「おそいぞ」馬場は怒っているような口調で言った。「おい、この帝大生が佐野次郎左衛門さ。こいつは佐竹六郎だ。れいの画かきさ」 佐竹と私とは苦笑しながら軽く目礼を交した。佐竹の顔は肌理も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであった。瞳の焦点がさだかでなく、硝子製の眼玉のようで、鼻は象牙細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺のように赤かった。そんなに絢爛たる面貌にくらべて、四肢の貧しさは、これまた驚くべきほどであった。身長五尺に満たないくらい、痩せた小さい両の掌は蜥蜴のそれを思い出させた。佐竹は立ったまま、老人のように生気のない声でぼそぼそ私に話しかけたのである。 「あんたのことを馬場から聞きましたよ。ひどいめに遭ったものですねえ。なかなかやると思っていますよ」私はむっとして、佐竹のまぶしいほど白い顔をもいちど見直した。箱のように無表情であった。 馬場は音たかく舌打ちして、「おい佐竹、からかうのはやめろ。ひとを平気でからかうのは、卑劣な心情の証拠だ。罵るなら、ちゃんと罵るがいい」 「からかってやしないよ」しずかにそう応えて、胸のポケットからむらさき色のハンケチをとり出し、頸のまわりの汗をのろのろ拭きはじめた。 「あああ」馬場は溜息ついて縁台にごろんと寝ころがった。「おめえは会話の語尾に、ねえ、とか、よ、とかをつけなければものを言えないのか。その語尾の感嘆詞みたいなものだけは、よせ。皮膚にべとつくようでかなわんのだ」私もそれは同じ思いであった。 佐竹はハンケチをていねいに畳んで胸のポケットにしまいこみながら、よそごとのようにして呟いた。「朝顔みたいなつらをしやがって、と来るんじゃないかね?」 馬場はそっと起きあがり、すこし声をはげまして言った。「おめえとはここで口論したくねえんだ。どっちも或る第三者を計算にいれてものを言っているのだからな。そうだろう?」何か私の知らない仔細があるらしかった。 佐竹は陶器のような青白い歯を出して、にやっと笑った。「もう僕への用事はすんだのかね?」 「そうだ」馬場はことさらに傍見をしながら、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。 「じゃあ、僕は失敬するよ」佐竹は小声でそう呟き、金側の腕時計を余程ながいこと見つめて何か思案しているふうであったが、「日比谷へ新響を聞きに行くんだ。近衛もこのごろは商売上手になったよ。僕の座席のとなりにいつも異人の令嬢が坐るのでねえ。このごろはそれがたのしみさ」言い終えたら、鼠のような身軽さでちょこちょこ走り去った。 「ちえっ! 菊ちゃん、ビイルをおくれ。おめえの色男がかえっちゃった。佐野次郎、呑まないか。僕はつまらん奴を仲間にいれたなあ。あいつは、いそぎんちゃくだよ。あんな奴と喧嘩したら、倒立ちしたってこっちが負けだ。ちっとも手むかいせずに、こっちの殴った手へべっとりくっついて来る」急に真剣そうに声をひそめて、「あいつ、菊の手を平気で握りしめたんだよ。あんなたちの男が、ひとの女房を易々と手にいれたりなどするんだねえ。インポテンスじゃないかと思うんだけれど。なに、名ばかりの親戚で僕とは血のつながりなんか絶対にない。――僕は菊のまえであいつと議論したくねえんだ。はり合うなんて、いやなこった。――君、佐竹の自尊心の高さを考えると、僕はいつでもぞっとするよ」ビイルのコップを握ったまま、深い溜息をもらした。「けれども、あいつの画だけは正当に認めなければいけない」 私はぼんやりしていた。だんだん薄暗くなって色々の灯でいろどられてゆく上野広小路の雑沓の様子を見おろしていたのである。そうして馬場のひとりごととは千里万里もかけはなれた、つまらぬ感傷にとりつかれていた。「東京だなあ」というたったそれだけの言葉の感傷に。 ところが、それから五六日して、上野動物園で貘の夫婦をあらたに購入したという話を新聞で読み、ふとその貘を見たくなって学校の授業がすんでから、動物園に出かけていったのであるが、そのとき、水禽の大鉄傘ちかくのベンチに腰かけてスケッチブックへ何やらかいている佐竹を見てしまったのである。しかたなく傍へ寄っていって、軽く肩をたたいた。 「ああ」と軽くうめいて、ゆっくり私のほうへ頸をねじむけた。「あなたですか。びっくりしましたよ。ここへお坐りなさい。いま、この仕事を大急ぎで片づけてしまいますから、それまで鳥渡、待っていて下さいね。お話したいことがあるのです」へんによそよそしい口調でそう言って鉛筆を取り直し、またスケッチにふけりはじめた。私はそのうしろに立ったままで暫くもじもじしていたが、やがて決心をつけてベンチへ腰をおろし、佐竹のスケッチブックをそっと覗いてみた。