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ダス・ゲマイネ(ダス・ゲマイネ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-20 9:22:45 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

   一 幻燈

当時、私には一日一日が晩年であった。


 恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった。それより以前には、私の左の横顔だけを見せつけ、私のおとこを売ろうとあせり、相手が一分間でもためらったが最後、たちまち私はきりきり舞いをはじめて、疾風のごとく逃げ失せる。けれども私は、そのころすべてにだらしなくなっていて、ほとんど私の身にくっついてしまったかのようにも思われていたその賢明な、怪我の少い身構えの法をさえ持ちこたえることができず、わば手放しで、節度のない恋をした。好きなのだから仕様がないというしわがれたつぶやきが、私の思想の全部であった。二十五歳。私はいま生れた。生きている。生き、切る。私はほんとうだ。好きなのだから仕様がない。しかしながら私は、はじめから歓迎されなかったようである。無理心中という古くさい概念を、そろそろとからだで了解しかけて来た矢先、私は手ひどくはねつけられ、そうしてそれっきりであった。相手はどこかへ消えうせたのである。
 友人たちは私を呼ぶのに佐野次郎左衛門、もしくは佐野次郎さのじろという昔のひとの名でもってした。
「さのじろ。――でも、よかった。そんな工合いの名前のおかげで、おめえの恰好もどうやらついて来たじゃないか。ふられても恰好がつくなんてのは、てんからひとに甘ったれている証拠らしいが、――ま、落ちつく」
 馬場がそう言ったのを私は忘れない。そのくせ、私を佐野次郎なぞと呼びはじめたのは、たしかに馬場なのである。私は馬場と上野公園内の甘酒屋で知り合った。清水寺のすぐちかくに赤い毛氈もうせんを敷いた縁台を二つならべて置いてある小さな甘酒屋で知り合った。
 私が講義のあいまあいまに大学の裏門から公園へぶらぶら歩いて出ていって、その甘酒屋にちょいちょい立ち寄ったわけは、その店に十七歳の、菊という小柄で利発そうな、眼のすずしい女の子がいて、それの様が私の恋の相手によくよく似ていたからであった。私の恋の相手というのは逢うのに少しばかり金のかかるたちの女であったから、私は金のないときには、その甘酒屋の縁台に腰をおろし、一杯の甘酒をゆるゆるとすすり乍らその菊という女の子を私の恋の相手の代理として眺めて我慢していたものであった。ことしの早春に、私はこの甘酒屋で異様な男を見た。その日は土曜日で、朝からよく晴れていた。私はフランス叙情詩の講義を聞きおえて、真昼頃、梅は咲いたか桜はまだかいな。たったいま教ったばかりのフランスの叙情詩とは打って変ったかかる無学な文句に、勝手なふしをつけて繰りかえし繰りかえし口ずさみながら、れいの甘酒屋を訪れたのである。そのときすでに、ひとりの先客があった。私は、おどろいた。先客の恰好が、どうもなんだか奇態に見えたからである。ずいぶんせ細っているようであったけれども身丈みたけは尋常であったし、着ている背広服も黒サアジのふつうのものであったが、そのうえに羽織っている外套がいとうがだいいち怪しかった。なんという型のものであるか私には判らぬけれども、ひとめ見た印象で言えば、シルレルの外套である。天鵞絨ビロード紐釦ボタンがむやみに多く、色は見事な銀鼠ぎんねずであって、話にならんほどにだぶだぶしていた。そのつぎには顔である。これをもひとめ見た印象で言わせてもらえば、シューベルトに化け損ねた狐である。不思議なくらいに顕著なおでこと、鉄縁の小さな眼鏡とたいへんなちぢれ毛と、とがったあごと、無精鬚ぶしょうひげ。皮膚は、大仰な言いかたをすれば、うぐいすの羽のような汚い青さで、まったく光沢がなかった。その男が赤毛氈の縁台のまんなかにあぐらをかいて坐ったまま大きい碾茶ひきちゃの茶碗でたいぎそうに甘酒をすすりながら、ああ、片手あげて私へおいでおいでをしたでないか。ながく躊躇ちゅうちょをすればするほどこれはいよいよ薄気味わるいことになりそうだな、とそう直覚したので、私は自分にもなんのことやら意味の分らぬ微笑を無理して浮べながら、その男の坐っている縁台の端に腰をおろした。
