一
四月末の午後二時頃のこと、電車通りから二三町奥にはいった狭い横町の、二階と階下と同じような畳数がありそうな窮屈らしい家の前に、角帽を被った一人の学生が立止って、小林寓としてある古ぼけた表札を暫く眺めていたが、いきなりその格子戸に手をかけて、がらりと引開けるなり中にはいった。其処の土間から障子を隔てた、玄関兼茶の間といった四畳半の、長火鉢の前に坐っていた女主人の辰代が格子戸の音に振向きざま、中腰に二三歩して、片膝と片手とを畳につき、するりと障子を引開けてみた。が、互に見知らぬ顔だった。 「甚だ突然ですが、実は……。」 出迎えが余り早かったので学生は一寸面喰った形で、そう云い出したまま後は口籠ったのを、辰代は人馴れた調子で引取った。 「何か御用でございますか。」 誘われたのに元気づいてか、学生ははっきりした言葉使いで云い出した。 「私は帝大の文科に通っている、今井梯二という者です。お宅で室を貸して下さることを、友人に聞いて参ったのですが、貸して下さいませんでしょうか。」 「それでは、あの、どなたかお友達の方が……。」 「ええそうです。」と、今井は俄に早口になった。「友人の友人がお宅にお世話になっていましたそうで、大変親切にして頂いて、非常に感謝していました。それを聞きましたので、お室が一つ空いていたら、私に貸して頂きたいと思って、参ったのですが。」 「左様でございますか。宅では、どなたか知り合いの方の紹介があるお方だけに、お願いすることに致して居りますけれど、そういうわけでございましたら、室の都合さえつけば宜しいんでございますが、只今一寸……。」 「いえ紹介なら、すぐにでも貰ってきます。是非貸して頂きたいんです。」 「それでも、空いてるのは四畳半一つでございますし、今日の夕方までに返事をするから、それまで誰にも約束しないでくれと、頼んでおいでになった方もございますし、今すぐと申しましては……。」 辰代は言葉尻を濁しながら、相手の押しの強い調子を、図々しいのか或は朴訥なのかと、思い惑った眼付で、先ずその服装を――古ぼけた角帽や着くずれた銘仙の袷や短い綿セルの袴や擦りへった山桐の下駄などを、一通り見調べておいて、それから詳しく説明した。二階の八畳と四畳半とを客に貸しているが、今空いてるのは四畳半の方で、食事は朝だけしか世話が出来ず、その一食附きで月に十五円であること、午と晩との食事は、自炊でも他処から取るのでも、それは客の自由であること、それが承知なら貸してもよいが、ただ、夕方までという先約の学生の返事を待たねばならないこと。 「そういうことになっておりますので……もしお宜しかったら、また夕方にいらして頂けませんでございましょうか。」 「夕方……。」と繰返して学生は可なりの間、何やら考えてる風だったが、辰代がまた口を開こうとすると、急に云い出した。「それじゃ、その人が駄目になったら、是非私に貸して下さい。朝飯だけ拵えて頂いて、午と晩とが自炊なら、丁度私に好都合なんです。四畳半で十五円、それで結構です。私は只今、苦学のような形式で勉強してるんですから、万事好都合です。よろしくお願いします。もしお差支なかったら、夕方まで此処で待たして頂けませんでしょうか、もうじきですから。どんな学生か知りませんが、朝飯だけで承知するような者はなかなかいやしません。夕方またやって来るなんて云うのは、体のいい口実です。大抵来やしません。よし来たって、断るに極っています。私の方に貸して下さい。夕方まで来なかったら、それで宜しいんでしょう。よし来たって、私が談判してやります。では此処で待つことにしますから。」 そして彼は玄関の式台に腰を下してしまった。辰代は呆気にとられた風で、一寸言葉もなかったが、それなら兎も角も上って待っていて下さいと、ほんのお座なりに勧めてみた。 「そうですか、それじゃ失礼します。」 躊躇もせずにのこのこ上りこんで、入口に近い片隅に坐り、角帽を傍に引きつけて、きちんとかしこまった。その様子が何だか滑稽じみていたので、辰代は一寸待遇してやる気になった。そして座布団と茶と菓子とをすすめた。然し彼はそれらには手もつけなかった。 「どうぞお構いなく。」 そう云ったきりで、狭い庭の方をじっと眺めていて、一応室を見るようにと云われても、端坐した膝を立てようともせずに、黙りこくっていた。 「お国はどちらでいらっしゃいますか。」と、辰代は語の接穂がないので尋ねてみた。 「鹿児島です。」と、彼は答えた。「鹿児島はいい処ですよ。」 そして彼は自ら進んで、鹿児島の風光明媚を説き出した。