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連句雑俎(れんくざっそ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-4 17:30:24 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     四 連句の心理と夢の心理

 連句の付け合いに関する心理的過程には普通文学における創作心理に比べてよほど特異なものがあるであろう、ということは初めから予期されることである。もしこれがしかるべき心理学者によって研究されればその結果はわれら連句の徒弟に対して興味があり有益であるというだけでなく、一般心理現象中で他の場合にはあまり現われないような特異な潜在的現象を追跡し研究するための一つの新しい道を啓示するような事にもなりはしないかと思われるのである。
 私は心理学者でもなく、また連句の制作についてもきわめて乏しい体験しかもたないから、このような大問題に対してなんら解決のかぎを与えるような議論を提出する資格はないのであるが、試みに自分の浅い経験と知識を通してこの問題の一分野を瞥見べっけんしたままの所見を述べてみることとする。
 眼前に一つの長句なら長句が「与えられたる前句」として提供されている。私がその句をじっと見つめていると、その句のおもてに一つのとびらが開かれて、その向こう側に一つの光景なり場面なりが展開される。見ているうちにその視界がだんだんに上下左右にもまた前後にも広がって行き、そうしてその中にいたあるいはった人物も風景も、それからそれへと活動写真のように変転推移して行く。もしこれをそのままに放任して行けば末はどこまで行くかわからない。しかし私は途中でこのあてなしの逍遙しょうようを切り上げもう一ぺん元の所へ立ち帰り「前句」の場面に立ちもどってしかとこれを見直してみる。すると前には見えなかった別の扉のようなものがすうと開いて、それをはいって行くと前とはまたまるでちがった風物の花園が眼前に広がって行くのである。そういうことを繰り返していると単なる前句の十七字には無数の扉があり窓があって、それがみなそれぞれの世界への入り口であることに気づくのである。
 しかしこういう漫歩的見物をしているだけでは所要の付け句はできない。付け句を構成するためにはそれ以前に考慮さるべき若干の制約が規定されている。第一は季題に関するもので、たとえば「秋」あるいは「ぞう」でなければならないとすれば、前記の逍遙中に出会ったものはこれによって第一段の整理を受ける。次には前々句との関係による制約であって、前々句が海に関したものとかまた座敷に関したものであれば、それと同種のものは捨ててしまわなければならない。そこで材料は第二段の淘汰とうたを受けることになる。次には前々句よりももっと前の句列いったいへの考慮であって、そこにはたとえば人事の葛藤かっとうがあまり多く連続しておりはしないか、あまりに多くの客観的風物がもたれ込んでおりはしないかを考えて、そこでさらに第三段の削除を行なわなければならない。まずこれだけの整理によってその後に保留されたものならば、それはいずれもある程度までは「求むる付け句」への候補者としての予選に堪えたものである。さて試みにその一つを取ってこれを前句に並列してよくよくながめてみる、するとそれは多くの場合にたいていはあまりに付き過ぎたものになっていることを発見するのが常である。これはむしろ当然なことである。私はただわずかに前句の壁のとびらを一つくぐったすぐ向こう側の隣の庭をさまよっているからである。この次に私は通例どうするかと思ってみると、その場合に採る一つの方法は、かくして得た付き過ぎの「第一次付け句」をとって、あたかも前に「前句」に対して行なったと同様な取り扱いをこれに適用するのである。そうして得たあらゆる隣接観念の世界に対して、以上の淘汰とうた整理をもう一ぺん行ない、そうして生き残った若干の結果の中から試みに「第二次の付け句」を構成して、それを再び「所定の前句」に対照してみるのである。そのようにして、第三次、第四次の付け句を作って行くうちには必ず少なくも自分では適当と思われるものの骨格だけは得られるのである。それでもどうしても思わしくない場合にはこれは断念放棄して、さらに第二の予選候補者を取り上げて同様な推敲すいこうに取りかかるのである。