「けさ、とても固いするめを食ったものだから」わざと押しつぶしているような低いかすれた声であった。「右の奥歯がいたくてなりません。歯痛ほど閉口なものはないね。アスピリンをどっさり呑めば、けろっとなおるのだが。おや、あなたを呼んだのは僕だったのですか? しつれい。僕にはねえ」私の顔をちらと見てから、口角に少し笑いを含めて、「ひとの見さかいができねえんだ。めくら。――そうじゃない。僕は平凡なのだ。見せかけだけさ。僕のわるい癖でしてね。はじめに逢ったひとには、ちょっとこう、いっぷう変っているように見せたくてたまらないのだ。自縄自縛という言葉がある。ひどく古くさい。いかん。病気ですね。君は、文科ですか? ことし卒業ですね?」
 私は答えた。「いいえ。もう一年です。あの、いちど落第したものですから」
「はあ、芸術家ですな」にこりともせず、おちついて甘酒をひと口すすった。「僕はそこの音楽学校にかれこれ八年います。なかなか卒業できない。まだいちども試験というものに出席しないからだ。ひとがひとの能力を試みるなんてことは、君、容易ならぬ無礼だからね」
「そうです」
「と言ってみただけのことさ。つまりは頭がわるいのだよ。僕はよくここにこうして坐りこみながら眼のまえをぞろぞろと歩いて通る人の流れを眺めているのだが、はじめのうちは堪忍できなかった。こんなにたくさんひとが居るのに、誰も僕を知っていない、僕に留意しない、そう思うと、――いや、そうさかんに合槌あいづちうたなくたってよい。はじめから君の気持ちで言っているのだ。けれどもいまの僕なら、そんなことぐらい平気だ。かえって快感だ。枕のしたを清水がさらさら流れているようで。あきらめじゃない。王侯のよろこびだよ」ぐっと甘酒を呑みほしてから、だしぬけに碾茶の茶碗を私の方へのべてよこした。「この茶碗に書いてある文字、――白馬ハクバオゴリテ不行ユカズ。よせばいいのに。てれくさくてかなわん。君にゆずろう。僕が浅草の骨董屋こっとうやから高い金を出して買って来て、この店にあずけてあるのだ。とくべつに僕用の茶碗としてね。僕は君の顔が好きなんだ。ひとみのいろが深い。あこがれている眼だ。僕が死んだなら、君がこの茶碗を使うのだ。僕はあしたあたり死ぬかも知れないからね」
 それからというもの、私たちはその甘酒屋で実にしばしば落ち合った。馬場はなかなかに死ななかったのである。死なないばかりか、少し太った。蒼黒あおぐろい両頬が桃の実のようにむっつりふくれた。彼はそれを酒ぶとりであると言って、こうからだが太って来ると、いよいよ危いのだ、と小声で附け加えた。私は日ましに彼と仲良くなった。なぜ私は、こんな男から逃げ出さずに、かえって親密になっていったのか。馬場の天才を信じたからであろうか。昨年の晩秋、ヨオゼフ・シゲティというブダペスト生れのヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気であった。孤高狷介けんかいのこの四十歳の天才は、憤ってしまって、東京朝日新聞へ一文を寄せ、日本人の耳は驢馬ろばの耳だ、なんて悪罵あくばしたものであるが、日本の聴衆へのそんな罵言の後には、かならず、「ただしひとりの青年を除いて」という一句が詩のルフランのように括弧でくくられて書かれていた。いったい、ひとりの青年とは誰のことなんだとそのじぶん楽壇でひそひそ論議されたものだそうであるが、それは、馬場であった。馬場はヨオゼフ・シゲティと逢って話を交した。日比谷公会堂での三度目の辱かしめられた演奏会がおわった夜、馬場は銀座のある名高いビヤホオルの奥隅の鉢の木のかげに、シゲティの赤い大きな禿頭はげあたまを見つけた。