どの川の水もみな透明に澄みきっていて、一丈二丈ほどもある淵でさえ、底まで手にとるようで、魚の泳いでるのがはっきり見えて、釣をするのなんか実に愉快である。随って、そういう川の水の流れ込む海が、やはり底まで澄んでいて、魚の姿と一緒に桜島の影の写ってるのが、云いようもないほど綺麗である。 「水という水がすっかり、底まで澄みきってると思えば間違いありません。」と彼は結論した。 「それでは、舟になんか乗りましたら、恐うございましょうね。」 「恐いよりか綺麗です。……勿論、今じゃもう濁ってるかも知れませんが。」 「へえー。」と辰代は云ったきり、一寸挨拶に困ったが、それをうまくごまかした。「そうしますと、もう長くお国へはお帰りになりませんのですか。」 「三四年帰りません。」 「では高等学校もこちらで?」 「いえ、大学にはいって三四年になるんです。来年はもう卒業してやろうかと思っています。いつまでいてもつまらないですから。」 「そうでございますね、早くお卒業なすった方が宜しゅうございますよ。」 そこで彼がまた黙ってしまったので、辰代はそれをしおに座を立った。 「私はこうしてるのが勝手ですから、どうかお構いなく御用をなすって下さい。」 「それでは御免下さい。」 中腰でそう云い捨てて辰代が次の室へはいると、襖の影に娘の澄子が、今迄立聞きして居たらしくつっ立っていた。彼女はいきなり母の袂を捉えて、台所の方へ引張っていった。 「あの人変な方ね。」 「どうして?」と、辰代は聞き返した。 「だって、鹿児島では川の水も海の水も澄みきってるって、さんざん話してきかしといて、勿論今ではもう濁ってるかも知れないなんて、そんな云い方があるものでしょうか。ここが少し、」と彼女は頭を指先でつっついて、「どうかしてるんじゃないでしょうか。」 「まあ馬鹿なことを云うものではありません。大学生だというではありませんか、そんなことがあるものですか。」 「大学生だって当にはならないわ。三四年も大学にいるけれど、つまらないから来年は卒業してやるんだなんて、どう考えたって少し変だわ。」 「でもねえ、それは質朴そうないい人らしいですよ。」 「だからお母さんは買い被ってるのよ、あんな質朴があるものですか。お慈悲に室を借りてやるというような見幕で、家の中にまで上り込んできて、図々しいったらありゃあしないわ。お母さんもお母さんですよ、あんな人に上り込まれといて、お菓子まで出すなんて、あんまり人が善すぎるわ。」 「そんなことを云ったって、ああいう風になったのだから、仕方がないではありませんか。」 「いくら仕方がないからって、家に上げて待たせるって法はないわ。もし先の人が来なくって、晩にでもなったらどうするの。あんな図々しい人だから、明日まで待つと云い出すかも知れないわ。」 「まさか、そんな……。」 「そうでなくっても、もし不良書生の仲間だったらどうするの。」 「そんなこともないでしょうよ。」 「でも分りゃしないわ。」 澄子から説きつけられて、不安な眼付でじっと見られると、辰代の眼も、疑惑の色から不安の色に変ってきた。 「夕方になったら、何とか云って追い帰してしまいましょう。」 早口にそう云い捨てて、辰代はぷいと流し場の方へ下りて、娘に対する、また自分自身に対する、軽い腹立ちまぎれに、がちゃがちゃと用をし初めた。それを見て澄子は、またいつもの癖が初まったなという顔付で、そして素知らぬ風を装って、奥の室の隅っこへ行って、雑誌なんかを繰り拡げた。 所が澄子の杞憂は、それから一時間半もたたないうちに、意外なことのために打消されてしまった。 表の格子戸の音がして、何やら人声がするようだったので、辰代は一寸小首を傾げたが、濡手を拭きながら急いで出て行った。そして玄関の茶の間の入口に呆れたように立ち止った。その姿を見て、澄子も立っていった。先刻の学生が、玄関の障子を二尺ほど開いて、その向うに立っている誰かと対談しているのだった。 「そして君は、」と彼は云っていた。「本気でここの室に落着くつもりですか、それとも、一時かりに越してくるつもりですか、どちらです?」 「なぜですか。」と相手は尋ねた。 「朝一食だけで、午と晩とは、自炊をするか他処で食べるかしなければならないし、そういう不便を忍んでまで、あの狭い四畳半に落付くというのは、特別な事情のある者ででもなければ、一時の気紛れに過ぎないでしょう。それとも君には、何か特別の事情があるんですか。」 「私はまだ借りるとも借りないとも云いやしません。」 「こちらでもまだ、貸すとも貸さないとも云ってやしません。ただその前に、君の意志をはっきり聞いておきたいんです。」 