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大阪の町人学者富永仲基(おおさかのちょうにんがくしゃとみながなかもと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:13:54 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



          四 其の他の學説

 それから之について富永がその外の事にも渉つて論じて居りますが、よく佛教家は印度の言葉即ち梵語は多義である、意味が多い、それで印度の言葉は尊いのであると解釋するが、富永は何處の國の言葉も多義であるとして、大阪の俗語の例を擧げて例にして居ります。大阪で放蕩者のことを「たわけ」と、その頃言つたのでございます。近頃は「極道」と言うて、餘り「たわけ」と言はない。放蕩者の「たわけ」といふことを、支那の文字の放蕩といふ意味だけでは、大阪の言葉「たわけ」の意味を十分盡し難い。大阪で「たわけ」といふ言葉は、放蕩といふ外にもつと多くの意味を含んで居る。何處の國の言葉でも、その國の言葉には特色があつて、それは多義を含んで居る、他の國の言葉で解釋すると多義を含んで居る、何もサンスクリツトだけ有難い結構な言葉であり、多義であるといふ譯ではないと申しました。
 これ等の考へ方によつていろ/\の事を推論して居ります。例へば斯ういふ風なことを考へた。佛教によく最初に「如是我聞」と書いてある。佛教の從來の話で「如是我聞」といふのは、それはお釋迦さんの言うたことを、弟子の阿難といふ大變記憶の好い人があつて、それがお釋迦さんに多年侍者として隨從して居りましたから、いろ/\の事を聞いて居つた。お釋迦さんが死んでから、始めてお釋迦さんの言うた事を編纂するといふ――勿論その時編纂すると云つても本に書くのではない、昔の編纂といふのは言葉の上の編纂でありまして、皆んな寄つて、誰もかういふ事を聞いた。某もかういふ事を聞いたと、皆んな聞いたことを話合つて見て、さうして皆んなの話を持ち寄りして、それを皆んなが確かに記憶して置く、昔の人の學問は記憶が主なることであります、その會合で話合をして、それを記憶したのが編纂であります。これを佛教の方では結集と申します。最初の結集の時に、阿難が一番記憶がよいので、その聞いて居つたことを話して見ろといふので寄つたところが、阿難が一番最初に如是我聞と言つた。外の弟子達が、つい昨日までお釋迦さんから直接に聞いたが、今日は阿難の口を藉りて、さうして如是我聞と聞かなければならないと悲しんだといふ、大變面白く小説的に傳へられてあります。それでお釋迦さんの言ふことを直接聞いた人が如是我聞だといふことにこれまで言うてあつた。ところが富永はそんなことはない、如是我聞といふのは、お釋迦さんが死んでから何百年かたつて、お釋迦さんが昔かういふことを言うたげな、昔こんな話があつたさうな、それで如是我聞といふので、直接聞いたものを如是我聞といふ筈はないと言つて居ります。中々皮肉な見方です。
 元來富永は、何でもさういふ風に皮肉な見方をする人です。但しさういふ皮肉な見方で學術的にうまく言つてあることがあります。佛教の方では經・律・論を三藏と申しまして、「經」といふのはお釋迦さんの直接説法されたもの、「論」といふのはお釋迦さんの説を弟子の菩薩達が之を説かれたもの、「律」といふのは、これはお釋迦さんの定められた戒律即ち「おきて」でありますから、道徳上の規定であります。その上にこの經律論を解釋する「釋」といふものがあつて、その説を傳へる人が更に解釋したのであるといふ、それでその出來た前後の關係を説明するが、富永はさうでないと申しました。お釋迦さんの當時から經も律も論もあつてちつとも差支ないのである。それは論の中にも偈頌と長行とがある。偈といふのは、意味を大變簡單に約めて、詩とか歌といふ具合で韻文にまとめて書いたもので、長行といふのは、これは韻文の意味を細かく解釋して、さうしてそれを分り易く演べて書いたものであります。この偈頌と長行とは、論部にも毎に出てゐます。先づ短い四句偈・八句偈・十句偈があつて、その次に意味を演べて書いた長行があります。それで何のために偈頌を作つたかといふことについて、佛教の方では、その由來を八つの意味に説いてありますが、その中第五と第六とが眞の意味だと富永は申してゐます。第五は、この偈を韻文にして讀み易くしたのは、それは皆んなが韻文であることを望むからと、第六は韻文だと覺え易いからだ、さういふ二つの意味を言つて居るが、これが偈頌といふ韻文の出て來た所以である。昔の經典の言葉は、覺え易く、耳に入り易くするために皆偈頌で書いた、それを後に解釋するために長行が出來たのであると申しましたが、これだけは何人でも考へ得ることでありますが、富永はこれは支那でも日本でも同樣だといふことを考へた。支那でも詩經は勿論、書經の中にも韻文がある。易經・老子さういふ古い本には皆韻文がある。それは印度の偈頌と同じやうに、韻文といふものは、學問するものが望むからと、記憶し易いからである。日本でも古い語り傳へなどには、何か一種の音節があつて、その音節によつて覺える。例へば祝詞には皆一つの調子があつて、その調子によつて覺えよく出來て居ります。さういふことは原始時代に皆覺え易いために出來たものであつて、昔の本は皆さうである。さういふ風にして之を暗誦して居つたのが、即ち偈頌の出來る所以、それから後に長行が出來たのであつて、印度でもさういふ順序で發達して居るに違ひないから、律でも經でも論でも、最初からあつたに違ひない。お釋迦さんの書いたものが經で、菩薩の書いたものが論だといふ區別は、それは後から勝手に區別したので、元來はさういふものでないといふことを言つて居ります。かくの如く、佛教を研究するのに、支那のこと日本のことも實際昔の原始時代のことを考へて、比較研究をしたといふことは、餘程歴史的研究にえらい頭をもつて居つたといふことが分るのであります。

