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では、英吉利よ、「さよなら!」 さよなら! 大きな声で「さよなら!」 何国の港も同じ殺風景な波止場の景色に過ぎないんだが、長い長い帰りの航路をまえに控えている私達の心臓は、いささか旅行者らしい感傷に甘えようとする。が、そんな機会はなかった。交通検閲はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。私と彼女が、桟橋に立っている二人の巡査と、数人の近処の子供らと、一団の荷役人夫たちに別れの手を振りながら、すこしでも強く長くこの倫敦の最後の印象を持続しようと焦っているうちに、船は自分の任務にだけ忠実に――大きな身体のくせに驚くほど早い。さっと出てしまった。私達は船室へ帰る。 皿の上の魚のように、彼女はいつまでも黙りこくって動かない。なにが彼女の脳髄を侵蝕しているのか、私にはよくわかる。考えてみると、私達は倫敦で相当根を下ろして生活したものだ。人間というものは、勝手な生物である。こうしていざ倫敦とろんどんの持つすべて、英吉利と英吉利の提供する凡てから、時間的にも空間的にも完全に離れようとするいま、私達は急に一種白っぽい、妙な不安に襲われ出したのだ。生れた国へ帰ると言うのに、これは何とした心もちであろう? が、それは、ふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然過ぎる、長旅に付きものの漠然たる「前途を想う憂鬱」だったに相違ない。 しかしこの「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと黄黒い倫敦の露ぞらとともにすぐ消えて、かわりに私は、この一年あまり欧羅巴地図の上を自在に這い廻って、いま家路に就こうとしている二足の靴を想像する。それは言うまでもなく、ろんどんチャアリン・クロスの敷石も、クリスチャニアのフィヨルドも、シャンゼリゼエの鋪道も、同じ軽さで叩いたし、マドリッド闘牛場の砂も附けば、これからはまた印度の緑蔭も踏むことだろう。私達の旅のすがただ。詩人の墓も撫でたしナポレオンの帽子にも最敬礼した。西班牙の駅夫とも喧嘩したし、白耳義の巡査にも突き飛ばされた。モンテ・カアロでは深夜まで張りつづけたし、ムッソリニ邸の門前で一枚の落葉を拾ってくる風流記念心も持ち合わせた。独逸廃帝も付け狙ってみたし、明方近い巴里のキャバレも覗いた。裏街の酒場の礼儀も覚えたし、新しい舞踏ステップも一通りは踏める。それから・それから・それから――眼まぐるしく動いたようで、一個処にじっと落ちついていたような気もする。今になってみると、もう一度繰り返したい一年余であった。 気がつくと、私は、船の進行に合わしていつの間にかこころ一ばいに絶叫していた。
がたん・がたん! がたん・がたん! Home-coming blues ! Home-coming blues !
何とそれが調子よく機関のひびきに乗ったことよ! これからは当分、この連続的に退屈な低音階と、ぺいんとの香と、飛魚と布張椅子と、雲の峰だけの世界である。 ろんどん――ジブロウタ――馬耳塞――NAPOLI――ぽうと・さいど――スエズ――古倫母――シンガポウア――香港――上海――コウブ――よっくへえま! ふうれえい! 船室は、B甲板の106号。左舷である。 夜、寝台へ這い上る。 同時に、さまざまな断片が私のこころへ這いあがる。 バクスタア家からフェンチャアチ停車場へのタキシの窓に瞥見を持った最後の倫敦――うす陽が建物を濡らしていた。銀行街にあふれる絹帽と絹ずぼんの人波。その急湍の中流に銅像のように直立していた交通巡査の白い手ぶくろ。 とにかく、これが当分のお別れであろう英吉利海峡――去年の夏はこの上層の空気を飛行機で裂いた――の晩春の夜を、船はいま、経済速力の範囲内で、それでも廻転棒を白熱化させて流れている。じぶらるたるへ、マルセイユへ、ころんぼへ、上海へ、やがて、神戸へ! 朝は、私たち同行二人の巡礼を、すっかり「家を思い出して帰ろうとしている放浪者」の、すこしは殊勝なこころもちのなかに発見するであろう。
がたん! がたん!
と機関が唸る。 船という船のなかで、この倫敦発横浜行きNYK・SS・H丸――私がそれに、何の理由もなしにほとんど運命的な約束をさえ見出しかけていると、彼女も眠れないとみえて、下の寝台で寝返りを打つのが聞えた。 『どうしたい。』 『ええ。大変な浪。』 『もうビスケイ湾かしら――。』 『いいえ。』 『そうだ。ビスケイはまだだろう。』 『あしたの夕方からですって。』
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