紫琴全集 全一巻 |
草土文化 |
1983(昭和58)年5月10日 |
1983(昭和58)年5月10日第1刷 |
第一回
本郷西片町の何番地とやらむ。同じやうなる生垣建続きたる中に、別ても眼立つ一搆え。深井澄と掲げたる表札の文字こそ、さして世に公ならね。庭の木石、書斎の好み、借家でない事は、一眼で分る、立派なお住居。旦那様は、稚きより、御養子の、お里方は疾くに没落。なにかにつけて、奥様の親御には、一方ならぬ、御恩受けさせたまひしとて。お家では一目も二目も置きたまへど。敷居一ツ外では、裸体にしても、百円がものはある学士様。さる御役所へお勤めも、それはほんのお気晴らしとやら。否と仰せられても、這入つてくる、公債の利子、株券の配当。先代よりお譲受けの、それだけにても、このせち辛き世を、寝て暮さるるといふ、結搆な御身分、あるにしてからが、頓と邪魔にならぬものながら、何とあそばす事であろと。隣家の財宝羨むものの、余計な苦労も、なるほどと合点のゆく、奥様の御贅沢。そんな事は、さらさらこのお邸のお障りとはなるまじきも。先づ盆正月のお晴れ衣裳。それはいふも愚かな事や。ちよつとしたお外出にも、同じもの、二度と召されたる例はなし。そんなのを、どこやらで、見たといふものあるにも。お肝の虫きりりと騒ぎて、截立のお衣裳を、お倉庫の隅へ、押遣らるるといふお心意気。流行の先を制せむとては、新柳二橋と、三井呉服店へ、特派通信員を、お差立てにも、なりかねまじき、惨怛の御工夫。代はり目毎のお演劇行きも、舞台よりは、見物の衣裳に、お眼を注がせらるる為とやら。そんな事、こんな事に、日を暮らしたまふには似ぬ、お顔色の黒さ。お鼻はあるか、ないがしろに、したまふ旦那に対しては、お隆いといふ事も出来れど。大丸髷の甲斐もなき、お髪の癖のあれだけでも、直して進ぜましたやと。いつもお外出のそのつどつど、四辺も輝くお衣裳の立派さを、誉むるにつけての譏り草。根生ひ葉生ひて、むつかしや。朝は年中旦那様、御出勤のその後にて、きよろりとお眼醒めあそばせど。宵は師走霜月の、いかに日短なこの頃とても。点燈頃まで、旦那様、お帰宅なからふものならば、三方四方へお使者の、立つても居ても居られぬは、傍で見る眼の侍女まで。はあはあはあと気を※[#「敖/心」、170-6]れど。うつかりお傍へ寄付かば、どんなお叱り受けるも知れぬに。御寵愛の玉なんにも知らず。のそのそお膝へ這い上り、とつて投げられしといふ事まで、誰がいひ触れての噂ばなし。御近所には、誰知らぬものもないこの沙汰に、この身の事も入れられやう。はあ悲しやとばかりにて、お台所の片隅に、裁縫の手を止め、恍惚と考へ込むは、お園といふ標致よし。年齢は廿歳を二ツ三ツ、超した、超さぬが、出入衆の、気を揉む種子といふほどありて。人好きのする好い女子。顰める顔のこれ程ならば、笑ふて家をも傾くるは、何でもない事、お園さん。ちつとしつかりしないかと、水口より、のつしり、のしり、這入つて来るは、吉蔵といふお抱え車夫。酒と女と博奕との、三ツを入れて、三十には、まだも間のある身体。七八置いてもくにせぬといふを、自慢の男なり。無遠慮に、傍近く、安坐かくを、お園は眼立たぬやうに避けて『おや吉蔵さん、お前さんもう、気分は好いの』『気分が好くてお気の毒。のそのそ出掛けて来た訳なれど。今に旦那がお退庁になりやあ、部屋へ下つて、小さうなり、決してお邪魔はしないから、さあ安心をしてるが好い。今日は奥様も、せつかくのお外出なりや、随分共に、お留守事。大事がつたりがられたり、旦那へ忠義頼んだぜ。えお園さん、お園の方』と、妙に顔を眺められ。お園は少し憤然として『お前までが、そんな事。たいがい知れてゐる事に、朋輩甲斐のない人や。この中からの、奥様の御不機嫌。微塵覚えのない事に、あんなお詞戴いても、奥様なりやこそ沈黙つてをれ。よしんば古参の、お前でも、朋輩衆に嬲られて、泣く程までの涙はない。退屈ざましの慰みなら、外を尋ねて下さんせ』と。つんと背くるその顔を、吉蔵ば見て冷笑ひ『これはこれは厳しいお詞恐れ入る。さすがは旦那の乳兄妹、お部屋様の御威光は、格別なものと見えまする。その格別のお前の口から、朋輩といふて貰へば、それで千倍。この吉蔵、腹は立たぬ礼いはふ。礼のついでに、も一ツ、いはふが。