五 アラビア海から紅海へ
四月二十日 昨夜九時ごろにラカジーブ島の燈台を右舷に見た。これからアデンまで四五日はもう陸地を見ないだろうと思うと、心細いよりはむしろゆっくり落ちついたような心持ちがした。朝食後甲板で読書していたら眠くなったので室へおりて寝ようとすると、食堂でだれかがソプラノでのべつに唱歌をやっている。芸人だとかいうオランダ人の一行らしい。この声が耳についてなかなか寝られなかった。それで昼食後に少し寝たいと思うと、今度はまたテノルの唱歌で睡眠を妨げられた。 午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし、手すりにも旗を掛け連ねた。赤、青、緑、いろいろの電球をズックの天井の下につるし並べてイルミネーションをやる。一等室のほうからも燕尾服の連中がだんだんにやってくる。女も美しい軽羅を着てベンチへ居並ぶ。デッキへは蝋かなにかの粉がふりまかれる。楽隊も出て来てハッチの上に陣取った。時刻が来ると三々五々踊り始めた。少し風があるのでスカーフを頬かぶりにしている女もある。四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議に思って見守るのであった。横浜から乗って来た英人のCがオランダの女優のいちばん若く美しいのと踊っていた。なんとなく不格好に、しかし非常に熱心に踊っているのがおかしいようでもあったが、ハイカラでうまく踊る他の多くのダンディよりこのほうが自分にはいい気持ちを与えた。舞踏というものは始めて見たが、なるほどセンシュアルな暗示に富んだものである。これを引き去ったらあとには何物が残るだろうと思ったりした。 反対の側のデッキには、舞踏などまるで問題にしないで談笑している一組もあった。 四月二十二日 夜九時から甲板で音楽会をやった。一人前五十ペンスずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだという。 英国人で五十歳ぐらいの背の高い肥ったそしてあまり品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると、その歌はだれでも知っているのだと見えて聴衆がみんないっしょに歌い出してせっかくの独唱はさんざんに押しつぶされてしまった。おかしくもあったが気の毒でもあった。なんだかドイツ人の群集の中で英国人のある特性そのものが嘲笑の目的物になっているような気がした。そしてその特性は自分もあまり好かないものであるのにかかわらず、この時はなんだか聴衆の悪じゃれを不愉快に感じた。それでもやっぱりおかしい事はおかしかった。ブラムフィールドという名前がこの人とこの小事件とになんとなく調和していると思った。 自分の室付きのボーイの兄のマクスが皆から無理にすすめられて演奏台に立った。美しいテノルで歌い出すと、今まで謙遜であった彼とは別人のように、燃えるような目を輝かせ肩をそびやかして勇ましい一曲を歌った。聴衆は盛んな拍手をあびせかけて幾度か彼を壇上に呼び上げた。
(この時から一年余り後にハンブルヒである大きいカフェーにはいったら、そこのオーケストラの中でバイオリンをひいているマクスを見いだした。声をかけたいと思ったがおおぜいの客の眼前に気がひけてついそのまま別れてしまった。彼の顔はなんだか少しやつれていたような気がした。)
四月二十三日 朝食後に出て見ると左舷に白く光った陸地が見える。ちょっと見ると雪ででもおおわれているようであるが、無論雪ではなくて白い砂か土だろう。珍しい景色である。なんだかわれわれの「この世」とは別の世界の一角を望むような心持ちがする。「陸地の幽霊」とでもいいたいような気がする。Weird という英語のほかに適当な形容詞は思いつかなかった。……あれがソコトラの島だろうと言っていた。 朝九時アデンに着いた。この半島も向かいの小島もゴシック建築のようにとがり立った岩山である。草一本の緑も見えないようである。やや平坦なほうの内地は一面に暑そうな靄のようなものが立ちこめて、その奥に波のように起伏した砂漠があるらしい。この気味のわるい靄の中からいろいろの奇怪な伝説が生まれたのだろう。 土人がいろいろの物を売りに来る。駝鳥の卵や羽毛、羽扇、藁細工のかご、貝や珊瑚の首飾り、かもしかの角、鱶の顎骨などで、いずれも相当に高い値段である。 船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる。その腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでいる。あれがパイロットフィッシュだとだれかが教える。オランダ人で伝法肌といったような男がシェンケから大きな釣り針を借りて来てこれに肉片をさし、親指ほどの麻繩のさきに結びつけ、浮標にはライフブイを縛りつけて舷側から投げ込んだ。鱶はつい近くまで来てもいっこう気がつかないようなふうでゆうゆうと泳いで行く。 自分と並んで見ていた男が、けさ早く鯨の潮を吹いているのに会ったと話していた。鱶はいつまでも釣れそうにはなかった。 土人が二人、甲板で手拍子足拍子をとって踊った。土人の中には大きな石鹸のような格好をした琥珀を二つ、布切れに貫ぬいたのを首にかけたのがいた。やはり土人の巡査が、赤帽を着て足にはサンダルをはき、鞭をもって甲板に押し上がろうとする商人を制していた。 一時に出帆。昨夜電扇が止まって暑くて寝られなかったので五時半ごろまで寝た。夜九時にバベルマンデブの海峡を過ぎた。熱帯とも思われぬような涼しい風が吹いて船室の中も涼しかった。 四月二十五日 十二使徒という名の島を右舷に見た。それを通り越すと香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなかった。 一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと話していた。妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく故国へ帰る道であったそうな。 四月二十六日 午後T氏がわざわざ用意して手荷物の中に入れて来た煎茶器を出して洗ったりふいたりした。そしてハース氏夫妻、神戸からいっしょのアメリカの老嬢二人、それに一等のN氏とを食堂に招待してお茶を入れた。菓子はウェーファースとビスケットであった。
(大正九年十月、渋柿) 六 紅海から運河へ
四月二十七日 午前右舷に双生の島を見た。一方のには燈台がある。ちょうど盆を伏せたような格好で全体が黄色い。地図で見ると兄弟島というのらしい、どちらが兄だかわからなかった。 アデンを出てから空には一点の雲も見ないが、空気がなんとなく濁っている。ハース氏の船室は後甲板の上にあるが、そこでは黒の帽子を一日おくと白く塵が積もると言っていた。どうもアフリカの内地から来る非常に細かい砂塵らしい。 午後乗り組みの帰休兵が運動競技をやった。綱引きやら闘鶏――これは二人が帆桁の上へ向かい合いにまたがって、枕でなぐり合って落としっくらをするのである。それから Geld Suchen im Mehl というのは、洗面鉢へ盛ったメリケン粉の中へ顔を突っ込んで中へ隠してある銀貨を口で捜して取り出すのである。やっと捜し出してまっ白になった顔をあげて、口にたまった粉を吐き出しているところはたしかに奇観である。Aepfel Suchen im Wasser というのは、水おけに浮いているりんごを口でくわえる芸当、Wurst Schnappen は頭上につるした腸詰めへ飛び上がり飛び上がりして食いつく遊戯である。将校が一々号令をかけているのが滑稽の感を少なからず助長するのであった。 船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧の水の中に桃紅色の海月が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。 右舷に見える赤裸の連山はシナイに相違ない、左舷にはいくつともなくさまざまの島を見て通る。夕方には左にアフリカの連山が見えた。真に鋸の歯のようにとがり立った輪郭は恐ろしくも美しい。夕ばえの空は橙色から緑に、山々の峰は紫から朱にぼかされて、この世とは思われない崇厳な美しさである。紅海は大陸の裂罅だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」というものがおぼろげながら実認されるような気がした。 四月二十八日 朝六時にスエズに着く。港の片側には赤みを帯びた岩層のありあり見える絶壁がそばだっている。トルコの国旗を立てたランチが来て検疫が始まった。 土人の売りに来たものは絵はがき、首飾り、エジプト模様の織物、ジェルサレムの花を押したアルバム、橄欖樹で作った紙切りナイフなど。