日本文学全集18 鈴木三重吉 森田草平集 |
集英社 |
1969(昭和44)年9月12日 |
1969(昭和44)年9月12日 |
1975(昭和50)年6月7日 |
千鳥の話は馬喰の娘のお長で始まる。小春の日の夕方、蒼ざめたお長は軒下へ蓆を敷いてしょんぼりと坐っている。干し列べた平茎には、もはや糸筋ほどの日影もささぬ。洋服で丘を上ってきたのは自分である。お長は例の泣きだしそうな目もとで自分を仰ぐ。親指と小指と、そして襷がけの真似は初やがこと。その三人ともみんな留守だと手を振る。頤で奥を指して手枕をするのは何のことか解らない。藁でたばねた髪の解れは、かき上げてもすぐまた顔に垂れ下る。 座敷へ上っても、誰も出てくるものがないから勢がない。廊下へ出て、のこのこ離れの方へ行ってみる。麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くように聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの幅で長く続いている。二三種の花が咲いている。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに仄暗く壁に懸っている。これが目につくと、久しぶりで自分の家に帰ってきでもしたように懐しくなる。床の上に、小さな花瓶に竜胆の花が四五本挿してある。夏二た月の逗留の間、自分はこの花瓶に入り替りしおらしい花を絶やしたことがなかった。床の横の押入から、赤い縮緬の帯上げのようなものが少しばかり食みだしている。ちょっと引っ張ってみるとすうと出る。どこまで出るかと続けて引っ張るとすらすらとすっかり出る。 自分はそれをいくつにも畳んでみたり、手の甲へ巻きつけたりしていじくる。後には頭から頤へ掛けて、冠の紐のように結んで、垂れ下ったところを握ったまま、立膝になって、壁の摺絵を見つめる。「ネイションス・ピクチュア」から抜いた絵である。女が白衣の胸にはさんだ一輪の花が、血のように滲んでいる。目を細くして見ていると、女はだんだん絵から抜けでて、自分の方へ近寄ってくるように思われる。 すると、いつの間にか、年若い一人の婦人が自分の後に坐っている。きちんとした嬢さんである。しとやかに挨拶をする。自分はまごついて冠を解き捨てる。 婦人は微笑みながら、 「まあ、この間から毎日毎日お待ち申していたんですよ」という。 「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申しまして、しまいにはみんなで気を落していましたのでございますよ」と、懐かしそうに言うのである。自分は狐にでもつままれたようであった。丘の上の一つ家の黄昏に、こんな思いも設けぬ女の人がのこりと現れて、さも親しい仲のように対してくる。かつて見も知らねば、どこの誰という見当もつかぬ。自分はただもじもじと帯上を畳んでいたが、やっと、 「おばさんもみんな留守なんだそうですね」とはじめて口を聞く。 「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行ったんですの」 「どの畠へ出てるんですか。――私ちょっと行ってみましょう」 「いいえ、もうただ今お長をやりましたから大騒ぎをして帰っていらっしゃいますわ」 「さっき私は誰もいないのだと思って、一人でずんずんここへ上ってきたんでした」と言って、お長が手枕の真似をしたことを胸に浮べる。女の人は少し頭痛がしたので奥で寝んでいたところ、お長が裏口へ廻って、障子を叩いて起してくれたのだと言う。 「もう何ともございません」と伏し目になる。起きて着物をちゃんとして出てきたものらしい。ややあって、 「あなたはこの節は少しはおよろしい方でございますか」と聞く。自分の事は何でもすっかり知っているような口ぶりである。 「どうもやっぱり頭がはきはきしません。じつは一年休学することにしたんです」 「そうでございますってね。小母さんは毎日あなたの事ばかり案じていらっしゃるんですよ。今度またこちらへお出でになることになりましてから、どんなにお喜びでしたかしれません。……考えると不思議な御縁ですわね」 「妙なものですね。この夏はどうしたことからでしたか、ふとこちらへ避暑に来る気になったんですが、――私はあまり人のざわつくところは厭だもんですから。――その代り宿屋なんぞのないということははじめから承知の上なんでしたけれど、さあ、船から上ってそこらの家へ頼んでみると、はたしてみんな断ってしまうでしょう。困ったんですよ」 婦人は微笑む。 「それでしかたがないもんだから、とうとのこのこ役場へやって行ったんでした。くるくる坊主ですねここの村長は」 「ええ、ほほほ」 「そしたらあの人が親切に心配してくれたんです」 「そしてここの小母さんに、私は母というものがないんだから、こんな家へ置いてもらったらいいのですがって、そうおっしゃったのですってね」 「そうでしたかなあ。