二
斯くて今井梯二は、南に縁側があり東に腰高な窓がある、その四畳半の室に落ち着いた。そして翌朝先ず第一に白木の机をあちこちへ持ち廻って、結局それを窓の下に据えた。この白木の机について、可なりたってから、彼は澄子へこう云った。 「机というものは学生にとっては、最も神聖なものであるべきです。だから私は白木の机を使ってるんです。普通のものは、どれもみな何かが塗ってあります。よく紫檀の机や何かで納まり返ってる者もありますが、紫檀は最もひどいごまかしもので、あれにはみな色が塗ってあるんです。そして生地の色らしく見えるのがなおいけません。私のこの白木の机だけは、天然自然の生地のままで、どんなことをしても剥げるということがありません。」 「だって、」と澄子は微笑みながら云った、「あなたはそれを毎日拭いていらっしゃるじゃないの。やっぱりごまかしじゃありませんか。」 「磨きこむのとごまかしとは違います。私は自然を磨きこんでるのです。」 そして彼は絹のぼろ布で、毎日必ず一回は、白木の机をきゅっきゅっと拭き込んだ。 さてその朝、机を窓の下に程よく据えてしまうと、次に柳行李の蓋を開けた。中には、四五枚の着物と、幾冊かの書物と、アルミの鍋と、大きなボール箱とがあった。ボール箱の中には、砂糖とパンとがはいっていた。 午と晩とを、彼はパンと牛乳とですごした。所が牛乳は、辰代が台所の瓦斯で沸かしてくれたので、アルミの鍋は押入の中に投り出されたままになった。お茶はいつでも玄関の茶の間にあったが、彼は辰代が貸してくれた火鉢の鉄瓶から、湯ばかり飲んでいた。その代り、一週に二度くらいは、近くの店から西洋料理や蒲焼などを取って貰った。 「御馳走は、」と彼は云った、「のべつに食べるものではありません。平素粗食をしていて稀に食べると、それがすっかり消化されて、全部身体の栄養になるんです。いつも御馳走ばかり食べてると、胃袋がそれに馴れきって、素通りさせてしまいます。それで、旨い物ばかり食べてる者には粗食が非常に栄養になると同じに、私みたいにパンばかり噛ってる者には、時々の旨い料理が非常に栄養になるんです。胃袋という奴ほど珍しもの好きはありません。」 然し、そういう彼の生活を辰代は不経済極まるものだと思った。そしていろいろ経済の途を説いてきかしたが、彼はただ笑ってるばかりだった。 「経済法なんて、人間を愚かにするばかりです。」と彼は云った。 それならそれでいいと、辰代は思った。実際、彼にそれだけのお金があるのなら、何をしようと彼の勝手だった。けれども、ただ一つ、辰代も我慢しかねることがあった。 今井の所へは滅多に友人も来なかったが、それでも時々、怪しい風体の者がやって来た。髪を長く伸していたり、または一分刈りに刈り込んでいたり、髯をもじゃもじゃに生やしていたりする、同年配の青年等で、狡猾とか陰険とかいう風貌ではなかったが、少しばかりの朴訥さの見える図々しさを具えていて、それが大抵、雨の降る夜更けなどに訪れてきた。雨の中を傘もささずにやってきて、霽れ間を待ちながら、自分の濡れた着物と今井の乾いた着物とを、着代えては帰っていった。そしてそのまま、いつまでたっても着物を返しに来なかった。夜更けてやって来る者は、よく腹が空いてると云っては、何か食べる物を取寄せて貰った。中には翌朝までいて、飯を食ってゆく者もあった。 「食べるものくらいは、どうにでもなりますが、」と辰代は憤慨の調子で云った、「こんなびしょ濡れの着物を、あなたはどうなさいますか。それも後で取代えにでも来れば宜しいんですが、着て行きっきりですもの。こないだも、あなたの足駄をはいていって、その上御丁寧にも、自分の駒下駄は新聞に包んで持っていって、そのまま姿も見せないでございませんか。こんな風だったら、今にあなたは身体一つになっておしまいなさいますよ。」 「だって、みんな私の所を当にして来るんですからね。」と今井は云った。 「そんなに気がお弱いから、あなたはつけ込まれるんでございますよ。第一、他人の物を当にして来るって法がありましょうか。自分の物も他人の物も区別しないようになりましたら、世の中に働く者はありはしません。」 