佐竹はすぐに察知したらしく、 「ペリカンをかいているのです」とひくく私に言って聞かせながら、ペリカンの様様の姿態をおそろしく乱暴な線でさっさと写しとっていた。「僕のスケッチをいちまい二十円くらいで、何枚でも買って呉れるというひとがあるのです」にやにやひとりで笑いだした。「僕は馬場みたいに出鱈目を言うことはきらいですねえ。荒城の月の話はまだですか?」 「荒城の月、ですか?」私にはわけがわからなかった。 「じゃあ、まだですね」うしろむきのペリカンを紙面の隅に大きく写しながら、「馬場がむかし、滝廉太郎という匿名で荒城の月という曲を作って、その一切の権利を山田耕筰に三千円で売りつけた」 「それが、あの、有名な荒城の月ですか?」私の胸は躍った。 「嘘ですよ」一陣の風がスケッチブックをぱらぱらめくって、裸婦や花のデッサンをちらちら見せた。「馬場の出鱈目は有名ですよ。また巧妙ですからねえ。誰でもはじめは、やられますよ。ヨオゼフ・シゲティは、まだですか?」 「それは聞きました」私は悲しい気持ちであった。 「ルフラン附きの文章か」つまらなそうにそう言って、スケッチブックをぱちんと閉じた。「どうもお待たせしました。すこし歩きましょうよ。お話したいことがあるのです」 きょうは貘の夫婦をあきらめよう。そうして、私にとって貘よりもさらにさらに異様に思われるこの佐竹という男の話に、耳傾けよう。水禽の大鉄傘を過ぎて、おっとせいの水槽のまえを通り、小山のように巨大なひぐまの、檻のまえにさしかかったころ、佐竹は語りはじめた。まえにも何回となく言って言い馴れているような諳誦口調であって、文章にすればいくらか熱のある言葉のようにもみえるが実際は、れいの嗄れた陰気くさい低声でもってさらさら言い流しているだけのことなのである。 「馬場は全然だめです。音楽を知らない音楽家があるでしょうか。僕はあいつが音楽について論じているのをついぞ聞いたことがない。ヴァイオリンを手にしたのを見たことがない。作曲する? おたまじゃくしさえ読めるかどうか。馬場の家では、あいつに泣かされているのですよ。いったい音楽学校にはいっているのかどうか、それさえはっきりしていないのです。むかしはねえ、あれで小説家になろうと思って勉強したこともあるんですよ。それがあんまり本を読みすぎた結果、なんにも書けなくなったのだそうです。ばかばかしい。このごろはまた、自意識過剰とかいう言葉のひとつ覚えで、恥かしげもなくほうぼうへそれを言いふらして歩いているようです。僕はむずかしい言葉じゃ言えないけれども、自意識過剰というのは、たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通って行くときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困じ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ちのことだと思うのですが、もしそれだったら、自意識過剰というものは、実にもう、七転八倒の苦しみであって、馬場みたいにあんな出鱈目な饒舌を弄することは勿論できない筈だし、――だいいち雑誌を出すなんて浮いた気持ちになれるのがおかしいじゃないですか! 海賊。なにが海賊だ。好い気なもんだ。あなた、あんまり馬場を信じ過ぎると、あとでたいへんなことになりますよ。それは僕がはっきり予言して置いていい。僕の予言は当りますよ」 「でも」 「でも?」 「僕は馬場さんを信じています」 「はあ、そうですか」私の精一ぱいの言葉を、なんの表情もなく聞き流して、「今度の雑誌のことだって、僕は徹頭徹尾、信じていません。僕に五十円出せと言うのですけれども、ばからしい。ただわやわや騒いでいたいのですよ。一点の誠実もありません。あなたはまだごぞんじないかも知れないが明後日、馬場と僕と、それから馬場が音楽学校の或る先輩に紹介されて識った太宰治とかいうわかい作家と、三人であなたの下宿をたずねることになっているのですよ。そこで雑誌の最後的プランをきめてしまうのだとか言っていましたが、――どうでしょう。僕たちはその場合、できるだけつまらなそうな顔をしてやろうじゃありませんか。そうして相談に水をさしてやろうじゃありませんか。どんな素晴らしい雑誌を出してみたところで、世の中は僕たちにうまく恰好をつけては呉れません。どこまでやっていっても中途半端でほうり出されます。僕はビアズレイでなくても一向かまわんですよ。懸命に画をかいて、高い価で売って、遊ぶ。それで結構なんです」 言い終えたところは山猫の檻のまえであった。山猫は青い眼を光らせ、脊を丸くして私たちをじっと見つめていた。佐竹はしずかに腕を伸ばして吸いかけの煙草の火を山猫の鼻にぴたっとおしつけた。そうして佐竹の姿は巖のように自然であった。