「一体あなたは、此処の家の方ですか。」 「いや……一寸知り合いの者です。」 「それじゃ、御主人は?」 「不在です。だから私が代りにお話してるんです。」 辰代は襖の影から一歩踏み出しかけたが、学生の言葉に喫驚して、また身体を引籠めてしまった。 「それではまた来ます。」と向うの男は云った。 「そして室はどうするんです?」 「考えてからにします。」 「其処で考えたらいいでしょう。何もむずかしいことではないんですから。」 「じゃあ借りません。」 「では破約しますね。」 「破約ですって……私はまだ借りると約束した覚えはありません。」 「そんならそれでいいです。お帰りなすって構いません。」 「そうですか。」 そして手荒く閉める格子の音が聞えたので、辰代は何ということもなしに、慌てて飛んで出た。学生は平気で振向いた。 「やあ、すっかり聞いていられたんですか。」 辰代は表の方を覗き見ながら云った。 「あなたあんなことを!」 「なあに構うもんですか。あんなあやふやな奴は駄目ですよ。借りるならどんなことがあっても借りる、借りないなら断じて借りない、という風にはっきりしていなければいけません。あんな意志の弱い煮えきらない者をおかれても、碌なことはありません。」 辰代は仕方なしに腰を下してみたが、それでも心が落付かなくて、また立上って奥の室へはいっていった。其処には澄子がくすくす笑っていた。それを此度は辰代の方が、台所へ引張っていった。 「何を笑ってるのですよ!……どうしましょう?」 「あの人にお室を貸したらいいじゃありませんか。」 「でもねえ、あんなでは……。」 「随分図々しい人だけれど、あの人のは、図々しさを通り越して滑稽だわ。」 そして澄子はまたくすくす笑い出した。 「笑いごとではありませんよ、あんな人だから、またどんなことを仕出かすか分りはしません。何とか云って断ってしまう工夫はないでしょうかね。」 「大丈夫よ。あれで案外質朴な人かも知れないわ。もし変なことになったら、中村さんにでも伯父さんにでも云って逐い出してしまったらいいじゃありませんか。」 「それもそうですね。」 そして辰代は恐る恐る出ていった。見ると、学生は首を垂れて考え込んでいた。その顔をひょいと挙げて、辰代の視線にぶつかると、すぐに眼を外らして、いきなり一つお辞儀をした。 「私は何か悪いことをしたんでしょうか。悪いことをしたんでしたら、いくらでも謝ります。」 「いいえ、そんなわけではございませんが……。」 辰代は口籠りながら奥の室を顧みた。 「それでは私に室を貸して頂けますでしょうか。」 その懇願するような眼付を見て、辰代は心の据え場に迷った。そして助けをかりるような気持で、奥の室の娘の方へ呼びかけた。 「澄ちゃん、お茶でもおいれなさいよ。」 澄子が立って来て、お辞儀をすると、学生は眼を見張った。 「あの、どなたかお家の方ですか。」 「娘でございますよ。」 「あそうですか。失礼しました。」 彼はきちんと坐り直して、とってつけたように低くお辞儀をした。その様子を下目にじろりと見やって、澄子はくくっと忍び笑いをした。辰代はその袖を引張った。 「この方が二階の室を借りたいと仰言るんですが……。」 云いかけた所を、澄子の笑ってる眼付で見られて、辰代は自分の余りな白々しさが胸にきて、文句につまってしまった。それへ向って、学生はまた一つお辞儀をした。 「どうか願います。」 ぷつりと云い切って、身を固くかしこまったまま、もう身動き一つしなかった。 暫く沈黙が続いたのを、辰代が漸う口を開いた。 「私共ではこの二人きりで、手不足なものでございますから、何もかも不行届きがちになりますけれど……。」 「なに結構です。それでは今晩参ります。」 「あの今晩すぐに……。」 「ええ。学生の引越しなんか訳はありません。」 彼はもう立ちかけていた。 「では急ぎますから、失礼します。」 辰代と澄子とは、彼をぼんやり玄関に見送った。それから障子を閉めきると、辰代はほっと吐息をついた。 「私あんな人は初めてですよ。」 「でも正直そうな人じゃありませんか。少し変ってるけれど、ひょっとすると……あれで天才かも知れないわ。」 天才という言葉がすぐには腑に落ちかねて、辰代は眼を瞬いた。 「本当に今晩越してくるのでしょうか。」 「あんな人だから、屹度来るに違いないわ。」 「それなら掃除をしておかなければなりませんね。」 綺麗好きな辰代はすぐに二階の四畳半の掃除にかかった。先ず室を掃き出しておいて、押入や畳に一々雑巾をかけた。それが済むと、もう夕食の時間になっていた。 食事中に辰代はふと思い出して云った。 