「いえ、彼奴等だって、相当には働いてるんです。今働いていなくても、これから、後に、大いに働くつもりでいるのです。それで取返しがつくじゃありませんか。」 「取返しがつきますって! そんなことを云ってらっしゃるうちに、あなた御自身はどうなります? 今に何もかも持ってゆかれてしまうではございませんか。」 「なあに私は、こうしていさえすれば、どんなことがあってもへこたれはしません。意志がしっかりしていますから。」 辰代は呆れ返ったように相手の顔を見つめた。そしてやがて云った。 「あなたくらい分らない方はありません。私がこんなに心配していますのに、当のあなたがそんなお心なら、もう口出しは致しません。いえ致すものですか。どうとでも勝手になさるが宜しゅうございます。どんなにお困りなすっても、もう一切存じませんから。」 彼女は腹を立てて、その腹癒せの気味もあって、やたらに気忙しなく用をしたり、そこいらのものをかき廻したりした。それを今井は済まなそうな眼付でちらと見やって、それから首垂れて考え込むのだった。 然し彼女のそういう腹立ちを、澄子は傍から可笑しがっていた。 「お母さんくらい可笑しな人はないわ。自分のことはそっちのけにして、いつも他人のことばかり心配しているんですもの。」 それを辰代は聞き咎めた。 「馬鹿なことを仰言い! 自分のことは自分でちゃんとしていますよ。あなたまでそんなことを云うなら、私はもう何にも知りませんから、あなたが何もかもしてみるがようござんす。他人さんのお世話をするのは、そりゃ容易なことではありませんよ。」 「だって、今井さんは初めから変人だと分ってるじゃありませんか。」 「いくら変人だからって、御自分のものを他人に持ってゆかれて平気でいるのは、あんまりひどうござんすよ。」 「それくらいのことは、今井さんには何でもないんでしょうよ、屹度。あんな人のことは、やきもきするだけ損だわ。考えてみれば、何もかも変じゃありませんか。家にいらしてから、一度も学校に行かれた様子もないんでしょう。いくら大学だからって、あんなに休んでばかりいていいものでしょうか。それに角帽が一つあるきりで、制服だって、持っていらっしゃるかどうか分らないし、ノートの一冊もないんでしょう。そして朝から晩まで、あの白木の机を拭き込むばかりで、ぼんやり考え込んでいて、一体、何をなすってるのか、何を考えていらっしゃるのか、まるで見当もつかないわ。私今井さんは屹度、文学とか哲学とか、そんなことをやる人だと思ってよ、いくらお母さんが注意してあげたって、ただ煩さがりなさるばかりだわ。」 澄子の云うことは事実だった。今井は文科大学生と云ってはいるが、制服は勿論のこと、ノート一冊も持ってはしなかった。そして学校へ出ることも殆んどなかった。朝遅くまで寝ていて、多くは一日室の中に籠っていた。時々外出することもあったが、袴をつけたりつけなかったり、また時間も非常に不規則だった。そんなことを考えると、辰代は漠然とした不安を覚えてきた。 「でもこれは私の思い過ぎかも知れない。」と彼女はまた考え直してもみた。 実際今井が変人だということは、日常の様子を見てもすぐに分った。辰代や澄子や中村などと顔を合せる時には、馬鹿に丁寧な挨拶をすることもあれば、むっつりとして眼を外らすこともあった。それがまるで気紛れで、こちらから挨拶すべきかどうか、その時々の見当が全くつかなかった。挨拶をしてるのに外方を向かれることもあるし、黙ってるのに丁寧な挨拶をされることもあった。両方うまく調子が合うことは稀で、大抵は気まずい思いが残った。それからまた、毎晩玄関の茶の間に集って、皆で一寸世間話をするのが、殆んど習慣となっていた。中村は、一日病院で働いてしみ込んだ薬の香を、それによって消し去りたい気もあったろうし、澄子は、いろんなことを云って中村に甘えて、父や兄弟姉妹のない淋しさをまぎらしたい気もあったろうし、辰代は、話の仲間入りしてる風をしながら、自由に居眠りたい気もあったろうが、然し何よりも、皆揃ってのそういう雑談は、それが習慣となってしまうと、欠かしては何だか物足りないような、知らず識らずの淡い魅力を持っていた。