三
「平七。――これよ、平七平七」 「…………」 「毎日毎日耳の遠い奴じゃな。平七はどこじゃ。平はおらんか!」 あくる日の夕方、また有朋が、とげとげしい声で奥から呼び立てた。 庭へ廻れというだろうと思って待っていたのに、しかし、どうしたことか、きょうは、その庭の向うから、下駄の音が近づいて来たかと思うと、声と同じように尖った顔がひょっこりとのぞいた。 「なんじゃ。また靴を磨いておるのか」 きのうと同じように平七は、裏木戸のそばの馬小屋の前に蹲まって、有朋が自慢の長靴をせっせと磨いていたところだった。 それが機嫌をよくしたとみえて、有朋のとげとげしく長い細い顔が、珍らしく軟らいだ。 「おまえ、どうかすると馬鹿ではないかと思うときがあるが、使いようによっては、なかなか律義もんじゃな。わしが大切にしている靴だから、大切に磨かずばなるまいという心掛けが、育ちに似合わずなかなか殊勝じゃ。もう少しはきはきしておったら、出世出来んもんでもないが……」 「…………」 クスクスと平七が突然笑った。 「なにがおかしい! ――どこがおかしいんじゃ」 「わたしはそんなつもりで、磨いていたわけではないんですが」 「ではどんなつもりで磨いたというんじゃ」 「こうやってぼんやり手を動かしておると、心持が馬鹿になれますから、それで磨いていたんですが」 「またそういうことを言う! そういうことを言うから、なんとか出世の道を開いてやろうと思っても、する気になれんのじゃ。馬鹿になる稽古をするというならそれでもいいが……」 ぽかりと穴があいたように、突然そのときどうしたことか、平七のもたれかかっていた裏木戸が、ギイとひとりでに開いた。 すぐにそこから小径がつづいて、あたりいちめんに生い繁っているすすきの穂の先を、あるかないかの風が、しずかな波をつくり乍ら渡っていった。 きのうに変って、カラリと晴れたせいなのである。そよぎ渡るその風の間に、このあたり向島の秋らしい秋の静寂が初めて宿って、落ちかかった夕陽のわびしい影が、かすかな縞をつくり乍ら、すすきの波の上を流れていった。 「平七」 「へい」 「…………」 「…………」 「秋だな」 「秋でござりますな」 なんというわけもなかった。有朋も有朋ということを忘れて、平七も平七ということを忘れて、いつともなしにふたりは肩を並べ乍ら、すすきの径の中に出ていたのである。――足が動いているのではなかった。こころが歩いているというのが本当だった。 どこへ、というわけもなく、ふたりは肩を並べ乍ら、土手の方へあがっていった。 「おまえはどちらへ行くつもりじゃ」 「どちらでもいいですが……」 「わしもどちらでもいいが……」 なんということもなかった。片身違いに足を動かしているうちに、いつのまにか平七はふらふらと、ゆうべのあの石原町の小料理屋の方へ歩いていった。 有朋もまた、いつのまにかそこへ行く約束をして了ったような顔をし乍ら、ふらふらと平七のあとからついていった。 うすい灯のいろが、ゆうべのように川岸の夕ぐれの中に滲んで、客もないのか、打ち水に濡れた石のいろが、格別にきょうはわびしかった。 「あっ。閣下じゃ。山県の御前様じゃ。――どうぞこちらへ。さあどうぞ! お雪、お雪……。お雪はどこだえ!」 和服の着流しではあったが、尖ったその顔で有朋と気がついたのである。帳場の奥から眉の青ずんだ女将が、うろたえて出て来ると、慌てふためき乍ら、ゆうべのあの二階の部屋へ導いていった。 「どうぞ。どうぞ。さあどうぞこちらへ。こんなむさくるしいところへわざわざお越し下さいましてなんと申してよいやら。只今女たちをご挨拶に伺わせますから。さあどうぞ!――もし、お雪さん! お座布団だよ! 上等のお座布団はどこだえ!」 「…………」 「お雪さん! お雪! お雪! ――お雪はどこだえ!」 浅墓な声で呼び立て乍ら、女将は、ひとりで慌てて、閉め切ってあった向う端の部屋の襖をガラリとあけた。 同時に、 「おお」 「よう」 向うとこちらから、おどろいた声と顔とが打つかった。 意外にもその襖の向うには、ゆうべのあの新兵衛が、ゆうべのあの小娘のお雪を抱きかかえるようにして坐っていたのである。 しかし、その髪にはもう花簪はみえなかった。覚えたばかりのような媚のある目を向けて、恥かしそうに平七の顔を見あげると、また恥かしそうにお雪は顔を伏せた。 早くも有朋の目が、その姿にとまった。 お女将の推察もまた早かった。 「困るね。おまえ。こんなお客さん毎日のことだから、あとでもいいんだよ。