商人の一人はポートセイドまで乗り込んで甲板で店をひろげた。 十時出帆徐行。運河の土手の上をまっ黒な子供の群れが船と並行して走りながら口々にわめいていた。船ではだれも相手にしないので一人減り二人減り、最後に残った二三人が滑稽な身ぶりをして見せた。そして暑い土手をとぼとぼ引き返して行った。両岸ことにアラビアの側は見渡す限り砂漠でところどころのくぼみにはかわき上がった塩のようなまっ白なものが見える。アフリカのほうにははるかに兀とした岩山の懸崖が見え、そのはずれのほうはミラージュで浮き上がって見えた。苦海では思いのほか涼しい風が吹いたが、再び運河に入るとまた暑くなった。ところどころにあるステーションだけにはさすがに樹木の緑があって木陰には牛や驢馬があまり熱帯らしくない顔をして遊んでいた。岸べに天幕があって駱駝が二三匹いたり、アフリカ式の村落に野羊がはねていたりした。みぎわには蘆のようなものがはえている所もあった。砂漠にもみぎわにも風の作った砂波がみごとにできていたり、草のはえた所だけが風蝕を受けないために土饅頭になっているのもあった。 夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤く天心にかかって砂漠のながめは夢のようであった。船橋の探照燈は希薄な沈黙した靄の中に一道の銀のような光を投げて、船はきわめて静かに進んでいた。つい数日前までは低く見えていた北極星が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。 スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム行きの一行十人ばかり、シェンケの側の甲板で卓を囲んで、あす上陸する前祝いででもあるかビールを飲みながら歌ったり踊ったりしていた。
(大正九年十一月、渋柿) 七 ポートセイドからイタリアへ
四月二十九日 昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなかった。……際限もなく広い浅い泥沼のような所に紅鶴の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の間にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった。 神戸からずっといっしょであった米国の老嬢二人も、コンチャーの家族も、いよいよここで下船して、ジェルサレムへ、エジプトへ、思い思いに別れて行くのであった。老嬢の一人はねんごろに手を握って「またいつか日本で会いましょう」などと言った。 「お早う、今日は」と日本語で呼びかけるものがある。見ると、若いスマートなトルコ人の煙草売りであった。横浜にいたことがあるとか言って、お定まりらしいお世辞を言ったりした。結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。 音楽が水の上から聞こえて来る。舷側から見おろすと一隻のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなものをやっている。まん中には立派な顔をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるやかに櫂をあやつっている。その前には麦藁帽の中年の男と、白地に赤い斑点のはいった更紗を着た女とが、もたれ合ってギターをかなでる。船尾に腰かけた若者はうつむいて一心にヴァイオリンをひいている。その前に水兵服の十四五歳の男の子がわき見をしながらこれもヴァイオリンの弓を動かしている。もう一人ねずみ色の地味な服を着た色の白い鼻の高い若い女は沈鬱な顔をしてマンドリンをかき鳴らしている。船首に一人離れて青い服を着た土人の子供がまるで無関係な人のようにうずくまっていた。このような人々の群れの中にただ一人立ち上がって、白張りの蝙蝠傘を広げたのを逆さに高くさし上げて、親船の舷側から投げる銀貨や銅貨を受け止めようとしている娘があった。緑がかったスコッチのジャケツを着て、ちぢれた金髪を無雑作に桃色リボンに束ねている。丸く肥った色白な顔は決して美しいと思われなかった。少しそばかすのある頬のあたりにはまだらに白粉の跡も見えた。