所が今井は、辰代がいくら誘っても、越してきて一二度顔を出したきりで、その雑談の席に加わらなかった。辰代もしまいには誘わなくなった。そして時によると、今井に留守を頼んで皆して活動写真や寄席に出かけた。今日は私が留守をするからと中村が云い出し、辰代が今井を案内しようとすることもあったが、そんな所へは行っても退屈するばかりだと、今井はきっぱり断った。 その退屈という言葉が可笑しいと云って、澄子は笑った。 「あんなに一日中じっとしていて、その方がよっぽど退屈な筈だわ。」 そして彼女は、そのことを今井に向ってまで云った。 「じっとしていても私は退屈はしません。」と今井は答えた。 「じゃ何が面白いの?」と澄子は尋ねた。 「何にも面白いことはありません。」と今井は答えた。 「それではやっぱり退屈じゃありませんか。」 「いえ、面白くもないが退屈でもありません。」 「では何でしょう?」 「そうですね、何でしょう?」そう彼は繰返して、俄に陰鬱な顔付になった。「まあ、夢をみてるようなものですね。」 「だって夢は面白いものだわ。」 「それは後から考えるから面白いので、みてる当時は、面白くも退屈でもありません。」 「あら、そうかしら……。」 そして暫くたってから、いろいろ考えてみた上で、そうかも知れないと彼女は思った。と同時に、この新発見を友達に云い触らそうと思いついて、一人にこにこ笑いだした。そしてそれを教えてくれた今井のことを、夢想家だとしてしまった。 その夢想家の今井が、或る晩十一時頃、酒に酔って帰ってきた。丁度皆茶の間に集って、少し長くなって、雑談の種もつきて、ぼんやりしてる所だった。今井は酒臭い息を吐きながら、それでも足許は確かで、勢よくはいり込んできて、室の片隅に腰を下して、水を一杯ほしいと云い出した。辰代は喫驚した顔付で、台所へ水を汲みに立っていった。帰って来るといつもすぐ二階へ上ってしまう彼が、そして二階には水も湯もある筈なのに、その時に眼って、皆の仲間入りをしたのも珍しかったし、また酒は嫌いだと云っていた彼が、酔ってるらしいのも珍しかった。然し水を汲んできて更に彼女が喫驚したことには、今井は立派な西洋菓子の箱を其処に差出して、皆で食べてくれと云った。 「今日はどうなさいましたの。」と彼女は尋ねた。 「一寸愉快なことがあったんです。」と云って今井はさも愉快そうに眼を輝かした。「友人に出逢いまして……そら、こないだ私の着物を着ていった奴です。見ると、私の着物を着て澄し込んでるじゃありませんか。それで私は、着物のことであなたからさんざん小言をくったわけを、そっくり云ってやりましたよ。すると大変恐縮して、今日は少し金がはいったから、御恩返しをしようと云い出したんです。そして私を引張っていって、御馳走を食わしてくれました。私も常なら酒は飲まないんですけれど、そういう意義のある酒ならと思って、可なり飲んでやりました。それから帰りに、彼はこの菓子を買ってきて、是非あなたに上げてくれと云うんです。だから持って来ました。」 「まあ、あの方が!」と辰代は怪訝な顔をしたが、急に何やら腑に落ちたらしい様子で、「へえ左様でございましたか。それでは皆で頂くことに致しましょう。」 それでも、菓子を半分ばかり食いかけた時、彼女はふと思い出したように云った。 「そして、お召物はどうなさいましたの。」 「彼にくれてきました。」 「えっ!」 「向うでそれだけの好意を見せてくれたんですから、こちらでも好意を以て、着物は君に上げようと云ってきました。」 「まあとんでもない! だからあなたは仕様がございませんよ。それではうまうまひっかかってしまったようなものですよ。向うではあなたがそういう人だということを承知の上で、企んでやったことに違いありません。それなのに、私にお菓子を買って寄来すなんて、図々しいにもほどがありますよ。」 それでも彼女は、手に残りの半分の菓子を食べてしまった。 「そうばかりでもないでしょう。人の好意は正面から受け容れるのが私の主義です。」と云ってから今井は、俄に話を変えた。「今日だけは小言は止して下さい。珍しく酒を飲んで愉快になってるんですから。……そんな話よりも、全く素晴らしいことを見て来ましたよ。」 