御前さま、おまえにお目が止まったようだから、早くあちらへご挨拶にお行きよ! 粗相があっちゃいけないよ」 もぎとるようにしてお雪をつれて行くと、無理矢理有朋のそばへ坐らせて、お女将は、ここを先途と愛嬌をふりまいた。 「なにしろこの通りの赤児でございますから、いいえ、ご前、赤児ではございますけれど、大丈夫ですよ。三つの年からわたくしが娘のようにして育てた小婢でございますから、よろしいように。――もしえ、みんなもなにをしておるんだえ。あちらの御浪人さんのお酒なんぞあとでいいよ。早くこちらへお運び申しておくれ」 ピシャリと、新兵衛の座敷の襖が鳴った。 白い歯を剥いて、有朋がにっと笑うと、荒々しく閉ったその襖を目でしゃくり乍ら、平七に言った。 「おまえ、あれと朋輩じゃろう。用はない。あれの方へ行け」 「……?」 「ここにはもういなくてもよいから、あちらへ退れというのじゃ。早く退れっ」 「そうでございますか。あちらへ行くんですか……。やあ君。ゆうべは失敬。さがれと言ったからやって来たよ」 のっそりとした顔をして、平七は、追われるままに這入っていった。 「馬鹿めがっ」 待ちうけるようにして、新兵衛が睨みつけた。 「なんだとて、あんなものを案内して来たんじゃ!」 「おれが案内して来たわけじゃない。ふらふらとこっちへやって来たら、和服の陸軍中将も興に乗って、ふらふらとついて来たから、一緒にここへ這入ったまでさ」 「なにが陸軍中将じゃ。貴様、そういうような諛った真似をするから、みんなからも爪はじきされるんじゃ。女将も女将じゃ。江戸の名残りだの、めずらし屋だのと、利いた風な看板をあげておいて、あのざまはなんじゃ! こういう風なことをするから、成り上り者が、ますますのさばるんじゃ」 「そういうことになろうかも知れんの」 「知れんと思ったら、貴様はじめ、こんな真似をせねばよいのじゃ! するから、尾っぽをふるから、心のよごれぬ女までが、お雪のまうなものまでが――」 たまりかねたとみえて、新兵衛は、膝の横に寝かしてあった大刀を、じりじりと引きよせた。 しかし、なん度もなん度も膝を浮かして、襖に手をかけようとしたが、その紙ひと重の襖が、今はもう遠く及びがたい城壁のように、ぴったりと間を仕切って、たやすく開けることが出来なかった。 「馬鹿めがっ。意気地なしめがっ。こういうことになるから、こういう目に会うから、今の世の中は気に入らんのじゃ! ――女将! 女将!」 悶えるように、どったりと坐ると、新兵衛は甲高く呼んだ。 「酒を運べっ。女将! おれとてお客様じゃ! 貴様が運べぬなら、おやじを呼べっ、おやじを!」 するすると襖があいて、その女将が、青ずんだ顔をのぞかせた。 しかし、のぞくにはのぞいたが、新兵衛には目もくれなかった。 「平七さんとやら、ご前がうるさいから、さきへかえれと仰有っておりますよ」 「あ、左様か。今度はさきへかえれか。そういうことになれば、そういうことにするより致仕方ござるまい。では、かえるかな……」 のっそりとした顔をして平七は、追わるるままに、また、のっそりと立ちあがった。 「まてっ。むかむかするばかりじゃ。おれも行く! ――まてっ」 いたたまらないように立ちあがると、荒々しい足音を残し乍ら、新兵衛もあとを追っていった。 しかし、そとへ出ると一緒に、その足は、行きつ戻りつして、門から離れなかった。 いくたびか、二階を睨めあげて、苛々と目を据え乍ら、思いかえし、思い直しては、また、歯を喰いしばっていたが、矢庭に腰の小刀を抜いて、平七の手に押しつけると、呻くような声で新兵衛が言った。 「頼む! こいつを持っていってくれっ」 「おれに斬れというのか」 「いいや、新兵衛も行く! おれも行く! 一緒にいって斬ってくれっ」 「ひとりでは山県狂介が斬れんのか」 「斬れんわけではないが、狂介ごとき、き、斬れんわけではないが……」 「斬れんわけでなければ、おぬしひとりでいって、斬ったらよかろう。それとも狂介はひとりで斬れるが、山県有朋の身のまわりにくっついている煙りが斬り難いというなら、やめることさ」 「では、貴公は、おまえは、むかしの仲間を見殺しにするつもりか!」 「つもりはないが、おぬしは腹が立っても、おれは腹が立たんとなれば、そういうことにもなるじゃろうの。――行くもよし、やめるもよし。おれはまずあしたまで、生きのびてみるつもりじゃ」 「……!」 ぽつりと声が切れたかと思うと、しばらくうしろで新兵衛の荒い息遣いがきこえていたが、やがてばたばたと駈け出した足音があがった。
上一页 [1] [2] [3] [4] 下一页 尾页
|