 以上はただ付け句の素材だけについての選択の過程であって、それの表現法いかんについてはさらにまた全然別途の主要な作業が始まるわけであるが、そういう方面の問題はこの項ではいっさい触れないことにしようと思う。ともかくも普通はまず素材がきまってからその上での表現であるから、付け方の第一歩は、持って来る「もの」や「こと」の適否にあることはもちろんである。もっとも、少し立ち入って考えると、実際はそう簡単には言ってしまわれない。というのは、表現ということと素材というものとはそれほど切れ離れたものでなくて、同じ素材でも表現のしかたで完全に別の素材として完全なる役目を果たすことがありうるからである。しかしこの問題もここには手をつけないでしばらくそっとしておく。そうしてもっぱら自分の体験としての素材選択の心理的過程のみについて考えてみているのである。
 さて上記の付け句の制作過程は便宜上分析的に整頓せいとんしてみただけであって、制作当時実際にこのとおりに意識的に行なっているのではない。場合によっては第四次第五次の付け句素材までが一分間ぐらいの間に相次いで電光のごとく現われては消えることもあり、また第一次の付け句の世界に足を踏み込んだきりなかなか抜けなくなり、一日も二日ももがかなければならないこともしばしばあるのである。
 このようにして、前句と後句とは言わばそれぞれが錯綜さくそうした網の二つの結び目のようなものである。また、水上に浮かぶ二つの浮き草の花が水中に隠れた根によって連絡されているようなものである。あるいはまた一つの火山脈の上に噴出した二つの火山のようなものでもある。しかしこれだけの関係ではあまりに二句の間の縁が近すぎ姿が似すぎて結果はいわゆる付き過ぎである。むしろ一つの非常に精巧な器械の二つの部分が複雑きわまる隠れた仕掛けで連結していて、その一方を動かすと他方が動きまた鳴りだすような関係である。それほどの必然さをもって連結されていて、しかもその途中のつながりが深い暗い室の中に隠れているような感じを与えるものが連句の上乗なものでありはしないかと思うのである。
 これについて思い出すのは近ごろの心理分析学者ことにフロイドの夢の心理に関する考察である。夢は東洋では五臓の疲れなどと言われ、また取り止めもないものの代表者としてあげられ、また一方では未来の予言者としてだいじに取り扱われもした。西洋でも同様であったらしい。しかしいわゆる「夢判断」はフロイドの多年の研究によって今までとはちがった意味をもって甦生そせいし、迷信者の玩弄物がんろうぶつであったものがかえってほとんど科学的に真な本能的の「我れ」を読み取る唯一の言葉であるように思われて来たのである。顕在的なる「我れ」のみの心理を学んで安心していたわれわれは、この夢の現象から潜在的「我れ」の心を学び知って、愕然がくぜんとして驚きまた恐れなければならなくなったようである。そうして私はまたこの夢の心理なるものがはなはだしく連句の心理に共有なる諸点を備えていることを発見して驚かなければならないのである。
 フロイドの考えでは顕在的な「夢内容」の底には潜在的な「夢思想」なるものが流動している。前者の表面的な並列はいわゆる夢のような幻影の無意味な行列に過ぎないのであるが、これらの「夢内容」を形成する象形文字のような影像を一つ一つ夢思想の国のこれに相当する言葉に翻訳してみれば、それはちゃんとした文章となり、そうしてそれは驚くべくおそるべきわが内部生活の秘密を赤裸々に記述するものとなるのである。しかもその一つ一つの象形文字のような夢内容は驚くべく多様な夢思想の圧縮されたエッセンスであり、またはなはだしく複雑な夢思想の網目の接合点である。それらの接合点のうちでも、その人のその日の、その前日の、また生涯しょうがいの経験――意識的ないし無意識的――の最も多くを結びつけるに都合のいいような、そういう特別な接合点が、その夜の夢の内容の一つとして象形文字的に選ばれて現われて来るのである。たとえばフロイドが「植物に関する彼の著書が彼の前に置かれてあり、そのぺージをめくっていると一枚の彩色絵がさし込んであり、また一枚の※(「月+昔」、第3水準1-90-47)さくようがとじ込んである」という夢を分析した結果によると、この「植物学の著書」というだけの一見きわめて簡単なる内容が実は非常に多様な体験を接合するための一つの中間介在物であり、言わば扇のかなめのようなものになっている。すなわちこれはその日偶然通りかかったある店先で見た他人の他の事に関する植物学の著書につながると同時に、自分の昔書いたある論文につながり、次いでその論文に連関した大学研究室のいろいろの出来事につながり、また一方ではある眼科医へつながる。この眼科医とその前日現に出会って用談をしているうちに邪魔がはいって談を中絶された事があったのである。それからまたその「植物の」というだけがある他のプロフェッサーからその美しい夫人それから他の婦人患者といったふうにいろいろの錯綜さくそうした因果の網目につながっている。かくのごとくにしてこの一見はなはだつまらぬ「植物学の著書」はこれらの多数な夢思想の全体を引率するに最も適当な、扇のかなめのようなものとして便宜上代表的に選ばれてその夜の夢の顕在的夢内容として現われたというのである。
