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踊る地平線(おどるちへいせん)12海のモザイク

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/9/27 7:04:51 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


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 さて、これでいよいよ帰国の途に就けるというんで、喜び勇んでいると、またしてもここに一大事件が勃発した。
 旅券パスポウトを紛失したのである。
 そもそもこの旅券たるや、海外における唯一の身分証明であって、国籍による必要の保護も、金銭関係の保証も、その他すべて公式の場合には、一にこの緑色の小冊子が日本帝国としての口を利くんだから、天涯の遊子にとってはまさに生命から二番目の貴重品である。第一、これがなくては英吉利イギリスを出ることも船へ乗ることも出来ず、完全に身動きが取れなくなってしまう。それほど大事なものをくするなんて実におろかな話だが、旅行中は虎の子の信用状や現金の英貨――旅行に持って歩くには、五ポンド乃至十ポンドのいぎりすの紙幣が一番いい。相場によって高低することもすくなく、どこででも簡単に両替出来るから――と同居させてしじゅう肌へつけていたんだが、それが、もう帰国すれば用がなくなるというんでそこらへ投げ出して置いたのが誤りのもとらしい。すっかり荷作りを済ましたあとで、旅券の無いことを発見したのだ。
 一体旅行もいいが、出発ごとの荷作りパッキングほど嫌なものはない。西洋人はいい加減に誤魔化してしまうが、日本人は、日本人らしい丹念さから、細かい隙間まで利用して実に能率的に詰め込む。あまりに能率的過ぎてかえって能率が上らないようだが、とにかく、せっかく何日もかかって出来上った大小幾十個の荷物を、この旅行免状一冊のためにすっかり引っくり返さなければならないことになった。
 口説くどいてみたってはじまらない。どうしても探し出さなければならない性質のものだから、徹夜してその事業に着手した。出帆前夜のことである。
 が、部屋の内外は勿論、荷物は全部出して、トランクからスウツ・ケイスから一応順々に逆さにして振ってみるくらいにしたけれど、問題の旅券はとうとう出て来なかった。
 この旅券捜査には、下宿の老夫人をはじめ、同宿の連中から女中一同まで、総動員で手――というより眼――を貸してくれたのだったが、ついに徒労に帰して、翌朝早く、私たち二人は倫敦ロンドンの日本領事館へまかり出た。そして平身低頭、泣きを入れてやっとのことで新しい旅券の再下附を受け、それでようよう乗船することが出来たわけだが――もっとも、帰国の船なら旅券なしでも乗れるけれど、そのかわり、旅券入用の土地、例えば、英領植民地などへは、寄港しても上陸することを許されない――ところが、五十日近い海の旅を終えて先日日本へ帰ってみると、外遊中の留守宅を頼んで置いた鎌倉の某家へ、私宛に倫敦の下宿から厚い封書が届いている。シベリア経由だから私たちより先にうの昔に着いたのだ。莫迦に重要めいてるが何だろうと思って開けてみると、出発の時あれほど骨を折らした古い旅券が出て来たには驚いた。手紙がついていた。
「御出発後、女中がお部屋を掃除しましたところ、戸棚の敷紙の下からこれが出て参りました。勿論あなた自身が安全のためそこへ入れて置いてお忘れになったものでしょう――。」
 まさにそのとおりの記憶がある。いたずらにかの老婆をして名を成さしめたに過ぎないのが、私としてはいま遺憾この上ない次第だ。
 ところが、倫敦ロンドンの領事館で貰って来た第二の旅券である。
 これをまた神戸のオリエンタル・ホテルに忘れて来たと言って大騒ぎをした。
 六月三日に神戸入港、八日横浜へはいるはずだったSS・H丸が、一日早く――NYKの船でも予定より早く着くこともあるという実証のために――二日に神戸へ投錨してしまったので、八日まで一週間近くも神戸桟橋の船内でぶらぶらしているわけにも往かないから、入港と同時に上陸してオリエンタル・ホテルに二日泊ったのだが、四日の朝、東京へ来る特急のなかで、再下附の旅券がないと彼女がいい出した。なあに、もう日本国内だから旅券なんか要らないさと私は威張ってみたものの二度も紛失したんではどうも後始末が厄介である。困ったことになったといささ悄気しょげていると、これは幸いにして帝国ホテルへ着いて当座の荷を解くと、その鞄の一つから現れたのでまずほっとした。