       研究法と學説の價値

 大體富永の研究法といふものはそれだけでありますが、これだけあれば、如何なる古い時代の、時間も空間も不分明な記録でも、研究が出來るのであります。かういふ法則を發見したといふことは非常な偉いものでありまして、日本でも支那の事を研究した人があり、日本の事を研究した人もありますけれども、斯ういふ風にその自分の研究の方法に論理的基礎を置いた人がないのであります。それはこの富永が初めて置いたと言つて宜しいのであります。私はその點に於て、大阪が生み出したといふより日本が生み出した天才として、これは立派な第一流の人であると言つてよいと思ふのであります。私が曩に懷徳堂で斯ういふことを申しました時、日本で天才の學者といふものを五人擧げれば、必ず富永がその一人にはいるといふことを申しましたが、筆記する人が間違つて、五人を省いたその次の第一人が富永といふ風に筆記したと見えまして、私の手許に來た筆記がさうなつて居ります。それによつて書いた「池田人物誌」にもさういふ風に出て居りますが、それは間違ひで、私はもつと富永を偉く見て居るのであります。大阪には隨分澤山學者がありましたが、兎も角、學問を、今日の言葉で言へば科學的に組織立つた方法で考へたといふのは、此人より外にない。これは大阪ばかりでない、日本中にこの位の人はないのであります。その點が非常に偉いと思つて居るのであります。
 それから富永は、學問といふものに國民性があるといふことを考へたのであります。その當時に印度と支那と日本との國民性について斯う考へたのである。印度人の國民性を一言にして「幻」と批評し、支那人の國民性を「文」、日本人の國民性は「質」或は「絞」と、絞といふのは正直過ぎて狹苦しいのでありますが、兎も角一字で批評をしたのであります。僅か一字で大變よく批評してあると思ひます。印度人は何でも空想的なことを好みまして、前にも言うた通り、芥子粒の上に須彌山が現じたりするといふ風に、大變突飛な魔法使みたやうなことを考へる。それでお釋迦さんの所謂外道、佛教の外の印度の各派宗教のやるのは幻であつて、佛教の方でやるのは神通である。幻と神通が違ふと申しますけれども、實は幻も神通も同じもので、手品使が印度人に近い手品に合ふやうな宗教を組立てたと、斯ういふことを言ひました。支那人は何でも文飾を好む、言葉でも何でも飾る、飾らんと承知しないので、それで支那人の國民性は文であります。日本人は至つて簡單な正直な考へで、いろ/\幻みたやうな文みたやうな、目まぐるしい※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りくどい奴にぶつかると、日本人の頭では分らなくなつて、何か見當が付かないから、日本人は正直な眞つ直ぐな、手短かに言うた方が一番分りがよいので、それで日本人は質とか絞とかいふことになる。斯ういふ風に三通りの國民性があつて、各※(二の字点、1-2-22)國民性によつてその國々の宗教を組立てるのであるから、外の國の宗教を自分の國に移すときには、自分の國に合ふやうに之を變形しないとうまく合はない。印度の幻術的な宗教、何かといふと十萬億土などといふ取留めもない目まぐるしいことは、日本に應用することは出來ない。日本に應用するときには、もつと手短かな、手つ取り早くしなければ日本人には入らない。支那の文でも、非常な細かい、文飾が煩はしくては日本には行はれない。日本人にはそれをもつと簡單に手つ取り早くしなければならぬ、と斯ういふことを言つて居ります。これは尤も富永自身の發明ではないと言つて居ります。支那の隋に文中子といふ人がありまして、佛教は西方の聖人の教へである、之を支那に行はんとすると泥む、そこに拘泥することになつて來る、支那にはその儘行はれにくいと文中子が言つて居ります。それを富永が引いて居ります。それから富永は支那と日本との比較を考へて、兎も角各國民には國民性があるから、國民性によつて宗教といふものが成立つのであるといふことを考へました。此等は今日から觀ると非常な卓見と謂はなければならない。まだいろ/\のことがありますけれども、先づこれが「出定後語」の大體であります。