三 登竜門
ここを過ぎて、一つ二銭の栄螺かな。
「なんだか、――とんでもない雑誌だそうですね」 「いいえ。ふつうのパンフレットです」 「すぐそんなことを言うからな。君のことは実にしばしば話に聞いて、よく知っています。ジッドとヴァレリイとをやりこめる雑誌なんだそうですね」 「あなたは、笑いに来たのですか」 私がちょっと階下へ行っているまに、もう馬場と太宰が言い合いをはじめた様子で、お茶道具をしたから持って来て部屋へはいったら、馬場は部屋の隅の机に頬杖ついて居汚く坐り、また太宰という男は馬場と対角線をなして向きあったもう一方の隅の壁に背をもたせ細長い両の毛臑を前へ投げだして坐り、ふたりながら眠たそうに半分閉じた眼と大儀そうなのろのろした口調でもって、けれども腹綿は恚忿と殺意のために煮えくりかえっているらしく眼がしらや言葉のはしはしが児蛇の舌のようにちろちろ燃えあがっているのが私にさえたやすくそれと察知できるくらいに、なかなか険しくわたり合っていたのである。佐竹は太宰のすぐ傍にながながと寝そべり、いかにも、つまらなそうに眼玉をきょろきょろうごかしながら煙草をふかしていた。はじめからいけなかった。その朝、私がまだ寝ているうちに馬場が私の下宿の部屋を襲った。きょうは学生服をきちんと着て、そのうえに、ぶくぶくした黄色いレンコオトを羽織っていた。雨にびっしょり濡れたそのレンコオトを脱ぎもせずに部屋をぐるぐるいそがしげに廻って歩いた。歩きながら、ひとりごとのようにして呟くのである。 「君、君。起きたまえ。僕はひどい神経衰弱らしいぞ。こんなに雨が降っては、僕はきっと狂ってしまう。海賊の空想だけでも痩せてしまう。君、起きたまえ。ついせんだって僕は太宰治という男に逢ったよ。僕の学校の先輩から小説の素晴らしく巧い男だといって紹介されたのだが、――何も宿命だ。仲間にいれてやることにした。君、太宰ってのは、おそろしくいやな奴だぞ。そうだ。まさしく、いや、な奴だ。嫌悪の情だ。僕はあんなふうの男とは肉体的に相容れないものがあるようだ。頭は丸坊主。しかも君、意味深げな丸坊主だ。悪い趣味だよ。そうだ、そうだ。あいつはからだのぐるりを趣味でかざっているのだ。小説家ってのは、皆あんな工合いのものかねえ。思索や学究や情熱なぞをどこに置き忘れて来たのか。まるっきりの、根っからの戯作者だ。蒼黒くでらでらした大きい油顔で、鼻が、――君レニエの小説で僕はあんな鼻を読んだことがあるぞ。危険きわまる鼻。危機一髪、団子鼻に墮そうとするのを鼻のわきの深い皺がそれを助けた。まったくねえ。レニエはうまいことを言う。眉毛は太く短くまっ黒で、おどおどした両の小さい眼を被いかくすほどもじゃもじゃ繁茂していやがる。額はあくまでもせまく皺が横に二筋はっきりきざまれていて、もう、なっちゃいない。首がふとく、襟脚はいやに鈍重な感じで、顎の下に赤い吹出物の跡を三つも僕は見つけた。僕の目算では、身丈は五尺七寸、体重は十五貫、足袋は十一文、年齢は断じて三十まえだ。おう、だいじなことを言い忘れた。ひどい猫脊で、とんとせむし、――君、ちょっと眼をつぶってそんなふうの男を想像してごらん。ところが、これは嘘なんだ。まるっきり嘘なんだ。おおやま師。装っているのだ。それにちがいないんだ。なにからなにまで見せかけなのだ。僕の睨んだ眼に狂いはない。ところどころに生え伸びたまだらな無精鬚。いや、あいつに無精なんてあり得ない。どんな場合でもあり得ない。わざとつとめて生やした鬚だ。ああ、僕はいったい誰のことを言っているのだ! ごらん下さい、私はいまこうしています、ああしていますと、いちいち説明をつけなければ指一本うごかせず咳ばらい一つできない。いやなこった! あいつの素顔は、眼も口も眉毛もないのっぺらぼうさ。眉毛を描いて眼鼻をくっつけ、そうして知らんふりをしていやがる。しかも君、それをあいつは芸にしている。ちぇっ! 僕はあいつを最初瞥見したとき、こんにゃくの舌で顔をぺろっと舐められたような気がしたよ。思えば、たいへんな仲間ばかり集って来たものさ。佐竹、太宰、佐野次郎、馬場、ははん、この四人が、ただ黙って立ち並んだだけでも歴史的だ。そうだ! 僕はやるぞ。なにも宿命だ。いやな仲間もまた一興じゃないか。僕はいのちをことし一年限りとして Le Pirate に僕の全部の運命を賭ける。乞食になるか、バイロンになるか。神われに五ペンスを与う。佐竹の陰謀なんて糞くらえだ!」ふいと声を落して、「君、起きろよ。雨戸をあけてやろう。もうすぐみんなここへ来るよ。きょうこの部屋で海賊の打ち合せをしようと思ってね」
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