 連句の一句の顕在的内容は、やはりその作者の非常に多数な体験のかなめである。そうしてその多くの潜在的思想の網が部分的に前句と後句に引っかかっているのである。もちろん前句には前句の作者の潜在思想の網目がつながっているのであるが、付け句の作者の見た前句にはまたこの付け句作者自身の潜在的な句想の網目につながるべき代表的記号が明瞭めいりょうに現われているのである。そうしてまたこの二つの句を読む第三者がこの付け合わせを理解し評価しうるためにはこの第三者の潜在思想中で二句が完全に連結しなければならないのである。しかもこの際読者の網目と前句作者の網目と付け句作者の網目とこの三つのものが最もよく必然的に重なり合いけ合う場合において、その付け合わせは最もすぐれた付け合わせとして感ぜられるのである。
 このような機巧によって運ばれる連句の進行はたしかにフロイドの考えたような夢の進行に似ているのである。しかし夢の場合はそれが各個人に固有なものであって必ずしもなんらの普遍性をもたなくてもよい。しかし連句においては甲の夢と乙の夢との共通点がまた読者の多数の夢に強く共鳴する点において立派な普遍性をもっており、そこに一般的鑑賞の目的物たる芸術としての要求が満足されているのである。
 以上のような連句と夢との心理の比較はまた連句の解釈という仕事に一つの新しい立場を与えるであろう。この立場から見ると従来の多くの連句の評釈は往々はなはだしく皮相的でありあるいは偏狭でありあるいは見当違いであるということになるかもしれない。また一方こういう立場から連句を研究することによって心理学者はわれわれの心理の潜在的過程に関して有益な幾多の事実を発見する機会に接するかもしれない。
 これらについてはなお述べ尽くさないところもあるが、紙面の制限のためにこれまでにとどめて余事は後日に譲ることとする。もしできれば若干の実例について分析を試みたいと思うのである。

(昭和六年七月、渋柿)


     五 連句心理の諸現象

 連句制作の心理と鑑賞の心理とは必ずしも一致すると限らない。作者が前句を与えられてそれに付け句を提出するまでの心理的経過はその作者に独自なものであって当人以外にはだれにもわからないものである。しかし、そうしてできあがった一連を与えられた鑑賞の目的物とする読者がその前句を味わった後に付け句に取りついてそれをはっきり見定めている間に、その読者の頭の中に起こって来る心理的過程が少なくも部分的には付け句作者の創作当初の心理を反映しなければならない。そうでなければその付け句は失敗であり、不可解である。これはいかなる芸術にもある度までは共通なことであるが、小説や戯曲のようなものではこれは第一義に属しない従属的要素である。それは作物自身が読者の心理過程の軌道を明確に指定しているからである。言わば電車や汽車のレールのようなものである。これに反して連句の場合は、言わば町から町、宿場から宿場への旅の道筋を与えられないで、ただ出発点と到着点とを指定されるだけである。その間をつなぐ道筋はいくつもあり途上の景観にもまたさまざまの異同がある。それでも、どの道筋にも共通に、たとえば富士が右手に見え近辺に茶畑が見えなければならないといったような要求が満たされなければならない。そういうわけであるから連句の場合には特に創作心理と鑑賞心理との区別を立てて考察する必要があるのである。この区別を立てて考えなければ一連の連句を充分に分析し正当に理解することはできないであろう。