「どんなことです?」 さっきから皮肉な笑顔で二人の話を聞いていた中村が、そう引取って尋ねた。 「私は人間の頭があんなに脆いものだとは思いませんでした。」 「人間の頭ですって?」 「そうです。実はこの菓子折を下げて、友人と二人で、或るカフェーにはいって、酔いざめの冷いものを飲んでいました。すると、不良少年……と云ってももう青年ですが、そういう二三人の連中と。やはり二三人の朝鮮人か支那人らしい、怪しい様子の連中との間に、喧嘩が初ったのです。何がきっかけだかは分りませんが、大きな怒鳴り声がしたので振向いてみると、両方立上って殴り合おうとしてるんです。と思ううちに、その不良青年らしい方の一人が、相手から先を越されて頬辺に拳固を一つ喰わせられましたが、一足よろめきながら、側の卓子の上にあった空のビール瓶を取って、向うの奴の脳天から打ち下したんです。ビール瓶はそのまま壊れもしないで、相手の男はばったり倒れてしまいました。よく見ると、頭の鉢が割れて、血がどくどく流れ出してるじゃありませんか。」 「まあ、本当?」と澄子が声を立てた。 「本当ですとも。私は喫驚してしまいました。空のビール瓶で、それも瓶がわれて、割れ目で切れるとかなんとかなら、まだ分っていますが、丸のままの瓶で、頭蓋骨を叩き割るというのは、いくら腕が冴えていたって、一寸考えつかないことですよ。」 「然しそれは、ただ皮膚が破れたばかりではなかったのですか。」と中村が云った。 「いえ確かに頭蓋骨がわれたんです。頭の形が変梃になって、傷口から石榴のようなぐじゃぐじゃなものが見えていました。」 「そして。それからどうしました?」 「その男が倒れると、カフェー中の者は総立ちになりました。がその隙に、殴った方の連中は、何処かへ逃げ出してしまったんです。そして皆で、倒れてる男を引起したんですが、もう死んでるらしいんです。即死ですね。それから大騒ぎになって、その男は仲間の者から、すぐ病院へかつぎ込まれるし、警官はやって来るし、野次馬はたかるし、ごった返しましたが、どういうものか、警官は皆をカフェーの外に逐い出してしまいました。それを幸に、私達も外に出ました。証人にでも引張り出されちゃつまりませんからね。」 「おまけに、金も払わなくて済んだわけですね。」と中村は云った。 その言葉に、澄子は一寸微笑を洩らしたが、今井は不快そうに眉根を寄せた。そして暫く黙っていた後、宛も胸の鬱憤をでも晴らすような調子で、口早に云い出した。 「私は人間の頭蓋骨が、あんなに脆いものだとは思わなかったんです。所があれを見てから、空のビール瓶で打割られたのを見てから、変に興奮してしまいました。いつ自分の頭も打割ちれるか分らない、うっかりしてはいられない、とそんな気がしたんです。明かに殺意を以て頭を割られるのは構いませんが、偶然に割られるのは考えても堪りません。あの連中だって、前から遺恨があってのことではなく、また殺そうとか殺されるとかいうつもりでもなく、ただ偶然にああなったまでのことでしょう。それを考えると、何だか私はじっとしていられないような気持になってきます。」 「然し、」と此度は真面目な調子で中村は云った、「偶然だからまだいいんで、初めから殺意があったらなおいけないじゃありませんか。」 「私はその反対だと思うんです。意識的に殺されるのは構わないが、偶然殺されるなんて真平です。」 「では殺す方はどうでしょう。」 「殺す方だって同じです。偶然に人殺しをするような者は、永久に救われない奴です。けれど、意識して人を殺せるくらいな人間は、またどこか偉い所があると思うんです。私は友人からこういう話を聞いたことがあります。ゴリキーの書いたものにあるそうですが、ロシアの革命の頃、或る処の農民は、捕虜にした何十人かの敵の兵隊を、逆様に腿まで地中に埋めて、苦しさに足をぴんぴんやって死んでゆくのを眺めて、何奴が一番我慢強いとか、何奴が一番息が長いとか、そんなことを云い合って面白がったそうです。また或る処では、捕虜の腹から腸の一部を引出して、それを樹木の幹に釘付にし、皆で其奴を鞭で引叩き、其奴が木のまわりを送げ廻る[#「送げ廻る」はママ]につれて、腸がずるずる出てくるのを見て、皆で面白がったそうです。