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燃え立つ太陽・燃え立つ砂塵・燃え立つ群集・燃え立つ会話――何もかも燃え立っているこの大闘牛場。
とうろす・け・ばん! あ・またる・おい!
雑音を衝いて破裂する奇声、濁声。 4・PM。 じっとしていても汗ばむ太陽の赤光だ。 満場に横溢する力づよいざわめき。 切符の番号と見較べて席をさがす人々。 蒼穹に林立する赤と黄の国旗。 てらららんらんの闘牛楽。 誰からともなく唄い出す「海賊歌」の合唱。 男の円套と原始的な女装の点綴。 情熱と忘我と、above all, 太陽――SI! 闘牛はいま始まろうとしている。 下の演技場は一めんの砂だ。 そこに、深紅の農民服を着た人足たち――と言っても、これはみんな名ある闘牛士の下っ端弟子で、若いのばかりか、なかには白髪頭のお爺さんもいる。野郎、これで一杯呑って来い、なんかと時々親方が投げてくれる金銭で衣食している連中――が、開始前、手に手に箒を持って、中央の大円庭に砂を均している。 見わたす限りの人の顔の壁に、ところどころ派手な色彩が動くのは、吉例により、貴婦人達が扇を使っているのだ。何という西班牙らしい軽さ! 異国さ! その怪鳥の羽ばたきのような、妙に柔かいグロテスクなひびき! これは何ものでもない。Spain Herself の音だ。おまけに、あおぎ方がまた西班牙だけによほど変ってて、まず最初おもてを見せて二、三回ひらひらあおぐと、つぎに、ひょいと器用に持ち更えて、今度は裏を出す。こいつを繰り返している。このすぺいん扇はなかなか高価なもので、女はまるで宝石でも溜めるようにこれをたくさん蒐めて威張ってるくらいだが、主材料の竹の関係上、その大部分は日本出来である。何とかいう京都の扇工場に西班牙人の図案家がいて――ま、扇のことはこのさい第二だ。 二十西仙出して座蒲団を買った私は、こうして石段の席へ腰を据えて、持参の望遠鏡で正面入口の混雑を検査している。
牛の略歴で御座い! 牛の略歴でござい!
番附売りの小僧が人を掻い潜って活躍してるのが見える。この「牛の略歴」というのを読んでみると――。 「今日第一回の殺害に使用さるべき名誉ある幸運牛は、名をドン・カルヴァリヨと称し、第一等の闘牛用牛産地ヴェラガ公爵所有の牧場出身にして、父は、かつて名闘牛士ドン・リイヴァスを角にかけたる猛牛銅鉄王七世、母なる牛は――。」 と言ったぐあいに、「牛量いくら、牛長――鼻先から尻尾の端まで――幾らいくら。牛性兇暴にして加徒力教の洗礼を拒否し、年歯二歳にして既に政府運転の急行列車に突撃を試みたることあり。ようやく長ずるに及び、猛悪果敢の牛質、衆牛にぬきんで――」なんかと、まあ、いったふうに、牛の生立ち・日常生活・その行状等を記述して余すところない。みんな買って、わくわくしながら読んでいる。 入口は大混難だ。 何しろ、襯衣一枚きりないものは、その一まいの襯衣を質におき、近在近郷の百姓はもちろん、聖フランシスコ寺院前の女乞食も、常用のよごれた肩掛を売り飛ばしてさえ出てくるこの大闘牛日だ。「闘牛行」のしんがりがまだ続々雪崩れ込んで来ている。 開演まぎわに馬車で駈けこんで、満員の全スタンドに思うさま着物を見せようというのが、マドリッド社交界の流行だ。それが期せずしてここに落ち合って、この不時の馬車行列――二頭立ての馬車が、砂けむりを上げて後からあとからと躍り込んで来る。四人乗りだが、きょうだけは六人満載して、幌のうえに女がふたりずつ腰かけてる。一行正式の西班牙装束だ。女達は、あのマントン・デ・マニラという、大柄な縫いをして房の下った、いわゆる Spanish Shawl を引っかけ、高々と結い上げた頭髪の後部に大櫛を差し、或る者はそのうえから黒また白の薄いべえるをかけ、カアネエションの花――西班牙の国花――を胸に飾って。 席へつくと同時に、みんな言い合わしたようにこのマントン・デ・マニラをひらりと肩から滑らして、自席のまえの欄干へ懸ける。これが何よりの闘牛場の装飾になる。いまスタンドのそこここに大輪の花が咲いたように見えるのが、それである。 扇子と Mant n de Manila とCAPAとぼいなとカアネイションと牛と。 そして興奮と白熱と饒舌と女性と。 なかんずく太陽!――闘牛は今はじまろうとして、全すぺいんがここに集って待っている。 ――で、直ぐ始めてもいいんだが、闘牛に関する幾らかの予備知識を持たなくちゃあただ見たって面白くあるまい。もっとも私の席はかなり闘牛庭へ近いから、よく見えることは見えるんだけれども――とにかく、この座席を占領するまでにどれだけ私が苦心惨澹しなければならなかったか。ひいては、闘牛というものに対する西班牙人の心持は如何? というようなことから、いよいよ始まるまでの数分間を利用して、この機会にすこし「闘牛考」をしてみよう。 もう大分まえだが、私がピラネエ颪みたいにこのマドリッドへ吹き込んで来た当初から、年に一回の最大闘牛、赤十字の慈善興行が来る日曜日――すなわち今日――催されるというんで、町も国も新聞も居酒屋も、早くからその評判ではち切れそうだった。 闘牛――すぺいん語で謂うCORRIDA DE TOROS。 闘牛は、言うまでもなく、一時この国に権力をふるったアラビヤ人の影響で、十六世紀の初期までは、勇猛な一人の騎士が槍を持って悍馬に跨がり、おなじく勇猛なる牡牛に単身抗争してこれを斃すのがその常道だった。そして主として貴族の特権的懸賞物だったが、この遣り方は、牛よりも人にとって危険率が多い――たしか十六世紀のはじめだったと思う。或る年の闘牛祭礼には、一日に十人の「勇猛なる騎士」が牛の角にかかって敢ない最期を遂げたと記録に見えている――というんで、もっと安全にそして確実に牛を殺し、ただその過程を華美にかつ勇壮にしようとあって、首府マドリッドに大闘牛場が新築されるとともに、従来の闘牛方法を改正して現行の順序様式を採用し、同時に闘牛は一般民衆の熱狂的歓迎と流行を独占するにいたった。こんにち西班牙国内の闘牛場は二百有余を算し、なお、常設の闘牛場を有たない小町村では、市場をもって祭日その他の場合の臨時闘牛場に充当している。いかにすぺいんの国民生活に、闘牛が重要な一部、じつに最も重要な一部を作しているか、これでも知れよう。 そんなら一たい、なぜそうこの「儀礼と技芸によって美装されたる牛殺し」が、西班牙民族のうえに尽きざる魅力を投げるか? 言い換えれば、闘牛に潜む“It”は何か!――というと、第一に、闘牛は必ず野天で行われる。しかも夏日炎々として人の頭がぐらぐらっとなってるとき、闘牛場には砂が敷いてある。その黄色い砂利にかっと太陽が照りつけて、そこに、人と動物のいきれが陽炎のように蒸れ、たらたらと流れるわる赤い血――時としては人血も混じて――の池がむっと照り返って眼と鼻を衝く。そうすると観客はすっかりわれを忘れてわあっと沸き返る。というこの灼熱的な、ちょっと変態的な効果に尽きる。この南国病的場面を極度に助長させるため、そこはよく市民の心理を掴んでいて、闘牛はいつも夕方にきまってる。午後四時から五時、六時から七時までのあいだだ。なぜ?――と言えば、長い暑い、だるい一日が終りに近づいてくると、都会人は、強烈な日光にうだって八〇パアセントばかり病的な状態におち入る。これは「気候温和にして」と地理の本にもあるような、わがにっぽん国ではちょっと想像出来ないかも知れないが、砂漠と仙人掌と竜舌蘭のすぺいんなんかでは、誰でも或る程度まで体験する感情に相違ない。つまりこの、一日の暑気と日光に当てられて、町じゅうの人が牛でも猫でも、何でもいいから早く殺しちまいたい発作的衝動に駆られてうずうずしてる時刻、ちょうどこの時は、太陽も沈むまえで思いきりその暴威を揮う。南の夕陽は発狂的だ。風は死んで、爆破しそうな焦立たしさが市街を固化する。人の血圧は高い。神経は刺戟を求めて、そしてどんな刺戟にでも耐えられそうに昂進している。おまけに、陽はいま最も地上に近い――といった、心理的にも気象的にも殺伐な潮どきを見計らって、何も猫を殺したところで初まらないから、そこで大々的に牛を殺すことにしたのが、このいすぱにあ国技「こりだ・で・とうろす」だ。だから、西班牙人は男も女も自らの情熱の捌け口をもとめて、万事を放擲してこれへ殺倒する。もちろん一つは、アラビヤ人との混合血液による国民性だが、毒を征するに毒をもってすという為政的見地から、皮肉に言えば、闘牛は、夏のすぺいん人の一時的錯乱に対する安全弁かも知れない。思うに、この蛮風も風土的必要に応じて発生したものであろう。