       支那學研究の原則と神道の批判――「説蔽」・「翁の文」

 その外に、富永仲基に「説蔽」といふ、これは儒教を攻撃したと言はれて居る本がありますが、その内容は今はよく分りませぬ。しかし「翁の文」といふ本が現はれて來て「説蔽」の中にどういふ事が書いてあるかといふことが幾分か分つて參りました。
 この「翁の文」といふのは、どういふ本で、どういふ事を書いてあるかと申しますると、これは「出定後語」より四五年前に書いたものでありますから、恐らく富永の二十代の著述かと思ひます。二十代で非常な頭をもつてゐたものと思はれます。この中に書いてあることは「説蔽」に書いてあると同じで、支那の學問研究の原則を與へたものであります。それは大體斯ういふ風に考へました。孔子の生れた當時、その當時は五覇の盛んな時である。齊の桓公、晉の文公といふのは當時の覇者であります。その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武といふことを言つて居ります、周の文王・武王といふことを言ひ出した。孔子の後に墨子が起つて、墨子は文武の上に更に堯舜のことを言ひ出した。その上に今度は楊朱が黄帝を言ひ出した。それから孟子に書いてある許行がその上に神農のことを言ひ出した。これが支那に於ける加上説である。思想の上からすれば、孟子に書いてある告子が、性には善惡なしといふ説を唱へたのである。孟子は性善説を唱へた、荀子は性惡説を唱へた、斯ういふ風なのは加上説であるといふ。然るにこれは加上によつて出來たといふことを知らずに、日本の伊藤仁齋は孟子の説が正しいとし、徂徠などは孔子の道はすぐに先王の道にて、子思・孟子などは之に戻れりといふが、その説の起る由來を辨ぜずして末節に拘泥し是非の論をなすもので、説の起る由來を考へると、段々思想上の加上から來るのであつて、目的は皆同じである。皆新しい説新しい説を言ひ出すから、さういふことに拘つて來るのであると、斯ういふ風に考へました。今日「説蔽」といふ本はありませぬが、之によつて「説蔽」の大體は分るのであります。
「翁の文」には又日本の神道のことを批判してあります。日本の神道は、勿論富永の時代は本居・平田のまだ起らない前でありますから、近代の國學者の神道は未だない時で、その當時行はれて居つた神道によつて判斷したのであります。大體神道といふものは昔からあつたのではございませぬ。これは皆中古から起つたものである。先づ起つたのは兩部習合――佛教と神道とを一つにしたものである。兩部習合説が先づ起つて、それから後に本迹縁起――本迹縁起と申しますのは、何の神の本地は何佛で、何々神といふのは垂迹である、佛が本體で、神がそれから實際世に現はれて居る者と考へたのであります。それで兩部習合説の次に本地垂迹説が起り、その後になつてアベコベに、神を本地として佛を垂迹とした説も起つて來たのであります。それから今度は佛教・神道兩方を一緒にする説が行はれ、更に唯一宗源といふ、これは神道だけで解釋して行かうといふ風に加上したのであります。これらは中古の神道で、平安朝から鎌倉・足利時代までの間に出來た神道であります。その後、徳川時代に王道神道といふものが起つた。これは神道を儒教で解釋したといつてある。これは富永は明白に申しては居りませぬが、易で神道を解釋した伊勢の神主等、又はその後に起つた山崎闇齋が儒教で神道を解釋したことを指すのでありませうと思ひます。これは表に神道を説いたけれども、内面は儒教である。斯ういふ風に段々加上によつて神道も發達して來たのであつて、神道が古い時から傳へられたと云ひますけれども、實は古い事をその儘傳へて居るものでもなく、又古い事が良いからと云つて、今日の生活を昔の質樸な生活、原始的生活に返して、今日の我々の生活に入れられるものでないと云つて居ります。