「電気会社へ行ってこなければなりませんね。」 「どうしてなの。」 「あの人が来て早々から、電気がなくては困るでしょうよ。」 「いやだ、お母さんは。電気はつけ放しじゃありませんか。」 「そうでしたかしら。」 それでも彼女は、二階へ上って見て来なければ安堵しなかった。 卒業したばかりの若い医学士で、二階の八畳を借りてる中村が、病院から帰って来て、和服にくつろいで、玄関の茶の間で煙草を吹かしてる時、そして、辰代が澄子に手伝わして、台所の後片付けをやってる時、大学生は引越して来た。布団の包みと柳行李を一つと白木の机、それだけの荷物をつんだ車の後から、一人でてくてく歩いて来た。 「今日から御厄介になります。」 形ばかりに膝をついて、誰へともなく云ってから、彼はすぐに荷物を二階へ運び初めた。辰代はそれを手伝って、なおその上に、室の中の整理を手伝おうとした。押入も畳もすっかり雑巾がけをしておいたこと、押入の中には新聞紙を敷いといたから、その上にそっと荷物をのせること、机は窓の下に据えるがいいこと、などといろんな注意をして、今にも自分から荷物へ手をつけそうにした。大学生はその親切を却って迷惑がってる様子で、しまいには坐り直して云った。 「有難うございました。後は自分でしますから、どうか構わないでおいて下さい。」 「それでは、」と辰代は素直に応じて、「少しお片付きになりましたら、階下においで下さいませ。お茶でもおいれ致しますから。手前共はこういう風でございまして、何にもお構い出来ません代りに、家の者同様に思って隔てなくして頂きます方が宜しいんでございます。」 「ええ、どうぞ。」と彼は云った。 その可笑しな挨拶には気にも留めないで、辰代は階段を下りていった。 階下では、澄子が中村に向って、昼間のことを話してきかしていた。そこへ辰代はいきなり横合から云い出した。 「大学生にしては、随分荷物の少い方ですね。」 「だって、」澄子が応じた、「苦学をしてるとか仰言ってたじゃありませんか。」 「でもねえ、いくら何だって、本箱の一つくらいありそうなものですがね。」 「本箱は頭の中にしまっとく方がいいですよ。」と中村が云った。 「あんまり荷物が少なすぎますよ。」 辰代は自分一人の繰言をしながら、台所へやっていった。そして残りの用を済し、何か繕い物を持出してきて、室の隅に蹲った。 澄子はまた話の続きを初めていた。大学生とも一人の学生との応対の所になると、彼女と中村とは、はっと気付いて口を噤まねばならなかったほど、愉快な高笑いを洩らした。 「私あの方を、」と澄子は云った、「まるっきりの田舎者か、それとも偉い天才か、どちらかと思ってよ。」 「そうだね。」そして中村は考え深そうな眼付をした。「わざと衒っているのじゃないかしら。」 「いいえ、ありのままよ。衒うことなんか、これっぱかしも出来そうにない人だわ。」 「もしそうだったら、その変梃なのが正直な所だったら、澄ちゃんが云うように天才かも知れないね。」 「どうして?」 そこで中村は、医学上の見地から天才というものを解釈して、天才とは結局、頭脳の一部分が極度に発達して、他の部分が萎縮してしまってる、一種の不具者だとした。澄子はそれに反対して、天才にもやはり立派な人格者がいると云い、その例に、トルストイやナポレオンを持ち出した。中村はそれを打消して、そう思うのは遠く離れて見るからだと云い、近寄って見ると天才は皆不具者だと説いた。 「一番いい例は、二階のあの人だね。近く寄って見るから変梃に見えるので、遠く離れると立派な人格者に見えるものだよ。」 「そんなことないわ。」 「じゃあ澄ちゃんは、あの立派な天才を、天才ではないと云うのかい。」 澄子は眼をくるりとさしたが、瞬間に、手を挙げて打とうとした。 「まあ憎らしい!」 そのはずみに、火鉢の鉄瓶を危く引っくり返そうとした。 針仕事の上に首を垂れて、こくりこくりやっていた辰代が、喫驚して眼を開いた。 「何をしてるんですよ!」 澄子が笑い出したので、彼女ははっきり眼を覚してしまった。 「お二階の、あの方は?」 それで初めて気がついて、皆は耳を澄してみた。二階はひっそりと静まり返って、ことりとの物音もしなかった。 「そうそう、まだお茶も出さないで……。」 辰代は慌て気味に茶菓子を用意して、二階の四畳半に上っていった。 すると大学生は荷物を運び込んだままの室の中で、布団の包みに頭をもたせ、仰向に寝そべって、まじまじと天井を見つめていた。
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