まことお前が朋輩なら、なぜいつか中、奥様が、吉蔵をといつた時、お前は、かぶりを振つたんだよ。それから聞かして貰ひたい』『ほほ改めて、何ぞいの。そんな事も、あつたか知らぬが。私の身上も知つての筈。もう嫁入りは懲りたゆゑ、一生どこへも行かぬつもり。お前に限つた事ではない』『そこでお妾と、河岸を替へたであるまいか』『おほかたさうでござんせう。さういふ腹でいはれる事に、いひ訳をする私じやない。窘めて腹が癒る事なら、なんぼなりとも、窘めなさんせ。どふせ濡衣着た身体。乾さうと思へば、気も揉める。湯なと水なと掛けたがよい』と。思ひの外の手強さに、吉蔵たちまち気を替えて『ハハハ、さう怒られては、談話が出来ぬ。今のは、ほんの戯談さ。邸に居てさへ眼に立つ標致を、人力車夫の嬶あになんて、誰が勿体ない、思ふもんかといつたらば、また御機嫌に障るか知らぬ。それはそれとしたところで。お前の旧の亭主といふ、助三さんといふ人にも。この春以来、さる所で、ちよくちよく顔を合はす己れ。未練たらたら聞いても居る。まさかに、そんな、寝醒めの悪い事は出来ぬ。あれは、ほんの、奥様の、一了簡でいつたといふ、証拠はこれまで、いくらもあらあな。六十になる、八百屋の、よたよた爺から、廿歳にしきやならない、髪結の息子まで、およそ出入りと名の付く者で、独身者とある限りは。奥様の悋気から出る、世話焼きの、網に罹つて、誰一人。先方じや知らない縁談を、お前の方へ、どしどしと、持込まれない者はないので、知れてもゐやう。己れもやはりその数に、漏れなかつたは、有難迷惑。とんだ道具に遣はれて、気耻しいとこそ思へ、それを根に持つ、男じやない。その証拠には、お園さん、今日はお前の力にならふ、すつかり、苦労を打明けな。隠すたあ、怨みだぜ』と、手の裏返す口上に、気は許さねど、張詰めし、胸には、胼の入り易く。じつとうつむく思案顔。沈黙つてゐるは、しめたものと、吉蔵膝を前ませて『そりやあ、己れも知つてるよ。いくら奥様が、どんな真似して騒がうとも。真実お前が旦那を寝取る。そんな女子でない事は、それは、己れが知つてゐる。だが此邸の奥様の嫉妬ときては、それはそれは、烈しい例もあるんだから、今日は、よほど大事な場合。またここで失策つては、どんな騒ぎが、出やうも知れぬ。その代はりにはまたこの瀬戸を、甘く平らに超えさへすれば、この間からの波風も、ちつと静かにならふといふもの。悪い事はいはないから、今日はよほど気を注けな』と。善か悪か、底意は知らず。ともかく同情ありげなる、詞にお園も釣出され『それはさうでござんする』『が詮方がないから、沈黙つてゐるといふんかい。それでは己れが、註を入れて見やうか』と。いよいよ前へ乗出して『一体全体奥様の、今日の外出が、奇体じやないか。いつもは旦那と御一所か、さなくば朝を早く出て、退庁前には帰るのが、尻に敷くには似合はない、お定まりの寸法だに。今日に限つて、出時も昼后、供は一婢を、二婢にして、この間の今日の日に、お前ばかしを残すのは、よほど凄い思わくが、なくては、出来ぬ仕事じやないか。これは、てつきり、お前と旦那を、さし向ひにしたところへ、ぬつと帰つて、ものいひを付けるつもりと睨んだから、ここは一番男になつてと。頼まれもせぬ、心中立て。無理さへすりやあ、行かれる身体を。まだ歩行かれぬと断つて、今日一日を、当病の、数に入れたは、誰の為。みすみす災難着せられる、お前の為を思へばこそ。しかし大きに、大世話か知らぬ。さういふ事なら、頼んでまでも、証拠に立たせて、くれとはいはぬ。お前の心任せさ』と。妙にもたせ掛けられては、お園もさすが沈黙つて居られず。気味悪けれど、当座の凌ぎ、頼んでみむと、心を定め『さういふ事でござんしたか。さうとは知らず、ついうつかり前刻のやうなこと言ふたは、みんな私が悪かつた。堪忍して下せんせ。知つての通りの私の身体、身寄りといふては、外になし。やうやくこの邸の旦那様が、乳兄妹といふ御縁にて。この春母さんが亡くなる時、頼ふて置いて下さんした。そればつかりで、この様に、御厄介になつてをりまするなれば。さうでなうても術ない訳を、この中からの私が術なさ。一季半季の奉公なら、お暇を願ふ法もあれ。