二
橋をまた向うへかえって、川沿いに右へ曲ると、新兵衛は、土手を下へどんどんと急いでいった。 左側一帯は、大きな屋敷の間に、手頃な屋敷がぎっしりと並んで、江戸の境いから明治へ跨ぎ越えるまでは、塀からのぞいている木の枝ぶりまでにも、しずかな整頓があったが、それも今は、氾濫して来た腕力の思うままな蹂躙にまかせて、門は歪み、表札は剥ぎとられ、剥いだあとのその白いところへ、買ったような、巻きあげたような、便利な方法で私有物にした人たちの名まえが、読みにくい字でべたべたと書かれて、このままいったらどうなることか、通りすがりにただ見ただけでも、カサカサと咽喉が渇いてゆくような感じだった。 そういう塀つづきのはずれに、うすい灯のいろをにじませた本所石原町の街があった。 あたり一帯を、官員屋敷に取り囲まれてしまった中にはさまって、せめてもこの孤塁だけは守り通そうというように、うるんだ灯のいろの残っている街だった。 その向う角の、川に向いた一軒の、 お江戸お名残り、めずらし屋 と、少し横にすねたような行灯のみえる小料理屋の門の前に止まると、新兵衛は、頤をしゃくるようにして目交ぜをし乍ら、さっさと中へ這入っていった。 狭い前庭に敷いた石に、しっとりと打ち水がしてあって、濡れた石のいろが、かえってわびしかった。 「まあ、ようこそ……」 たびたび来ているとみえて、顔なじみらしい女中がふたり、あたふたと顔を並べ乍ら下へもおかずに新兵衛を請じあげた。 しかし、新兵衛は、ほかに誰か目あてがあるらしく、あちらこちらと部屋をのぞきのぞき、川に向いた三間つづきの二階へ、どんどんとあがっていった。 その部屋のてすりにもたれて、ひらひらと髪の花簪を風に鳴らし乍ら、ぼんやりと川をみていた小柄な女が、おどろいたようにふりかえった。 「あら……」 「おお、いたのう」 探していたのはそれだったのである。まだ十七八らしく、すべすべした肌のいろが、川魚のような光沢を放って、胸から腰のあたりのふくらみも、髪の花簪のように初々しい小娘だった。 「いかんぞ。そんなところで浮気をしておっては。――まあここへ坐れ」 たびたびどころか、毎日来ているとみえて、新兵衛は、無遠慮に女の手をとり乍ら、そばへ引よせた。 「きんのう来たとき、襟足を剃れと言うたのに、まだ剃らんの」 「でも、忙しいんですもの……」 「忙しい忙しいと言うたところで、こんな家へ八字髭の旦那方は来まいがな。みんなおれたちみたいな風来坊ばかりじゃろうがな」 「ええ、それはそうですけれど……」 「毎日文を書いたり、たまにはいろ男にも会うたりせねばならんゆえ、それが忙しいか」 「まあ、憎らしい……」 紅をうめたような笑くぼをつくって、甘えるように笑うと、女は、そっと目で言った。 「このおつれさん? ……」 「うん、酒じゃ」 「あなたさまも?」 「呑もうぜ。料理もいつものようにな。きのうのようにまた烏賊のさしみなんぞを持って来たら、きょうは癇癪を起すぞ、あまくて、べたべたと歯について、あんなもの、長州人の喰うもんじゃ。おやじによく言ってやれ」 立ちあがろうとしたのを、慌てて新兵衛は、目交ぜで止め乍ら、まだなにか言いたそうに、もじもじとしていたが、平七の顔いろを窺い窺い、女を隣りの部屋へつれて行くと、小声でひそひそとなにかささやいた。 ぱっと首すじまで赤く染め乍ら、女は、顔をかくすようにして、下へおりていった。 しかし平七は、なにが目に這入ろうとも、まるで感じのない男のように、ぐったりと両手の中へ頤をのせたまま、物も言わなかった。 やがて、その頤のまえへ酒が運ばれた。 「さあ来たぞ。うんとやれ」 「…………」 「どうしたんじゃ。飲まんのかよ。――機嫌のわるい顔をしておるな。注いでやろうか」 なみなみと新兵衛が注いだ盃を、だまって引き寄せると、だまって平七は口へ持っていった。 別に機嫌がわるいわけではなかった。酒にさえも、平七の感情は、今もうこわばって了って、なんの反応もみせなかった。いや、反応がないというよりも、むしろそれは、表情を忘れて了ったという方が適切だった。急激に自分たちの世界を打ち壊されて了って、よその国のよその軒先に、雨宿りしているようなこの六七年の生活が、それほども平七の心から、肉体から、弾力を奪いとって了ったのである。 