南北の東海道四谷怪談(なんぼくのとうかいどうよつやかいだん)
三 乞食(こじき)に化けて観音裏の田圃道(たんぼみち)を歩いていた庄三郎は、佐藤与茂七に逢って衣服を取りかえた。与茂七は宅悦の家で借りて来た提燈も庄三郎にやって、「非人に提燈はいらぬもの、これも貴殿へ」 と云って往ってしまった。庄三郎は己(じぶん)の風采(なり)を提燈の燈(ひ)で見て、「こんな容(なり)をしてて、仲間の乞食に見つかっては大変じゃ」 庄三郎はそれから富士権現(ふじごんげん)の前へ往った。祠(ほこら)の影から頬冠(ほおかむり)した男がそっと出て来て、庄三郎に覘(ねら)い寄り、手にしている出刃で横腹を刳(えぐ)った。「与茂七、恋の仇じゃ、思い知ったか」 頬冠の男は直助であった。直助は『藪の内』と書いた提燈を目あてにしていたので、庄三郎を与茂七とのみ思いこんでいた。「これでもか、これでもか」 惨忍(ざんにん)な直助は庄三郎を斬(き)りさいなんだ。「これでいい、これでいい」 直助は思いだして出刃を傍の垣根の中へ投げすてた。と、跫音(あしおと)がいりみだれて駈けだして来る者があった。直助はあわてて傍へ身を隠した。それは四谷左門と伊右衛門の二人が、斬りあいながら来たところであった。伊右衛門は途中で左門に逢ったので、お岩を返してくれと頼んだが、左門が承知しないので左門を殺そうとしていた。「おのれ、老ぼれ」「おのれ、悪人」 左門は斬られて血みどろになっていた。伊右衛門が追いすがってまた一刀をあびせた。左門は倒れてしまった。伊右衛門はそれに止めをさした。「強情ぬかした老ぼれめ、刀の錆(さび)は自業自得だ」 其の時傍の闇から直助が顔を出した。「そう云う声は、たしかに民谷さん」 伊右衛門は直助の方をきっと見た。「奥田の小厮(こもの)の直助か、どうして此処へ」 其の時向うの方で下駄の音がした。伊右衛門と直助は祠の後へ隠れた。下駄の音は近よって来た。それは糸盾(いとだて)を抱えた辻君(つじぎみ)姿の壮(わか)い女であった。「こんな遅くまで、父さんは何をしていらっしゃることやら」 小提燈を点(つ)けた女が走って来たが、よほどあわてていると見えて、辻君姿の女にどたりと突きあたった。「これは、どうも」 小提燈の女は丁寧に頭をさげた。辻君姿の女は其の顔に眼をつけた。「あ、おまえは妹」 小提燈の女も対手(あいて)に眼をつけていた。「あなたは姉(あね)さん」 辻君姿の女はお岩で、小提燈の女はお袖であった。お岩は物乞に往っている父親の左門を、お袖は途中で別れた与茂七の後を追うて来たところであった。お袖はお岩のあさましい姿をはっきり見た。「あなたは、まあ、あさましい、辻君などに」 お岩はお袖の顔をきっと見た。「おまえこそ、与茂七さんと云うれっきとした所天(おっと)がありながら、聞けば此の比(ごろ)、味な勤めとやらを」「え、それは」「これと云うのも貧がさすわざ、父(とと)さんが二人に隠して、観音さまの地内で袖乞をしておられるから、わたしも辻君になってはおるものの、肌身までは汚しておらぬ」「それはわたしも同じこと、恥かしい勤めはしても、肌身までは汚しませぬ。それにこんなことをしていたばかりに、今晩与茂七さんに逢うて、同伴(いっしょ)に来る道で、与茂七さんにはぐれたから、それを探しに」「わたしも父(とと)さんがあまり遅いから、それが気がかりで」 其の時お岩は地べたで何か見つけた。「おまえの傍に、それ血が」 お袖は提燈をかざした。其の燈(あかり)でお岩は左門の死体、お袖は庄三郎の死体を見つけた。「あ、たいへん、こりゃ父(とと)さん」「こりゃ与茂七さん」 お岩は左門の死体に、お袖は与茂七の死体にすがりついて泣いた。祠の陰から此の容子を見ていた伊右衛門と直助が、わざとらしく跫音を大きくして出て来た。「女の泣声がする、ただ事ではないぞ」伊右衛門はそう云いお岩の傍へ往って、「おまえは、お岩じゃないか」 お岩は顔をあげた。「あ、おまえは伊右衛門さん」 直助はお袖の傍へ往った。「此方(こっち)にいるのはお袖さんか」 お袖は泣きじゃくりしていた。「父(とと)さんと同じ所で、此のように」 お岩とお袖は悲しみのあまり自害しようとした。伊右衛門は芝居がかりであった。