       「翁の文」の新學説

 この「翁の文」に特別なこの人の意見が現はれて居る所は、學説に時代があるといふことを説いて居る點であります。昔大變效能のあつた宗教なり禮儀なりも、今日では役に立たないものであるといふ、中々新しい考へであります。これは單に宗教・道徳に國民性が在るばかりでなしに、國民性の外に時代相があるといふことです。近頃時代錯誤といふことを申しますが、そんなことは富永が今から百八十年程前に考へて居りました。それで今日の我々には今日に相當した「誠の道」といふものがあるべき筈であると、斯ういふ事を考へましたので、それで神道・佛教・儒教この三つの外に誠の道といふものがなければならぬ、それが即ち今日實際に役に立つべき所の道徳であるべきであると、斯ういふことを言ひました。これが「翁の文」の大意であります。つまり國民性は時代によつて地方によつて變る、時代によつて學説が變つて來るから、時代によつて相當の學説があるといふことを考へて居ります。今まで富永の議論で知られて居ることは、先づそれだけと言つて宜しいのであります。極く簡單でありますけれども、それだけで隨分この人の卓見といふものが出て居ります。
 學問上の研究方法に論理的基礎を置いたといふことが既に日本人の頭としては非常にえらいことであります。その外に宗教・道徳に國民性の區別があり、時代相の區別があると、あらゆる點に注意して居ります。これが我々の非常に尊敬する所以であつて、恐らく日本が生み出した第一流の天才の一人であると言つても差支ないと思ふのであります。

       家系と其の攷學

 私はこの天才は大阪が生んだ人だといふことを簡單に附け加へたいと思ひます。其處に出してございます拓本の中、一番最初が富永のお祖父さんお祖母さんの碑であつて、徳通といふのが仲基の親であります。この「翁の文」の序文などから考へますると、ヒヨツとするとこの人の先祖は播州から出たのではないかと考へられます。播州といふ處は妙に大阪に於ける町人學者を多數出しまして、私がやはり嘗て懷徳堂で講演しました山片蟠桃といふ人も播州の出身であります。富永の先祖も播州から出たのではなからうかと思ふのであります。父からは既に大阪に住まつて、仲基は大阪に生れた生粹の大阪つ子に相違ないのであります。この人には兄弟がありまして、其處にある毅齋居士といふのがその兄であります。それは腹違ひの兄弟で、母の碑文が其處にあります(陳列の拓本を指す)、それが仲基の生みの母でありまして、その仲基と兄毅齋との間にもう一人あつたが、その人の名前も分らず、はつきりしたことは分りませぬ。富永の生みの母は三人の男の子を生んで居りまして、皆學問が出來たやうです。二番目が池田に養子に行つた荒木蘭皐、三番目が眞重、通稱は何と云つたか分りませぬ。これも學問が出來て、此人の書いた漢文に荒木蘭皐の集の序文があります。仲基の親は實名は徳通、號は芳春といふ人で、相當の學者でありまして、即ち懷徳堂を起しました五同志の一人で、淀屋橋尼ヶ崎町と申しました今の北濱邊でありませう、其處で道明寺屋吉左衞門といふ醤油屋であつた。その家を繼いだのは仲基の兄毅齋であります。仲基は通稱を何んと云つたかはつきり分りませぬが、近頃淡路の國から仲基の「翁の文」の寫本が出て參りました、それは富永と同時代の學者で仲野安雄といふ人が寫して居つたもので、それに翁の文の著者は「道明寺屋三郎兵衞」と書いてありますから、それが通稱であらうと思ひます。
 それで若い時から聰明であつたに違ひなく、懷徳堂主の三宅石庵に就て學問を稽古した。その内、「説蔽」といふ儒教を攻撃した本を書いて、石庵から破門されたと言ひ傳へてありますが、「池田人物誌」に西村天囚君の説を引いて、石庵の死んだ時富永は十五六であらうから、著述したにしても破門されるといふことはあるまいと書いてありますが、成程それが尤もであらうと思ひます。この三宅石庵から破門されたと言ひ出したのは佛教者の言ひ傳へであつて、佛教者が富永の惡口を言ふために、いろ/\の事實を捏造して居ることがあるやうです。富永が佛典を讀んだのは、黄檗板の藏經――今でも一切經の版木がありますが、それは富永より六七十年前に鐵眼の作つた版木であります、その版木を校合するため富永が傭はれて居つて、それがために佛教を學んだのであらう、それから佛教の惡口の本を書いたから、大變佛教の恩に背いて居ると、慧海潮音といふ眞宗の坊さんが書いてゐます。之と同じ話で段々異部名字式に變つて來た話でございますが、矢張り淨土宗の坊さんが書いた「大日比三師講説集」といふ本がありまして、富永は佛教の惡口を言うたので到頭癩病になつた。それから大變後悔して、坊さんを頼んで「出定後語」の版木を燒棄て、阿彌陀經千卷を書いて懺悔したけれども何等の驗しがなく、到頭癩病で死んだといふことが書いてあるのです。これは文化文政頃富永の惡口が盛んに行はれて、坊さんが富永に對し酷く反感を持つた時分の言ひ傳へであります。石庵に破門されたといふのも、其時の言ひ傳へでありますから、どれだけ之に信用を置いてよいか餘程疑問であります。但し黄檗山で藏經を見たといふ、これは事實だらうと思ひます。富永の作つた詩の中に、自分の家庭の面白くないことが書いてある。これは恐らく自分の母が兄に對して繼母である關係ではないかと想像されるのでありますが、しかしお母さんといふ人が非常な賢婦人であつたらしいのであります。お母さんの碑文といふものは、多分仲基の弟荒木蘭皐が書いたのでありませう。兎も角何か家庭に面白くない事情があつて、富永が一時自分から家を出て居つた、その間に黄檗に行つて居つたのかも知れませぬ。その時藏經を讀んだのだらうといふことは想像されるのであります。その外に多く佛教者から出た惡口は信用出來ませぬ。それから「出定後語」の版木を燒棄てたといふのは全く嘘でありまして、その後になつて平田篤胤がこの本を搜した時に、大阪の何處かの本屋の藏の隅から版木を漸く見付けて刷り出したといふことを書いてありますから、版木を燒棄てたといふのは全く嘘であります。佛教者は妙に人の惡口を言ふ時には、口ぎたない言辭を用ふるものでありまして、たゞ無闇に聲を大きくして人を罵るやうなことをする。これは甚だ感服仕らぬのであります。

