弐
「源さ、お入りや。なんだって障子の外からなんぞ覗(のぞ)くんだえ」 と声を掛けましたのは、鹿の湯の女亭主(かみさん)です。源は煤(すす)けた障子を開けて、ぬっと蒼(あお)ざめた顔だけ顕(あらわ)しながら、 「私は女衆ばかりかと思って」 「女衆ばかりかと思ったら――御生憎(おあいにく)さま」 と、炉辺で男の笑声が起る。源も苦笑(にがわらい)しながら入りました。 「かみさん、酒を一杯おくれや」 鹿の湯というのは海の口村の出はずれにある一軒家、樵夫(きこり)の為に村醪(じざけ)も暖めれば、百姓の為に干魚(ひうお)も炙(あぶ)るという、山間(やまあい)の温泉宿です。女亭主(かみさん)は蓬(ほう)けた髪を櫛巻(くしまき)で、明窓(あかりまど)から夕日を受けた流許(ながしもと)に、かちゃかちゃと皿を鳴して立働く。炉辺には、源より先に御輿(みこし)を据えて、ちびりちびり飲んでいる客がある。二階には兵士の客もある様子。炉に懸けた泥鰌汁(どじょうじる)の大鍋(おおなべ)からは盛に湯気が起(た)ちまして、そこに胡座(あぐら)をかいた源の顔へ香(にお)いかかるのでした。筒袖(つつそで)の半天を着た赤ら顔の娘は、梯子段(はしごだん)を上ったり下りたりして、酒を運んでおりましたが、やがて炉辺へやってきて、塗箸(ぬりばし)を添えた胡栗脚(くるみあし)の膳(ぜん)に香の物と猪口(ちょく)を載せて出し、丼(どんぶり)には汁をつけてくれる。 「さあ、御燗(おかん)がつきやした」 と時代な徳利を布巾(ふきん)で持添えて、勧めた。源は熱燗の極(ごく)というところを猪口にうけて、 「お前(めえ)の御酌だと、同じ酒が余計に甘く飲めるというもんだ」 「まあ、源さの巧く言うこと」 「どうだい、私の女房になる気はねえかよ」 「戯語(じょうだん)ばかりお言いでない」 客も黙ってはいられません。黒々と生延(はえの)びた腮(あご)の鬚(ひげ)を撫廻しながら、 「とかく、若い方の傍へは寄りたいものと見えるね」 と、ちらちらした目付で、娘を嬲(なぶ)りにかかる。娘はすこし憤然(むっ)として見せて、 「この御客さんも、これでなかなか学者だぞい」 「へへへへ」と客はいやに笑って、「これでとは何だよ。人間も朝から晩まで稼(かせ)ぐばかりじゃ、ねっからつまりませんや。ちったあ自分の好自由になる時がなくちゃ」 「貴方(あんた)、好事(いいこと)を教えて上る」と娘は乗出して、「明日はゆっくりお勝さんの許(とこ)へ行って、一緒に小屋の内で本でも読みやれ」 「へへへへ、明日は日曜だ。日本外史でも読まずかと思って」 「先生は何方(どちら)ですい」と源は尋ねて見ました。 「私(わし)かね。私は大屋の者(もん)ですが、爰(ここ)の登記役場の書記に出ていやすよ。私も海の口へはまだ引越して来たばかりで。これからは何卒(どうか)まあ君等にも御心易くして貰(もら)わにゃならん――さ、一杯献(あ)げやしょう」 二階ではしきりに手が鳴る。娘はいそいそと梯子段を上って行きました。急に四辺(そこいら)が明るくなったかと思うと――秋の日が暮れるのでした。暗い三分心の光は煤けた壁の錦絵を照して、棚の目無達磨(めなしだるま)も煙の中に朦朧(もうろう)として見える。 「どうです、きょうの原の騒ぎは」と書記は楢(なら)を焼(く)べて火気を盛にしながら、「殿下が女にも子供にも御挨拶のあったには私魂消(たまげ)た。競馬で人の出たには――これにも魂消た。君も競馬を終局(しまい)まで見物しましたかい」 源は苦笑(にがわらい)をしました。書記はそれとも知らない様子で、 「さ、不思議なこともあればあるもので、私の同僚が今日の競馬に出た男のところへ娘を嫁(かたづ)けてあるという話さ。娘の名ですかい――お隅さん。あの子なら私は大屋で克(よ)く知っていやす。しかも今日、原で不意と逢いやしてね。丸髷(まるまげ)なんかに結ってるもんだで、見違えて了いやしたのさ」 と言われて、源は手を揉んでおりますと、書記は人に話をさせない男でして、 「まあ聞いてくれ給え。こういう訳です。私が今、爰(ここ)へ来る途中、同僚が蒼くなって通るから、君どうしたい、と聞くと、娘のやつが夫婦喧嘩して、足の骨を折った、医者のところへこれから行くんだ、と言って、先生からもう大弱りさ。