それで精一杯の愛嬌を浮かべて媚びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に蝙蝠傘をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって舷や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませているらしく肩から胸が大きく波をうっていた。楽手らはめいめいただ自分の事だけ思いふけってでもいるようにまた自分らの音楽の悲哀に酔わされてでもいるように、みんな思いつめたような暗い顔をしていた。滅びた祖国、流浪の生活、熱帯の夏の夜の恋、そんなものを思わせるような、うら悲しくなまめかしい音楽が黄色く濁った波の上を流れて行った。波の上にはみかんの皮やビールのあきびんなどが浮いたり沈んだりして音楽に調子を合わせていた。……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の舷側へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。 七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」と言っているように見える。運河会社の円頂塔は朝日に輝いていた。 地中海は雲一つ見えなかった。もういよいよアジアとは縁が切れたのだと思う。……午後船の散髪屋へ行く。「ドイツ語がおじょうずですね」などと言われて、おしまいにはまたドロップの瓶入りを買わされた。 四月三十日 朝からもうクリート島が右舷に見えていた。島というにはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいものが見えていた。まさか雪ではあるまいとハース氏と言っていたが、とうとう Es ist doch Schnee と言って承認した。甲板は少し寒かった。寒暖計はそんなでもないのに、長い間暑さに慣れて皮膚が甘やかされているのであった。 午後三時十五分から子供の祝宴 Kinderfest を催すという掲示が出た。 ハース氏がその掲示文を読んで文章のまずい所を指摘して教えてくれた。時刻が来るとおおぜいの子供が甲板へ集まる。食卓には日本製の造花を飾り、皿にクラッカーと紙旗とをのせたのを並べてある。見るだけでも美しいトルテや菓子も出ている。子供らは N. L. D. の金文字を入れた黒リボン付きの紙帽子をかぶり、手んでに各国の国旗を持ち、楽隊の先導で甲板を一周した後に食卓についた。おとならはむしろうらやましそうに見物していた。……T氏と艙へはいって、カバンを出してもらって、ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした。 五月一日 午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える。富士山によく似ているという人もあったが、自分の感じはまるでちがっていた。右舷の山には樹木は少ないが、灰白色の山骨は美しい浅緑の草だか灌木だかでおおわれている。海浜にはまっ白な小さい家がまばらに散らばっている。だれかの漁村の詩にこんな景色があったような気がした。もう「東洋」と「熱帯」の姿はどこにもなかった。まもなく右にレッジオ、左にメッシナの町の薄暮の燈火を見て過ぎる。メッシナは大地震のために破壊されて灯の数は昔の比較にならないとハース氏が話した。 九時ごろから喫煙室でN君ハース氏らと袂別の心持ちでシャンペンの杯をあげた。……十時過ぎにストロンボリの火山島が見えた。十五夜あたりの月が明るくて火口の光はただわずかにそれと思われるくらいであった。背の低い肥ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大きな腹を突き出して、「ストロンボーリ、ストロンボーリ」とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしていた。故国に近づく心の興奮をおさえきれないように、あるいはまたこの「地中海の燈台」と言われる火山をできるだけ多くの旅客に見せたいと思っているかのように、最後から二番目の綴音「ボー」に強い揚音符をつけてまた幾度か「ストロンボーリ、ストロンボーリ」と叫んでいた。月夜の海は次第に波が高くなって、船は三十度近くも揺れるので、人々はもうたいてい室の毛布にくるまって、あす着くナポリの事でも考えているだろうに。……
(大正九年十二月、渋柿) 八 ナポリとポンペイ