而もそれが、敵の兵士とは云いながら、やはり同胞のロシア人なんです。その話を聞いた時私は、何もかも打忘れて或る者を愛するとか、一身を擲って主義に奉仕するとか、そう云った偉い人間がロシアから出るのは、尤もなことだと思いました。憎悪とか愛情とか、残忍とか親切とか、さういった風な感情は、一方が強ければまたそれだけ他方も強いものです。所が日本人は、あらゆる感情が弱々しくて中途半端です。弱い半端な感情からは、決して偉大な行いは出て来ません。」 「然しそうだとすると、文明の否定ということになりはしませんか。凡て野蛮な悪い感情を洗練してゆくということが、文明の発達のように思えるんですが、あなたの説に依れば、野蛮時代に逆戻りをする方がいいことになりますね。」 「いえ逆戻りじゃありません。善い感情も悪い感情も、一緒に磨き上げてゆくのが文明です。悪い感情を善くなしてゆくとか、または悪い感情を滅して善い感情だけを育ててゆくとか云うのは、痴人の寝言です。そんなことをしてるうちには、感情全体が鈍ってきて、まるで去勢されたようになってきます。善と悪とが相対的のものである以上は、善い感情と悪い感情とは相対的なものです。一方が滅ぶれば他方も滅んでしまいます。両方を強く燃え立たして、ただどちらに就くかだけが問題です。野蛮時代は、いろんな火がごっちゃに燃えていたのですが、その火を選り分けて、純粋な焔を立てさせるのが文明です。そして肝要なのは、そのいろんな焔のどれに就くかという方向だけです。焔を弱める必要はありません。」 「それなら、ただ一つの火だけ燃やしたらいいじゃないですか。」 「それはキリスト教の云う言葉です。ギリシャの多神教ではそんなことは云いません。そしてキリスト教では、三位一体なんてことを鋭いていますが、あの神は実は人間ではなく怪物で、ギリシャの多神教の神々こそ本当の人間です。」 「それでは一層のこと、人間を止してしまった方がいいわけですね。」 「そうです。」 今井が余り無雑作に肯定したので、中村は一寸意外な顔付で口を噤んでしまった。それから多少皮肉な調子で、病院に人体解剖を見に来ないか、人の頭の割れたのより遥かに参考になるかも知れない、などと云い出した。 「そんなものは駄目です。」と今井は答えた。「死んだ身体の解剖や、麻睡された者の手術なんかは、学者にしか用のないものです。はっきりした意識を持ってるぴんぴんした人体の解剖なら、私も是非見たいと思うんですが、そんなのは、野蛮人の間にしかないでしょう。」 「では戦争に行かれるといいですよ。」 今井は何とも云えない嫌悪の表情をした。 「あなたの理論から云いますと、」と中村は追求した、「戦争もいいじゃないですか。」 「戦争は人を狂人になすから嫌です。」 「どうしてです?」 今井は何とも答えないで、それきり押し黙ってしまった。 「もうそんな話は止しましょうよ。私嫌だわ。」と澄子が口を出した。 中村は何と思ったか、俄に笑い出した。そして、今晩頭の割れたお化が出るなどと澄子をからかいながら、話は他の方へ外れていった。ただ今井ばかりは一口も口を利かなかった。十二時が打つと、喫驚したようにして室へ上っていった。 「十二時になって慌てて寝るなんて、今井さんの柄にもないわ。」と澄子は小声で云った。然しそれは当っていなかった。今井は室にはいったが寝もしないで、長い間考え込んでいたのである。 そしてその晩のことは、或る印象を皆に与えた。辰代は、今井の話がよく分りはしなかったが、その全体から不気味な底深いものを感じて、多少畏敬の念の交った不安さを覚えさせられた。今迄単に変人だと思っていたものが、案外根深い所から来ているのであって、まかり間違えば、善にしろ悪にしろ、どんなことを仕出来すか分らない、といったような気がした。中村は、やはり今井を素直でない人間だと考え、衒っている――というのが悪ければ少くとも――僻んでいるのだと思った。澄子は、今迄通り今井を滑稽化して眺めたかったが、何かしら滑稽だとばかりは見做せないもののあるのを感じた。そしていろいろ考えた上、結局彼を野蛮人だとした。 