かわいそうに――よくよく運の悪い子だ」 聞いていた源は急に顔色を変えて、すこし狼狽(うろたえ)て、手に持った猪口の酒を零(こぼ)しました。書記は一向無頓着(むとんじゃく)――何も知らない様子なので、源もすこしは安心したのでした。腹蔵(つつみかくし)のない話が、こうして景気を付けてはいるものの、それはほんの酒の上、心の底は苦しいので、 「先生、足の骨を折られて死んだものがごわしょうか」 と恍(とぼ)け顔に聞いて見る。書記は愚痴を酒の肴(さかな)というような風で、初対面の者にも聞かせずにはいられない男ですから――碌々源の言うことも耳に止めないで、とんちんかんな挨拶(あいさつ)。「私(わし)は登記役場に出てから、三年目になりやすよ。馬流(まながし)の正公(しょうこう)は私よりか前に奉職して、それで私と給料が同じだもんだで、大層口惜しがってね。此頃(こないだ)も、馬流へ行った時、正公のところへ寄って、正公ちったあ上げて貰いやしたかね、と聞いたら、弱ったよ、今月は五十銭も上るかと思ったに、この模様ではお流れだ、と言って嘆(こぼ)していやした」 「どうでごわしょう、先生、その女も足の骨を折られた位で……」 「しかし、人間は信用がなくちゃ駄目だね。私なんかのように貧乏人で、能の無い者でも、難有(ありがた)いことには皆さんが贔顧(ひいき)にしてくれてね。此頃(こないだ)も斎藤書記官に逢いやした時、お前(めえ)は今いくら取る、と言いやすから、九円になりやしたと言うと、九円? 九円も取るか、と大層喜んでくれやして、九円取れればいいだろう、と言いやすのさ。そりゃ私独(ひと)りなら楽ですけれど、家内が大勢でなかなかやりきれやせん、と言いやしたら、よしよしその中に又た乃公(おれ)が骨を折って上るようにしてやる、と言ってくれやした」 「どうでごわしょう、先生、その女も……」 「噫(ああ)。貧苦ほど痛いものは無いね。貧苦、貧苦、子供は七人もあるし、家内には亡くなられるし――加(おまけ)に子供は与太野郎(愚物)ばかりで……。なあ、君、私もこんなに貧乏していて、それで酒ばかりは止められない。この楽みがあればこそ活きてる。察してくれ給え、酒でも飲まなけりゃいられんじゃないか」 「どうでごわしょう、先生……」 「地方裁判所なんとなると、どうもさすがに違ったものだね。君、『テエブル』が一畳敷もあろうかと思われる位大きくて、その上には青い織物(きれ)が掛けてもあるし、肘突(ひじつき)なんかもあるし、腰掛には空気枕のようなやつが付いてて、所長の留守に一寸乗って見ると――ぷくぷくしていて、工合のいいことと言ったら。君、そうして廷丁が三人も居るんだよ。それで呼鈴(よびりん)と言うので、ちりりんと拈(ひね)ると、そのまあ、ちり、ちり、ちりん、の工合で誰ということが分ると見えて、その人がやって来ますね。大したものですなあ」 すこし話が途切れました。月のさした窓の外に蟋蟀(こおろぎ)の鳴く声が聞える。蛾(が)の大なのが家(うち)の内へ舞込んで来て、暗い洋燈(ランプ)の周囲(まわり)を飛んでおりましたが、やがて炉辺へ落ちて羽をばたばたさせる。書記は煙管(なたまめ)の雁首(がんくび)で虫を押えたかと思うと、炉の灰の中へ生埋めにしました。 「先生」と源は放心した人のように灰の動く様を熟視(みつ)めて、「先刻の御話でごわすが、足の骨を折られて死んだものがごわしょうか」 「有ますとも。足の傷はあれでなかなか馬鹿にならん。現在、私の甥(おい)がそれだ――撃(ぶ)ち処(どこ)が悪かったと見えて、直に往生(まい)って了った。人間の命は脆(もろ)いものさ……見給え、この虫の通りだ」 「ははははは」と源は愚かしい目付をして、寂しそうに笑って、「万一、その女が死にでもしたら、先生、奴さんの方はどうなりやしょう」 「そりゃあ君、知れきってる話さ。無論、捕(つかま)らあね。人を殺して置いて自分ばかり助かるという理屈はないからな」 「ははははは」 源は反返(そりかえ)って笑いました。人間は時々心と正反対(うらはら)な動作(こと)をやる――源の笑いが丁度それです。話好な書記は乗気になって、 「あの子についちゃ実にかわいそうな話があるんでね。