       獨創的識見

 この「出定後語」、「翁の文」のえらいことについて、私は色々の處で講演いたしたのでありますが、富永の書のえらいことは、最初は國學者の本居宣長によつて發見されて、「玉勝間」に書かれたのであります。それを見た平田篤胤が、それから本を搜し出して、「出定笑語」といふ本を書きました。我々はそれを讀んでからこの本を知り、更に「出定後語」を讀んだ譯でありますが、その當時から富永が幾らか人々に注意されたものと見えまして、殆ど富永と同時代でありました湯淺常山が「文會雜記」といふ本に富永の本を批評しまして、佛教の事を一通り知るのには「四教儀集解標旨鈔」といふ本があつて、それを讀むと大體佛教の大意は知られるといふ、それで「出定後語」はこれから見出したといふやうなことを或人が言つたといふことを書いて居ります。私もこのことを若い時に見まして、「四教儀集解標旨鈔」を搜して見ましたところが、この「四教儀集解標旨鈔」といふ本の著者は仙臺に居つた梅國といふ坊さんであつて、大變博學な佛教學者でありますけれども、富永が之によつて佛教の事を見出したといふことは全く嘘であります。それは「四教儀集解標旨鈔」を碌に讀まず、「出定後語」も碌に讀まない人の批評であります。存外昔の人の批評といふものも注意しなければならぬものだと、三十年も前のことでありましたが考へたことがあります。
 つまり富永の佛教批評といふものは、全く自分の獨創的な見識、獨創的の天才から出たのであります。何か人に教へられた、人の著述によつて思ひ付いたといふやうな、そんな詰らないものではないのであります。「翁の文」なんぞも、猪飼敬所程の學者も感服したと見えまして、之を讀んで大變えらいといふことを書いて居ります。それで私共長い間この本を搜して居つたところ、偶然昨年の春まで大阪外國語學校の教授をして居つた龜田次郎といふ文學士が發見しました。それを私が到頭版にするやうになつたのであります。この人の學説なり、その傳記なり、又私がそれに關係した由來をお話すると大體こんなことであります。長くばかりなりましたが、どうぞこの人が偉い天才であるといふことは、大阪が大大阪になりましても永く人々の記憶に留めて置きたいと思ひます。斯ういふ天才は、何も大阪が大大阪になるから出たといふ譯ではありませぬ。又過去の大阪がかゝる天才を出したから、將來大大阪になつたらもう一倍えらい天才が出るだらうといふ保證は決して致しませぬ。これで御免を蒙ります。(拍手)

(大正十四年四月五日講演、同年八月發行「大阪文化史」所載)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「先哲の學問」弘文堂
   1946(昭和21)年5月発行
初出:大阪毎日新聞社主催講演会講演
   1925(大正14)年4月5日
   「大阪文化史」に講演録所収
   1925(大正14)年8月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年1月10日公開
2006年1月12日修正
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