所が或る日、その変人で夢想家で野蛮人である今井が、雨にびしょ濡れになって帰って来た。学校から戻ったばかりの澄子が、袴姿のまま出迎えると、彼は雫の垂れる帽子を打振って水を切りながら、足が汚れてるから雑巾を下さいと云った。それを聞いて、台所にいた辰代がバケツに水を汲んできた。今井さんにありそうなことだ、と澄子が思ってると、辰代の方ではこう云っていた。 「雨の中を傘もささずに歩いていらっしゃるってことがあるものですか。あなたも少しお友達の真似をなすって、傘を借りっ放しにしていらっしゃれば宜しいではございませんか。」 「いや図書館に行ってたんです。」 「あら、今井さんでも図書館にいらっしゃることがあって?」と澄子は云った。 「たまに行ってみたから罰が当ったんでしょう。霽れるのを待つつもりだったんですが、少し気分が悪いから帰って来ました。」 足を洗って上って来た彼の顔は真赤だった。その額に辰代が手をあててみると、火のように熱く感じられた。 「まあ大変なお熱でございますよ。すぐお寝みなさらなければいけません。……澄ちゃん、床を敷いておあげなさいよ。」 澄子がまだ袴をつけてるのを見ると、辰代は自分から二階に上っていって、寝床を敷いてやり、濡れた着物を寝間着に着代えさしてやって、それから暫く枕頭に坐って様子を見守った。 「大したことじゃありません。」と今井は云った。「雨に当ったからかっとしたんです。少し寝ていればじきになおります。」 「でも兎に角、晩にはお粥が宜しゅうございますよ。拵らえて差上げましょう。」 そして辰代は夕方、粥や梅干や一寸した煮肴などを持っていったが、今井は何も食べたくないと云って、それには手もつけないで、ただしきりにお茶ばかり飲んでいた。小用に立って下りてくる時には、足がふらふらしていた。それでも大したことはないと云い張って、薬も手当も一切断った。 辰代は心配しだした。中村が病院から帰ってくると、診てやってくれと頼んだ。 「どうされたんです? 熱がおありですか。」 そう云って中村は今井の室にはいっていった。 「いや何でもありません。」と今井は天井を見つめたまま答えた。 「一寸脈を拝見してみましょうか。」 そして中村がにじり寄ろうとすると、今井は手先を挙げてそれを制した。傍から辰代も勧めてみたが、彼は承知しなかった。 「私で不安心でしたら、懇意な内科の医者を呼んであげましょうか。」と中村は云った。 「いいえそうじゃありません。私は医学を信じないんです。」 中村は微笑を洩らした。 「医者の大家には、よくそう云う人がありますが……。」 「医学くらい進歩していない学問はありません。」と今井は云い進んだ。「医学が一番進んでいる、などと云う人がありますが、真赤な嘘です。私はこう思うんです。凡そ天地間のあらゆる生物、または現象には、それに反対の生物や現象が必ずあるものです。そして病気に対して、その直接の反対のものを探し出すのが、医学の仕事でしょう。所が現在の医学では、そういうアンチ療法ということは、ごく僅かしか行われてやしません。行うことが出来ないんです。それで大抵は廻りくどい間接療法ばかりです。間接療法をやってるうちには、病気の方で衰えて、それで癒ったように見えることもありますが、それは偶然の結果で、実を云うと、病気は独りでに自然に癒ったのです。そして多くは、間接療法のために他の器官が弱らされて、回復が長引くばかりです。そんなことになるよりは、自然のまま放っておく方がましです。癒るものなら必ず癒るし、死ぬものなら必ず死にます。」 「驚きましたね、あなたから医学の講義を聞こうとは思いませんでしたよ。」そして中村は取ってつけたような笑い方をした。「そうするとあなたは……運命論者ですね。」 「反対です。生きるも死ぬるも自分の手で処置したいから、あやふやなことに望みをかけないだけです。」 中村が何か云い出そうとすると、辰代はその袖を引張った。それで彼はただこう云った。 「その議論は全快されてからにしておきましょう。そして……いやそれくらい頭がはっきりしていられるんですから、大丈夫必配なことはありません。一寸した冷込みでしょうから、温くして寝ていられるがいいですよ。」 