 従来連句の評釈をしたものを見ても、この区別を判然と立てないためにいろいろの疑問が起こったり議論があったりする場合が多いように思われる。多くの場合に創作者の心理分析に傾いた評釈はいわゆる「うがち過ぎ」として擯斥ひんせきされ、「さまでは言わずもがな」として敬遠されるようである。これは連句を単に鑑賞するだけの立場からはもっともなことであるが、連句というものをほんとうに研究するには不都合な態度である。のみならず自分で連句の創作に手をつけるものにとっては、この点の研究が最もたいせつなものと私には考えられるのである。そればかりか、鑑賞のみの目的でも真に奥底まで入り込んで鑑賞をほしいままにするためには、一度はこの創作心理のミステリーに触れることが必要であろうと思われるのである。われわれは「うがち過ぎ」をこわがらないで「言わずもがな」をけ飛ばして勇敢に創作心理の虎穴こけつに乗り込んでみなければならない。しかしこれはなかなか容易な仕事ではない、一朝一夕に一人や二人の力でできうる見込みはない。そうかと言っていつまでも手をつけずにおくべきものでもない。たとえわれわれの微力ではこの虎穴の入り口でたおれてしまうとしたところでやむを得ないであろう。
 創作心理の上から見てすぐに問題になるのは、連想作用のことである。連句制作の機構の第一要素が連想であることは言うまでもない。しかしこの連想による甲乙二つの対象は決して簡単な論理的または事件的の連絡をもっているものではなくて、たとえば前条に述べた夢の中の二つの物のつながりのように複雑不可思議な糸によってつながっているのである。夢の中ではたとえば蝋燭ろうそくやあるいはまたじめじめした地下の坑道が性的の象徴となる場合がある。またこれに相当する例は芭蕉初期時代の連句には往々ある。また重いものをかついで山道を登る夢が情婦とのめんどうな交渉の影像として現われることもある。古来の連句の中でもそういう不思議な場合の例を捜せばおそらくいくらでも見つかるであろうという事は、自分自身の貧弱な体験からも想像されることである。
灰汁桶あくおけのしずくやみけりきりぎりす」「あぶらかすりて宵寝よいねする秋」という一連がある。これに関する評釈はおそらく今までに言い尽くされ書き尽くされているであろうと思う。しかし心理学的連想の実例を捜している一学究としてあらゆる芸術的の立場を離れて見たやぶにらみの目には、灰汁のしずくと油のしたたりとの物理的肖似がすぐに一つの問題の焦点となるであろう。また灰汁のしずくが次第にその流量を減じてとうとう出なくなってしまう、その量対時間関係が「油かすりて」欠乏する感じに照応するのである。これは鑑賞的には全くいわゆる「うがち過ぎ」た無用の詮議立せんぎだてに相違ないのであるが、心理学的には見のがすことのできない問題である。従って創作心理の研究者にとっては少なくもひとまずは取り上げて精査してみなければならない問題である。「あぶらかすりて」の次に「新畳あらだたみ敷きならしたる月影に」の句がある。ここでも月下の新畳と視感ないし触感的な立場から見て油との連想的関係があるかないかという問題も起こし得られなくはない。これはあまり明瞭めいりょうでないが「かますご食えば風かおる」の次に「ひる口処くちどをかきて気味よき」の来るのなどは、感官的連想からの説明が容易である。
 二つのものの感じの共通というのでなくて、二つのものの外面的関係から呼び出される連想としては「身はぬれ紙の取り所なき」に対する「小刀の蛤刃はまぐりばなる細工箱」のごときがそれである。ぬれ紙が小刀を呼び出したのである。もちろん芸術的の価値は全く別問題である。
 物質から来る連想の例では「居風呂すえふろの屋根」「とどひのき」「赤い小宮」と三つ続くようなのがある。
干葉ひばのゆでじる悪くさし」「掃けば跡からまゆみちるなり」「じじめきの中でより出するり頬赤ほあか」の三句には感官的に共通な連想があるのみならず、空間的排列様式の類似から来る連想がある。「生きながらすぐに打ちこむひしこづけ」「むくの実落ちる屋根くさるなり」なども全く同様な例である。こういう重複はもちろん歓迎されないものである。
 こういう例はあげれば際限はない。そうしてこういう例として適当なものは、連句として必ずしも上乗なものではなく、むしろあまりよくないほうが多いかもしれない。それはむしろ当然である。連想で呼び出される第一影像はただ一つの可能な付け句の暗示に過ぎないので、それだけでは決して付け句は成立しない、この第一影像を一つの階梯かいていとして洗練に洗練を重ねた上で付け句ができあがるべきはずである。