そんな事から、お邸を出されうものなら、それこそは、草葉の影の母さんに、何といひ訳立つものぞ、死んでも済まぬ、この身体と思案に、あぐんだ、その果ては、つい気が立つて、あんな言。憎い女子と怒りもせず、よういふて下さんした。そんなら吉さん、今日のところは、証拠に立つて、おくれかえ』と。頼むは、もとより思ふ坪と、吉蔵、ほくほくうなづきて『それはいふだけ野暮の事。お前がさういふ了簡なら、己れもしつかり腰を据え、一番肩を入れてもみやう。それには、何の造作もない事、己れが腹にある事なれど。いよいよさうと極めるには、ちつと掛合ふ事がある』と。わざわざ立つて、水口の、障子をぴつしやり、しめ来り、極めての小声には『実お前だから、いふんだが。己れはこれまで、奥様の、探偵といふ訳で、三年以来、別段の、手当を貰ふてゐるのだから、今日とてもその通り。己れから証拠を、名乗つて出ずとも、直ぐ、どうだつたと、聞かれるに違ひはない。そこでもつて、ある事にせよ、ないにせよ。あの奥様の、探つてゐる腹へ、はまるやうにいひさへすれば。それはよく知らしたと、まあ、どつさり、御褒美に、有付けやうといふもんだ。それにどうだ。いや、さういふ容子は少しもござりませぬ。それは全くあなた様の、思し召し違ひでと、いつた日には、どうだらふ。安心しさうなものだが、さうはゆかぬ。直ぐ己れが、抱き込まれたであるまいかと、気が廻るのはお定まり。どこのだつても嫉妬家といふものは、たいがいさうしたものだわな。焚付けて、焼かせる奴を、とかく有難がるものよ。お前とてもその通り、今に好いた亭主を持ちやあ、やつぱりその組になりさうだ。あハハハ』と高笑ひ、気軽く笑へど、軽からず、持込む調子は、重々しく『さういふ都合もある訳なれば、これはよほど、余徳がなくては、埋まらない役廻り。そのところは万々承知だらふか。えお園さん、お園坊。礼はどうするつもりだい』と。味に搦んだ詞のはしばし、いはぬ心を眼にいはす、黄色い声の柄になき、素振りはさうと勘付けど。たやすく解きて、ともかくも、この場を事なく済まさむと、お園は一向気の注かぬ振り『ほほほほ、お前さんにも似合はない。野暮に御念がいりまする。たくわが私の事なれば、碌な事も出来まいなれど。少しばかりは、奥様に、お預け申したものもあり。その内どうとも都合して、出来るだけのお礼は』と。ぬからぬ答に、吉蔵も、こ奴なかなか喰らえぬと。たちまち地鉄を出して見せ『とぼけちやいけない、お園さん。己れも男だ、銭金づくで、お前の、おさきにや遣はれない。注込めといふ事なら、金銭はおひおひ注ぎ込むが。先づ今日のところでは、働きだけを持参にして、礼はかうして貰ひたい』と。無体の所為に、憤然とはせしが。ここぞ大事と、笑ひで受け、振離す手も軽やかに『ほんにお前も人の悪い。私の馬鹿をよい慰み。さんざん人を上げ下げした、挙句の果ての、悪ふざけ。この上私を、かついでおいて、笑ふつもりと見えました。もしこれからはお前のいふ事、私や真面目に聞かぬぞえ』『真面目でも、戯談でも、己ればかりは、真剣』と、取る手を、つつと引込めて『それ見た事か、私が勝つた。もう瞞されはせぬほどに、止しにして下さんせ。人が見たら笑はふに』と。わざと空々しく外す、重ね重ねの拍子抜けに。吉蔵いよいよ急き込みて『これお園さん、どうしたものだ。ここまで人を乗込ませて、今更笑ふて済まさうとは、太いにも程がある。その了簡なら、この己れも、逆に出る分の事と、さあ野暮はいはないから、まあ温和しくしてるが好い。随分共にこの后は、力になつてやらふぜ』と。あはや手込に、なしかねまじき血相に。お園も今は絶体絶命。怒らば怒れと突離し、あれと一声逃げ惑ふを。玄関口まで追詰めて、遣らじと、前に立塞がる。隙を見付けて、突退くる、女の念力、吉蔵は、たぢたぢたぢと、式台に、尻餅搗いて、づでんどう。これはと驚くお園を眼掛けて、己れ男を仆したなと、飛びかからむづその刹那。がらがらがらと挽き込だる、人力車は旦那か、南無三と、恠我の振りして畏る。吉蔵よりもお園が当惑。ちやうどよいとこ、悪いとこ、奥様ならば、よいものを、旦那様とは、情けなや。悲しやこれがどうなると。胸は前后の板狭み。破れて死んだら助かろにと、ただ束の間の寿命を怨みぬ。
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