讓は奇怪な思いに悩まされながら歩いていたがそのうちに頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんなばかげたことのあるはずがない、神経のぐあいであんなに見えたものだろうと思いだした。しかし、それが神経のぐあいだとすると、己は今晩どうかしているかも判らない。もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思いだした。そう思うと憂鬱な気もちになった。 讓はその憂鬱の中で、偶然な機会から女を得たこともほんとうでなくて、やはり奇怪な神経作用から来た幻覚ではないだろうかと思った。 何時の間にか彼は今までよりは広い明るい通路へ出ていた。と、彼の気もちは軽くなって来た。彼は女が己の帰りを待ちかねているだろうと思いだした。軽い淡白な気もちを持っている小鳥のような女が、隻肱を突いて机の横に寄りかかってじっと耳を傾け、玄関の硝子戸の開く音を聞きながら、己の帰るのを待っている容が浮んで来た。浮んで来るとともに、今晩先輩に相談した、女と素人屋の二階を借りて同棲しようとしていることが思われて来た。 (君もどうせ細君を持たなくちゃならないから、好い女なら結婚しても好いだろうが、それにしてもあまり疾風迅雷的じゃないか)と、云って笑った先輩の詞が好い感じをとものうて来た。 職業的な女なら知らないこともないが、そうした素人の処女と交渉を持った経験のない彼は、女の方に特種な事情があったにしても手もなく女を得たと云うことが、お伽話を読んでいるような気もちがしてならなかった。 (僕も不思議ですよ、なんだかお伽話を読んでいるような気がするんです)と、云った己の詞も思いだされた。彼は藤原君がそんなことを云うのももっともだと思った。 ……女は真暗になった林の中をふらふらと歩きだした。そして、彼の傍を通って海岸の方へ往きかけたが、泣きじゃくりをしていた。彼はたしかに女は自殺するつもりだろうと思ったので助けるつもりになった。それにしても女を驚かしてはいけないと思ったので、女を二三間やり過してから歩いて往った。 (もしもし、もしもし) 女はちょっと白い顔を見せたが、すぐ急ぎ足で歩きだした。 (僕はさっきの男です、決して、怪しいものじゃありません、あなたがお困りのようだから、お訊ねするのです、待ってください) 女はまた白い顔をすこし見せたようであったが足は止めなかった。 (もしもし、待ってください、あなたは非常にお困りのようだ) 彼はとうとう女に近寄ってその帯際に手をかけた。 (僕はさっきお眼にかかった三島と云う男です、あなたは非常にお困りのようだ) 女はすなおに立ちどまったがそれといっしょに双手を顔に当てて泣きだした。 (何かあなたは、御事情があるようだ、云ってください、御相談に乗りましょう) 女は泣くのみであった。 (こんな処で、話すのは変ですから、私の宿へまいりましょう、宿へ往って、ゆっくりお話を聞きましょう) 彼はとうとう女の手を握った。…… 路はまた狭い暗い通路へ曲った。讓は早く帰って下宿の二階で己の帰りを待ちかねている女に安心さしてやりたいと思ったので、爪さきさがりになった傾斜のある路をとっとと歩きだした。彼の眼の前には無邪気なおっとりした女の顔が見えるようであった。 ……(私は死ぬよりほかに、この体を置くところがありません) 家を逃げだして東京へ出てから一二軒婢奉公をしているうちにある私立学校の教師をしている女と知己になって、最近それの世話で某富豪の小間使に往って見ると、それは小間使以外に意味のある奉公で、往った翌晩主人から意外のそぶりを見せられたので、その晩のうちにそこを逃げだしてふらふらと海岸へやって来たと云って泣いた女の泣き声がよみがえって来た。 讓は己の右側を歩いている人の姿に眼を注けた。路の右側は崖になってその上にはただ一つの門燈が光っていた。右側を歩いている人はこちらを揮り返るようにした。 「失礼ですが、電車の方へは、こう往ったらよろしゅうございましょうか」 それは壮い女の声であった。讓には紅いその口元が見えたような気がした。彼はちょっと足を止めて、 「そうです、ここを往って、突きあたりを左へ折れて往きますと、すぐ、右に曲る処がありますから、そこを曲ってどこまでもまっすぐに往けば、電車の終点です、私も電車へ乗るつもりです」 「どうもありがとうございます、この前に私の親類もありますが、この道は、一度も通ったことがありませんから、なんだか変に思いまして……、では、そこまでごいっしょにお願いいたします」 讓は足の遅い女と道づれになって困ると思ったがことわることもできなかった。 「往きましょう、おいでなさい」 「すみませんね」 讓はもう歩きだしたがはじめのようにとっとと歩けなかった。彼はしかたなしに足を遅くして歩いた。 「道がお悪うございますね」 女は讓の後に引き添うて歩きながらどこかしっかりしたところのある詞で云った。 「そうですね、悪い道ですね、あなたはどちらからいらしたのです」 「山の手線の電車で、この前へまでまいりましたが、市内の電車の方が近いと云うことでしたから、こっちへまいりました、市内の電車では、時どき親類へまいりましたが、この道ははじめてですから」 「そうですか、なにしろ、場末の方は、早く寝るものですから」 讓はこう云ってからふと電燈の笠のことを思いだして、あんなことがあったらこの女はどうするだろうと思った。 「ほんとうにお淋しゅうございますのね」 「そうですよ、僕達もなんだか厭ですから、あなた方は、なおさらそうでしょう」 「ええ、そうですよ、ほんとうに一人でどうしようかと思っていたのですよ、非常に止められましたけれど、病人でとりこんでいる家ですから、それに、泊るなら親類へ往って泊ろうと思いまして、無理に出て来たのですが、そのあたりは、まだ数多起きてた家がありましたが、ここへ来ると、急に世界が変ったようになりました」 傾斜のある狭い暗い路が尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びていた。讓はそれを左に折れながらちょっと女の方を揮り返った。に化粧をした細面の顔があった。 「こっちですよ、いくらか明るいじゃありませんか」 「おかげさまで、助かりました」 「もう、これから前は、そんなに暗くはありませんよ」 「はあ、これから前は、私もよく存じております」 「そうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね」 「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます」 「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは」 「私は柏木ですよ」 「それは大変ですね」 「はあ、だから、この前の親類へ泊まろうか、どうしようかと思っているのですよ」 讓はこの女は厳格な家庭の者ではないと思った。香のあるような女の呼吸使いがすぐ近くにあった。彼はちょっとした誘惑を感じたが己の室で机に肱をもたせて、己の帰りを待っている女の顔がすぐその誘惑を掻き乱した。 「そうですな、もう遅いから、親類でお泊りになるが好いのでしょう、そこまで送ってあげましょう」 「どうもすみません」 「好いです、送ってあげましょう」 「では、すみませんが」 「その家はあなたが御存じでしょう」 女は讓の左側に並んで歩いていた。 「知ってます」 右へ曲る角にバーがあって、入口に立てた衝立の横から浅黄の洋服の胴体が一つ見えていたが、中はひっそりとして声はしなかった。 「こっちへ往くのですか」 讓は曲った方へ指をやった。 「このつぎの横町を曲って、ちょっと往ったところです、すみません」 「なに好いのですよ、往きましょう」 路の上が急に暗くなって来た。何人かがこのあたりに見はっていて、故意に門燈のスイッチをひねっているようであった。 「すこし、こっちは、暗いのですよ」 女の声には霧がかかったようになった。 「そうですね」 女はもう何も云わなかった。
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