 そういう階段としてはその連想がいかに突飛であってもそれはなんのさしつかえもない、最後の成果がよければよいのである。たとえば「雪の跡吹きはがしたるおぼろ月」の前句を見てふいと「蒲団ふとん」という心像が現われたとしても、だれがそれをとがめうるものがあろうか、まただれがその心像の由来の合理的説明を要求するであろうか。その連想の底に雪雲と蒲団との外形的連想がありあるいは「はがす」という言葉が蒲団を呼び出したとしてもそれは作者の罪ではない。ともかくもその突然な「蒲団」の心像を踏段として「蒲団丸げてものおもい居る」という句ができあがってしまえば、もはやそんな連想は必ずしも問題にしなくてよい。読者にとってはむしろ問題にしないほうがよいのであろう。そうして単に雪後の春月に対して物思う姿の余情を味わえば足りるであろう。
 連想には上記のように内容から来るもののほかにまた単なる音調から来る連想あるいは共鳴といったような現象がしばしばある。これはわれわれ連句するものの日常経験するところである。全く無意識に前句または前々句等の口調が出て来たがるので当惑することがしばしばある。これらは多くの場合直ちに訂正されるからできあがったものには痕跡こんせきを現わさないはずであるが、それでも時には見のがされた残滓ざんしらしいものが古人の連句にもしばしば見いだされる。たとえば前掲の「ふとん」の次に「不届」「はっち」と三つのFTの結合が現われている。「けんかく」の次に「こまかく」が来たりするのも必ずしも偶然とは思われない。もうすこし不明瞭ふめいりょうなのでは「えるや山陰伝う四十から」の次に「むねをからげる」があり、「だだくさ」の次に「いただく」があり、「いさぎよき」の次に「よき社」がありするのも同様である。こういう無意識の口移りは付け句には警戒されたのが三句目四句目にうっかり頭をもたげる例も少なくない。
 同様な部類に属するのは「ほかほかと……いぼいいで」に次いで「ほろほろ……こぼるる」の来るような擬音的重畳形容詞の連続する例である。これは連続する場合もあり、四五句目に現われる場合もはなはだ多い。上の例では「ほろほろ」から四句目に「だんだんに」が来る。同じ百韻中で調べてみると前のほうにある「とろとろ」はだいぶ離れているが、ずっとあとに来る「ほやほや」と「うそうそ」とは五句目に当たる。『そらまめの花』の巻の「すたすた」と「そよそよ」は四句目に当たる。『梅が香』の巻の「ところどころ」と「はらはら」も四句目である。もちろんこれには規約的な条件も支配していると思われるが、心理的にこれらの口調が互いに相吸引していることは争われない。これはおそらく統計学的にも証明し得られるであろうと思う。
 数字と数字との連想も半ば内容的であるが半ばは音調的の口移りから呼び出されるらしい。たとえば『そらまめの花』の巻には「七夕たなばた」の七の字があるだけで本来の「数字」は一つもないのに、『八九間』の巻には「小鳥一さけ」にすぐ続いて「十里あまり」が来る。『振り売りの』の巻にある「二十八日」から八句目に「七つさがり」があり、すぐ続いて「五十石取り」があり、ずっと離れて「四つのかね」と「三月」がある。その他『鉄砲の遠音』の巻に「なまぬる一つ」と「碁いさかい二人」と続くような例ははなはだ多い。もちろんこれに関しても何かの規約はあったかもしれないが本来は心理的の立場から説明さるべき現象である。
 以上は主として前句と後句の間の関係だけについての考察であったが、三句目四句目等に及ぼす連想の影響についても考うべき事ははなはだ多い。
 遺伝に関してアタヴィズムの現象があるように、連句の連続においてもある一句がその前句よりもいっそう前々句に似たがる傾向がある。いわゆる打ち越しに膠着こうちゃくし、観音開きとなって三句がトリプチコンを形成するようになりたがるものである。これはもとより当然のことである。前句の世界と前々句の世界とは部分的にオーヴァーラップしており、前句と後句ともまた部分的に重合しているのであるから単にプロバビリティーから言ってもそうなりやすいのみならず、まだその上にいっそうそうなりたがる心理がある。それは前々句と前句との付け合わせを「味わう」ことによってこの前二句の重合部が特別に後句作者の頭の中に大きくはびこってしまって、前句の世界を見ているつもりでも実はその重合部だけに目を引かれることになるからである。それでこのような打ち越しの危険を避けるためには、作者は前句によってよび起こされた観念世界の中でどれだけの部分が前の句のそれと重合しているかを認識した上で、きれいさっぱりそれだけを切り抜いて捨ててしまわなければならない。そうして残った部分の輪郭をだんだんに外側へ外側へと広げて行くうちに適当な目標が見つかるのである。