とにかく小母さんを一と目見るとから、何かしら懐しくなったんです」 「そんなにおっしゃったものですから、小母さんもしおらしい方だと思って、お世話をする気になったんですって」 「私は今では小母さんが生みの親のように思われるんですよ。私の家にいたって何だか旅の下宿にでもいるような気がするんですもの」 「小母さんも青木さんはあたしの内証の子なんだかもしれないなんて冗談をおっしゃるんですよ」 「あ、いつか小母さんが指へ傷をしたというのはもう直ったのですか」 「ええただナイフでちょっと切ったばかりなんですから」 二人はこのような話をしながら待っている。築地の根を馬の鈴が下りてゆく。馬を引く女が唄を歌う。 障子を開けてみると、麓の蜜柑畑が更紗の模様のようである。白手拭を被った女たちがちらちらとその中を動く。蜜柑を積んだ馬が四五匹続いて出る。やはり女が引いている。向いの、縞のようになった山畠に烟が一筋揚っている。焔がぽろぽろと光る。烟は斜に広がって、末は夕方の色と溶けてゆく。 女の人も自分のそばへ寄って等しく外を見る。山畠のあちらこちらを馬が下りる。馬は犬よりも小さい。首を出してみると、庭の松の木のはずれから、海が黒く湛えている。影のごとき漁船が後先になって続々帰る。近い干潟の仄白い砂の上に、黒豆を零したようなのは、烏の群が下りているのであろうか。女の人の教える方を見れば、青松葉をしたたか背負った頬冠りの男が、とことこと畦道を通る。間もなくこちらを背にして、道について斜に折れると思うと、その男はもはや、ただ大きな松葉の塊へ股引の足が二本下ったばかりのものとなって動いている。松葉の色がみるみる黒くなる。それが蜜柑畑の向うへはいってしまうと、しばらく近くには行くものの影が絶える。谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫ってくる黄昏の色を、急がしい機の音が招き寄せる。 「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あたりは見るうちに薄暗くなる。女の人がちょっと出て行って、今度帰って坐った時には、向き合いになってももう面輪が定かに見えない。 女の人は、立って押入から竹洋灯を取りだして、油を振ってみて、袂から紙を出して心を摘む。下へ置いた笠に何か書いた紙切れが喰っついている。読んでみると章坊の手らしい幼い片仮名で、フジサンガマタナクと書いてある。 「あら」と女の人は恥かしそうに笑ってその紙を剥がす。 「章ちゃんがこんな悪戯をするんですわ。嘘ですのよ、みんな」と打消すようにいう。 「何の事なんです、これは」 「ほほほ」 「フジサンというのは」 「あたしでございます」 「ああ、お藤さんとおっしゃるんですか」 「はい」と藤さんは微笑みながら、立って押入れを探す。 藤さんという名はこうして知ったのである。 「そしてあなたが何でお泣きになったんです?」 「いいえ、嘘ですの、そんなことは」 「燐寸を探していらっしゃるんですか。私が持っています」 「あら、冗談なのでございますわ。あれは章ちゃんが……」と勘違えをしている。ポケットから燐寸を出して洋灯を点すと、 「まあ、恐れ入ります」と藤さんは坐る。灯火に見れば、油絵のような艶かな人である。顔を少し赤らめている。
「あしが一番あん」と章坊が着物を引っ抱えて飛びだすと、入れ違いに小母さんがはいってきて、シャツの上から着物を着せかけてくれる。 「さ、これをあげましょう」と下締を解く。それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披げて後へ廻る。 「そんなものを私に着せるのですか」 「でもほかにはないんですもの」と肩へかける。 「それでも洋服とは楽でがんしょうがの」と、初やが焜炉を煽ぎながらいう。羽織は黄八丈である。藤さんのだということは問わずとも別っている。 「着物が少し長いや。ほら、踵がすっかり隠れる」と言うと、 「母さんのだもの」と炬燵から章坊が言う。 「小母さんはこんなに背が高いのかなあ」 「なんの、あなたが少し低うなりなんしたのいの。病気をしなんすもんじゃけに」と初やが冗談をいう。 「女は腰のところを下帯で紮げて着るんですから」と言って、藤さんはそばから羽織の襟を直してくれる。 「なぜそうするんでしょう」 「みんなそうするんですわ。おや、羽織に紐がございませんわね」 「いいえけっこう」というと、初やが、 「まあ、お二人で仲のいいこと」と言いさま、きゅうにばたばたとはげしく煽ぎだす。 「まあ」と藤さんは赤い顔をしている。
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