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踊る地平線(おどるちへいせん)12海のモザイク

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/27 7:04:51 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


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 では、英吉利ギイリスよ、「さよなら!」
 さよなら!
 大きな声で「さよなら!」
 何国どこの港も同じ殺風景な波止場の景色に過ぎないんだが、長い長い帰りの航路をまえに控えている私達の心臓は、いささか旅行者らしい感傷に甘えようとする。が、そんな機会はなかった。交通検閲はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。私と彼女が、桟橋に立っている二人の巡査と、数人の近処の子供らと、一団の荷役人夫たちに別れの手を振りながら、すこしでも強く長くこの倫敦ロンドンの最後の印象を持続しようと焦っているうちに、船は自分の任務にだけ忠実に――大きな身体からだのくせに驚くほど早い。さっと出てしまった。私達は船室へ帰る。
 皿の上の魚のように、彼女はいつまでも黙りこくって動かない。なにが彼女の脳髄を侵蝕しているのか、私にはよくわかる。考えてみると、私達は倫敦で相当根を下ろして生活したものだ。人間というものは、勝手な生物いきものである。こうしていざ倫敦とろんどんの持つすべて、英吉利イギリスと英吉利の提供するすべてから、時間的にも空間的にも完全に離れようとするいま、私達は急に一種白っぽい、妙な不安に襲われ出したのだ。生れた国へ帰ると言うのに、これは何とした心もちであろう? が、それは、ふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然過ぎる、長旅に付きものの漠然たる「前途を想う憂鬱」だったに相違ない。
 しかしこの「去るに臨みて」の万感こもごもは、ぼうっと黄黒きぐろい倫敦の露ぞらとともにすぐ消えて、かわりに私は、この一年あまり欧羅巴ヨーロッパ地図の上を自在に這い廻って、いま家路に就こうとしている二足の靴を想像する。それは言うまでもなく、ろんどんチャアリン・クロスの敷石も、クリスチャニアのフィヨルドも、シャンゼリゼエの鋪道も、同じ軽さで叩いたし、マドリッド闘牛場の砂も附けば、これからはまた印度インドの緑蔭も踏むことだろう。私達の旅のすがただ。詩人の墓も撫でたしナポレオンの帽子にも最敬礼した。西班牙スペインの駅夫とも喧嘩したし、白耳義ベルギイの巡査にも突き飛ばされた。モンテ・カアロでは深夜まで張りつづけたし、ムッソリニ邸の門前で一枚の落葉を拾ってくる風流記念心も持ち合わせた。独逸ドイツ廃帝も付け狙ってみたし、明方近い巴里パリーのキャバレも覗いた。裏街の酒場の礼儀も覚えたし、新しい舞踏ステップも一通りは踏める。それから・それから・それから――眼まぐるしく動いたようで、一個処にじっと落ちついていたような気もする。今になってみると、もう一度繰り返したい一年余であった。
 気がつくと、私は、船の進行に合わしていつの間にかこころ一ばいに絶叫していた。

がたん・がたん!
がたん・がたん!
Home-coming blues !
Home-coming blues !
 何とそれが調子よく機関のひびきに乗ったことよ!
 これからは当分、この連続的に退屈モノトナスな低音階と、ぺいんとのにおいと、飛魚と布張椅子キャンヴス・チェアと、雲の峰だけの世界である。
 ろんどん――ジブロウタ――馬耳塞マルセーユ――NAPOLI――ぽうと・さいど――スエズ――古倫母コロンボ――シンガポウア――香港ホンコン――上海シャンハイ――コウブ――よっくへえま! ふうれえい!
 船室は、B甲板の106号。左舷ポウトである。
 夜、寝台へ這い上る。
 同時に、さまざまな断片が私のこころへ這いあがる。
 バクスタア家からフェンチャアチ停車場へのタキシの窓に瞥見を持った最後の倫敦ロンドン――うす陽が建物を濡らしていた。銀行街にあふれる絹帽シルク・ハットと絹ずぼんの人波。その急湍の中流に銅像のように直立していた交通巡査の白い手ぶくろ。
 とにかく、これが当分のお別れであろう英吉利イギリス海峡――去年の夏はこの上層の空気を飛行機で裂いた――の晩春の夜を、船はいま、経済速力の範囲内で、それでも廻転棒シャフ卜を白熱化させて流れている。じぶらるたるへ、マルセイユへ、ころんぼへ、上海シャンハイへ、やがて、神戸へ!
 朝は、私たち同行二人の巡礼を、すっかり「家を思い出して帰ろうとしている放浪者」の、すこしは殊勝なこころもちのなかに発見するであろう。
がたん!
がたん!

 と機関がうなる。
 船という船のなかで、この倫敦ロンドン発横浜行きNYK・SS・H丸――私がそれに、何の理由もなしにほとんど運命的な約束をさえ見出しかけていると、彼女も眠れないとみえて、下の寝台で寝返りを打つのが聞えた。
『どうしたい。』
『ええ。大変な浪。』
『もうビスケイ湾かしら――。』
『いいえ。』
『そうだ。ビスケイはまだだろう。』
『あしたの夕方からですって。』

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