五月二日 朝甲板へ出て見ると、もうカプリの島が見える。朝日が巌壁に照りはえて美しい。やがてヴェスヴィオも見えて来た。遠い異郷から帰って来たイタリア人らは、いそいそと甲板を歩き回って行く手のかなたこなたを指ざしながら、あれがソレント、あすこがカステラマレと口々に叫んでいる。いろいろの本で読んだ覚えのある、そしていろいろの美しい連想に結びつけられたこれらの美しい地名が一つ一つ強い響きを胸に伝える。船が進むにつれて美しい自然と古い歴史をもった市街のパノラマが目の前に押し広げられるのである。子供の時分から色刷り石版画や地理書のさし絵で見慣れていて、そして東洋の日本の片田舎に育った子供の自分が、好奇心にみちた憧憬の対象として、西洋というものを想像するときにいつも思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアスが、今その現実の姿をついそこにまのあたり現わしていた。しかし思っていたほどの煙は吐いていなかった。同様に絵で見なれたイタリア松の笠をかむったようなのが丘の上などに並んでいるのもなつかしかった。 検疫がすんで桟橋へつくと、案内者がやって来てしきりにポンペイ見物をすすめた。年取ったふとった案内者の顔はどこかフランスの大統領に似ていたが、着ている背広はみすぼらしいものであった。T氏とハース氏とドイツ大尉夫妻と自分と合わせて五人の組を作ってこの老人の厄介になることにした。無蓋の馬車にぎし詰めに詰め込まれてナポリの町をめぐり歩いた。 とある寺院へはいって見た。古びたモザイックや壁画はどうしても今の世のものではなかった。金光燦爛たる祭壇の蝋燭の灯も数世紀前の光であった。壁に沿うて交番小屋のようなものがいくつかあった、その中に隠れた僧侶が、格子越しに訴える信者の懺悔を聞いていた。それはおもに若い女であった。ここでも罪を犯したもののほうが善人で、高徳な僧侶のほうが悪人であった。なんとなくこういう僧侶に対する反感のこみ上げて来るのをどうする事もできなかった。尼僧の面会窓がある。さながら牢屋を思わせるような厳重な鉄の格子には、剛く冷たくとがった釘が植えてあった。この格子の内は、どうしても中世紀の世界であるような気がした。 ここを出て馬車は狭い勾配の急な坂町の石道をガタガタ揺れながら駆けて行った。ハース氏はベデカを片手に一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を保っているかのように多くは黙っていた。T氏と自分もそれぞれの思いにふけっておし黙っていた。その――土地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわれ一組の観客の前を、美しくよごれた南欧の町の光景がただあわただしく走り過ぎて行った。 停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとから見上げると海上から見たほど高くは見えなかった。熔岩が海中へ流れ込んだ跡も通って行った。シャボテンやみかんのような木も見られた。粗末な泥土塗りの田舎家もイタリアと思えばおもしろかった。古風な木造の歯車のついた粉ひき車がそのような家の庭にころがっているのも珍しかった。青い海のかなたにソレントがかすんで、絵のような小船が帆をたたんで岸に群れているのも、みんなそれがイタリアであった。……トルレ・デル・アヌンチアタで汽車をおりた。アンデルセンの『即興詩人』を読んだ時に頭に刻まれていたいろいろの場面が、この駅の名の響きに応じて強く新しくよみがえって来るのであった。 馬車が古い昔の町を通り抜けると馬鈴薯畑の中の大道を走って行った。ところどころに孤立したイタリア松と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであった。 ホテル・ドゥ・ヴェシューヴと看板をかけた旗亭が見える。もうそこがポンペイの入り口である。入場料を払って関門を入ると、そこは二千余年前の文化の化石で、見渡す限りただ灰白色をした低い建物の死骸である。この荒涼な墓場の背景には、美しい円錐火山が、優雅な曲線を空に画してそびえていた。空に切れ切れな綿雲の影が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしていた。過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるのであった。しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らないような平和な姿をして、頂上にただあるかなしの白い煙を漂わせているだけであった。 狭い町は石畳になって、それに車の轍が深い溝をなして刻みつけられてあった。車道が人道に接する所には、水道の鉛管がはみ出していた。それが青白くされ びて、あがった鰻を思わせるような無気味な肌をさらしてうねっていた。 富豪の邸宅の跡には美しい壁画が立派に保存されていた。それには狩猟や魚族を主題としたものもあった。大きな浴場の跡もあった。たぶん温度を保つためであろう、壁が二重になっていた。脱衣棚が日本の洗湯のそれと似ているのもおもしろかった。風呂にはいっては長椅子に寝そべって、うまい物を食っては空談にふけって、そしてうとうとと昼寝をむさぼっていた肉欲的な昔の人の生活を思い浮かべないわけにはゆかなかった。 劇場の中のまるい広場には、緑の草の毛氈の中に真紅の虞美人草が咲き乱れて、かよわい花弁がわずかな風にふるえていた。よく見ると鳥頭の紫の花もぽつぽつ交じって咲いていた。この死滅した昔の栄華と歓楽の殿堂の跡にこんなかよわいものが生き残っていた、石や煉瓦はぽろぽろになっているのに。 酒屋の店の跡も保存されてあった。パン屋の竈の跡や、粉をこねた臼のようなものもころがっていた。娼家の入り口の軒には大きな石の penis が壁から突き出ていた。大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こうの辻でわれわれを待ち合わせるように取り計らわれた。街路の人道から入り口へ踏み込むとすぐ右側に石のベンチのようなものがいくつか並んでいるだけで、狭い低い暗い部屋というだけであった。よく見ると天井に近く壁を取り巻いてさまざまの壁画が描かれてあった。何十いくつとかの verschiedene Stellungen を示したものだとハース氏が説明して聞かした。青や朱や黄の顔料の色の美しいあざやかさと、古雅な素朴な筆致とは思いのほかのものであった。そこには少しもある暗い恐ろしさがなかった。 少し喘息やみらしい案内者が No time, Sir ! と追い立てるので、フォーラムの柱の列も陳列館の中も落ち着いて見る暇はなかった。陳列館には二千年前の苦悶の姿をそのままにとどめた死骸の化石もあったが、それは悲惨の感じを強く動かすにはあまりにほんとうの石になり過ぎているように思われた。それよりはむしろ、半ば黒焦げになった一握りの麦粒のほうがはるかに強く人の心を遠い昔の恐ろしい現実に引き寄せるように思われた。 火山の名をつけた旗亭で昼飯を食った。卓上に出て来た葡萄酒の名もやはり同じ名であった。少しはなれた食卓にただ一人すわっている日本人らしい若い紳士にハース氏が「アナタハニホンノカタデスカ」と話しかけると Ja ! といってうなずいて見せた。こちらがわざわざ日本語で話しかけるのに Ja ! はおかしいと言ってハース氏は私の耳につぶやいた。しかし自分はおかしいとは思えなかった。それはさびしい旅客のある心持ちを適切に語るものだとしか思われなかった。名刺をもらって見るとそれは某大学の留学生で法学士のN氏であった。N氏の話によると自分の旧知のK氏が今ちょうどドイツからイタリア見物の途上でナポリに来ているとの事であった。自分は会いたかったが出帆前にとてもそれだけの時間はなかった。思いもかけぬ異郷で同じ町に来合わせながら、そのままにまた遠く別れて行くのをわびしくもまたおもしろくも思った。 旗亭の入り口に立ってギターをひく若者があった。その曲が、なんだかポートセイドの小船の楽手らのやっていたのとよく似た心持ちを浮かべるものであった。同じようにせつないやるせのないようなものであった。自分はこれを聞きながら窓掛けの外に輝く南国の日光を見つめているうちに、不思議な透明なさびしさといったようなものに襲われたのであった。 ナポリへ帰って、ポーシリッポの古城もただ外から仰いで見ただけで船へ帰ると、いろいろの物売りが来ていた。古めかしい油絵の額や、カメオや七宝の装飾品などが目についた。双眼鏡の四十シリングというのをT氏が十シリングにつけたら負けてよこした。……五時出帆。少し波が出て船が揺れた。
(大正十年二月、渋柿)
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