 以上述べたところからまたわれわれが連句修業の際しばしば遭遇する一つの顕著な現象を説明することができる。それは「前句が前々句に対して付き過ぎになっていると後句が非常に付けにくく、何をもって来ても打ち越しに響く」ということである。すなわち、上述の重合部が前句のほとんど全面積をおおっていて、切り捨てた残部があまりに僅少きんしょうになるためである。さて以上の心理から起こるアタヴィズム的傾向は連句の規約上厳重に抑制せられるから、少なくも完成した古人の連句集には原則としては現われないはずである。しかしこういう人間の本能的な傾向から起こって来る作用の効果はなかなか根強いものであって、そうそう容易に抑圧することはできないものである。それで一見したところではごうもこの規約に牴触ていしょくしない――少なくも論理的には牴触しないような立派な付け句であっても、心理的科学者の目から見ると明らかに打ち越しの深い影響を受けたと、少なくも疑われるものがあったとしてもなんの不思議はないわけである。
 試みに審美的のめがねをかなぐりすてて、一つの心理的なからくりの中の歯車や弾条ばねを点検するような無風流な科学者の態度で古人の連句をのぞいてみたらどうであろうか。まず前にも例示した『灰汁桶あくおけ』の巻を開いて見る。芭蕉の「あぶらかすりて」の次の次に去来の「ならべてうれし十のさかずき」が来るのである。ここで、いったい去来という人の頭の中に、ありとあらゆる天地万有のうちから、物もあろうに特に選ばれてこの「盃」というものの心像がどうしてまさにここに浮かび上がったかと考えてみなければならない。前句は新畳あらだたみを敷いた座敷である、それを通して前々句を見るとそこには行燈あんどんがあり、その中から油皿あぶらざらの心像がありありと目に見える。その皿が畳の上におりて来る、見ているうちにその油皿が盃に変わって来る。次に一つの盃がばらばらと分殖してそこに十個の皿がずらりと並列する。それに月光がさして忽然こつぜんと清談の会席が眼前に現われる。こういったような心像変換の現象は少なくもわれわれの夢の中には往々起こる現象であっておそらく何人も経験するところであろう。しかし、私は当時の去来の頭の中にここに私の書いたこのとおりの心理過程が進行したのであろうと臆測おくそくするわけでは決してない。またこういう見方をする事がこの付け句の「鑑賞」の上に有利だというのでも毛頭ないのである。前にも断わったとおり「鑑賞の心理」と「創作の心理」とを少なくもいったんはっきり区別した上で、後者の分析的研究をするための一つの方法を例示するという目的以外には何物もないのである。それかと言ってこれはまた決して私の机上でこね上げた全くの空想ではないのであって、私自身が平常連句制作当時自分の頭の中に進行する過程を内省することによって常に経験するところの現象から類推して行った一つの「思考実験」であるので、これはおそらく連句の制作に体験ある多くの人によって充分正当なる意味において理解してもらえることであろうと思う。
 こういうふうの見方からすると、これと同様な実例ははなはだ多くて枚挙にいとまないくらいである。同じ巻でも「の日」と「春駒はるこま」、「だびら雪」と「摩耶まやの高根に雲」、「迎いせわしき」と「風呂ふろ」、「すさまじき女」と「夕月夜おか萱根かやね御廟ごびょう」、等々々についてもそれぞれ同様な夢の推移径路に関すると同様の試験的分析を施すことは容易である。
 こういうふうの意味でのアタヴィズムはむしろあるところまでは避くべからざることであるのはもちろん、連句の進行上少しも規約的に不都合なことはないのみならず、ある場合にはむしろテンポの調節上からも必要な場合があるかもしれない。しかし少なくも私の見たところで、こういう関係になっていない実例もまたはなはだ多いのである。たとえばやはり同じ『灰汁桶あくおけ』の巻で、芭蕉の「ひる口処くちどをかきて気味よき」や「金鍔きんつば」や「加茂の社」のごときはなかなか容易に発見されるような歯車の連鎖を前々句に対して示さない。また『とびの羽』の巻でも芭蕉の「まいら戸」の句「ひるの貝」の句のごとき、なんでもないような句であるが完全にこのアタヴィズムの痕跡こんせきを示さない。これに対して史邦ふみくにの「墨絵」は前々句の師匠の「まいら戸」の遺伝を濃厚に受けており、同人の「おもい切ったる死にぐるい」がやはり前々句の去来の「いまや別れの刀さし出す」の純然たる申し子であるがごときはなかなか興味ある事実である。

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