「うろたえもの、今姉妹が自害して、親、所天(おっと)の讐(かたき)を何人(たれ)が打つ」 お岩はそこできっとなった。「それでは、別れた夫婦仲(みょうとなか)でも、讐うちのたよりになってくださりますか」 伊右衛門はお岩を己(じぶん)の有(もの)にできるので心でほくそ笑んだ。「別れておっても、去り状はやってないから、やっぱり夫婦、舅殿(しゅうとどの)の讐も打たし、妹婿の讐も打たす」 直助はお袖を云いくるめた。「こうなるからは、是非ともおまえの力になる」 四 雑司ヶ谷(ぞうしがや)の民谷伊右衛門の家では、伊右衛門が内職の提燈を貼りながら按摩の宅悦と話していた。其の話はお岩の産(さん)の手伝に雇入れた小平(こへい)と云う小厮(こもの)が民谷家の家伝のソウセイキと云う薬を窃(ぬす)んで逃げたことであった。其の時屏風(びょうぶ)の中から手が鳴った。宅悦は腰をあげた。「はい、はい、お薬でござりますか」 宅悦が屏風の中へ入って往くと、伊右衛門は舌打ちした。「此のなけなしの中へ、餓鬼(がき)まで産むとは気のきかねえ、これだから素人の女房は困る」 宅悦は屏風の中から出て七輪へ薬の土瓶をかけて煽(あお)ぎだした。伊右衛門はにがにがしい顔をした。「お岩の薬か、生れ子の薬か」「これは、お岩さまのでござります」 其の時秋山長兵衛(あきやまちょうべえ)が走るように入って来た。「民谷氏、小平めをつかまえましたぞ、窃(と)って逃げた薬は、これに」「これは忝(かたじけ)ない」伊右衛門は貼りかけていた提燈を投げ棄てるようにして、長兵衛から小風呂敷の包みをもらい「して、小平めは」 其処へ関口官蔵(せきぐちかんぞう)と中間(ちゅうげん)の伴助(はんすけ)が、小平をぐるぐる巻きにして入って来た。宅悦は小平を口入した責任があった。「てめえ故に、な、おれまでが、難儀しておるぞ」 伊右衛門は惨忍なことを考えていた。小平ははらはらしていた。「どうぞ、おゆるしなされてくださりませ」「ならん、たわけめ、素首(そっくび)を打ち落とす奴(やつ)だが、薬を取りかえしたことだし、それに、昨日立てかえた金をかえせば、生命(いのち)だけは助けてやるが、其のかわり汝(てめえ)の指を、一本一本折るからそう思え」 小平は身をふるわせた。「旦那さま、お慈悲でござります、そればかりは、どうぞ」 長兵衛がついと出た。「やかましい」と怒鳴りつけて、それから皆(みんな)に、「さあ、猿轡(さるぐつわ)をはめさっしゃい」 官蔵、伴助、宅悦の三人は、長兵衛に促されて手拭で小平に猿轡をはめ、まず鬢(びん)の毛を脱いた。其の時門口へお梅の乳母のお槇が、中間に酒樽(さかだる)と重詰(じゅうづめ)を持たして来た。「お頼み申しましょう」 伊右衛門はそれと見て、三人に云いつけて小平を壁厨(おしいれ)へ投げこませ、そしらぬ顔をしてお槇を迎えた。「さあ、どうか、これへこれへ。御近所におりながら、何時(いつ)も御疎遠つかまつります、御主人にはおかわりなく」「ありがとうござります、主人喜兵衛はじめ、後家(ごけ)弓とも、よろしく申しました。承わりますれば、御内室お岩さまが、お産がありましたとやら、お麁末(そまつ)でござりますが」 お槇はそこで贈物を前へ出した。伊右衛門はうやうやしかった。「これは、これは、いつもながら御丁寧に、痛みいります、器物(いれもの)は此方(こちら)よりお返しいたします」「かしこまりました」それから懐中(かいちゅう)から小(ちい)さな黄(きい)ろな紙で包んだ物を出して、「これは、てまえ隠居の家伝でござりまして、血の道の妙薬でござります、どうかお岩さまへ」 伊右衛門はそれを取って戴いた。「これはお心づけ忝(かたじけ)のう存ずる、それでは早速」と云って伴助を見て、「これ、てめえ、白湯(さゆ)をしかけろ」 其の時屏風の中で嬰児(あかんぼ)の泣く声がした。お槇が耳をたてた。「おお、ややさま、男の子でござりまするか」 伊右衛門は頷いた。「さようでござる」「それはお芽出とうござります、それでは」 お槇の一行が帰って往くと、長兵衛と官蔵がもう樽の口を開け、重詰を出して酒のしたくにかかった。伊右衛門はにんまりした。「はて、せわしない手あいだのう」
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