 が、いくら呑気だからって、私たちほど忘れ物を商売にしてるようなのもあるまい。そのオリエンタル・ホテルででも、部屋を出る時は一かど落着いてすっかり検分したつもりだったにも係わらず小使ポウタアの一人が動き出そうとしている私達の車窓へ葡萄牙ポルトガルで買った銀の煙草入れを届けてくれたし、帝国ホテルでだって、いよいよ鎌倉の自宅へ帰る段になって、勘定ビルを済まして玄関で自動車を待っていると、そこへあたふたと部屋付きボウイが私の時計と彼女の帽子を持って駈けつけて来たくらいである。
 この通り、自慢じゃないが、一年半に近い外遊中、私達が諸国各地のホテル・停車場・タキシ内――これが一番苦手だ――その他料理店等で置き忘れて来た色んな物品を価格に見積ると、決して馬鹿にならないものがある。なかんずく、その種品別にいたっては実に奇抜の到りで、ことに今考えても口惜しくて耐らないのは、芬蘭土フィンランドの内地へ踏み込んだとき――まあ、そう。愚痴をこぼしたってどうにもならないし、それに、この置き忘れ・紛失物の一件を並べ出すと、それだけで優に、生活の角度から見た全般にわたる旅行漫筆が出来上るくらいで、その土地々々に関する多少の描写の説明も必要だし、何よりも、いまここにその紙数もなければ場合でもない。しかし、のべつ幕なしに驚いたり急いだり狼狽あわてたりするのが、旅行者の特権であり義務であるとは言いながら、あれほど色んな国へ雑多な物を撒き散らして来たくせに、よく自分で自分を置き忘れて、自分を西班牙スペインかどこかのホテルの寝台へでも寝かしたまんまにして来なかったものだと、われながら感心している。
 それはそうと、いつの間にかもう日本へ帰着したようなことを言っているが、じつは、話しのうえでは、SS・H丸はいまやっと倫敦ロンドンテムズ下流のロウヤル・アルバアト埠頭どっくを離れたばかりのところに過ぎない。
 で、これらの大小事件を突破したのち、ようよう船へ乗ることが出来たのだった。
 四月二十日出帆というのに、潮の工合で、二十日は早朝に解纜かいらんするから、十九日一ばいに乗り込むようにというお達しである。ポウト・トレインは、四時二十分にフェンチャアチ停車場を出るという。その二十分前の四時になっても、私たちはまだ荷拵にごしらえが出来ずにいる。
 荷物が余ってどうにも仕様がないのだ。一たい、この、室内に山積し散乱している物品を白眼にらんで、過不足なくその全部を入れるに足る容積のトランクなり鞄なりを予め想定するには、実に専門的な眼力を必要とするのだが、私達はこの点でも明かに失敗した。すなわち、充分這入ると多寡をくくって安心し切っていた最後のトランクへ、いざとなって詰めて見ると、思った半分も這入らないのだ。と言って、今になって入れ物を買いに走る時間はない。仕方がないから、下宿の老婆をおだててうちじゅうから買物の空箱あきばこやら、クリイニングから洋服を入れてくるボウル紙の箱や何かをありったけ徴収し、それへ手当り次第に放り込んだのを糸で縛ってタキシへ投げ入れ、狂気のように疾駆させて、ほんとに間一髪のところで船へ聯絡する汽車の出発に間に合ったのだった。
 けれど、日本で下船するとき、そう幾つも紙箱をぶら提げるわけにもいかないから、これは、香港ホンコンくすの木製の大型支那箱を買って、全部をこれへ叩きこむことによって見事に解決した。この樟材の支那箱は絶えず内部に樟脳のかおりが満ちていて、ナフタリンなんか入れなくても虫を防ぐから、毛織物類を仕舞って置くには、家庭用として特に便利である。それはいいが、香港ホンコンでこれを買う時言葉が通じないで大いに弱った。確かに「くすのき」製に相違ないかと念を押してやろうと考えたのだが、さて、何と言っていいか判らない。そこで気が付いたのが筆談だ。紙と鉛筆を取り寄せ、正成まさしげ公から思いついて「くすのき」の字を大書し、箱を叩いて首をかしげて見せた。これで老爺おやじめ、会心の笑みを洩らすことであろうと私は内心待ち構えていると、彼は不愛想に私の手から鉛筆を引ったくって、非常に事務的に私の「楠」の字を消してそのそばへ「くすのき」と訂正した。なるほど、これでこそ「くすのき」である。計らずも私は、そこで一つの生きた学問をしたのだった。
 が、これも五十日あとのこと。
 いまはもう一度倫敦ロンドン出帆へ逆行して、あらためていかりを上げる。
 四日ママ午前九時、SS・H丸はロウヤル・アルバアト・ドックを離れてテムズ河口へ揺るぎ出た。
 がたん!
 踊る水平線へ!
 そして、極東日本へ!

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