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しかし、その翌朝が早いのです。
東が白んだか白まないかにむっくり起き上がると、不思議なことにも手ぬぐい片手にこちらから伝六の組小屋を訪れて、声もかけずにどんどんと破れんばかりにたたき起こしました。
「騒々しいな。どこのどいつだよ!」
「…………」
「人に頼まれて寝てるんじゃねえんだ。いくらたたいたって、気に入るまで寝なきゃ起きねえよ。こんな朝っぱらから、いったい何の用があるんだ」
ぶりぶりしながら戸をあけて、ひょいとのぞいたその鼻先へぬうと手ぬぐいをさしつけると、ひとこともむだ口をきかないのです。ついてこいというように、黙ってさっさと歩きだしました。
「話せるね。朝湯に行くとは、だんなもだんだんといきごとを覚えてきましたよ。行く段じゃねえ、朝湯ときちゃ、いちんちへえりつづけても飽きがこねえんだからね。すぐにめえりますよ」
上きげんであとから追いかけてきたかと思ったのもつかのま、たちまちその伝六がまた荒れもように変わりました。お組屋敷を出はずれた一軒と、八丁堀の
「やりきれねえな。わざわざそんな遠方へ行かなくとも、近くになじみのお湯がちゃんとあるじゃござんぜんか。
しかし、名人は何か思うところがあるとみえて、相手にもせず河岸っぷちのそのお湯屋の、てんぐぶろと染めぬいたのれんをさっとくぐりました。
先客がある。もうもうとたちこめている湯気の中に、一つ、二つ、三つ、四つ、合わせて六つほどの黒い頭が見えるのです。
湯はもとより熱い。てんぐぶろとはいかさま鼻を高くするだけあって、じつになんとも焼けただれそうな熱湯でした。
「チ、チ、チ、しみりゃがるね。ちくしょうめッ。いいこころもちすぎて涙が出りゃがらあ――おい、動くなよ、動くなよ。動くと鉄砲玉のようなやつが来るんだから、じっとしていてくんな」
悲鳴をあげている伝六をよそにして、こともなげに名人はその熱いのに首までつかると、目がしきりと鋭く動くのです。しかも、その的は、六人の先客の背中でした。
しかし、どれにも捜し求めている彫りはないのか、ひと渡り見しらべてしまうと同時に、名人のおもてには明らかな失望の色が現われました。
いやそればかりではない。出たかと思うとまたはいり、はいったかと思うと熱い中へじっとつかって、なかなか名人が上がらないのです。
「かなわねえな。そんなに欲をかいてなんべんもはいったからとて、なんの足しにもならねえんだ。またあしたの朝来ればいいんだから、とっととお上がりなさいよ」
そろそろと鳴りだした伝六をしりめにかけて、出たかと思うとまたはいり、はいったかと思うと黙々とつかりながら、しきりに来る客、来る客と入れ替わり立ち替わりやって来る朝湯の客の背中を調べつづけました。三人、五人と、彫りのある背中が見えたが、しかし捜し求めているいれずみは容易に見当たらないとみえて、かれこれ一刻近くになるのに、まだ上がらないのです。とうとう伝六がゆでだこのようにふらふらとなりながら音をあげました。
「物にはほどってえものがあるんだ。あっしゃ朝湯のけいこをするために生まれてきたんじゃねえんですよ。あっしをゆで殺す了見ですかい!」
「でも、さっき出がけに、おまえ、たいそうもなく大口をたたいたじゃねえかよ。朝湯ならいちんちはいったっても飽きがこねえとかなんとかいってね。まだ日が暮れるまでには間があるよ」
「いちいちと揚げ足を取りなさんな! 物にほどがありゃ、ことばにだっても
早雷が落ちかかったとき、ひょっくりとはいってきた新客がある。同時に、名人の目がきらりと鋭く輝きました。
背にある彫りがあの色なのです。お冬の二の腕に張りついていたあの色と同じすき通るような朱色のつぶし彫りなのでした。図がらもまたいかにもすっきりとあくぬけがして、
「ホシだ。おい、あにい!」
さっと湯舟から上がると、名人がずかずかと近よりざま呼びかけました。
「あにい、りっぱな看板だな。ほれぼれしたよ」
「それほどでもねえんですがね。だんなも彫りはお好きですかい」
「好きなればこそ目についたんだ。いかにも胸のすくような朱色だな。さだめし、名のある彫り師だろうが、どこのだれだ」
「それがちっと変わっておりましてね、評判のたつのを当人が好かねえんで、あんまり世間に知られちゃおりませんが、神田の代地の
「道理でのう。おれも江戸の彫り師なら五、六人名のある男を耳に入れていねえわけじゃなかったが、このつぶし朱彫りだけは見当がつかなかった。彫り師によっちゃ、いっさい女の膚を手がけねえのがいるようだが、大将はどっちだい。女も彫るのかい」
「彫る段じゃござんせぬ。一生に若い女を千人彫ってみてえと、千人彫りの願までたてているとかいう話ですよ」
「なに! 若い女!――におってきやがったな! 伝六! 伝六!」
「…………」
「何をふうふうゆだっているんだ。話ゃ聞いたろう。
「ええ、ええ、わかりました、わかりました。ようやく長湯をなすったいわく因縁がわかりましたがね。長湯にもよりけりだ。あっしゃもう……あっしゃもう……酢にしてもらいたくなりましたよ。骨までがゆであがって、ぐにやくにゃになっちまったんです。ええ、このとおり。ね、ほら。もう、ろれつも回らねえや……」
回るはずもない。
鳴ろうにも鳴りようがないのです。
幾本かあるつるの中から名人の選み出したのは、じつに彫り師詮議のつるでした。朝湯に来たのもそれがため、てんぐぶろを選んだのもそれがため、伝六をゆでだこにしたのもまたそれがため、すべてが右門流のあざやかな機知によって、名人十八番からめ手詮議のつるは、ついにかくのごとく今みごとにたぐりよせられたのです。
朝まだき、夏の大江戸の町は、すがすがしい涼風でした。神田の代地は、柳原寄り、
「あのうちだ、あのうちだ。あのひょろひょろとした長っぽそい二階家がそうだというんですよ」
家捜しとなれば伝六自慢の一つの芸です。たちまちかぎ当てて、主従の足は、ちゅうちょなく千人彫り秘願の彫り師伊三郎の住まいを目ざしました。