中村が出て行こうとすると、今井は身を起しかけたが、手で制せられて、またがっくりと頭を枕につけた。 辰代は中村の後を追っかけて、階下に下りてきた。 「ほんとに喫驚なさいましたでしょう。私もあんな人だとは思いませんでした。どうぞお気を悪くなさらないで下さいましな。ああいう変った方ですから、悪気で仰言ったのではございませんでしょうし、熱の加減もあったでしょうし……。」 「なあに私は何とも思ってやしません。それでも、医学の説明を聞かされたには一寸驚きましたね。」 「そして、どうなんでございましょう?」 「自分で大丈夫だと云っていますから、それより確かなことはありませんよ。ただ頭だけは冷してやった方がいいんですがね。」 「ではそう致しましょうか。」 辰代は水枕をしてやり、額を水手拭で冷してやった。今井は黙ってされるままになっていた。そのうちにすやすやと眠った。辰代は少し安心した。 所がその晩、辰代と澄子とがもう寝ようと思って、二階の様子に耳を傾けると、かすかな呻き声が聞えた。辰代は驚いて上っていった。見ると、今井は半ば布団から乗り出し、額にじっとり汗をにじませ、夢現のうちに呻っていた。身体が燃えるように熱くなって、熱っぽい息をつめながら呻っていた。辰代は狼狽し出した。そして澄子を呼んだ。 「まあ、大変な熱だわ。」と澄子は叫んだ。 「中村さんをお起ししましょうか。」 「でもお母さん、またあんなことになったら……。」 「それもそうですね。どうしましょう?」 「氷で冷したらどうかしら。」 そして取敢えず、澄子が水手拭で額を冷してやってる間に、辰代は氷を買いに出かけた。もう十二時近くだった。近所の氷屋へ行って、幾度も戸を叩いて、漸く起きてきたのに尋ねると、氷は無くなったとの返辞だった。辰代は口の中で不平をこぼしながら、少し遠くの氷屋へ行きかけたが、懇意な家でさえこうだから……と見切りをつけて、急いで帰ってきた。 それから辰代と澄子とは、寝もしないで今井の頭を冷してやった。水枕の水も金盥の水も、水道ので初めからそう冷くはなかったが、すぐ湯のようになった。幾度も取代えて来なければならなかった。 雨はまだしとしと降り続いていた。夜が更けるに随って、雨が霽れてゆくのか、或はその音が闇に呑まれてゆくのか、あたりはしいんと静まり返った。時々呻り声を出したりぼんやり眼を見開いたりする今井の顔を、二人はじっと見守っていた。どうしたことか、天井裏の鼠の音さえしなかった。それにふと気付くと、澄子はぞっと水を浴せられたような気になった。 「あなたはもう寝んでいらっしゃい。明日学校があるから。」と辰代は云った。 澄子はただ頭を振った。低い母の声までが無気味だった。今井さんは死ぬんじゃないかしら、とそんな気もした。辰代が水を取代えに立ってゆくと、彼女は自分でも訳の分らないことを一心に念じながら、今井の額の手拭を平手で押えてやった。ずきんずきん……という音のようなものが、手拭越しに伝わってきた。 そのうち次第に今井の熱は鎮まってゆくようだった。それでも二人は、夜明け近くまで冷してやった。ごく遠くの方から、かすかなざわめきが起ってきて、寝呆けたような汽笛の音がした。それから暫くたった頃、すやすや眠っていた今井は突然眼を開いてあたりを見廻した。 「お気がつかれましたか。」と辰代は云った。「ひどいお熱でございましたよ。」 今井はぼんやり二人の顔を見比べていたが、ふいに上半身を起しかけた。辰代がそれを引止める間もなく、其処に手をついて頭を下げた。 「有難うございました。」 そして呆気にとられてる二人の前に、はらはらと涙を流した。 「どうなすったのです! 寝ておいでなさらなければいけません。」 きつい調子でそう云いながら、辰代は彼を寝かした。彼はおとなしく頭を枕につけたが、閉じた眼瞼からは涙がにじみ出してきた。それを見て、辰代も澄子も何となしに涙ぐんだ。 暫くすると、今井はまた眼を見開いた。 「まだ夜は明けませんか。」 「もうじきでございますよ。」 それから、二人でなお頭を冷し続けてるうちに、今井は本当に眠ったらしかった。
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