道理で、サン・セバスチャンにあった有名な賭博場を閉じて国中からばくちを追った現独裁宰相――西班牙のムッソリニ―― Primo de Rivera ――も、まだこの闘牛だけはそっとして置いてる。もっとも彼だってすぺいん人だから、熱烈な闘牛ファンであっても差しつかえないわけだが、闘牛を禁止すると西班牙に革命が起るとみんなが言ってる。その革命も、夏の暮れ方に、のぼせ上ったDON達が街上に踊り狂ってお互いに料理し合うんじゃあ騒ぎが大きい。おなじ屠殺するんなら、まあ、人よりゃあ牛のほうが幾らか増しだろう。第一、牛はあんまり文句を言わないし、それに、血がたくさん出る。 という、これが闘牛の哲学だ。したがって物凄い闘牛病患者には、男よりも女――のほうがどうもヒステリカルな残忍性に富んでるとみえて――が多いことは、容易にうなずけよう。 闘牛には季節がある。復活祭から十月までの毎日曜日と祭日が正規の闘牛日だ。十月以後にもあることはあるが、それはいわゆる小闘牛といって、牛は若牛、闘牛士も幕下どころの下級闘牛士で、本格じゃないからどうも見劣りがする。 つぎに闘牛場だが、その建物は、ちょっと見たところ羅馬の円形闘技場に似ていて、途徹もなく尨大なものだ。這入ると中央の広場がいわゆる闘牛庭で、一ぱいに砂利が敷き詰めてある。それを見下ろして、ぐるりと高く雛段形の桟敷が取り巻いている。この見物席の根、つまり実際の闘牛庭との境壁には、周囲に、高さ五呎ほどの炭油塗りの木塀がめぐらしてあって、そのところどころに、半狂乱の牛の角のあとらしいこわれが見えている。それはいいが、この観覧席がまた妙なふうに区別されていて、まえにも言ったとおり、闘牛は炎天下に行われるんだから、その当日、何月何日の何時ごろには、どの辺に陽が射してどこらが蔭になるということはちゃんと前もって判っている。そこで、それによって座席が二大別されて、日蔭を Sombra と言って上等席だ。このほうはたいがい二十から二十五ペセタ――一ペセタは邦貨約三十銭強――陽の照る側の sol は、入場料十ペセタぐらいでまず二、三等にあたる。 こんなふうに日向よりも日蔭の席がずっと高価い。そうだろう、陽かげは涼しいにきまってるから――なんかと思うと大変な間違いで、ではどうして日蔭が高級席かというと、これにはまた大いに西班牙的な理由がある。それは、突かれ刺されて半死半生になった牛は、苦しいもんだから例外なしに陽影へ日かげへと這入って来て、死ぬ時はいつも日蔭席の真下ときまっている。だから闘牛の後半――最も白熱的な部分は日蔭の側で演じられるわけで、従って、ここに居れば一番よく見え、その残酷な快感を詳細に満喫出来るというんで、ほんとの闘牛ゴウアウスの連中は、借金しても争って、倍も高い陽かげの一等へ納まるのだ。が、倍でも三倍でも、SOLにしろSOMBRAにしろ、きょうのような年一度の特大闘牛になると、何でもいいから切符が手に入っただけで幸運に感謝しなければなるまい。私もこの切符のため数日来東奔西走したが、かなり前から発売してるにかかわらず、疾うの昔に売り切れちまって、市内の切符売場を廻ってみると、二十五ペセタの日蔭券が一枚二百ペセタ――六十円――あまりに暴騰している。べらぼうな話だが、こうなるとまるで入札みたいなもので、それさえ見てるうちに値上げされて行って、なかなか手に落ちそうもない。これは、はじめ仲買人が切符を買い占めて人気を煽り、いま小出しにしてるのだというような評判もあったが、何しろちょっと近寄れそうもない鼻息で、私なんか途方に暮れたかたちだった――するとここへ、かの下宿のペトラの恋人、名優ドン・モラガスが、このあらたかな切符をかざしてドン・ホルヘを救いにあらわれたのである。 こういうわけだ。 窓通いの現場を発見されたのが面映ゆかったのか、それとも、今後恋路の妨げをしないようにお世辞を使っとく必要ありとでも認めたものか、あの、私が夜中に窓をあけた翌日、ドン・モラガスが接近して来て言うには、彼の友達にベルモント――これは当代随一の闘牛家で全西班牙の国家的英雄――の弟子の弟子の又弟子か何かがあって、そいつを煽ててうまく入場券を寄附させたから、どうだドン・ホルヘ、一つ日曜日の大闘牛へ行ってみないか、というのである。 私がモラガスの胃を叩いて、牛血を浴びた闘牛士のように勇躍したことは言うまでもあるまい。
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