三 シンガポール
四月八日 朝から蒸し暑い。甲板でハース氏に会うと、いきなり、芝の増上寺が焼けたが知っているか、きのうのホンコン新聞に出ていたという。かなりにもう遠くなった日本から思いがけなくだれかが跡を追って来てことづてを聞かされるような気がした。 船客の飼っている小鳥が籠を放れて食堂を飛び回るのをつかまえようとして騒いでいた。鳥はここが果てもない大洋のまん中だとは夢にも知らないのだろう。 飛び魚がたくさん飛ぶ、油のようなうねりの上に潮のしずくを引きながら。そして再び波にくぐるとそこから細かい波紋が起こってそれが大きなうねりの上をゆるやかに広がって行く。 きのう日記をつけている時にのぞいた子供に、どこまで行くと聞いたらスペインへと言う、スペイン人かと聞くとそうだといった。 全部白服に着かえる。 四月九日 ハース氏と国歌の事を話していたら、同氏が「君が代」を訳したのがあると言って日記へ書き付けてくれた、そしてさびたような低い声で、しかし正しい旋律で歌って聞かせた。 きのうのスペインの少女の名はコンセプシオというのだそうな。自分ではコンチャといっている。首飾りに聖母の像のついたメダルを三つも下げている。 昼ごろサイゴンの沖を通る。 四月十日 朝十時の奏楽のときに西村氏がそばへ来て楽隊のスケッチをしていた。ボーイがリモナーデを持って来たのを寝台の肱掛けの穴へはめようとしたら、穴が大きすぎたのでコップがすべり落ちて割れた。そばにいた人々はだれも知らん顔をしていた。かえってきまりが悪かった。 午後には海が純粋なコバルト色になった。 四月十一日 きょうは復活祭だという。朝飯の食卓には朱と緑とに染めつけたゆで玉子に蝋細工の兎を添えたのが出る。米国人のおばあさんは蝋とは知らずかじってみて変な顔をした。ハース氏に聞いてみると、これは純粋なドイツの古習で、もとはある女神のためにささげた供物だそうな。今日では色つけ玉子を草の中へかくして子供に捜させる、そしてこの玉子は兎が来て置いて行ったのだと教えるという。 朝飯が終わったころはもうシンガポール間近に来ていた、そして強い驟雨が襲って来た。海の色は暗緑で陸近いほうは美しい浅緑色を示していた。みごとな虹が立ってその下の海面が強く黄色に光って見えた。右舷の島の上には大きな竜巻の雲のようなものがたれ下がっていた。ミラージュも見えた。すべてのものに強い強い熱国の光彩が輝いているのであった。 船はタンジョンパガールの埠頭に横づけになる。右舷に見える懸崖がまっかな紅殻色をしていて、それが強い緑の樹木と対照してあざやかに美しい。 西村氏が案内をしてくれるというのでいっしょに出かける。祭日で店も大概しまっており郵便局も休んでいる。つり橋のたもとの煙草屋を見つけて絵はがきと切手を買う。三銭切手二十枚を七十五銭に売るから妙だと思って聞くと「コンミッシォン」だと言った。 九竜で見たと同じ道普請のローラーで花崗石のくずをならしている。その前を赤い腰巻きをしたインド人が赤旗を持ってのろのろ歩いていた。 エスプラネードを歩く。まっ黒な人間が派手な色の布を頭と腰に巻いて歩いているのが、ここの自然界とよく調和していると思って感心した。 宝石屋の前を通ると、はいって見ろと無埋にすすめる。見るだけでいいからはいれという。自分の持っている蝙蝠傘をほめて、売ってくれと言う。売るのがいやなら宝石と換えぬかという。T氏の傘を見て This no good. というと、また一人が This good, but that the best. と訂正した。 いわゆる日本街を人力車で行った。道路にのぞんだヴェランダに更紗の寝巻のようなものを着た色の黒い女の物すごい笑顔が見えた、と思う間に通り過ぎてしまう。 オテルドリューロプで昼食をくう。薬味のさまざまに多いライスカレーをくって氷で冷やしたみかん水をのんで、かすかな電扇のうなり声を聞きながら、白服ばかりの男女の外国人の客を見渡していると、頭の中がぼうとして来て、真夏の昼寝の夢のような気がした。 植物園へはいる。芝生の上に遊んでいた栗鼠はわれわれが近よるとそばの木にかけ上った。木の間にはきれいな鳥も見かける。ねむの花のような緋色の花の満開したのや、仏桑花の大木や、扇を広げたような椰子の一種もある。背の高いインド人の巡査がいて道ばたの木の実を指さし「猿が食います」と言った。人糞の臭気があるというドリアンの木もある。巡査は手を鼻へやってかぐまねをしてそして手をふって「ノー・グード」と言い、今度は食うまねをして「ツー・イート・グード」と言う。動物はいないかと聞いたら「虎と尾長猿、おしまい、finished」といった。たぶん死んだとでもいう事だろうと思った。 水道の貯水池の所は眺望がいい。暑そうな霞の奥に見える土地がジョホールだという。大きな枝を張った木陰のベンチに人相の悪い雑種のマライ人が三人何かコソコソ話し合っていた。 市場へ行く。玉ねぎや馬鈴薯に交じって椰子の実やじゃぼん、それから獣肉も干し魚もある。八百屋がバイオリンを鳴らしている。菓汁の飲料を売る水屋の小僧もあき罐をたたいて踊りながら客を呼ぶ。 船へ帰るとやっぱり宅へ帰ったような気がする。夕飯には小羊の乗った復活祭のお菓子が出る。夜は荷積みで騒がしい。 四月十二日 朝から汗が流れる。桟橋にはいろいろの物売りが出ている。籐のステッキ、更紗、貝がら、貝細工、菊形の珊瑚礁、鸚鵡貝など。 出帆が近くなると甲板は乗客と見送りでいっぱいになった。けさ乗り込んだ二等客の子供だけが四十二人あるとハース氏が言う。神戸で乗った時は全体で九人であったのに。 マライ人がカノーのようなものに乗って、わが船のそばへ群がって来て口々にわめく。乗客が銭を投げると争ってもぐって拾い上げる。I say ! Herr Meister ! Far away, far away ! One dollar, all dive ! などと言っているらしい。自分はどうしても銭をなげる気になれなかった。 船が出る時桟橋に立った見送りの一組が「オールド・ラング・サイン」を歌った。船の上でも下でも雪白の服を着た人の群れがまっ白なハンケチをふりかわした。
(大正九年八月、渋柿)
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