馬場は躊躇せず、その報いられなかった世界的な名手がことさらに平気を装うて薄笑いしながらビイルをめているテエブルのすぐ隣りのテエブルに、つかつか歩み寄っていって坐った。その夜、馬場とシゲティとは共鳴をはじめて、銀座一丁目から八丁目までのめぼしいカフエを一軒一軒、たんねんに呑んでまわった。勘定はヨオゼフ・シゲティが払った。シゲティは、酒を呑んでも行儀がよかった。黒の蝶ネクタイを固くきちんと結んだままで、女給たちにはついに一指も触れなかった。理智で切りきざんだ工合いの芸でなければ面白くないのです。文学のほうではアンドレ・ジッドとトオマス・マンが好きです、と言ってから淋しそうに右手の親指の爪をんだ。ジッドをチットと発音していた。夜のまったく明けはなれたころ、二人は、帝国ホテルの前庭のはすの池のほとりでお互いに顔をそむけながら力の抜けた握手を交してそそくさと別れ、その日のうちにシゲティは横浜からエムプレス・オブ・カナダ号に乗船してアメリカへむけて旅立ち、そのあくる日、東京朝日新聞にれいのルフラン附きの文章が掲載されたというわけであった。けれども私は、彼もさすがにてれくさそうにして眼を激しくしばたたかせながら、そうして、おしまいにはほとんど不機嫌になってしまって語って聞かせたこんなふうの手柄話を、あんまり信じる気になれないのである。彼が異国人と夜のまったく明けはなれるまで談じ合うほど語学ができるかどうか、そういうことからして怪しいもんだと私は思っている。疑いだすと果しがないけれども、いったい、彼にはどのような音楽理論があるのか、ヴァイオリニストとしてどれくらいの腕前があるのか、作曲家としてはどんなものか、そんなことさえ私には一切わかって居らぬのだ。馬場はときたま、てかてか黒く光るヴァイオリンケエスを左腕にかかえて持って歩いていることがあるけれども、ケエスの中にはつねに一物もはいっていないのである。彼の言葉に依れば、彼のケエスそれ自体が現代のサンボルだ、中はうそ寒くからっぽであるというんだが、そんなときには私は、この男はいったいヴァイオリンを一度でも手にしたことがあるのだろうかという変な疑いをさえ抱くのである。そんな案配であるから、彼の天才を信じるも信じないも、彼の技倆ぎりょうを計るよすがさえない有様で、私が彼にひきつけられたわけは、他にあるのにちがいない。私もまたヴァイオリンよりヴァイオリンケエスを気にする組ゆえ、馬場の精神や技倆より、彼の風姿や冗談に魅せられたのだというような気もする。彼は実にしばしば服装をかえて、私のまえに現われる。さまざまの背広服のほかに、学生服を着たり、菜葉服を着たり、あるときには角帯に白足袋という恰好で私を狼狽ろうばいさせ赤面させた。彼の平然と呟くところに依れば、彼がこのようにしばしば服装をかえるわけは、自分についてどんな印象をもひとに与えたくない心からなんだそうである。言い忘れていたが、馬場の生家は東京市外の三鷹村下連雀しもれんじゃくにあり、彼はそこから市内へ毎日かかさず出て来て遊んでいるのであって、親爺は地主か何かでかなりの金持ちらしく、そんな金持ちであるからこそ様様に服装をかえたりなんかしてみることもできるわけで、これも謂わば地主のせがれ贅沢ぜいたくの一種類にすぎないのだし、――そう考えてみれば、べつだん私は彼の風采ふうさいのゆえにひきつけられているのでもないようだぞ。金銭のせいであろうか。すこぶる言いにくい話であるが、彼とふたりで遊び歩いていると勘定はすべて彼が払う。私を押しのけてまで支払うのである。友情と金銭とのあいだには、このうえなく微妙な相互作用がたえずはたらいているものらしく、彼の豊潤の状態が私にとっていくぶん魅力になっていたことも争われない。これは、ひょっとしたら、馬場と私との交際は、はじめっから旦那と家来の関係にすぎず、徹頭徹尾、私がへえへえ牛耳られていたという話に終るだけのことのような気もする。

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