「仕様のない奴じゃな。折角よろこばそうと思ってつれて来てやったのに、もっとうれしそうに呑んだらどうじゃ」 「…………」 「まずいのかよ。酒が!」 「うまいさ」 「うまければもっとうまそうに呑んだらどうじゃ」 気になったとみえて、新兵衛がたしなめるように横から言った。 しかし、そう言い乍ら新兵衛も、特別うまそうに呑んでいるわけではなかった。なにか心待ちにしていることがあるらしく、何度も何度もそわそわとして、梯子段の方をふりかえった。 それを裏書するように、花簪の小女が、最後の料理を持って来て並べて了うと、ちらりと新兵衛に目交ぜを投げておいて、かくれるように向う端の暗い部屋の中へ這入っていった。 そわそわと待っていたのは、その合図だったとみえて、間もおかずに新兵衛が、あとを追い乍ら這入っていった。――同時になにか悶えるような息遣いがきこえたかと思うと、小女の花簪が、リンリンとかすかに鳴った。 しかし平七は、それすらもまるでよその国の出来ごとのように、ふわりとした顔をして、頬杖をついたまま、あいた片手で銚子を引寄せると、物憂げに盃を運んだ。 「まあ。お可哀そうに。ひとりぽっちなのね」 不意にそのとき、ガラガラした声が、下からあがって来ると肥った女中が、ぺったりとそばへ来て坐って、とりなすように言った。 「罪なことをするのね。こんなおとなしい人をひとりぽっちにしておいて、まずかったでしょう、お酒が」 「昔からおれはひとりぽっちだ」 突然、平七が怒ったように言った。――しかし本当に怒ったわけではなかった。 「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」 しばらく間をおいてから、思い出したように笑うと、ぽつりと女に言った。 「前の川は今でも深いかね」 「深いですとも、江戸が東京に変ったって、大川は浅くなりゃしないですよ」 「そういうものかな。じや江戸が東京になっても、人が死ねるところでは、やっぱり人が死ねるということになるんだな」 「まあ。気味のわるいことを仰有るのね。なんだってそんなおかしなことをおききなさいますの?」 「むかしからこの前の川で何人ぐらい死んだか。変らないものはいつまで経っても変らないから、妙なもんだと思っていたところさ。――貴君はいくつだね」 「おい……」 話の腰を折るように、その時新兵衛が、向うの暗い部屋から顔だけ出すと、頤をしゃくって言った。 「もうかえるんだよ」 「……? あ、そうか。花は散ったか」 ふらりと立ちあがって、平七は、こともなげな顔をし乍ら、のそのそとおりていった。 水にも土手にも、しっとりと闇がおりて、かすかな夜露が足をなでた。 どこにいるのか、暗いその川の中で、ギイギイと櫓が鳴った。 充ち足りたらしく新兵衛が、上機嫌な声で、暗い土手の闇の中からせき立てた。 「貴公どっちへかえるんじゃ」 「うん……」 「うんじゃないよ。なにをそんなところでぼんやりしておるんじゃ」 「うん……。なるほどこのあたりは、むかし通り深そうじゃな。だぶりだぶりと水が鳴っているよ」 「つまらんことを感心する奴じゃ。ぼんやりしておったら置いてゆくぞ」 不意にうしろで、リンリンと、簪が鳴った。 恥しそうに襖の奥へかくれ乍ら、顔も見せなかったのに、いつのまにかこっそりと新兵衛を送って来ていたとみえて、ためらい、ためらい、あの小娘が花簪の音を近づけると、土手ぎわにしょんぼりと立っている平七の黒い影を、じっと見すかし乍ら、なにか言いたそうに、暫くもじもじとしていたが、 「わるかったのね。あなたばかりひとりぽっちにしておいて、それがお寂しかったから、そんなに悲しそうにしておいでなのでしょう。――こんどはきっと……。こうしてさしあげたらいいでしょう」 ささやくように言い乍ら近寄って、突然、軟らかく平七の手を握りしめたかと思うと、リンリンと簪を鳴らし乍ら、逃げるように門の中へ駈けこんでいった。 二階へあがって、見送ってでもいるらしく、顔のみえない窓から、同じ簪の音がかすかにリンリンときこえた。
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