私はお隅さんを見ると、罅痕(ひびたけ)の入った茶椀(ちゃわん)を思出さずにいられやせんのさ。まあ聞いてくれ給え」 と前置をして、話出したのはこうでした。 お隅の父親(おやじ)がこの男と同じ書記仲間で大屋の登記役場に勤めている時分――お隅も大屋へ来て、唯有(とあ)る家に奉公していました。根が働好な女で、子供の世話、台所の仕事、そりゃあもう何から何まで引受けて、身を粉にして勤めましたから、さあ界隈(かいわい)でも評判。お隅が遠い井戸から汲々(せっせ)と水を担いで通るところを見掛けた者は、誰一人褒(ほ)めないものが無い位。主人の家というのは少許(すこし)引込んだ処に在って、鉄道の踏切を通らねば、町へ買物に出ることが出来ないのでした。お隅はよく主人の子供を負(おぶ)って、その踏切を往たり来たりした。丁度、そこに線路番人が見張をして佇立(たたず)んでいて、お隅の通る度(たび)に言葉を掛ける。終(しまい)には、お隅の見えるのを楽みにして待っている、という風になりましたのです。ある日のこと、番人が休暇で自分の家の前に立っていると、そこをお隅は子供を負(おぶ)いながら通りました。お隅は無理やりに呼込まれて――その番人というのは、すばらしい力のある奴ですから、さんざんに嚇(おど)かされたり賺(すか)されたりして――それから気がついて見ると、いつの間にかお隅の身体は番人の腕の中に在ったとか言うことで。子供は二人が喧嘩でもするのかと思って、烈しく泣いたということです。 間もなくお隅はこの番人と夫婦になりたいということを、人を以(もっ)て、父親のところへ言込みました。 お隅が迷いもし、恐れもしたことは、それから又た間もなく夫婦約束を取消したいと言って、父親の許(ところ)へ泣いて来たのでも知れる。お隅は小鳥です。その小鳥が網を張って待っていた番人の家へ出掛けて行って、前(さき)の約束を断ろうとすると――獣欲で饑渇(うえかわ)いた男のことですから堪(たま)りません、復たお隅は辱(はずか)しめられました。番人は手柄顔に吹聴する、さあ停車場附近では専(もっぱ)ら評判、工夫の群まで笑わずにはおりませんのでした。とうとうお隅は父親へ置手紙をして、ある夜の闇に紛れて、大屋を出奔して了いました。 父親がこの書記に見せた手紙の中には、無量の悲哀(かなしみ)が籠(こ)めてあったということです。鉄釘(かなくぎ)流に書いた文字は一々涙の痕(あと)で、情が迫って、言葉のつづきも分らない程。それは主人へ対して申訳のないこと、朝夕にまといつく主人の子供もさぞ後で尋ね慕うかと思えば愍然(ふびん)なこと、「これも身から出た錆(さび)、父(とっ)さん堪忍しておくれ、すみより」としてありましたそうです。父親は無学な娘の手紙を読んで、その上に熱い涙を落しましたとのこと。 「という訳で」と書記は冷くなった酒を飲干して、「ところが同僚は極の好人物(ひとよし)だもんだで、君どうでしょう、泣寝入さ。私は物数寄(ものずき)にその番人を見に行きやした。丁度、直江津の二番が上って来た時で、その男が饅頭笠(まんじゅうがさ)を冠って、踏切のところに緑色の旗を出していやしたよ。え――君はその番人をどんな男だと思うえ。せめて年でも若いのかと? へへへへへ、いやはや大違い。私も魂消(たまげ)たねえ、まあ同僚と同い年位の爺(おやじ)じゃないか」 源は蒼くなって、炉に燃え上る楢の焚火(たきび)を見入ったまま。 「それから一月ばかり経って」と書記は思出したように震えながら、「私は一度あの子に行逢ったがね、その時のお隅さんは――へえもう、がらりと変っていやしたよ。蟀谷(こめかみ)のところへ紫色の頭痛膏(こう)なんぞを貼(は)って、うるんだ目付をして、物を思うような様子をして、へえ前の処女(おぼこ)らしいところは少許(ちっと)もなかった。私があの子を見ると、罅痕(ひびたけ)の入った茶椀を思出すと言ったは、こういう訳でさ。君もその番人の顔が見たいと思うでしょう。なんなら大屋の停車場へ序(ついで)に寄って見給え。今でも北の踏切のところに立って、緑色の旗を出して……へへへへ」 「先生、もう沢山」 と源は銀貨をそこへ投出して置いて、鹿の湯を飛出しました。
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