふ事かと申しますると、要するに根本の事柄は一つであつても、いろ/\な學問の派が出來ますると、その派/\の傳へる所で、一つの話が皆んな違つて傳へられて來ると、それを元の一つに還すといふことは餘程困難である。根本は一つの話、それが三つにも四つにも變つて來ると、どれが一體根本で、どれが變つて來たのか、どれが正しく、どれが誤つて居るかといふことを判斷するのは餘程困難であります。それで富永は異部名字必ずしも和會し難しと言うて居る。つまり學派により各部々々で別の傳へが出來て居るので、それを元の一つに還すことは出來にくいといふことを言ひ出したのであります。これは餘程偉いことだと思ひます。
 どうも歴史家といふものは、何か一つこゝに事件がある。それが何月何日の出來事だといふ説がある、又それと違つた説が出て來ると、それは何方が本當で何方が嘘であるか、二つの説、三つの説があると、どれか一つ本當で、あとの殘りは嘘だと、斯う極めたがるのである。どれもよい加減で、どれが本當か分らぬと諦めるといふことが、どうも歴史家といふものは出來にくいやうであります。どれか一つ確かなものと極めたいといふ考へがあります。ところが記録のある時代は、どうかするとそれを一つに極めることが出來ます。併し記録がない、話で傳はつて居ります時代のことは、どうしても極めにくいです。さういふ事は、いつそのこと思ひ切つて極めない方がよいんですが、それをどうも皆んな極めたがるのです。その極めにくいといふことを原則にしたといふことは、大變私はえらいと思ひます。
 これは支那の非常に古い時代に、斯ういふことを考へた説があります。支那の春秋公羊傳の中に、所見異辭、所聞異辭、所傳聞異辭とあつて、それを一つの歴史上の原則にしてあります。これも見る所、聞く所、傳聞する所各※(二の字点、1-2-22)違つて居るので、どうもどちらが事實と一つに極められないといふことであります。この傳説時代の事は、思ひ切つてさういふ風に極められぬと極める方がよいのであります。それを歴史家などは、傳説時代の事でも、どれか一つを事實として、その他は誤り又は僞にしたい。それがため反つて事實を失ふことになる。佛教の如く傳説ばかりで出來て居るもの、即ち初めの間は記録がなくて、口から口へと唱へられて傳はつて、それから後に本に書かれたものは、同じ事に異つた傳來が多くて、一つに極められぬことが多い。例へばお釋迦さんが初めて出家してから、成道して、それから死ぬまでのことでも、十九で出家し、三十で成道し、八十一で死んだとも云ひ、二十五で出家して二十八か九で成道し、八十一で死んだといふ風に、いろ/\の説があつて、各※(二の字点、1-2-22)の宗派によつて、この説を採るとか、かの傳へを採るとか一定しない。お釋迦樣の生れた年代でも、今から二千八九百年前といふ説もあり、二千三四百年といふ説もありますが、各※(二の字点、1-2-22)の宗旨によつて採る所がちがふ。尤もお釋迦さんの死んだ年に關しても、富永が一番確からしい説を「出定後語」の中に出してあります。その點を今日富永の研究の偉いことゝして特別に認めて居る人もあります。兎も角大體この傳説時代の事は一つに極めるといふことが困難だと考へ出したのは、異部名字必ずしも和會し難しといふ原則であります。これ等も古代の事を研究するには大變よい考へだと思ひます。

          三「三物五類立言之紀」の論理

 それからその外に非常にえらいことを考へて居ります。「言有三物」といふことを申しました。これが富永の論理の組立であります。それは言有人、言有世、言有類と申してあります。その言に類有りを五類に分けます。泛と磯と反と張と轉と斯ういふ五類に分けます。さうして之を總べて「三物五類立言の紀」と申し、これが富永の研究方法、論理の組立であります。
「言に人有り」といふのはどういふことかと申しますると、その言ひ傳へ、説といふやうなものは、人によつて異るといふことであります。それで同じ事でも、人によつて解釋も違ふ、言ひ傳へも違ふ、いろ/\の人によつて違つて來ることを云ふのであります。支那では之を一家言と申しまして、皆人によつて言ひ傳へが違ふので、即ち異部名字と同じやうなことであります。
「言に世有り」といふ、これは時代によつて違ふことを申します。それは例へば佛教の飜譯です。佛教が支那に飜譯される時に、サンスクリツトの飜譯について、玄弉三藏などにサンスクリツトの何々といふ言葉は支那でどういふ意味だ、舊譯に何々と譯したがそれは誤りだと屡※(二の字点、1-2-22)書いてあります。それで支那の佛教に、玄弉三藏の飜譯とその以前の飜譯とによつて舊譯新譯の區別がありまして、舊譯が不確かで間違で、新譯の方が確かであるといふが、これは單に意味ばかりでなく、そのサンスクリツトの音を支那の文字に當て嵌めるについても、例へば坊さんのことを舊譯では比丘と書いてありますが、新譯の方では※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)芻としてある、それで※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74)芻といふのが正しくて、比丘といふ字を當てたのは誤りである、斯ういふやうに申しますが、富永は、その舊譯を皆誤りといふ譯にはいかない、印度といふ國は言葉の國である、言葉といふものは時代によつて段々違つて來る、發音も違つて來れば意味も違つて來る、その違つた時代に支那で之を飜譯したのである。支那で佛教を最初に飜譯した時と玄弉三藏の時とは、既に數百年も經て居りますから、その間に印度の元の言葉にも、音の變化もあれば意味の變化もある。それでさういふ風に時代によつて言葉が變つて來るのであるから、それを知らなければ研究の方法を誤るといふことを考へたのであります。
「言に類有り」といふのは、次の五類に分けてあります。第一「泛」と申しますのはどういふことかといふと、何か一つの、或物の名前とか考へとか、固有名詞であつたものが、それが後になると變化して普通名詞になる。最初の事實は何か一つの片寄つたもの、極まつたものについての名前であつたのが、それが段々に意味が擴がつて、それが普通の意味になり、名前になるといふことを「泛」といふのであります。「磯」といふことは、多分これは孟子の中に「以て磯すべからず」といふ言葉がありますから、それから來たと思ひます。言葉を激しく言ふ、強めて言ふ、意味を強めて言ふことであります。誇張するといふ程ではありませぬが、その爲に少し言葉の意味に變化が出來ます。「反」といふのは、前からの説と反對に解釋するのであります。「張」といふのは即ち誇張することでありまして、今までの意味を大袈裟に言ふことであります。富永が例を擧げて居りますが、例へば成佛――佛教で成佛するといふことについて、あらゆる世の中の物を有情・非情の二つに分けまして、本來の説は有情のものが成佛すべきである。併し佛教が段々説を擴めて、山河草木悉皆成佛と、非情の物までも、意識のない鑛物とか草木までも成佛といふ風に説いて行くのが、それが「張」といふことであります。「轉」といふのは、意味が轉ずる、前の「反」といふ程全く反對ではありませぬが、意味が轉化するといふことであります。富永が例を擧げて居りますが、初めは一闡提を除いて皆佛性があると説いたが、後にはその一闡提さへも佛性があるといふ風に説が轉じて行つた。斯ういふ風に、言葉の意味は段々と轉化するものである。五類の働きによつて教義の發展が出來るのでありますから、五類といふことを知らなければ佛教の研究は出來ないと、斯ういふことを言つたのであります。

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